恐れ、不安からの解放


浅野兄

(大阪福音集会、2006/11/05)

引用聖句:箴言29章25節-26節
25人を恐れるとわなにかかる。しかし主に信頼する者は守られる。
26支配者の顔色をうかがう者は多い。しかし人をさばくのは主である。

ルカの福音書10:41
41主は答えて言われた。「マルタ、マルタ。あなたは、いろいろなことを心配して、気を使っています。

今、兄弟に読んでいただいた、この箴言の個所とルカの福音書の個所から、みなさまとごいっしょに考えることができたらと思って来させていただきました。
私たちが置かれている現代の社会の中の状況の特徴というものを考えたときに、次のようなことがあるのではないかと思います。
会社勤めは組織の中で働いている、また組織の中に働いていなくても、自分の働きによって生計を支えていくという立場に置かれている方々、そしてまたそれを支えておられる姉妹方にしても、現代の社会の状況として特徴的なことは、この読んでいただいた箴言のみことばの個所が心に迫ってくるような状況ではないかということです。

人を恐れるとわなにかかる。人を恐れることの多い社会であるということだと思います。
支配者の顔色をうかがう者は多い。つまり上司は自分にとっての行く末を決定付けるような力のある者。また、私たちの置かれている状況に大きな影響を与えることができる人たちを周りにもっているというようなことを考えるときに、非常に恐れや不安が多い世の中ではないかと思います。
また上司にしても、上司でありながらやっぱりプレッシャーはあるわけで、本当に多くの人たちが心の病に陥って行かざるを得ない状況が現代社会の特徴ではないかと思います。

信仰をいただいている私たちにしても、そのことは同じような状況ではないかと思います。
人々はそれぞれに置かれた状況が厳しいものであったとしても、そう簡単に会社を辞めるというわけにはいきませんし、ほかの職場に移っていくというリスクを負うことも、そう簡単には出来ない。
多かれ少なかれ、今の状況を苦しいながらも我慢して、その問題を抱えつつ、という生活を強いられているのではないかと思います。

それはいつの時代でも、現代社会の特徴であると言っても、いつの時代でも人々は、特に男性は一家の大黒柱として同じように経験させられてきた、通らされた問題ではないかと思います。
けれどもこの何年か、十何年間、二十年ぐらいでしょうか、ここ何年間か特に、特徴は終身雇用の崩壊、あるいはリストラや人員整理。企業や組織が株主を優先するという政策に変わっていった。
利益率向上の追求に奔走するという社会的価値観の変化ということが大きく取り上げられるのではないかと思います。

そのことによって会社側は、組織側は、経営者側はより一層強い力を社員に対して、組織に対して持つようになったということではないかと思います。
そのような状況の中で人を恐れたり、心ならずも無意識のうちに支配者の顔色をうかがう、自分の職場での立場に大きな影響を及ぼす力を持つ人を恐れるという状況が出て来ているのではないかと思います。
姉妹方にしても、先ほど申し上げましたように、そのご主人たちを支えるということで同じように思い煩う、心配を抱えているということがあるのではないかと思います。

このような状況に対して主のみことばは、先ほど読んでいただいたように、人を恐れたり、心配したり、支配者、つまり自分の置かれている立場に影響を及ぼしかねないような人々の顔色をうかがうということによる私たちの危うさを語ってくださっていると思います。
人を恐れるとわなにかかる。支配者の顔色をうかがう者は多いわけです。
私たちがこのような恐れや不安を抱えているなら、信仰がありながらもその不安、恐れを持ち続けるということは、ある意味で信仰の妥協に生きているわけですけれども、その妥協の信仰にとどまっているなら、私たちに予期せぬ危険が迫っている。霊的に貶められるような思わぬ危険が待ち受けている。

サタンの思うツボに導かれているという警鐘、聖書の、私たちに対する警鐘ではないかと思います。
マタイの福音書の10章28節ですけれども。

マタイの福音書10:28
28からだを殺しても、たましいを殺せない人たちなどを恐れてはなりません。そんなものより、たましいもからだも、ともにゲヘナで滅ぼすことのできる方を恐れなさい。

