神の似姿に変え賜う神


飽戸兄

(二俣川家庭集会)

引用聖句:コリント人への手紙第II、3章18節
18私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。

今日は、今、兄弟に読んでもらった、神の御姿に変え賜う神についてご一緒に考えてみたいと思います。
ここで、立派な信仰を持つ者は変えてくださるとは、書いていません。良いことしたら創り変えてくださるとも書いていません。律法を守ったら、みことばを守ったら作り変えてくださるとも書いていません。
「私達は、みな」と書いてあります。「みな」と書いてありますから、わたくしのように歩みの遅いものも、主と同じ形に創り変えてくださる。どんなに歩みの遅い者でも、劣等生でも、みな神と同じ姿にまで変えてくださる。これが神様の約束です。

ではどういう方法で、私は作り変えられるのでしょうか。第一の方法は、土の器に宝を積むという方法で変えられます。

コリント人への手紙第II、4:7
7私たちは、この宝を、土の器の中に入れているのです。それは、この測り知れない力が神のものであって、私たちから出たものでないことが明らかにされるためです。

土の器とは私達の人間性そのものです。わたしたちの人間性は簡単に変わらない。それに対して主が積んでくださる宝、それはみことば、光、主のみわざ。すべて主から来るものが宝。主が、なかなか変わり得ない私達に、ひとつまたひとつと宝を積んでくださるために、私達は変えられる。
私達の生活習慣は、信仰を持ってもそう変わらない。ジャンバル・ジャンのようにドラマチックに変わらない。どうしようもない者に、私の所に来なさいとおっしゃった神様は、その土の器、そのままのところに宝を、ひとつまたひとつと積んでくださる。主がわたしに宝を積んでくださった。

私達の周りにも体験や証しがあります。大酒のみがお酒をやめられた。カラオケ好きがカラオケやめた。ゴルフ狂がゴルフをぴったり行かなくなった。それはよくよく聞くと、一生懸命頑張って、努力してやめたのではないのですね。人間の力や努力でやめられない。でも気が付くとやめれて、変わっていた。
それは人間ができることでなく、「計り知れない力が神のためであり、私たちから出たものでないことを明らかにされるためです。」
決して自分でできないことが、気が付くとできている、これはみなが何度も経験していることです。
ここ2、3年、私たちにもたくさんの試練が起こりました。愛する兄弟姉妹にも与えられました。救われる前の自分を考えると、自分のことしか考えていませんでした。人のために、他者のために祈るなんて考えられない、そういうものであった私が、気が付いてみると、「兄弟の手術が成功しますように」、「姉妹のお父さまの苦しみが少なくすみますように、平安がありますように」と、命がけで祈っている。これは、びっくりする考えられないことです。
これこそ、神様が私達に積んでくださった宝がしてくださっている。このような、どんなに私達が変えられたかという事実を見ています。

ここで大切なのは、宝を積んで頂くために、つながっていなければダメだ。イエス様から少しでも離れたら、あっというまに逆もどりです。夫婦がののしりあい、親子が憎みあい、兄弟姉妹が裁きあう。これもいっぱい経験しています。ほんとうに恥ずかしいです。あっというまに戻ってしまいます。
ということは、私達がイエス様につながっている限り、イエス様はいつも見守ってくださり、ぶどうの枝につながっている限り、剪定し大事な枝を残し、早く実がなるように手入れしてくださる。私達は1日も、一刻もイエス様から離れてはいられない。

ヨハネの福音書15:1-4
1わたしはまことのぶどうの木であり、わたしの父は農夫です。
2わたしの枝で実を結ばないものはみな、父がそれを取り除き、実を結ぶものはみな、もっと多く実を結ぶために、刈り込みをなさいます。
3あなたがたは、わたしがあなたがたに話したことばによって、もうきよいのです。
4わたしにとどまりなさい。わたしも、あなたがたの中にとどまります。枝がぶどうの木についていなければ、枝だけでは実を結ぶことができません。同様にあなたがたも、わたしにとどまっていなければ、実を結ぶことはできません。

私達がイエス様につながっていれば、あとはイエス様がすべて責任を持ってくださる。イエス様を信じてさえいれば、いつも私達の中に住んでくださり、中から私達を作り変えてくださる。

