引用聖句:詩篇51篇16節-17節
イザヤ書57:15
今日は、今、兄弟に読んでいただいたように、「謙遜と傲慢」ということについて、聖書にどのように書かれているかを、ちょっと整理してみようということです。 よく私たちは日常会話で「あの人はとても謙遜でいい人だ。」とか、「あの人はちょっと生意気で傲慢だ。」とかいうことを言います。こういう場合、謙遜とか傲慢とかいう言葉は、言うなれば、生まれつきの性格、人柄として語られてるんですね。 その生まれつきの性格、人柄ということでありますと、これはもう、持って生まれたものですから、しょうがないということになるわけです。 同じ兄弟でも、性格は生まれつきかなり違うということも、われわれはよく見ているわけです。もちろん、たまには本来の性格が環境によって変わるということもあります。 本来、非常に謙遜な人だったんだけれども、地位や名誉のある職業について、みんなからチヤホヤされているうちに、気が付いてみたら、相当傲慢になってたと、そういうこともありますし。 元々はかなり傲慢であった人が、事業に失敗したり、家族崩壊を体験したり、長い長い重い病に苦しんだりということで、いつの間にか優しくなっているということも、私たちの周りにたくさんあります。 しかし基本的には、性格というのは、生まれつきというふうに考えられているわけですね。私たちクリスチャンにとっては、傲慢よりは謙遜がいいというのは、もう自明のことです。疑う余地はないんですけども、この世ではそう簡単にはいかないんですね。 例えば、非常に謙遜な人で、仕事があったとき、「まあ、どうぞ、どうぞ。」、「あー、どうぞ、どうぞ、お先にどうぞ。」みんな譲っちゃってたら商売にならないですね。ときにはやはり、生存競争に勝ち抜いていかなければならない。この世ではそういうことがあるわけです。 多少、傲慢なくらいなほうが、いい仕事をするということもあるわけですから、この世を生きていくうえでは謙遜と傲慢では、ただただ謙遜のほうがいいというふうに単純にはいかないということが分かります。 しかし、聖書を見てみますと、この謙遜とか傲慢とかというのは信仰の骨格をなす、非常に基本的な特性であるということが分かります。 特に神さまは、人間の謙遜、従順、へりくだった悔いた心、今、兄弟に読んでいただいたように、どんな全焼のいけにえよりも、主は砕かれたたましい、悔いた心のほうをお喜びになる。主がともに住んでくださるのは、へりくだった人とともに住むというふうに書かれております。 すなわち神さまは、謙遜、従順、へりくだった心砕かれた者といつも一緒にいてくださる。そういう人たちを心から愛してくださる。導いてくださってる。反対に、じゃあ、傲慢がどうか。 傲慢ははっきりと、サタンの性格というふうに書かれております。すなわち、へりくだった従順な人のところには、いつも主が一緒にいてくださる。傲慢な者のとこには、主はいらっしゃらないで、サタンがいつもともにいてくれる。 いてくれるというのも困ったもんですけども、いつも一緒について離れないということが、聖書にははっきり書かれている。 そうなりますと、生まれつきの性格なんだからしょうがないと言ってはいられないんですね。むしろ、信仰の目的は、傲慢から離れて、謙遜になること。 へりくだった悔いた心、そういうものがもてるような人間になることが信仰の、あるひとつのゴールである。主が一番喜ばれるのは、特性なんだということが分かります。 ところが私たちは、生まれながらにしてアダムとエバの末裔です。すなわち、アダムとエバがサタンにそそのかされて、神さまを裏切った。サタンはアダムとエバに、「人間はこの知恵の木の実を食べれば善悪が判断できるようになる。」と、で、「それは別に悪いことじゃないよ。神さまも、その知恵の木の実を食べれば、人間は善悪の判断をできるようになると思って、食べてはいけない。と言ってるんだよ。だけど本当に絶対食べちゃいけない。って言ってなかった。」というような形でそそのかして、食べさせようとするんですね。 で、アダムとエバも、善悪の判断っていうのは、本来は、神の領分であったんですね。人間は神にひとつひとつ尋ね祈って、善悪を伺って、行動するという非常に従順な生物、生き物であったわけですけども、そこでサタンにそそのかされて、善悪を自分で判断したい、自分で判断できそうだ、そう思ったんです。 