イエス様は、イエス様の信仰にある弟子たちに迫っていた迫害という状況の中で、弟子たちにそのようにお語りになられました。からだを殺しても、たましいを殺せない人たちなどを恐れてはなりません。
確かに迫害が起こったり、問題が与えられたり、苦しめられたり、悩みの中に投げ込まれたりということはだれしも望まない、避けて通りたい道であることだと思います。
避けて通りたいという願いがあるからこそ、それらがわが身に迫って来たときのことを創造して、私たちは心のうちに恐れや不安を先走って生じさせてしまうということがあるのではないかと思います。

それは肉として生まれた私たち人間の悲しい防衛本能の表われだと思います。
けれどもそのことをよく、人間ということを、人間が何であるかということをよくご存知なイエス様は、そのような私たちにあえて言われたわけです。

マタイの福音書10:28
28そんなものより、たましいもからだも、ともにゲヘナで滅ぼすことのできる方を恐れなさい。

と。そんなものとは何でしょうか。弟子たちにとっては、パリサイ人や律法学者、ポンテオ・ピラトのような権力者、社会的強者、あるいは、当時イエス様を信じる信仰にある人々を遠巻きにして見ていたような人々など、彼らの生活を脅かしたり、精神的な内面に圧迫を加える可能性を持つ人々のことであったことだと思います。
けれどもよく考えてみますと、権力者と言えども、上司と言えども、またイエス様を信じる者たちに対して冷たい視線を注ぐ人々にしても、彼らもひとりひとりは内面に悩みと問題を抱えながらこの地上の生を歯を食いしばって生きている弱い肉なる人間にすぎないという事実ではないかと思います。
そのようにあわれな人間を恐れるより、たましいもからだも、ともにゲヘナで滅ぼすことのできるお方、すなわちこの地上にある私たちのたましいやからだをもご支配されておられるお方、そして目には見えないこの隠された世界、しかしのちに必ず私たちにも訪れる永遠の世界においても、私たちのたましいやからだを生かしたり滅ぼしたりすることのできるお方、万物の創造主なるお方、主なるイエス様を恐れなさいと仰ってくださっています。

マタイの福音書6:24-34
24だれも、ふたりの主人に仕えることはできません。一方を憎んで他方を愛したり、一方を重んじて他方を軽んじたりするからです。あなたがたは、神にも仕え、また富にも仕えるということはできません。
25だから、わたしはあなたがたに言います。自分のいのちのことで、何を食べようか、何を飲もうかと心配したり、また、からだのことで、何を着ようかと心配したりしてはいけません。いのちは食べ物よりたいせつなもの、からだは着物よりたいせつなものではありませんか。
26空の鳥を見なさい。種蒔きもせず、刈り入れもせず、倉に納めることもしません。けれども、あなたがたの天の父がこれを養っていてくださるのです。あなたがたは、鳥よりも、もっとすぐれたものではありませんか。
27あなたがたのうちだれが、心配したからといって、自分のいのちを少しでも延ばすことができますか。
28なぜ着物のことで心配するのですか。野のゆりがどうして育つのか、よくわきまえなさい。働きもせず、紡ぎもしません。
29しかし、わたしはあなたがたに言います。栄華を窮めたソロモンでさえ、このような花の一つほどにも着飾ってはいませんでした。
30きょうあっても、あすは炉に投げ込まれる野の草さえ、神はこれほどに装ってくださるのだから、ましてあなたがたに、よくしてくださらないわけがありましょうか。信仰の薄い人たち。
31そういうわけだから、何を食べるか、何を飲むか、何を着るか、などと言って心配するのはやめなさい。
32こういうものはみな、異邦人が切に求めているものなのです。しかし、あなたがたの天の父は、それがみなあなたがたに必要であることを知っておられます。
33だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。
34だから、あすのための心配は無用です。あすのことはあすが心配します。労苦はその日その日に、十分あります。

有名なみことばです。どれほど多くの心配、恐れ、不安、悩みに沈む人々がこのイエス様の励ましのみことばによって元気付けられてきたことでしょうか。
けれどもこのみことばを読んで、同様に私たちは切実な問題もイエス様は語ってくださっているということに気付くのではないでしょうか。
なぜなら、労苦はその日その日に、十分あるとイエス様は私たちに、この目に見える世界、私たちが生きている世界を端的に表現してくださったからです。