エペソ人への手紙3:17-19
17こうしてキリストが、あなたがたの信仰によって、あなたがたの心のうちに住んでいてくださいますように。また、愛に根ざし、愛に基礎を置いているあなたがたが、
18すべての聖徒とともに、その広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解する力を持つようになり、
19人知をはるかに越えたキリストの愛を知ることができますように。こうして、神ご自身の満ち満ちたさまにまで、あなたがたが満たされますように。

神ご自身の満ち満ちた姿にまで私達を変えてくださる。これがパウロの確信です。
主がわたしたちを作り変えてくださる。その第二の方法は「試練」です。ダビデも、試練なしに救われると良いんだけどと言っていますが、なかなかそうはいきません。試練なしに救われる人は、本当に少ない。ほとんどの人が試練に遭って救われています。

詩篇32:8-9
8わたしは、あなたがたに悟りを与え、行くべき道を教えよう。わたしはあなたがたに目を留めて、助言を与えよう。
9あなたがたは、悟りのない馬や騾馬のようであってはならない。それらは、くつわや手綱の馬具で押えなければ、あなたに近づかない。

馬やろばのように、たずなをぐいぐい引っ張っていかれないと、なかなか神様のほうに行けない、そういうものなのですね。私達も様々な試練によって、神様のほうを向かされたことを思います。
私も、6年間逃げまわっていましたが、ぎっくり腰になって、地べたに這いつくばされて救われました。逆に言えば、主はそこまでして救ってくださる。どうしてもこの人を救いたいと思えば、次から次へと試練をお与えになって、何が何でも救ってくださる。それが私達の主であることがわかります。

創世記32章のヤコブのペヌエルでの出来事も、そのことを語っています。ヤコブはどうしても産まれ故郷に帰りたいという思いが与えられて、家族と子供を連れて故郷に帰る。お兄さんが迎えてくれるかわからない。お兄さんが、400人を連れて出発した知らせが入る。それは好意なのか、自分を攻めるためなのか?
ヤコブは絶体絶命の夜、ヤボクの渡しで祈っていたとき取っ組み合いになる。その男はヤコブの腰のつがいを一撃する。「私を去らせよ。」の言葉で、神様を思う。そして、「助けてください。」と祈る。そのときヤコブに救いが来る。
絶体絶命のときに必死で主に祈った。順風満帆、得意満面のときにはなかなか主に巡り合えない。苦しみを通し、悲しみを通し、主に出会うことが多いことがわかります。

ペテロも、イエス様がつかまる時に、「どんなことがあってもイエス様に付き従う」と断言しました。イエス様がつかまった時、ペテロは「知らない。」「知らない。」「知らない。」と、三度言ってしまう。
最愛の先生を裏切ってしまった。もうペテロとしては絶望のどん底に落ちたと思います。そのことを通して、ペテロは初めて復活のイエス様にお会いする。
今まで3年間ずっと一緒に歩んでいても、本当の意味でイエス様に出会っていなかった。本当の意味でイエス様に出会ったのは、この試練の後で、復活のイエス様に出会った後なんですね。

私達も、試練がなくて主に巡り合えれば、こんな素晴らしいことはないのですが、なかなかそうはいかない。やはりムチ打たれ、くつわをグイグイ引っ張られ、神様の所に連れていかれる。それほどまでにして、私達を救ってくださろうとする。それこそが主のご愛です。
試練は、私達を救うためにだけ用いられるのではなくて、私達を鍛えるためにも用いられます。私達が救われたのは天国へ行くための終点ではない。ひとりでも多くの人に福音を伝えるための出発点である。
ですから、福音をひとりでも多くの人に伝えるため、私達は鍛えなおされなければならない。

コリント人への手紙第II、12:7-9
7また、その啓示があまりにもすばらしいからです。そのために私は、高ぶることのないようにと、肉体に一つのとげを与えられました。それは私が高ぶることのないように、私を打つための、サタンの使いです。
8このことについては、これを私から去らせてくださるようにと、三度も主に願いました。
9しかし、主は、「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現われるからである。」と言われたのです。ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。

