この希望は失望に終わる事がない


旭兄

(吉祥寺福音集会メッセージ、2002/09/08)

引用聖句:ローマ人への手紙5章5節
5この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。

短く聖書から学ばせていただきます。テーマは、ローマ人への手紙の5章5節に書いてあります、「この希望は、失望に終わらない」ということです。

今突然、「希望は何ですか」「あなたに希望はありますか」と、もし町を歩いて、あるいは家にいて、尋ねられたらどう答えるかな?と考えてみていただきたいと思います。
「希望はありますか」と質問された時にどう答えるでしょうか。私自身、問われたらどう答えるかなと考えてみました。

「希望」っていうのは、辞書をひきますと、「未来に望みを置くこと」と書いてあります。そして、希望の「希」という字が、「まれ」いう字でありまして、「希(まれ)な望み」というわけなんです。
こう見てみると、何か「希望」というのは、実現不可能のように思われる希な望み、そういうように受けとめられてしまいます。実際、私たちは「希望」というと、「実現したらいいのではないか」と、「希望的観測」という言葉があるくらいですから、そのように考えてしまいがちだと思います。
でも、聖書では、そうではなくて、「この希望は 失望に終わることがない」というふうに書かれているわけです。

「希望」は、「願望」とは違いまして、私たちが「こうあってほしい」とか、単なる願いとは違って、私たちの内側から、聖霊によって与えられて、生み出されてくるものだと聖書は教えてくれております。
単なる希望であれば、そこに信仰がなければ、表現は悪いのですが、絵に書いた餅といってもいいのではないかと思います。

ヘブル人への手紙の11:1
1信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものです。

ヘブル人への手紙の11章は、「信仰によって」という言葉ではじまる信仰者の記録と言ってもよいと思います。その多くの部分が、アブラハムの人生について語っています。
創世記を読みますと、アブラハムのことについては詳しく書かれておりますが、断片的ですけれども、ちょっと見てみたいと思います。

創世記15:1-6
1これらの出来事の後、主のことばが幻のうちにアブラムに臨み、こう仰せられた。「アブラムよ。恐れるな。わたしはあなたの盾である。あなたの受ける報いは非常に大きい。」
2そこでアブラムは申し上げた。「神、主よ。私に何をお与えになるのですか。私にはまだ子がありません。私の家の相続人は、あのダマスコのエリエゼルになるのでしょうか。」
3さらに、アブラムは、「ご覧ください。あなたが子孫を私に下さらないので、私の家の奴隷が、私の跡取りになるでしょう。」と申し上げた。
4すると、主のことばが彼に臨み、こう仰せられた。「その者があなたの跡を継いではならない。ただ、あなた自身から生まれ出て来る者が、あなたの跡を継がなければならない。」
5そして、彼を外に連れ出して仰せられた。「さあ、天を見上げなさい。星を数えることができるなら、それを数えなさい。」さらに仰せられた。「あなたの子孫はこのようになる。」
6彼は主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。

アブラハム、ここではアブラムという名前ですけれども、アブラハムは非常に富んでいた人でした。色々な所有物が与えられて、彼は裕福になっておりました。しかし、彼にとっての一番大きな問題は、あととりがいないということでした。
しかし、ここで神様である主が5節に書いてある通りに「天を見上げなさい。星を数えることができるなら、それを数えなさい。あなたの子孫はこのようになる。」 と、神様はこの時アブラハムに語られたわけです。

この時すでに、彼は75歳で生まれ故郷を出てカルデヤのウルという所からその父に連れられて出てから、数年たっていましたので、80歳を過ぎた老人だったわけです。
カルデヤの町というのは、カルデヤ人というのは、羊飼いの民族だそうです。ご存じの通りにルカの福音書のクリスマスの記事を見ますと、「羊飼いが野宿で夜番をしながら」と書かれています。
アブラハムも、そのカルデヤ人の中で、羊の群れを見守って夜を過ごしたことが何度もある人だと思います。そのため、星をよく見ていたのが、カルデヤ人でした。
その星に動物の名前やいろいろな名前を付けたので、それが星座になったそうなんです。ですから、神様はこの星をよく見てきたカルデヤから来たアブラハムに、「昔を思い出して、星を数えることができるなら、数えてみなさい」。そのようにおっしゃられたんだと思います。
それだけでなく、今よりも星はもっといっぱい見えたはずですから、満天に輝く星を、神様はそれを指して、「あなたの子孫は、このように数えきれないほど多くなる。」と約束してくださったわけです。
その時、先ほどもお話ししましたように、アブラハムは80歳を過ぎていたわけです。

そして、年数がたちまして、創世記の17章のところにいきます。とびとびにお読みいたします。

創世記17:1-3
1アブラムが九十九歳になったとき主はアブラムに現われ、こう仰せられた。「わたしは全能の神である。あなたはわたしの前を歩み、全き者であれ。
2わたしは、わたしの契約を、わたしとあなたとの間に立てる。わたしは、あなたをおびただしくふやそう。」
3アブラムは、ひれ伏した。神は彼に告げて仰せられた。