私たちがどう望んだとしても、どのように世界を見回しても、世界を縦に、あるいは横に眺めてみても、斜めから眺めてみても、あるいは裏側から眺めたとしても、イエス様が語られるこの現実を私たちは変えることができないわけです。
労苦はその日その日に、十分あるとイエス様が仰ってくださっていますから、必ず私たちはこのように労苦をもつわけです。

「人の一生は、重荷を背負うて遠き道を行くが如し」と徳川家康の遺訓といわれる言葉ですけれども、家康のように武力と知力と幸運にも恵まれて乱世の世を勇ましく、また狡猾に戦って、ついには天下人となった人にしてもさえ、自分の帰し方を振り返って、人間の一生をそのように表現するしかなかったわけです。
人の一生は、重荷を背負うて遠き道を行くが如しと。人の一生は悩みと問題、患難の連続ではないかと。人はその人生の重荷に耐えながら、この与えられた道のりを歩み、ただ通り過ぎるのみだと。聖書が語るとおりに、まさに労苦はその日に十分あるわけです。
しかもこの事実、労苦が十分あるという事実は、聖書が語るとおり、人は年齢を重ね、その責任の重さというのも増し加えていくにしたがって、実感を強くさせられていくものではないかと思います。

ヨハネの福音書21:18
18まことに、まことに、あなたに告げます。

イエス様がペテロに告げたことばですけれども。

ヨハネの福音書21:18
18あなたは若かった時には、自分で帯を締めて、自分の歩きたい所を歩きました。しかし年をとると、あなたは自分の手を伸ばし、ほかの人があなたに帯をさせて、あなたの行きたくない所に連れて行きます。

このように、苦難と労苦に、悩みに、問題に事欠かない私たちの人生ですから、心配性の私たちには、マタイの福音書の先ほどのみことばのようなイエス様の励ましが絶えず必要とされているのではないかと思います。
そして最近あらためてつくづくと思わされることは、何より重要なことは、信仰の薄い人たちとイエス様が私たちを叱ってくださったように、主に信頼を寄せようとする者に、神の国とその義とをまず第一に求めようとする者に、イエス様は常に誠実をもって臨んでいてくださるという、このイエス様のみことばを、約束をしっかりと自分のものにしたいということではないかと思います。
つまり、私たちはイエス様が生きておられるという事実、そのイエス様によって与えられた私たちの救い、その主が私たちを守り、導いてくださるという約束を本気で、心から、自分のいのちをかけてと言ってもいいかもしれませんけれども、自分のいのちをかけて信じる、信じきるということが重要ではないかということです。

そのようにして私たちは、その日その日に、十分にある問題や悩みといった私たちの前にはだかる労苦や問題に弱り果ててしまい、悩みや心配のとりこになるということではなくて、イエス様に信頼すれば、主に信頼すれば、生きておられる主は必ず私たちを祝福してくださるという、このイエス様のみことばのお約束に大胆に安らぎ、不安、心配、恐れ、悩みからの解放を受けて、イエス様の平安の御手の中にゆったりと憩うべきではないかと思います。
詩篇の4篇の8節。

詩篇4:8
8平安のうちに私は身を横たえ、すぐ、眠りにつきます。主よ。あなただけが、私を安らかに住まわせてくださいます。

箴言3:23-24
23こうして、あなたは安らかに自分の道を歩み、あなたの足はつまずかない。
24あなたが横たわるとき、あなたに恐れはない。休むとき、眠りは、ここちよい。

このような平安のうちに歩むことが私たちには許されている。
本来、この労苦はその日その日に十分あるという、この世の中に置かれていても、私たちにもそのような平安を得ることができるというのがイエス様の信仰にある者たちへの約束です。
そういう意味で、この聖書に描かれている信仰の先達たちのうちのひとり、アブラハムをごいっしょに見て、どのような信仰に生きたかということをごいっしょに見ることができたらと思います。創世記の12章からごいっしょに飛び飛びに見て行きたいと思うのですけれども、

創世記12:1-5
1その後、主はアブラムに仰せられた。「あなたは、あなたの生まれ故郷、あなたの父の家を出て、わたしが示す地へ行きなさい。
2そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとしよう。あなたの名は祝福となる。
3あなたを祝福する者をわたしは祝福し、あなたをのろう者をわたしはのろう。地上のすべての民族は、あなたによって祝福される。」
4アブラムは主がお告げになったとおりに出かけた。ロトも彼といっしょに出かけた。アブラムがカランを出たときは、七十五歳であった。
5アブラムは妻のサライと、おいのロトと、彼らが得たすべての財産と、カランで加えられた人々を伴い、カナンの地に行こうとして出発した。こうして彼らはカナンの地にはいった。

