引用聖句:ルカの福音書10章25節-37節
クリスマスの晩は、夜勤をしていた羊飼いに、野宿で夜番をしていた羊飼いに、真っ先にイエス様の誕生が知らされました。というのは、星を見ていたからではないかと思います。空を見ていたので、一番に知ることができたと思います。 ですからきっと夜勤明けで、恵みがあるんではないかと思いますけど、・・・でもやっぱり大変です。 今日は『サマリヤ人と律法学者』というテーマでしばらくお話したいと思います。 この箇所はすごく有名なところで、よく引用されるところだと思います。「よきサマリヤ人のたとえ」ということで、お話される箇所です。 「律法学者、律法の専門家がまず立ち上がってイエスをためそうとして言った。」と、いうところからこのところが始まっています。 ここでは、他の聖書の箇所でも同じなんですけども、まず律法学者は「イエス様を試そうとすること」と、もう一方で29節に書いてありますが、「自分の正しさを示そうとすること」と、いつもこの2つであるということが分かります。 その例にもれず、ここでもこの律法の専門家、どういう人かは詳しく書いてありませんけども、「専門家」であったということでした。 「先生。何をしたら永遠のいのちを自分のものとして受けることができるでしょうか。」 そして、もう一つ。 「では、私の隣人とは、だれのことですか。」 という、この質問です。おそらくこのいずれにつきましても、この律法の専門家は、知識としてよく知っていたと思うんです。 自分が学んだことによって、おおかた知っていたこと、それをあえてイエス様を試そうと、また自分の正しさを示そうとしてここでイエス様に質問したわけです。 「永遠のいのちを自分のものとして受けることができるでしょうか。」 実は律法学者にとっての興味は、「永遠のいのち」に興味があるのではなくて、本当は自分の知識や名声が一番だったようです。この世のことの問題が、彼らには一番だったようです。 「永遠のいのち」、そして「いつまでも続くもの」、「目に見えないもの」に対しては、この律法の専門家だけではなくて、律法学者と呼ばれている人はほんとは興味がなかったようです。 ルカの福音書の7章の29節と30節には、このように書かれています。 ルカの福音書7:29-30
このように彼らの心の内側は、神様の前にへりくだること、そういうことからはかけ離れていたということが分かります。 そして10章の29節のところですけど、「私の隣人とは、だれのことですか。」という質問。 これも自分の正しさを示そうとして、イエス様に質問したわけです。自分が分からなかったわけではなかったのです。その証拠に大切な律法を彼は質問されて、「律法には、何と書いてありますか。あなたはどう読んでいますか。」と聞かれたときに、一番大切な2つをですね、彼はすぐに答えることができたからです。 自分を「正しい人」、「隣人も愛してきた」と、本当は言いたかったんではないかと思うんです。 そしてここからですね、この30節のところから、一般に言われてる「よきサマリヤ人のたとえ話」というのがイエス様によって話されたわけです。 「サマリヤ」ということについて、私はどういうことかと思ったんですが、「サマリヤ人の町」とかよく聖書に出てきますね。 ある時イエス様は、弟子たちを遣わす際に「サマリヤ人の町に入ってはいけません。」というふうにおっしゃったんです。 「イスラエルの家の滅びた羊のところに行きなさい。」と弟子たちを遣わした、と聖書に書かれています。 イエス様は、「サマリヤ人のところに行ってはいけません」とおっしゃったのに、ここでは「サマリヤ人」をたとえに使っています。 「ユダヤ人」と「サマリヤ人」については、私もよく分からなかったので、今日インターネットで、便利なものがあるのでそれで調べてみました。そしたら大方は次のようなものです。 イスラエルという一つの国が、ソロモン王という人がいて、その人までであって、その後南北にイスラエルが分断されたということ。そして北は「イスラエル」、南は「ユダ」という国になった。 