信仰のアンチ・テーゼ


飽戸兄

(吉祥寺学び会、2011/03/20)

引用聖句:ガラテヤ人への手紙2章19節-21節
19しかし私は、神に生きるために、律法によって律法に死にました。
20私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が、この世に生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。
21私は神の恵みを無にはしません。もし義が律法によって得られるとしたら、それこそキリストの死は無意味です。」

史上最大の大地震、津波。そして、原発の事故とたいへんな災害が続いており、たくさんの皆さんが犠牲になり、今もたいへんな日々を送っておられます。
日本全国から、世界中から応援の人々がかけつけ、物資が届けられ、愛の励ましの言葉が寄せられております。

今日は、「信仰のアンチ・テーゼ」という変な題で申し訳けありませんが、あとで少し説明致しますが、聖書には神の愛について、神の厳しい掟について、実に多くのことが書かれています。
しかし、神様の究極の目的はなんなのか。それは、すべての人が神を信じ、御子イエスを信じ救われて、神の子とされ、天の御国で永遠に、天のお父さまと御子イエス様と一緒に過ごすことであります。
有名な、どなたもご存知のヨハネの福音書3章16節になります。

ヨハネの福音書3:16
16神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。

山登りにたとえてみれば、すべての人が救われ永遠の命を持つと言う頂上を目指して、いろんなルートがあり、いろんな人がいろんな登り方で登って行く。
猛烈な勢いでどんどん登って行く人も居ます。ゆっくり、しっかり確実に登って行く人もいる。途中であきらめて降りて行っちゃう人もいます。頂上に至る道は、いろいろあり、登り方もいろいろあります。
しかし神様のご希望は、全員がひとりの脱落者もなく頂上までたどり着いて欲しい。それが、神様の願いであります。

まだ、イエス様に巡り会っていない人々についても、神様は再臨を引き延ばしてでも、一人でも多くの者が救われることを願って待っていてくださっています。
しかし、その日ももう間近です。私たちも伝道を急がなければならないということに思います。
頂上に至る道にいろいろあり、登り方にいろいろあるように、それを指導して下さる聖書の御言葉もいろいろです。なかには、矛盾した御言葉もいくつも出て参ります。それが、アンチ・テーゼであります。

アンチ・テーゼと言うのは、「Aであるけれども、Aでない。」「Aであるけれども、Aでないものでもある。」と言う正反対の命題が、アンチ・テーゼということであります。一緒に、聖書のアンチ・テーゼについて、見て行きたいと思います。
私たちは、反対のことが書いてあると困ってしまうんですね。どちらの命令に従ったら良いのかと迷いうろたえてしまうことがしばしばあります。
どうしたら良いか、聖書をご一緒に見て行きたいと思います。

第一のアンチ・テーゼは、未信者への福音伝道か、自己の信仰の鍛錬かということであります。
私たちキリスト者には二つの使命があります。ひとつは、自分たち一人一人の信仰を成長させなければいけない。もう一つは、一人でも多くの人に福音を伝えなければならない。
まず、自分の信仰を鍛えるためには、この世のしがらみを捨てて、厳しく自分を律することが必要になってきます。

ローマ人への手紙12:2
2この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい。

この世のこと、立身出世や様々な享楽や肉の思いをすべて捨てて、神様に喜ばれる人間に生まれ変わるにはどうしたら良いか。全身全霊で努力しなさいと言う箇所です。
しかし、未信者の皆さんに福音を伝えるためには、この世のしがらみを完全に切り捨てて絶縁してしまったら、これは福音を伝えるチャンスすら無くなってしまいます。
一方パウロは、どんな人でも救うためにどんな人にもなると言い切っております。

コリント人への手紙第I、8:9-13
9ただ、あなたがたのこの権利が、弱い人たちのつまずきとならないように、気をつけなさい。
10知識のあるあなたが偶像の宮で食事をしているのをだれかが見たら、それによって力を得て、その人の良心は弱いのに、偶像の神にささげた肉を食べるようなことにならないでしょうか。
11その弱い人は、あなたの知識によって、滅びることになるのです。キリストはその兄弟のためにも死んでくださったのです。
12あなたがたはこのように兄弟たちに対して罪を犯し、彼らの弱い良心を踏みにじるとき、キリストに対して罪を犯しているのです。
13ですから、もし食物が私の兄弟をつまずかせるなら、私は今後いっさい肉を食べません。それは、私の兄弟につまずきを与えないためです。