このときアブラムは主のみことばの約束だけを頼りに、父テラが眠る、長年住み慣れた地カランを出て、主が示された未知の地カナンに向かったということが書かれているわけです。
このとき主は、神様はアブラムに、大いなる国民としようと。あなたとあなたの子孫を大いなる国民としようと言われましたけれども、このとき彼にはまだ、その大いなる国民となるべき子どもがひとりもいない状態でした。
またカランでは、ここに書かれていますように、財産を増し加えましたし、人々も加えられて、十分と言ってよい祝福をすでに受けていたわけです。

住み慣れたこの土地をアブラムは、このカランを75歳の高齢になってまでしてあとにしなければならなかったわけです。
そして彼らはカナンの地にはいり、その日その日にある、十分ある労苦と困難に立ち向かって、何年間かの日が過ぎたということが書かれています。
15章まで飛びますけれども、

創世記15:1
1これらの出来事の後、

多くの出来事が、この何年間に亘ってあったわけですけれども、

創世記15:1-6
1主のことばが幻のうちにアブラムに臨み、こう仰せられた。「アブラムよ。恐れるな。わたしはあなたの盾である。あなたの受ける報いは非常に大きい。」
2そこでアブラムは申し上げた。「神、主よ。私に何をお与えになるのですか。私にはまだ子がありません。私の家の相続人は、あのダマスコのエリエゼルになるのでしょうか。」
3さらに、アブラムは、「ご覧ください。あなたが子孫を私に下さらないので、私の家の奴隷が、私の跡取りになるでしょう。」と申し上げた。
4すると、主のことばが彼に臨み、こう仰せられた。「その者があなたの跡を継いではならない。ただ、あなた自身から生まれ出て来る者が、あなたの跡を継がなければならない。」
5そして、彼を外に連れ出して仰せられた。「さあ、天を見上げなさい。星を数えることができるなら、それを数えなさい。」さらに仰せられた。「あなたの子孫はこのようになる。」
6彼は

アブラムは

創世記15:6
6主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。

このような記述があるわけですけれども、主とアブラムとの信仰の交わりがこのときあったわけです。けれども主の約束はあっても、その約束がまだ実現されない状況であったことは変わりなかったわけです。
そのアブラムに、恐れずに主の約束を、わたしの約束を信じ続けなさいという励ましがアブラムに与えられました。
その励ましに対してアブラムは忍耐強く主の約束を信じたわけです。まだ見ぬ主の祝福を信じ、それに望みをかけたわけです。

私たちも、まだ見ない私たちの祝福というものを主に信頼して待ち続けるべきではないかと思います。
けれども、主が大いなる国民とするために、カナンにはいれという約束をもって、最初にアブラムに主が現われてから、その約束の成就の無いまま、24年の歳月が流れ過ぎました。
17章の1節からですけれども。

創世記17:1
1アブラムが九十九歳になったとき

75歳になったときにカランを捨ててカナンに出て行けと主の命令が下ったわけですけれども、それから99歳、24年の歳月が流れたわけです。このときに

創世記17:1-7
1主はアブラムに現われ、こう仰せられた。「わたしは全能の神である。あなたはわたしの前を歩み、全き者であれ。
2わたしは、わたしの契約を、わたしとあなたとの間に立てる。わたしは、あなたをおびただしくふやそう。」
3アブラムは、ひれ伏した。神は彼に告げて仰せられた。
4「わたしは、この、わたしの契約をあなたと結ぶ。あなたは多くの国民の父となる。
5あなたの名は、もう、アブラムと呼んではならない。あなたの名はアブラハムとなる。わたしが、あなたを多くの国民の父とするからである。
6わたしは、あなたの子孫をおびただしくふやし、あなたを幾つかの国民とする。あなたから、王たちが出て来よう。
7わたしは、わたしの契約を、わたしとあなたとの間に、そしてあなたの後のあなたの子孫との間に、代々にわたる永遠の契約として立てる。わたしがあなたの神、あなたの後の子孫の神となるためである。