創世記17:7
7わたしは、わたしの契約を、わたしとあなたとの間に、そしてあなたの後のあなたの子孫との間に、代々にわたる永遠の契約として立てる。わたしがあなたの神、あなたの後の子孫の神となるためである。

80歳を過ぎた時に語られた主の約束は、99歳になったアブラハムにまだ実現していませんでした。子孫がまだいない。
しかし彼と妻サライはですね、子どもがいないという状況の中で、神様のことを果たして疑ったのかな?と考えてみました。
確かにそういう時はあったと思います。神様の約束...星空のもとでアブラムが20数年前に聞いた神様の約束は、どうなるのだろう、と。
聖書では、単なる約束ではなくてこれは「契約」であると、はっきりと呼ばれているわけです。単なる口約束ではなく、破ることのできない、変更できないという強い効力を持つ。そういうことで、聖書はここで「契約を結ぶ」と言っているわけです。
「それは、どうなったのか」と考える時が与えられたのではないかと思うんです。

創世記17:17
17アブラハムはひれ伏し、そして笑ったが、心の中で言った。「百歳の者に子どもが生まれようか。サラにしても、九十歳の女が子を産むことができようか。」

100歳と90歳の夫婦に、もう子どもは生まれないというのが現代で言えば常識的な見方だと思います。そうであるなら、あの約束はどうなるのでしょうか。
そして、18章の11節、12節。今度はサラの心の状態のことが書かれています。

創世記18:11-12
11アブラハムとサラは年を重ねて老人になっており、サラには普通の女にあることがすでに止まっていた。
12それでサラは心の中で笑ってこう言った。「老いぼれてしまったこの私に、何の楽しみがあろう。それに主人も年寄りで。」

これが二人の気持ちでした。
神様から語られたあの約束も、現実の前に何か小さくなってしまって消えかかっている。文字通り「希望」がですね、希な望みに成りかけていたところでした。
しかし18章の14節で、すぐにこの落胆しかけた二人に主が語られているところがあります。

創世記18:13-14
13そこで、主がアブラハムに仰せられた。「サラはなぜ『私はほんとうに子を産めるだろうか。こんなに年をとっているのに。』と言って笑うのか。
14主に不可能なことがあろうか。わたしは来年の今ごろ、定めた時に、あなたのところに戻って来る。そのとき、サラには男の子ができている。」

来年の今ごろ男の子ができていると、この二人に主は語られた、と書かれています。そして、

創世記21:1-2
1主は、約束されたとおり、サラを顧みて、仰せられたとおりに主はサラになさった。
2サラはみごもり、そして神がアブラハムに言われたその時期に、年老いたアブラハムに男の子を産んだ。

「約束されたとおりに...顧みて」、「年老いたアブラハムに男の子を産んだ」と書かれています。
このアブラハムに、イサクという子どもが与えられるまでの20数年間は、彼にとってはほんとに長い期間だったと思います。でも、神様はやはりこの希望をですね、アブラハムに与えられた希望を消すことなく、その約束をかなえられたわけです。
これらのことは、もちろん人の願望によって得られたものではなくて、神様と私たちの間に結ばれた強い契約に基づくものであり、その希望はですね単なる願い事とは違っていました。この与えられた希望はちゃんと実現したわけです。

ローマ人への手紙4:18-21
18彼は望みえないときに望みを抱いて信じました。それは、「あなたの子孫はこのようになる。」と言われていたとおりに、彼があらゆる国の人々の父となるためでした。
19アブラハムは、およそ百歳になって、自分のからだが死んだも同然であることと、サラの胎の死んでいることとを認めても、その信仰は弱りませんでした。
20彼は、不信仰によって神の約束を疑うようなことをせず、反対に、信仰がますます強くなって、神に栄光を帰し、
21神には約束されたことを成就する力があることを堅く信じました。

ここにパウロが書いている通りに、アブラハムは100歳になって自分の体が死んだも同然である、そのことがはっきりとわかっていてもその信仰は弱らなかったと書かれています。
創世記では、「彼はその神様の約束を疑って心の中で笑った」と書かれていますけれども、しかしその後で、やはりそのことを悔いて、アブラハムもサラも主の約束にすがってですね、その希望が必ず成るということをもう一度確信したのではないかと思います。
どうして確信することができたのかといいますと、今日の引用聖句であるローマ人への手紙5章の5節に書かれている通りに、