それがいのちの木の実を食べた、ということですね。すなわち、神のご命令に背いて、そして神の怒りに触れて、エデンの園を追放された。すなわち、善悪を自分で判断したいということは、神の領分を自分でやりたい、神になりたいということと同義だったわけですね。 その傲慢を、主はお赦しにならない。ついに、エデンの園を追放された。 神のようになりたいという傲慢は、アダムとエバがエデンの園を追放されるほどの重罪であった。単に傲慢な性質っていうものをはるかに超えた、重い罪であったということが分かります。創世記3章に詳しく書かれておりますが。こうしてアダムとエバは、ふたつのものを失ったということが分かります。 ひとつは、神との親しい交わり。もうひとつは、永遠のいのち。すなわち、エデンの園にいれば、神さまはいつも側に住んでてくださるわけですから、何でもなくても、「アダムくん、元気かね?エバ、何かあったかね?」とかって、声をかけてくださるわけですね。いつも神と直接お話ができるという、主との親しい交わりが与えられる。これはもう人間にとって、とってもすばらしいことだったわけですね。 どんなことでもすぐ側にいらっしゃる神さまに聞けばいいんですね。でも、もう地球に落とされてしまったら、もう神さまとは会えない。直接は会うことはできない。顔を見て話することができない。これがひとつ。 それからもうひとつが、その知恵の木の実は食べてはいけないけども、いのちの木の実は食べていいって言われてましたね。いのちの木の実を食べていれば、人間は永遠に生きる。って言われた。 本来神さまは、人間は永遠に生きるものとして人間を造られた。アダムとエバを造られたわけですけども、この神の掟に背いた傲慢な罪によって、エデンの園を追放された。そうすると、いのちの木の実はエデンの園にしかありませんから、地上に落とされれば、もう永遠の木の実は食べられない。 すなわち、永遠のいのちというものを失っていく。このふたつの大事なものを失った。ということが分かります。 で、この傲慢の罪によって、神の怒りに触れ、天から地上に落とされたという同じ事件が、何万年も昔に天使の中で起こっていたという、実に不思議なことが聖書に書かれております。 イザヤ書14章。聖書には、サタンのことは間接的には色々出てきますが、直接サタンのことが書かれている箇所というのは、極々少ないんですね。ヨハネの黙示録に少し詳しい説明ありますが。あまり意味がない、珍しいところです。 イザヤ書14:12-15
これは、天使の中の人気ナンバー1の天使に、ルシファーという大天使がいた。天使の中の天使。頭もいいし、ハンサムで、もの凄い力をもっているという天使の中の天使と言われる、ルシファーという天使がいた。 ところが、その天使も、みんなからチヤホヤされているうちに、どんどんどんどん傲慢になっていった。ついに、13節にありますように、『私は一つ、天に上ろう。』、『神の星々のはるか上に私の王座を上げよう。』 これも、神のようになろう。ということですね。『北の果てにある会合の山にすわろう。』 北の果てにある会合の山っていうのは、神さまのお住まいというふうに、みんなが信じているところですね。神さまのお住まいに自分も住もう。『密雲の頂に上ろう。』これも主の座です。そして、『いと高き方のようになろう。』、要するに神さま、私も神になりたいとそう思ったその瞬間、思っただけなんですね、思っただけなんですが、「あなたはよみに落とされ、穴の底に落とされる。」 天国を追放されて、地上に落とされ、天使ルシファーはサタンとなったというふうに今、考えられているわけです。 ここでも、暁の子、明けの明星と言われるような、天使の中のナンバー1。それが自分もそろそろ神になってもいいんじゃないか、あんなに仕事もしたし、人気もあるんだから、私も神になってもいいじゃないか。そう考えた。そう思っただけで主は、その傲慢をお赦しにならず、天から追放されて、地上に落とされた。 すなわち、傲慢というのは、アダムとエバがエデンの園から追放されるほどの大罪である。傲慢とは、天使ルシファーが地上に落とされ、サタンとされるほどの重罪であったということが分かります。 単に生まれつきの人柄とか、性格とか言っていられない。大変なことだ。ということがまず分かります。 