主はこのように、またもアブラハムを励まされたわけです。
そしてアブラハムの家に住まう全ての男に割礼を施しなさい。それは主と自分とあなたがたとの契約のしるしであると仰せられて、割礼をお求めになられました。
そしてそれに応じて彼は、男という男、彼の住まう家の男たちに割礼を施したわけです。このこともアブラハムの信仰によって、主への信仰によって行なった行為であったと思います。

創世記21:1-3
1主は、約束されたとおり、サラを顧みて、仰せられたとおりに主はサラになさった。
2サラはみごもり、そして神がアブラハムに言われたその時期に、年老いたアブラハムに男の子を産んだ。
3アブラハムは、自分に生まれた子、サラが自分に産んだ子をイサクと名づけた。

イサクと名づけなさいと言われましたから、その通り、アブラハムは自分の子をイサクと名づけたわけです。

創世記21:4-5
4そしてアブラハムは、神が彼に命じられたとおり、八日目になった自分の子イサクに割礼を施した。
5アブラハムは、その子イサクが生まれたときは百歳であった。

と。アブラハムは100歳になって、サラは90歳になって、遂に主の約束の成就につながるアブラハムの子孫、ひとり子イサクを彼ら夫婦は得たわけでした。
私たちの常識や私たちの思いでは、当然このアブラハムやサラにしても、主のおことばを最初は笑ったわけですけれども、人間の思いや人間の価値観や、自分たちの知っている知識では想像もつかない状況、そして奇蹟としか思われないそのことを主は約束して成してくださるということではないかと思います。
ローマ人への手紙ですけれども、4章の19節から、この創世記のアブラハムの信仰の記述をパウロが改めてまとめて要約してくださっていますけれども。

ローマ人への手紙4:19-21
19アブラハムは、およそ百歳になって、自分のからだが死んだも同然であることと、サラの胎の死んでいることとを認めても、その信仰は弱りませんでした。
20彼は、不信仰によって神の約束を疑うようなことをせず、反対に、信仰がますます強くなって、神に栄光を帰し、
21神には約束されたことを成就する力があることを堅く信じました。

このようにアブラハムとサラの信仰ということをパウロは改めて記述してくれました。
アブラハムの場合にもそうであるように、私たちの本当に未熟な信仰の機会を通しても、同じようなことを主は成してくださいますけれども、本当に私たちが不可能と思える状況、私たちが、これでは絶対立ち行かないと思える状況に至って初めて主は、

(テープ A面 → B面)

・・・主は生きて働いておられるということをご証明してくださるために、私たちを究極の状況に落とし込んで、陥れて、そしてなお主は見放さずに、わざを成してくださる。主のご臨在を現わしてくださるという仕方を、方法をとってくださるのではないかということを思わされるのではないかと思います。
そして、主にとってそのような媒体となるべき人間、私たちを、信仰者を必要としておられるということではないかと思います。

主はアブラハムとサラの信仰と忍耐、そして彼らの主への信頼を主ご自身の奇蹟の実現のために必要とされておられたということではないかと思います。
けれどももう少し、この創世記を読み進めますと、この後にアブラハムにもたらされた労苦と試練というものは、本当に想像を絶するものではないかと思います。
創世記の22章から書かれている記述、すごく有名な聖書の記述ですけれども、主は奇蹟と言われるようなこの出来事によってお与えになられた、アブラハムとサラにお与えになった、しかもアブラハムが心待ちにしており、やっとのことで、思いで手に入れた自分自身の約束の子イサク、そのひとり子イサクを全焼のいけにえとしてささげなさいと主はアブラハムに迫るわけです。

おそらく、このときもうイサクは10歳ぐらいに成長していたのではないかと思いますけれども、そのイサクを伴なってモリヤの地に行き、そしてひとり子イサクをわたしのために殺して、そしてそれを焼いて、その煙を全焼のいけにえとしてわたしのためになだめの供え物としてささげなさいと主はアブラハムにお命じになられたわけです。
25年も待たされて、やっとのことで手に入れたひとり子イサク。そしてその子を、イシュマエルを、ハガルとの間に生まれたイシュマエルを追放してまでしてひとりにした、このイサクを今度は自分にささげよ、殺せとお命じになられたわけです。
この聖書の記述を単なる昔話として読むだけなら、私たちにとってそれは、それでよいのかもしれません。