未信者の人や信仰の弱い人のことをいつも考えなさい。兄弟達に対して罪を犯し、彼らの弱い心が踏みにじられる時、それはイエス様に対して罪を犯しているのです。なぜなら、キリストは、その人のためにも死んでくださったのですから。
パウロはこうして、信仰の弱い人が、信仰の無い人が、自分が肉を食べているのを見てつまづくようであれば、私は今後一切肉を食べません。それは、私の兄弟につまずきを与えないためですと断言しています。
これこそが、愛であるということがわかります。

キリスト者の任務は、ひとりでも多くの人に福音を伝えるためである。これに勝る任務はありません。
イエス様が復活され昇天された時、この世の受肉されたイエス様の最後のお言葉は、いわば私たちへの遺言は、「全世界へ出て行き、福音を宣べ伝えなさい。」ということでした。

マルコの福音書16:15、19
15それから、イエスは彼らにこう言われた。「全世界に出て行き、すべての造られた者に、福音を宣べ伝えなさい。
19主イエスは、彼らにこう話されて後、天に上げられて神の右の座に着かれた。

ですから、この世と完全に縁を切ってしまったら、福音を宣べ伝えることはできない。
もちろん、この世と調子をあわせてはいけませんが、この世と断絶してはいけない。未信者を、信仰の弱い人をつまづかせないためには、今後一切肉を食べないと言う思いやりも、ぜひ必要になってきます。
これは、深刻なアンチ・テーゼであります。自分の信仰はしっかり保ちながら、ひとりでも多くの人に福音を伝えていくためには、どうしたら良いか。いつも考えながら歩んでいかなければならない。

次のアンチ・テーゼは「主に委ねよか、全力投球せよか。」これも反対の御言葉がたくさんあります。
現代人は疲れています。疲れ果てています。希望もなく将来に夢を持てない人もたくさんいます。
そうして、多くの人達が自ら死を願い、社会から人生から脱落していきます。そんな人達に優しく声をかけて下さるのがイエス様です。どなたもご存知のマタイの福音書11章28節

マタイの福音書11:28-30
28すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。
29わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。
30わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。」

マタイの福音書7:7-8
7求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。
8だれであれ、求める者は受け、捜す者は見つけ出し、たたく者には開かれます。

疲れ切った人、重荷を負う人は私の所に来なさい。私が休ませてあげます。どんなことでも私に願いなさい、求めなさい、祈りは必ず聞かれます。
疲れ込んで座り込んでしまったような人に、この世では、「もっと頑張れ、もっと頑張れ。」と言います。頑張りすぎて倒れそうになっている人にも、「もっと頑張れ、もっと頑張れ。」と言います。これ以上、頑張らせたらつぶれてしまいますね。
イエス様は、まず私の所に来て、すべてを私に委ねて休みなさいとおっしゃいます。

希望を失い、絶望した人達に本気で捜せばどんなものでも見つかりますよ。本気で求めれば、必ず見つかります。あなたの希望も、勇気も、見つかると慰め励ましてくださっているわけです。
ところで、私たちは生まれた時から「自分のことは自分でしなさい。」「頑張りなさい。」「自己実現こそ、人間が生まれてきた価値なのだ。」そう言って育てられてきました。
しかし、神様はそうではなくて、「自分の考えを捨てて、なんでも自分が正しいと思わないで、主にたずね、主に委ねなさい。」と、おっしゃっています。これが、この世と全く反対の所です。

詩篇55:22
22あなたの重荷を主にゆだねよ。主は、あなたのことを心配してくださる。主は決して、正しい者がゆるがされるようにはなさらない。

詩篇37:3-5
3主に信頼して善を行なえ。地に住み、誠実を養え。
4主をおのれの喜びとせよ。主はあなたの心の願いをかなえてくださる。
5あなたの道を主にゆだねよ。主に信頼せよ。主が成し遂げてくださる。