パウロは、肉体にとげを与えられていました。重い目の病気であったとも言われています。
パウロの目の病気を治すくらい、イエス様にはいとも簡単です。しかし主は、ついにパウロの病気を治してくださらなかった。それはパウロにとって、いつもそのようなとげ、苦しみ、悲しみが与えられていることが、どうしても必要であると、主がお考えになったからです。
ついに取り除いてくださらなかった。もう、パウロの受けた試練は想像を絶する試練です。それだけに、いかに主がパウロを用いようとされていたか。信仰のすごい人には、すごい試練が与えられます。信仰の弱いうちは試練も弱いのでしょう。

コリント人への手紙第II、11:24-30
24ユダヤ人から三十九のむちを受けたことが五度、
25むちで打たれたことが三度、石で打たれたことが一度、難船したことが三度あり、一昼夜、海上を漂ったこともあります。
26幾度も旅をし、川の難、盗賊の難、同国民から受ける難、異邦人から受ける難、都市の難、荒野の難、海上の難、にせ兄弟の難に会い、
27労し苦しみ、たびたび眠られぬ夜を過ごし、飢え渇き、しばしば食べ物もなく、寒さに凍え、裸でいたこともありました。
28このような外から来ることのほかに、日々私に押しかかるすべての教会への心づかいがあります。
29だれかが弱くて、私が弱くない、ということがあるでしょうか。だれかがつまずいていて、私の心が激しく痛まないでおられましょうか。
30もしどうしても誇る必要があるなら、私は自分の弱さを誇ります。

このような想像を絶する試練の中で、大使徒パウロが産まれました。しかし私達に、

(テープ A面 → B面)

耐えることのできない試練は、決してお与えにならない。それは、主が与える試練は、私達を苦しめてやろう、懲らしめてやろう、悲しませてやろう...そういう目的で試練が与えられるのではないということです。
試練は、私達を愛してくださるから、私達を本当に主の器として用いたいと思っておられるからくださる試練であるから。試練は愛であるから。

エレミヤ書29:11
11わたしはあなたがたのために立てている計画をよく知っているからだ。――主の御告げ。――それはわざわいではなくて、平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。

ここで、はっきり主が「将来と希望を与える」計画であると、おっしゃっています。

コリント人への手紙第I、10:13
13あなたがたのあった試練はみな人の知らないようなものではありません。神は真実な方ですから、あなたがたを耐えることのできないような試練に会わせるようなことはなさいません。むしろ、耐えることのできるように、試練とともに、脱出の道も備えてくださいます。

もともとが愛のご計画ですから、主は耐えることのできない試練は決してお与えになりません。どんなつらい時でも、主は、その試練に耐えぬいた時、主は私達に脱出の道を与えてくださいます。

コリント人への手紙第II、4:8-10
8私たちは、四方八方から苦しめられますが、窮することはありません。途方にくれていますが、行きづまることはありません。
9迫害されていますが、見捨てられることはありません。倒されますが、滅びません。
10いつでもイエスの死をこの身に帯びていますが、それは、イエスのいのちが私たちの身において明らかに示されるためです。

私達は苦しみに出会いますが、もうどうにもならないということになってしまうことはありません。途方にくれますが行き詰まることはありません。しっかりと試練に立ち向かえば克服できる試練を、主は与えてくださいます。
パウロが最後に言ってるのは、パウロはもうイエス様のために死ぬ覚悟ができている。イエス様の命が私達を通して伝わるんだと確信している。パウロは、その通り殉教の死をとげました。そしてパウロの全生涯を通して、イエス様の命が伝えられました。

コリント人への手紙第II、4:16-17
16ですから、私たちは勇気を失いません。たとい私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています。
17今の時の軽い患難は、私たちのうちに働いて、測り知れない、重い永遠の栄光をもたらすからです。

これを書いているパウロは、もう牢につながれ、やせ衰えているのです。弱り果てて入る。でも心は、霊は、イエス様への愛で燃えていました。この試練の中にいるけれど、永遠の栄光に至るためのイエス様のプレゼントであると確信しているから、平安な日々を送ったことがわかります。
試練に関連して、一番恐いのはサタンです。私達が試練に遭っている時に、サタンは、猛攻撃をかけてくるのです。「どうして私には試練ばかりやってくるのだろう。」「ちっともなくならないじゃないか。」「キリスト者になったのに、どうしてそんなに次から次へと試練が来るの。」「その試練を取り除いてくださらないではないか。」「治ったように見えても、ちっとも治らないではないか。」「それは、神様なんていないんだよ。そんなものは、いないんだよ。たとえいても、あんたの所まで、手が周らないよ。忙しくて。」