けれども私たちの主は昔も今も変わらず同じ主であり続けるわけです。その同じ主を信じる信仰に立っている私たちなわけです。
私たちが同じこの信仰に立つのであれば、アブラハムに求められたこの信仰、主への揺るがない信頼というものを私たちのうちにも主はお求めになると。
主は今の時代にも私たちに向けて、同じ願いを持ち続けておられるということではないかという、私たちに対する切実な問題となってこの記述は迫ってくるわけです。

そしてここに書かれていますように、この主のご命令に対して、アブラハムは発狂したわけでもなく、苦しみと悲しみのために苦渋に満ちた足取りをもって、ということでもなくて、ただ聖められて、黙して、多くを語らずにイサクを伴って、アブラハムはモリヤに向かったわけです。
そしてアブラハムはモリヤの地で、おそらく彼にとってこの世にあってすべてにまさる宝、そのときには、あらゆるものにまさった宝と思っていたそのイサクを今まさに主のご命令に従ってほふろうとしたわけです。
私たちの常識に従えば、アブラハムのこの成したわざはとても正気の人間が成せるわざではないわけです。

いかに人の一生が過酷なものとは言え、ここまでの過酷さ、非情さに私たちは耐えられるかということではないかと思います。
だれも人の常識を用いて、この世の常識を用いてこのアブラハムの成したわざを説明することはできないし、私たちはこの行為を解説することはできません。
アブラハムと同じ信仰をもっているという私たちにしても、この同じわざが可能かどうかなどということを議論することも無益な試みではないかと思います。
けれども、おそらく確実に言えることは、私たち自身も真の信仰、本当にイエス様にある信頼、信仰に生きる、イエス様に信頼するというのであれば、このアブラハムの態度をもって主イエス様につながる以外に私たちの信仰はあり得ないということではないかと思います。

私たちが心のうちでそのことに気付いているか、あるいは無意識のうちに隠されているかもしれませんけれども、いずれにしても、私たちは次のことを私たち自身に問うてみる必要があるのではないでしょうか。
私たちは私たちのうちにしっかりと自分の手の中につかみ込んでいる大切なもの。主イエス様にさえおゆだねできないものが果たして一切無いと言えるかどうかという問いです。
あらゆる一切のものを自分の手から解き放ち、ただイエス様にだけおゆだねするということが実際問題として、本当に出来ているかどうかという自問です。

詩篇73:25-26
25天では、あなたのほかに、だれを持つことができましょう。地上では、あなたのほかに私はだれをも望みません。
26この身とこの心とは尽き果てましょう。しかし神はとこしえに私の心の岩、私の分の土地です。

あらゆる一切のもの、仕事や地位や名声、金、安全、安定、不安、問題、心配、恐れ、家族の命や自分自身の命、自分の意思含めて、あらゆるすべてのものを自分の支配から解き放ち、捨て去り、主におゆだねする、イエス様におゆだねする。
例外なくすべてを、一切のものをイエス様におゆだねします、お任せします。そのように私たちの信仰というものの重要な部分というのは、まさにこの一点、この一点だけにかかっているのではないかということです。
そして、この信仰の態度が出来るか出来ないかということは別問題なのです。そのことを望み、そのように導いていただこうとしているかどうかということではなくては、主の御手が私たちをうちに働くことができず、私たちの信仰が本当の意味で力とならないということであり、私たちが本当の意味で安らぐことができないということではないかと思います。

ウォッチマン・ニー兄弟は、1924年に重度の結核にかかったわけです。最初は微熱があって、体はだるく、胸が少し痛いというだけだったようです。
医者の兄弟から、診察させてくださいという申し出を受けて調べた結果、長期療養生活、静養生活が必要だということがすぐわかった状態でした。
彼は田舎に行って、静かに主と交わろうと思いましたけれども、その前に次のように祈ったわけです。

「あなたの私に対するみこころはいかがでしょうか。私はあなたのために命を捨てなければならないとしても、私は死ぬことを恐れません。あなたのみこころを明らかにしてください。」と。
そして半年の間、主のお答えをいただけないままに過ごしておりましたけれども、ただ主に信頼を寄せておりました。
すると南京の兄弟から、その南京の彼の家で休養しながら聖書通信課程の翻訳を手伝ってくださいという申し出を受けるわけです。そして彼は受け入れ、南京に行くわけですけれども、そうこうするうちにも時は一日、日一日と過ぎていったわけです。