では、私たちは生まれつき、アダムとエバの末裔です。生まれたときは、みんな傲慢の子として生まれてきます。その傲慢から離れることができるんでしょうか。これがはっきりと、私たちは傲慢から離れることができると聖書に書いてあります。 どうしたらできるか。それは、イエスの十字架によってだけ、私たちが傲慢から離れることができる。 イエスの十字架とは、聖書の核心中の核心ですね。神の子イエスが、地上に人間を救うために降りて来てくださった。 ふたつ、その神の子イエスが、私たちひとりひとりの罪を贖うために、十字架に架かって、死んでくださった。 みっつ、三日目によみがえり、死をも克服され、そして私たちが一旦失った永遠のいのち、アダムとエバの罪によって一旦失った永遠のいのちを、また回復してくださって、私たちに約束してくださった。 その三つがイエスの十字架、そのイエスの十字架を信じる信仰によってのみ、私たちは傲慢から離れることができる。その見本をイエス様が示した。イエス様の生涯そのものが、従順の見本であり、傲慢から離れる者の生き方はどんなものかということを、全生涯をかけて、見せてくださったということが分かります。 まずイエス様の生涯を見てみたいと思います。イエス様は、口癖のように「わたしがやっていることは、天のお父さまの考えそのもの。天のお父さまがやっているんだ。」ということを繰り返し言っております。ヨハネの福音書に特に詳しく出てまいります。 ヨハネの福音書5:19
ヨハネの福音書5:30
ヨハネの福音書6:38
すなわち、イエス様の行動はすべて、天のお父さまの代わりに行なっている。わたしが言っていることは、天のお父さまの言うことを言ってる。わたしが行なっていることは、天のお父さまの代わりに行なっている。わたしのさばきは、天のお父さまのさばきを、そのまま行なっていると。わたしは何もしていませんというふうに、はっきりと言っておられます。もう少し見てみましょう。 ヨハネの福音書8:28
ヨハネの福音書14:10
すべてがイエス様の語ること、イエス様の教えること、イエス様が行なうことすべては、天のお父さまの仰るとおりやっているだけで、自分からは何もしていない。すなわちイエス様は、無になっていることが分かりますね。天のお父さまがすべてで、神さまがすべてで、自分は完全に無になっておられる。 そこで、イエス様が無になったために、天のお父さまがイエス様の代わりにすべての奇蹟を起してくださったのです。ですから、イエス様が色々な奇蹟を行なっております。 病気を治したり、色んな奇蹟を行なっておりますが、その度に、「あなたの信仰があなたを直したのです。」と言ってますね。あなたの信仰があなたを直したんです。イエス様が、「わたしが直してあげた。」って一度も言ってないんですね。 それは、何か、イエス様はまたまた完全に無になっておられるんですね。「あなたの信仰がすばらしいので、天のお父さまがそれをお喜びになって、天のお父さまがあなたの病気を直したんですよ。わたしが直したんじゃないんですよ。」そう言っておられます。いくつか見てみましょう。十二年、長血をわずらった女の話もそうですね。 マルコの福音書5:25-34
有名な箇所ですけれども。この女の場合、まずイエス様の、私のこの、重い重い病を直せる方は、もうイエス様しかいない、もうイエス様であれば、衣にさわっただけできっと直る。そういう、本当にもう、命がけの信仰があったということが分かりますね。 だから、人込みの中も必死に、人をかきわけかきわけ、ついにイエス様のところへたどりついて、衣にさわったんですね。 その瞬間、十二年、苦しんだ痛みがスッと消えるわけです。イエス様もそのことに気がついた。言うなれば、イエス様の霊がスッと出て行ったわけですね。だれかが自分の霊を持ってった。霊泥棒。霊泥棒ですね。だれだ、わたしの霊を盗んだのとは言わないけれども、だれがさわったのかって、振り返って捜されたのですね。 弟子たちは、もう、こんなに大勢、ごった返しているのに、だれがさわったか分かるわけがないでしょうが。で、もう女はあきらめて、これ以上隠しておくことはできない。神さまに黙っているわけにはいかない。「私です。」言うと、「あなたの信仰があなたを直したのだ。あなたのすばらしい信仰、それを天のお父さまがお喜びになって、その重い、十二年苦しんだ病も直してくださったんですよ。」 最後のところが優しいですね。「娘よ。あなたの信仰があなたを直したのです。安心して帰りなさい。病気にかからず、すこやかでいなさい。」、怒るどころか、これだけ言って、娘を、十二年長血の女をいやしてやってるわけです。 盲人のバルテマイが、見えない目が見えるようにしてもらったところも、、まったく同じパターンですね。 マルコの福音書10:46-47