私の聖書の後ろの方に地図が載っていますけれども、そこに「イスラエルとユダの王国」ということで、詳しい地図が載っています。これを見ますと、「ユダ」というのは、今の「エルサレム」が首都であって、その横に「死海」「塩の海」というのがあります。 「イスラエル」というのはその上の方、北の方であって、その中心に「サマリヤ」という町があります。 ですから「サマリヤ」というのは、「北イスラエル」の首都です。そして「エルサレム」が「ユダ」の首都ということになります。 これが紀元前900年以降のことです。この頃から南北に分断されてしまったわけです。 そして北のイスラエルの民はですね、「シリヤ」という国によって滅ぼされて、民族が「アッシリヤ」の勢力に屈してしまって、そのために純血を守ることができなくなったというわけです。 アッシリヤ人とイスラエル人の血が混じるようになった。 そして南のユダは、ご存知の通り「バビロン」に連れて行かれた。バビロンに「補囚の民」として連れて行かれました。 しかし自分たちの生活をそこでも守り通したのが「ユダの民族」でした。 「イスラエル王国」と「ユダ王国」の間には、このような歴史で違いが生じてきて、両者はもともと1つの国でしたけれども、やがて2つの民族になってしまい、北のイスラエルの末裔がやがて「サマリヤ人」と呼ばれるようになったということです。 そして南のユダ王国の人たちが「ユダヤ人」と言われているようです。しかしそもそもは1つの民でした。 そして驚くことに、この「サマリヤ人」という人たちが今も1,000人近くいるそうです。しかしその生活は非常に「ユダヤ人の生活」に似ているということでした。旧約聖書を読んで、すごく宗教的な生活をしているのが「サマリヤ人」だそうです。 聖書のルカの福音書に戻りますけども、そのようなわけで、サマリヤ人と付き合いをしなかったユダヤ人ですからイエス様は弟子たちにも、「サマリヤの町に入らないように」と注意したわけです。 でも後の方を見ると、不思議なんですけども、イエス様ご自身が「サマリヤの町」それもそのイスラエル王国の真ん中にあるですね、「サマリヤの町」のすぐそばの「スカル」という町に行った、ということが聖書に書かれているわけです。 ヨハネの福音書4章を見ますと、ここでまた有名な「サマリヤの女」との出会いが書かれているわけです。 ちょっとお読みします。 ヨハネの福音書4:1-9
云々・・・と書かれてあります。 つきあいをしない「サマリヤ人」の女にですね、それも「水を飲ませてください」とイエス様は語られたところです。 弟子たちにも「入っていってはいけない」と言ったこの地にですね、なぜイエス様は来たかといいますと、それはたった1つ、このサマリヤの女の救いのためにですね。 イエス様は、この「スカル」の井戸に腰をおろして、待っておられたわけです。 それ以前には、「サマリヤ人は、イエス様を受け入れることすらしなかった」と書かれてあります。ですからイエス様は、この後の方を読みますと、5人夫があったが今は夫ではない者と一緒にいるという、そういう不幸な、さみしい1人の女性を通してこのサマリヤの町に福音が宣べ伝えられることになった。 そのきっかけとして、この「スカル」の井戸に、イエス様は腰をおろして待っていたわけです。 これが「サマリヤ」という、「サマリヤ人」ということの簡単な背景です。 そしてルカの福音書に戻りまして、この「サマリヤ人のたとえ」のところに戻ります。 ルカの福音書10:30
というところから始まります。この「ある人」というのが、「エルサレムからエリコへ下る道で強盗に襲われた」ということです。 先ほどの地図を見ますと、エルサレムからエリコというのはちょうど「国境」というんでしょうか、ユダとサマリヤの境にある町であることが分かります。 「ある人」はエルサレムに行って、そしてサマリヤに帰るところ、サマリヤの中のエリコへ帰る途中でした。 どうしてエルサレムに行ったか分かりませんけれども、エルサレムには当時の宮があったわけですから、おそらく主を礼拝してその帰り道であったのかも知れません。 とにかくその帰り道、一人で帰って山道だったのでしょう、強盗に襲われて着ているものをはぎとられ、なぐりつけられ、・・・半殺しにして強盗どもは逃げて行ったということです。 