なんでも自分の考えが正しいと思わないで、なんでも自分でしようと思わないで、まず主に尋ねなさい、主に委ねなさい。そうすれば、主が最善の解決を教えてくださる。主が、ご自身で解決してくださる。
クリスチャンの力は、自分の力で、自分の努力で、歯を食いしばって成し遂げるということではないのですね。
主に頼り、主に委ねた時に、主が働いてくださり、人知を越えた素晴らしい解決を、主が実現してくださる。ここが決定的に違うことだと思います。

しかし、この委ねると言うのが一番むつかしいんですね。
歯を食いしばって頑張る方が、余ほどやさしいのですね。生まれた時から、ずっとやってきたことですから。
もう一箇所、みてみましょう。

イザヤ書30:15-18
15神である主、イスラエルの聖なる方は、こう仰せられる。「立ち返って静かにすれば、あなたがたは救われ、落ち着いて、信頼すれば、あなたがたは力を得る。」しかし、あなたがたは、これを望まなかった。
16あなたがたは言った。「いや、私たちは馬に乗って逃げよう。」それなら、あなたがたは逃げてみよ。「私たちは早馬に乗って。」それなら、あなたがたの追っ手はなお速い。
17ひとりのおどしによって千人が逃げ、五人のおどしによってあなたがたが逃げ、ついに、山の頂の旗ざお、丘の上の旗ぐらいしか残るまい。
18それゆえ、主はあなたがたに恵もうと待っておられ、あなたがたをあわれもうと立ち上がられる。主は正義の神であるからだ。幸いなことよ。主を待ち望むすべての者は。

私を信頼して、私が戦ってあげるから待っていなさい。神様は、おっしゃっているのに待ちきれなくて、逃げ出すんですね。馬に乗って逃げ出すのです。
それなら逃げてみなさい。敵の馬は、もっと早い。あなた達は全滅するだろう。だから私に頼って、待っていなさいと言っているのです。
私のいうことを聞きなさいと、主は懇々と説得してくださっています。

でも、私たちは何か問題があるとすぐに解決しなきゃと思って、おたおたしてしまいますね。走り出してしまうのです。馬に乗って走り出してしまうのです。
どうしようもない、本当に委ねることのできない私たちであります。しかし、主に委ねることこそ、神様が一番望んでおられることであるということがわかります。
でも一方、パウロは信仰の歩みは全力疾走でなければならないとも言っています。

ピリピ人への手紙3:13-14、16
13兄弟たちよ。私は、自分はすでに捕えたなどと考えてはいません。ただ、この一事に励んでいます。すなわち、うしろのものを忘れ、ひたむきに前のものに向かって進み、
14キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の栄冠を得るために、目標を目ざして一心に走っているのです。
16それはそれとして、私たちはすでに達しているところを基準として、進むべきです。

コリント人への手紙第I、9:24-27
24競技場で走る人たちは、みな走っても、賞を受けるのはただひとりだ、ということを知っているでしょう。ですから、あなたがたも、賞を受けられるように走りなさい。
25また闘技をする者は、あらゆることについて自制します。彼らは朽ちる冠を受けるためにそうするのですが、私たちは朽ちない冠を受けるためにそうするのです。
26ですから、私は決勝点がどこかわからないような走り方はしていません。空を打つような拳闘もしてはいません。
27私は自分のからだを打ちたたいて従わせます。それは、私がほかの人に宣べ伝えておきながら、自分自身が失格者になるようなことのないためです。

パウロは、天の神様から頂く栄冠を得るために、目標を目指して一心に走っている。全力疾走している。決勝点がわからないような走り方はしていない。空を打つような拳闘もしていない。キリスト者は全力疾走していなければいけないと言っております。
私は、信仰を持ち始めた頃は、疲れた者、重荷を負う者は来なさい。休ませてあげるから。そうおっしゃったから来てみました。
来てみたら、「全力疾走しなさい。」・・・これは、話が違うのじゃないか。そう思いました。実は、両方とも真実なんですね。