マルコの福音書10:51-52
このときも、バルテマイは最初に「ダビデの子、イエス様。」と叫んでますね。すなわち、イエス様が神の子であるということを確信してる。また、私の目を見えるようにしてください。まさに自分のこの生まれつきの盲人である自分を、見えるようにしてくださる方はもうこの方しかいない。神の子イエスしかいない。そう思って、見えるようにしてほしいというふうにお願いしてます。 そのお願いする前に、イエス様に対する確信、鉄のような信仰がまずあって、それをご覧になって、「じゃあ行ってごらんなさい、見えるようになってますよ。あなたの信仰があなたを直したのです。」、また同じこと言っていられますね。 わたしが直してやったんじゃないですよ。天のお父さまがあなたのすばらしい信仰を見て、喜んでくださり、直してくださった。 イエス様ですら、神の子、イエス様ですら、自分を無になさったとき、自分をゼロになさったときに、天のお父さまが代わりにイエス様の中に入ってくださって、すばらしい奇蹟の数々を起してくださった。これが謙遜、従順の原形ですね。 私たちも自分を無にすることができたときに、完全な自己否定、私には実は何もすることができない、私の能力、私の努力では、今与えられてる問題を解決するために何もできない。何一つ自分には解決することができないということを認めたときに、初めて、主が動き出されるんですね。 まだもう少し、自分でやってみよう、もうちょっと努力してみよう、もうちょっと頑張ってみようと思っている間は主は働かれない。 ちょうど、私たちのからだの中は、自我と聖霊とが同居してるわけですね。私たちはもうほとんどいつも自我でいっぱいですね。あれもしたい、これもしたい。私が、私が、私ならできる。私でなきゃできない。 もう、そういう自我でいっぱいなんです。そういうときにはもう、聖霊は小さくなって、隅の方でお休みになっているんですね。ぐっすりお休みになってしまうんですね。 だけども、重い試練の真っ只中にあるときは、私たちみなそうですね。もうどうにもならない。イエス様、助けてくださいって命がけで祈ったときには、自我はないんですね。自我は。 (テープ A面 → B面) 救われたのは、そういう、本当に祈りが聞かれるという体験をすることによって、イエス様のもとにひざまずいて、救われる。実際にそういう体験をしなければ、いくら本を読んでも、いくら説得されても、神さまを信じることはできないんですね。 本当にそういう奇蹟を、考えられないような奇蹟を自分が無になって、主に祈ったときに、起していただける。それを体験する。そこでイエス様にめぐり会って、私たちはほとんど、そういう形で救われてるんですね。 だから、自我を去るときに、自我を捨て去ることができたときに、聖霊がいっぱいになって働いてくださる。自分が、自分が、自分が。私が、私が。と考えているうちは聖霊はまったく働かない。 いただいたんです。いただいた聖霊はなくならない。いっぺんいただいた聖霊は、もう絶対に死ぬまでなくならないですけれども、ただ、働いてくださるかどうかは私たちの状態にかかってるということが分かります。 すなわち、イエス様すらが、神の子であるイエス様ですらが、自分を無にされたときに、天のお父さまが代わりに入ってくださって、そして数々の奇蹟を起してくださる。 私たちもまったく同じ。自分を無にすることができたときに、聖霊、イエス様の分身が、私たちにはいってくださっているわけですから、その分身である聖霊が目覚めて、動き出してくださる。そしてさまざまな奇蹟を起してくださる。 どうして祈りがきかれない。どうして聖霊が私に・・・私のところには聖霊、まだ来てないんじゃないかということをよくきかれます。そんなことはないんですね。イエスの十字架を信じた瞬間にもう聖霊いただいてる。 ただ、あまりにも自我が強いために、聖霊はお休みになっている。