結核は癒されることなく、あるとき、これではどうしようもないということでそのとき近くにおられた有名なドイツの医者のところに行って、レントゲンの写真を撮ってもらって検査を受けたわけです。
それでも一向に良くならずに、もう一度どうなっているか、そのドイツ人の医者のところに行って、レントゲンを撮ってくれるように頼んだわけです。
それでそのうちドイツ人の医者は、「もうあなたのレントゲンを撮る必要はありません」と。それで別の人のレントゲンの写真を見せて、「この人のこの病状はあなたよりももっと軽いものです。」と。そして「この彼はこの前死にました。」と。ですから、もうあなたは私のところに来る必要はありません。あなたのお金をただ無駄に使わせたくありませんから。そのように言い渡したわけです。

ウォッチマン・ニー兄弟は失望して帰り、そして彼は残された命ため無理をして書き物をしたり、聖書を読んだりしたわけです。けれども、とても体は疲れて、毎日午後になると熱が出て、夜は寝汗をかいて、眠ることが十分にできないという状態が続いたわけです。
長く生きられないかもしれないけれども、神が自分の力であるということを堅く信じて、呼吸の止まるその最期の瞬間まで主のために働きたいと思って、主に自分にさせたいことは何ですかと問い続けたわけです。
そして病状はさらに進んでいって、もうすでに横たわることもできないほどな状態になりました。

胸の痛みに耐えるために、彼は背もたれのある椅子と机とを無理矢理押し付けて、両方から圧迫しなければ胸の痛みに耐えられないほどの病状となったわけです。
そしてその前後を圧迫して、胸の痛みを和らげながら椅子に座り、そして汗と血と涙の結果、4か月のうちに、「霊の人」という本を3冊書き上げました。
奇跡的に資金も集められて本が出版され、そして彼は祈ったわけです。「あなたのしもべを安らかに去らせてください。」と。そのとき彼はもう、夜中に度々目を覚まし、寝返りを打ち続け、安眠できずに骨ばかりに痩せ衰えて、声もかすれてきた状態でした。

彼の周りの経験を積んだ看護婦さんであった姉妹は、ニー兄弟を見て涙を流しながら、「私は多くの病人を見て来ましたけれども、彼ほど悲惨な人を見たことがありません。」と。「おそらく、あと3、4日で命を取られるでしょう。」と周りの兄弟姉妹方に告げたそうです。
その兄弟姉妹から後にウォッチマン・ニーはそのように自分の状態を聞いたそうです。そしてひとりの兄弟はもう、各地の教会に、もはや見込みがないから、もうニー兄弟のために祈る必要はないという電報を打ったそうです。
そして彼は、ウォッチマン・ニーは、「どうしてこんなに早く私をお召しになるのですか。」と主に問うて、祈りに専心し、主が成させたいことだけを成させてくださいと願いました。

そして時を同じくして、兄弟姉妹方がウォッチマン・ニー近くの兄弟姉妹の家に集まって、そして彼のために熱心に祈りをささげました。その結果、主は彼に次のみことば、3つのみことばをお与えになりました。

ローマ人への手紙1:17
17「義人は信仰によって生きる。」

という、このみことば。
義人は信仰によって生きる。イエス様にあって正しい者は、正しい心の持ち方をする者は信仰によって生きるということです。
それと、

コリント人への手紙第II、1:24
24あなたがたは、信仰に堅く立っている

というみことばです。
そして5章の7節。もう少しあとですけれど。

コリント人への手紙第II、5:7
7確かに、私たちは見るところによってではなく、信仰によって歩んでいます。

信仰によって歩んでいる。この3つのみことば。
義人は信仰によって生きる。信仰に堅く立っている。信仰によって歩んでいるという三つのみことばがウォッチマン・ニー兄弟に与えられました。
そして彼は、このまさに死なんとしている中で、重病の中で喜びに満ち溢れて、感謝と賛美をささげながら、主は彼をいやし、信仰によって生きると信じたわけです。