今のパウロの、ピリピ人への手紙3章16節でお読みしましたように、それはそれとして、私たちはすでに達しているところを基準として進むべきですと言っているのです。
すなわち信仰のレベルに応じて歩めば良いのだ。初心者の人は、まずゆっくり休みなさい。それから、ぼちぼち歩きなさい。しかし、しっかり歩きなさい。
信仰が進んだら、もう少しちゃんと歩きなさい。さらに信仰が成長し、主に用いられるようになるためには、全力疾走しなさいということではないかと思います。

やはりここでも大切なことは、全員が、脱落者を一人も出すことなく、信仰の道を走りとおすことだと思います。
ですから私のように、皆さんゆっくり走りましょう。途中、少し歩いちゃっても良いから、最後の最後まで、戦いましょう。最後の最後まで決勝点まで行きましょう。
そう言うメッセンジャーがいても良いのではないかと思いますが、自分で言ってはいけないですね。

もう一つ重要なことは、救われる前と救われた後では違うということです。これは、もうベックさんが、いつもおっしゃっていることです。
信仰を持つためには、救われるためには、勉強しなくて良いんだよ、頑張らなくて良いんだよ、聖書も読まなくて良いんだよ。ただ、イエス様の所へ行って休ませてもらいなさい。
しかし救われた者は、主をより良く知るために、そして主に少しでも用いられるために、全力疾走しなければいけない。ぶらぶら散歩してはいけないとおっしゃっているわけです。

信仰の成長をしないで、いつまでも赤子のままで居るとしたら、主はお喜びにならない。
どんな信仰の初心者でも、それなりに成長しなくてはいけないということは、はっきりしているわけです。
ここも、アンチ・テーゼですね。

第三の最後のアンチ・テーゼは、信仰のみか、信仰も行いもかと言う、ガラテヤ人への手紙の所を見てみたいと思います。
私たちは旧約の掟、律法を守り通すことによって救われると言う掟の時代であったら、おそらく一人も救われていないと思いますね。義人はいない、一人もいない。行いで義と認められ救われる者などいない。その通りだと思います。
新約のイエス様を信じる信仰によって救われた。そのおかげで救われたと言う点については異存はないと思います。しかし、その後の、信仰のみか、信仰も行いもか。この点では、やはり深刻なアンチ・テーゼに直面して当惑するわけであります。

パウロの基本は、「信仰のみ」でした。私たちは、イエス様の十字架により律法の束縛から解放され、律法の奴隷から神の奴隷に生まれ変わった。
だからパウロは割礼も否定しました。割礼を受けるということは、律法に従うということです。律法に従うということは、すべての律法を守り抜いて、行いで義と認められて救われるという旧約の掟に帰ってしまうことになる。
パウロの信仰の原点は、私たち人間は律法を守り通すことはできない。正しいことはできない無力な存在である。ただ、イエス様の憐れみ、一方的なイエス様のご愛によって救われた。これがパウロの確信であります。信仰義認論です。

ガラテヤ人への手紙2:15-16
15私たちは、生まれながらのユダヤ人であって、異邦人のような罪人ではありません。
16しかし、人は律法の行ないによっては義と認められず、ただキリスト・イエスを信じる信仰によって義と認められる、ということを知ったからこそ、私たちもキリスト・イエスを信じたのです。これは、律法の行ないによってではなく、キリストを信じる信仰によって義と認められるためです。なぜなら、律法の行ないによって義と認められる者は、ひとりもいないからです。

一方、エルサレムに本拠を置いて、主にユダヤ教のユダヤ人たちに伝道していたペテロたち12使徒たちは、初代教会のリーダーたちは、ユダヤ教の人々を刺激しないように、割礼を守ったり、異教徒との交わりを避けたりするようになっていました。
パウロはそれを、日ごろから快く思っていなかった。そこにエルサレムの教会の人たちでしょう、どんなに熱心でも信仰だけでは、救われない。信仰も行いもと言う教えを持ってきた。
それにガラテヤの諸教会の人たちは大きな影響を受け、パウロの「信仰のみ」から、「信仰も行いも」に変わり始めた。それを知ってパウロが激怒して書いたのが、ガラテヤ人の手紙です。