特に私のところの聖霊は、アルコールに弱いんですね。もうビールを小瓶一杯飲んだら、もう私の聖霊はぐっすりお休みになっちゃうんですね。聖霊に働いていただくためには、やっぱり、自我を最小限にする。そのような祈りを続けるという以外にないということが分かります。 パウロも同じような、謙遜な生活をしております。パウロほどの大識者、当代随一の聖書学者だったわけですね。しかも性格もの凄い激しい、イエス・キリスト信仰を宣べ伝える、その大使徒になってからも、時々怒るとすごいこと言いますね。びっくりするような、性格の激しい人です。 そのパウロが実に謙虚な人に生まれ変わってるということが分かります。 テモテへの手紙第I、1:15
ローマ人への手紙7:18-19
ローマ人への手紙7:24-25
大使徒パウロは、私は罪人のかしらですと言っていますね。大使徒パウロが、私はほんとうにみじめな人間です、だれがこの死のからだを、救い出してくれるのでしょう。 あの勝ち気な、キリスト教徒を片っ端から捕えて、牢へぶち込んだあのパウロが、ここまで謙虚になることができたというのは、イエス様以外にありえない。イエス様以外に考えられない。 パウロは伝道の中で、もう実に迫害につぐ迫害を受けてます。しかし、イエス様を伝えるために受ける迫害、イエス様を伝えるために周りから攻撃されたり、馬鹿にされたり、無視されたり、そういう広い意味での迫害、イエス様を伝えるために受ける迫害は、イエス様がこれから喜んでくださるということを、パウロは知ってますから、その迫害を我慢するのではないんですね。 迫害を我慢できた。それだけでもすばらしいことですけども、パウロは我慢ではなくて、ただただ神に感謝しますと言ってるんですね。迫害を受けていること自身、パウロは感謝している。そこまで謙虚に変えられていることが分かります。私たちもそのような謙遜を学ぶことができるでしょうか。 ちょっと、私自身を考えると、いとおしいくらい、イエス様のようにはなれっこない。パウロのようにも、ちょっとこれは無理だろうという気がします。じゃああきらめるか。そうではなくて、やはり、キリスト者の使命は、傲慢から離れ、謙遜の道を歩めるように、祈っていくこと以外にないと思うんですね。 それは自分ではできない。自分では決してできない。しかしイエス様は、絶えず私たちを造り変えてくださる。神に似た者に造り変えてくださる。これはイエス様の約束なんですね。 ベックさんの口癖のように、イエス様は嘘つきじゃない。イエス様が、「わたしが、あなたたちを神の姿に似た者に造り変えてあげますよ。」と、聖書で宣言してるんですから。必ずしてくださる。 ひとつは、私たちが何年か前の自分と比べてみると、分かるんですね。数年前、十年前、信仰をもつ前に決してできなかったことを今やっているんですね。 確かに、私たちの歩みは遅くて、本当にこのような謙遜な人間になれるだろうかという不安をもちますけれども、信仰をもつ前だったら決して考えられないような、自分のあまり好きでもない、時には敵であるような人のことも祈ってますね。 赤の他人である兄弟姉妹のために、命がけで祈ってる。 さらに人柄までも、年々変えられてるんですね。そういうことに気が付きます。自分はあまり見えませんが、周りを見てるとよく分かるんですね。集会の中でも初めて来た人は、大抵一番後ろのほうで、怖い顔して睨んでるんですね。 だんだんだんだん真中のほうへ来てる、そのうちに祈ってるんですね。最後は司会したりしてるんですね。どんどんどんどん変わっていくんですね。そういうものを見てると、これは本人の努力じゃないんですね。本人の才能じゃないんですね。イエス様が造り変えてくださってる。 だからこんなんになったということを、私たちは毎日見てるわけですっていうことは、私もまんざら、絶望ではない。 天国へ行ってからも、それは続くわけでしょうから、何百年か経って、道でみなさんとすれ違うと、あれ?今すれ違ったのは兄弟かな、イエス様かなっていうくらい似てるんじゃないかと思うんですね。 慌てないで、イエス様の言葉を信じて、信仰を続けていれば、神さまが私たちを一歩一歩造り替えてくださったということが、その約束です。 そのような歩みができるように、希望をもって、特に助け合って、祈り合って歩んでいきたいと思います。 どうもありがとうございます。 |