ここを読みました時にですね、ほんとにこの「ある人」というのが可哀想な人だなあとつくづく思うわけです。 どのような人か書いてありません。それゆえに「どのような人だったろうか」と思いをめぐらすことになります。 でもふと思ってみますと、「これが自分だったらどうだろうか」と思ってみたわけです。現在の社会で自分に置き換えて見てみたらどうかなと、同様のことは、いっぱいあるのではないかと思いました。 この世の中というのは、非常に私から見るとですね、この不況のさなかずいぶんとやはり、みんなの心が冷えてしまってるんではないかなあ、と思ってみていたりしています。 「弱っている者を半殺しにする」・・・これはほんとのことだなあと、思うわけです。 ですから「強盗ども」というのは、この世の中のことを言っているのではないかなあと、この世の中は弱っている者、そういう者を半殺しにして、そして立ち去ってしまうのが「この世」じゃないかと思いました。 「今は、不況の時代だから・・・」ということではなくて、いつの時代でもこの世の中は「ある人」にとって、強盗のようなものではないかと思います。 今はまあ自由競争の資本主義の社会ですから、「競争は自由である」とは言えますけれども、一定のルールはあっていいはずだと思います。 でも今のこの社会の経済のシステムとか、そういうものを見ますと、「弱い者」は消えていって、「強い者」が残って養い育てられる、という法則といっていいと思うんです。 この私も会社の業績とかそういうものを報告に、毎月銀行に行ってるんですね。銀行に月の半ばに行ってですね、「資金繰り」というものを持ってですね、「業績がどうだったか」と、そういうものを書類にして、簡単な書類ですけども、それを持ってですね、行ってます。 最初はすごくイヤでイヤでたまらなくて、銀行の応接室というのは、借金をしてる方にとってはあまりいい場所ではありません。あそこに入るとほんとに重い雰囲気になってですね、「早く帰りたいな」といつも思っておりました。 ある某大手銀行の方がですね、このように言うわけなんです。 今のすごく有名な言葉になりましたけど、「不良債権の処理」ということでですね、それを勧めてるということで、そうすると金融機関は会社を5段階に分類して、明日から「1」「2」「3」まではお金を貸すな、というふうになっているということでした。 要は通信簿にたとえますと、成績の悪い子ども「1」「2」「3」は見捨てて、「4」と「5」の子どもしか教育しないという、ちょっと極端ですけれど、そういうようなことと、一緒のようです。 「弱い者は脱落していって、強い者だけを残す。」これが今の金融システムのあり方のようです。 私なんか考えますと、「1」「2」「3」のものを保護して養えば、社会全体がですね、良くなっていくんではないかと思うんです。でも全くそうではないのです。 そして、サマリヤ人の話に戻りますけども、その半殺しにされたサマリヤ人のそばを、2人の人が通りかかったようです。 1人が「祭司」、もう1人が「レビ人」と言われてる人でした。2人とも、同じような行動をとってしまいました。目の当たりにしたけれども、反対側を通り過ぎて行ったということです。 本来「祭司」とか「レビ人」、神様に仕える人はですね、あわれみをかけてこの人をやっぱり助けてあげる立場にあるのではないか・・・。 その「ある人」にとってみたら、この2人の人が過ぎ去っていく姿は、どんなふうに見えたでしょうか。「どうして行ってしまうんだろう」と、全く考えても答えが出ない話です。 しかし結果として「通り過ぎて行ってしまった」ということでした。 そして3人目に現われた人が「サマリヤ人」でした。 このサマリヤ人は半殺しにされた「ある人」を見て、可哀想に思い介抱してあげた。そればかりではなくて、自分の家畜に乗せて宿屋に連れて行き、そして宿屋の主人にそのお金を渡して「もっと費用がかかったら、私が帰りに払います」と言ってくれたということです。 傷にオリーブ油とぶどう酒を注いでくれた。