ガラテヤ人への手紙5:2-7
2よく聞いてください。このパウロがあなたがたに言います。もし、あなたがたが割礼を受けるなら、キリストは、あなたがたにとって、何の益もないのです。
3割礼を受けるすべての人に、私は再びあかしします。その人は律法の全体を行なう義務があります。
4律法によって義と認められようとしているあなたがたは、キリストから離れ、恵みから落ちてしまったのです。
5私たちは、信仰により、御霊によって、義をいただく望みを熱心に抱いているのです。
6キリスト・イエスにあっては、割礼を受ける受けないは大事なことではなく、愛によって働く信仰だけが大事なのです。
7あなたがたはよく走っていたのに、だれがあなたがたを妨げて、真理に従わなくさせたのですか。

ガラテヤ人への手紙2:19-21
19しかし私は、神に生きるために、律法によって律法に死にました。
20私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が、この世に生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。
21私は神の恵みを無にはしません。もし義が律法によって得られるとしたら、それこそキリストの死は無意味です。」

もし、信仰も行いもでないと、救われないのであれば、イエス様の十字架の死は犬死になってしまうのではないかと、そこまで言い切っているわけですね。
パウロは、イエス様の十字架と言う原点に立ち返れと、ガラテヤの人たちに叫んでいるわけです。
吉祥寺集会の信仰も、原点は、やはり自分の無力を認め、主イエスの十字架にひざまずき、自分の罪を悔い改めた時、主の一方的なご愛で救われた。自分の行いによってではなくて、信仰によって救われた。信仰のみの原理と同じだと思っています。

では、行いはどうでも良いのかと言うと、そうではない。第二のアンチ・テーゼのところで見てきましたように、私たち救われた者は、どんな信仰の弱い者であったとしても、少しでもイエス様を悲しませないようにしたいと考えています。
信仰の成長を望んでいます。
主に用いられたいと思う者は、全力疾走しなければいけない。そのところは、今見て来た通りであります。

今日は、三つのアンチ・テーゼについて、ご一緒に見て参りました。
私たちは、いつもこの信仰のアンチ・テーゼと言う十字路に、T字路に立って、右に行ったら良いか、左に行ったら良いかと悩んでしまう者であります。
以前、ベックさんに祈りについてお伺いしたことがあります。私が信仰を持ってしばらく、今から20年くらい前です。

「どういう時に、祈ったら良いのでしょう?うちのかみさんや、娘は、なんでもイエス様に祈っちゃうんですけど。タクシーが早く来ますようにとか。急に雨が降り出したのですけど、傘を忘れてきましたから、雨がやみますようにとか、そんなことまでイエス様にお祈りしていいんでしょうか?」て聞きました。
ベックさんは、「なんでも、祈っていんだよ。ただ、聖書に書いてあることは、祈らなくて良いよ。ただ守ればいいんだよ。殺してはいけない。盗んではいけない。聖書にはっきり書いてあることは、それは、もうただ守ればよい。何も書いていない。どうして良いかわからない。そう言うときは、まず祈りなさい。そして、祈ってから行動しなさい。
重い病気にかかった。大事故にあった。そう言うときに、うろうろしないで、神様この試練を通して、あなたは私に何を語ろうとしておられるのですか。そのことをまず尋ねなさい。それから、行動しなさい。それから。お医者さん行ってもいいんだよ。」

それを言って頂いて、ほっとしたことを覚えています。
私たちも信仰のアンチ・テーゼにぶつかった時、右へ行っていいのか、左へ行っていいのかわからない。その時はまず静まって祈る。それから、主が必ずどちらへ行くべきかを教えてくださる。それに従って歩むということだろうと思います。
勝手に走り出さない。馬に乗って走り出すのは、もってのほか。静まって、主のご計画を待ちましょう。

私たちの信仰は、吉祥寺集会の兄弟姉妹は、熱心な兄弟姉妹も多いので、私たちも励まされますが、これからも神様の祈りと願いは、私たちが、一人残らず天の御国にたどりつくことであります。
筋金入りの兄弟姉妹方は、猛スピードで。歩みの遅い兄弟姉妹は、それなりに。
しっかりと歩んで、祈りあい、助け合い、信仰の道を走り通したいと思います。




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