医者は「死ぬ。」、周りの者たちはみな、「彼は死ぬ。」と言っていた時に彼は、生きる、みことばによって生きると信じきったわけです。
そしてこれらのみことばに支えられて、喘ぎ喘ぎしつつ、176日ぶりに衣服に身を通したわけです。そしてベッドを降りました。
その間、衣服に身を通し、ベッドを下りるまでの間、彼は全身雨でびっしょりに濡れたような汗をかき続けたわけです。そしてよろけながらも信仰によって立ち、ズボンをはき、靴下を身につけたとあります。

その間にもサタンの誘惑が、「お前は死ぬのだ。」「お前は死ぬのだ。」という誘惑、または激しい虚脱感、肉体の虚脱感にもめげずに、この3つのみことばに支えられて、信仰によって歩きなさいということばを信じながら、兄弟姉妹方が3日間、断食をしながら祈ってくれているということを聞いていましたから、その近くの姉妹の家を目指して、2階から1階へと階段を降りたわけです。彼は生涯で見た最も高い階段であったとこの時のことを書き記しています。
一歩一歩主に頼りながら、祈りながら、喘ぎつつ、祈りつつ、信仰によって歩むと言い聞かせながら、その階段を降りて行ったわけです。
彼はこのとき、主と心の中で手と手を取り合って握手していたと書いています。やっとの思いで姉妹の家にたどり着いたときに、7、8人で集まっていた兄弟姉妹方は彼をただ見つめるだけで、一時間のときを過ごしたと。

だれもがひと言の言葉も発せずに見つめ合ったまま一時間を過ごしたわけです。そしてあとでこのウォッチマン・ニー兄弟を交えて、郊外の兄弟姉妹方も同じように訪ねたわけです。
熱心に祈っておられたある姉妹は、彼は間もなく死ぬという知らせを受けていましたから、彼女の驚きはもう大変なものだったようです。まるで復活したウォッチマン・ニーを迎えるかのようであったということです。
そして次の日曜日、信仰によって生きたウォッチマン・ニーは兄弟姉妹方を前にして壇上で3時間に及ぶメッセージをささげた、行なったそうです。

信仰の力とは、私たちの想像をはるかに超えたものだということの証しではないでしょうか。
アブラハムの時代にも、1972年の6月1日に天の御国に召されたウォッチマン・ニーの時代にも、そして今を生きる私たちの時代にも、主に生きる信仰の力とは変わらぬ力であるわけです。

エペソ人への手紙1:19
19神の全能の力の働きによって私たち信じる者に働く神のすぐれた力がどのように偉大なものであるかを、あなたがたが

私たちが

エペソ人への手紙1:19
19知ることができますように。

ヨシュア記23:14
14見よ。きょう、私は世のすべての人の行く道を行こうとしている。

つまり、天に召されようとしている、死を迎えようとしている

ヨシュア記23:14-15
14あなたがたは、心を尽くし、精神を尽くして知らなければならない。あなたがたの神、主が、あなたがたについて約束したすべての良いことが一つもたがわなかったことを。それは、一つもたがわず、みな、あなたがたのために実現した。
15あなたがたの神、主があなたがたについて約束したすべての良いことが、あなたがたに実現したように、主はまた、すべての悪いことをあなたがたにもたらし、ついには、あなたがたの神、主が、あなたがたに与えたこの良い地から、あなたがたを根絶やしにする。

テモテへの手紙第IIの4章の7節から。パウロの勝利の雄叫びですけれども。

テモテへの手紙第II、4:6-8
6私は今や注ぎの供え物となります。私が世を去る時はすでに来ました。
7私は勇敢に戦い、走るべき道のりを走り終え、信仰を守り通しました。
8今からは、義の栄冠が私のために用意されているだけです。かの日には、正しい審判者である主が、それを私に授けてくださるのです。私だけでなく、主の現われを慕っている者には、だれにでも授けてくださるのです。

本当に私たちはすでにこの世に打ち勝たれた、わたしはすでに世に打ち勝ったと仰ってくださるイエス様の勝利の御手に、私たちと私たちの周りまとわりつく一切のものをおゆだねしたい。
そのように願って、弱い私たちのたましいを、私たちの肉体を偉大なイエス様に、勝利者としてこの悩みと労苦に満ちた世界で立ち続けることができるように、歩むことができるように、聖書によって約束されている偉大な力を私たちにもお与えくださるように願いながら歩むことができればと思います。
どうもありがとうございました。




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