そしてこの「ある人」、もうお金もすべてなくなってしまった人の代わりに「私が払います」と言ってくれたということです。 これが「サマリヤ人」でした。「あるサマリヤ人」。 これがこの「ある人」にとって、やはり「イエス様」であるわけです。「ある人」というのが、やはり「私たち自身」ではないかと思います。 「律法」というものにおいては正しかった祭司とレビ人は、そのそばを通り過ぎて行ってしまったということです。「律法」、おそらくそこには宗教とか、またあらゆるものが含まれているんではないかと思うんです。 そして「サマリヤ人」の特徴は、やはり「あわれみと愛」であると思います。まさしく聖書に書いてある、「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ」。それを、このユダヤ人に嫌われている「サマリヤ人」が行なった、というたとえ話をされたわけです。 そして、これは何を隠そう律法学者、律法の専門家に嫌われていた「イエス様ご自身」のことをですね、ここでイエス様は証しされたんではないかと思います。 ローマ人への手紙13:8
律法を完全に守ることは、人間には不可能なことです。しかし「他の人を愛する者、それが律法を完全に守っている」と聖書は言っているわけです。 そしてガラテヤ人への手紙の6章には、このように書かれています。 ガラテヤ人への手紙6:2
「キリストの律法」。聖書の「律法」というのは、本来モーセがホレブで、・・・ (テープ A面 → B面) ・・・2枚の板に書かれたその十戒のことをさしているんですけども、でも、ここでは「イエス・キリストの律法」というふうに書かれています。 それはどういう意味であるかということは、さっきイエス様がサマリヤ人のたとえを使って話された通りに、「隣人をあなた自身のように愛せよ。」その、一言に尽きるわけです。 「あわれみをかけること」、そのことがキリストの、イエス様の律法である、と聖書ははっきりと言っています。 救われた当時ですね、この箇所を読んで「自分は『よきサマリヤ人』になろう」と思ったことがあったんですね。 そして、駅で何かうずくまっている人を見て、声をかけてあげたことがありました。「大丈夫ですか」と。 しかし何もできないということがですね、あとでよく分かりました。その後どうしようもないんですね。 そして私、インターネットで検索してみたら、「よきサマリヤ人」っていうことで検索しましたら、やはりある教会の方のショートメッセージというのが載ってたんですけど、短い証しでした。 彼も私と同じようにですね、彼は救われる前ですか・・・「いい人になろうとしていた」と。 で、救われた後にその自分を振り返ると、「よきサマリヤ人」になろうとしていたと書かれていました。そしてしばらくして信仰をもって教会に通っていたら、自分は「律法学者のようである」というふうに思うようになった、ということです。 そして救われて、その人は25年たったということですけども、今彼は疲れて、この「ある人」になっていると、そういうふうに書かれていました。 私もやはり「ある人」というのがですね、「自分」でありまた、その「ある人」がすぐ近くにもいる、ということがですね、最近よく分かります。 ほんとに私の周りにも、心の病で悩んでいて、ほんとに辛い生活と言うんですか・・・毎日を送っている人がいて、その人のために自分が何ができるかというと、何もしてあげることができなくて、何かしてあげると、ほんとに周りに別な影響が出てきて、困ってしまっています。 ですから自分ができることは、ただ「ある人」に手を差し伸べることが出来る「サマリヤ人」である、「まことのサマリヤ人」である「イエス様」にですね、やっぱりゆだねて、助けてもらうようにと祈ることしか今はないんです。 そんなことをですね、昨日からメッセージの準備をしながらですね、考えさせられました。 最後に、クリスマスも近いのでイザヤ書の9章のところを読んで、終わりにさせていただきます。 イザヤ書9:1-4、6
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