ローマ人への手紙5:5
5なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。

その約束を、もう一度思い返すことができたのではないかと思います。
コリント人への手紙第Iの13章の終わりには、

コリント人への手紙第I、13:13
13いつまでも残るものは信仰と希望と愛です。

とあります。「希望」と「愛」は密接なつながりがあって、切り離して考えることができないと聖書は語っています。

今のこの世は、先ほどお話ししましたけれども、「希望がありますか」と問われた時に、多くの人が「希望はない」と答える世界ではないかと思います。
一年前のあのテロを思い出しても、そのことがよくわかります。色々なニュースを聞いてもあまり嬉しいニュースというのはありません。
でも、神様から与えられたこの「希望」はですね、「失望に終わることがない」というのが、私たち信じる者に与えられた大きな慰めだと思います。

エレミヤの哀歌3章の19節からお読みします。

哀歌3:19-25
19私の悩みとさすらいの思い出は、苦よもぎと苦味だけ。
20私のたましいは、ただこれを思い出しては沈む。
21私はこれを思い返す。それゆえ、私は待ち望む。
22私たちが滅びうせなかったのは、主の恵みによる。主のあわれみは尽きないからだ。
23それは朝ごとに新しい。「あなたの真実は力強い。
24主こそ、私の受ける分です。」と私のたましいは言う。それゆえ、私は主を待ち望む。
25主はいつくしみ深い。主を待ち望む者、主を求めるたましいに。

ここでは、エレミヤが「自分の思い出は悩みと苦しみであった」。その時、エレミヤは「主を待ち望む」と言いました。そして、「主の恵み、主のあわれみは尽きない」。
そのあわれみを体験した時も、エレミヤは「主を待ち望む」と言いました。苦しい時も、悩む時も、恵みの時も、エレミヤは「主を待ち望む」と言ったわけです。

最近、私もおもに仕事のことなんですけども、色々悩んで苦しんで二年半ばかりを過ごしました。そして、「何のために働くのかな」とか、「何のために生きていくのか」とかそういうことを考えていました。そして、本当に「自分自身に希望がないなぁ」と、思っていたんです。
それで、夏に御代田に行ってですね、あるメッセージを聞きました。「主を愛すること」「主の呼びかけに快い返事をすること」、そういうことを聞きました。そして、自分も改めてですね、何か「はじめの愛に戻ろう」、そういう思いにさせられました。

それからなんですけども、何となく気持ちが変わってきて、「希望というものはこういうものかなぁ」と。目に見える状況は、別に何も変化はなく、かえって、段々、段々と世の中は厳しくなってきますから、「そういう中で、どういうふうにやっていけばいいのかな」とか、難しく考えていたことを何かやめて、本当に「自分が単純になって、イエス様に信頼していけばいいんだなぁ」と。
「後についていけば何とかやっていけるんだなぁ」と。
「たとえ、会社がつぶれたとしても、それはそれで御心であれば、いいんだなぁ」と何かそのようにこの2週間ぐらいなんですけども、思えるようにと言いますか、内側からそういうふうになってきています。

で、自分の希望は何かなぁと思うとやはり、このローマ人への手紙に書いてある通りに、やはり自分で作り出すものではなくて、主から与えられる希望がですね、何となく今、自分にはよく分からないんですけども、形に、何かもやもやしてなろうとして、それがまた喜びでもあり、支えでもあるわけです。
これは本当に理屈では考えられないことなんですけども、そういった意味で今私にもですね、希望があるかと問われたら、今は「はい。あります」と答えることができるわけです。
それは、やはり「イエス様自身」だと思います。
「自分にはイエス様がある!」それだけで大いなる希望になります。

ヘブル人への手紙の10章の23節に、このように書いてあります。

ヘブル人への手紙10:23
23約束された方は真実な方ですから、私たちは動揺しないで、しっかりと希望を告白しようではありませんか。

「動揺しないで、しっかりと希望を告白する」、それは祈ることでもあると思います。そして、ペテロの手紙第Iの1章の21節に、このように書かれています。

ペテロの手紙第I、1:21
21あなたがたは、死者の中からこのキリストをよみがえらせて彼に栄光を与えられた神を、キリストによって信じる人々です。このようにして、あなたがたの信仰と希望は神にかかっているのです。

私の内側にある希望、それが何に基づいているか。それはここに書いてある通りに、神様ご自身にかかっているわけです。
希望のない人生を歩んでいるっていうことは、本当に空しいことであります。そういう人はですね、この世の中に少なくないはずだと思います。
聖書は、希望を持つために私たちに与えられている神様の言葉でありますから、この聖書の中に、やはり戻って、もし「希望がなくなりそうだな」と思われた時には、「ないなぁ」と思われた時には、聖書のみことばを味わって、もう一度主の愛にですね、立ち返りたいと思います。

最後にですね、ローマ人への手紙の5章2節からを読んで終わります。

ローマ人への手紙5:2-5
2またキリストによって、いま私たちの立っているこの恵みに信仰によって導き入れられた私たちは、神の栄光を望んで大いに喜んでいます。
3そればかりではなく、患難さえも喜んでいます。それは、患難が忍耐を生み出し、
4忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと知っているからです。
5この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。




戻る