これは私も聞いたのですが、世界的に有名な車椅子の物理学者ですけど、「宇宙を語る」のホーキング博士。「全宇宙に、地球のような星は何億とあるだろう。そこには人間のような生物の住んでいる可能性はかなり高い。地球だけ考えても、何十億の人間が住んでいる。神様がいたって、ひとりひとり。面倒見切れない。私の所までは周って来ない。」そう言っておられました。これはまさに、サタンの攻撃です。
「そんな神様なんていないよ。」「もうあきらめて、私と一緒に気楽にのんびり楽しく過ごそうよ。」そう言って、すぐ誘いをかけてきます。これこそがサタンの最大の攻撃です。
そのようなサタンの攻撃にへこたれてはいけない。サタンの攻撃にしっかり立ち向かいましょう。

ペテロの手紙第I、5:8-9
8身を慎み、目をさましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたけるししのように、食い尽くすべきものを捜し求めながら、歩き回っています。
9堅く信仰に立って、この悪魔に立ち向かいなさい。ご承知のように、世にあるあなたがたの兄弟である人々は同じ苦しみを通って来たのです。

今、私達が遭遇している試練は、みな信仰の先輩が体験したものばかりです。すべて、今体験している試練、苦難は、先輩クリスチャンが、とっくの昔に経験しました。愛する家族の死。重い病い。夫婦の不和、家族崩壊。そして、仕事上での挫折。
どれもこれも、私達の先輩がとっくに経験し、そして苦しみに耐えぬいて立ち直った試練です。神様が、そのような試練を与えてくださるのは、しばらくの試練の後で、私達を完全にし、堅く立たせ、強くし、不動のものにしてくださる試練である。へこたれないで、悪魔のささやきに負けないで、しっかり試練に立ち向かいなさいと、これが主のご命令であります。

ヤコブの手紙4:6-10
6しかし、神は、さらに豊かな恵みを与えてくださいます。ですから、こう言われています。「神は、高ぶる者を退け、へりくだる者に恵みをお授けになる。」
7ですから、神に従いなさい。そして、悪魔に立ち向かいなさい。そうすれば、悪魔はあなたがたから逃げ去ります。
8神に近づきなさい。そうすれば、神はあなたがたに近づいてくださいます。罪ある人たち。手を洗いきよめなさい。二心の人たち。心を清くしなさい。
9あなたがたは、苦しみなさい。悲しみなさい。泣きなさい。あなたがたの笑いを悲しみに、喜びを憂いに変えなさい。
10主の御前でへりくだりなさい。そうすれば、主があなたがたを高くしてくださいます。

今幸せな人、今喜んでいる人は、それは将来悲しみ、不幸になることもあります。しかし今苦しんでいる人、今悲しんでいる人、それは将来きっと喜んで感謝して過ごすことができる。今のうちに苦しんでおきなさい。今のうちに泣きなさい。その試練を乗り越えた時に、本当の勝利、本当の喜びが与えられます。本当の希望が、主から与えられます。
すばらしい主の約束です。最後にエペソ人への手紙4章をお読みします。

エペソ人への手紙4:11-13
11こうして、キリストご自身が、ある人を使徒、ある人を預言者、ある人を伝道者、ある人を牧師また教師として、お立てになったのです。
12それは、聖徒たちを整えて奉仕の働きをさせ、キリストのからだを建て上げるためであり、
13ついに、私たちがみな、信仰の一致と神の御子に関する知識の一致とに達し、完全におとなになって、キリストの満ち満ちた身たけにまで達するためです。

私達は主につながってさえいれば、主は土の器にひとつまたひとつと、今日も私達に宝を積んでくださっています。様々な試練をもって鍛えてくださる。
それは、私達を神様とそっくりの姿に作り変えてくださる。主とつながってさえいれば、後はイエス様がすべてしてくださる。古い自分は死んで、脱ぎ捨てて、新しいイエス様そっくりに、少しづつ少しづつ毎日のように私達を作り変えてくださる。

イエス様は、今日も、夜昼休むことなく、私達を作り変えてくださっている。生身の体を作り変えてくださるからたいへんです。
飽食ででっぱったお腹を削ぎ落とし、かたくなな堅い堅いうなじを柔らかくし、傲慢な高い鼻を低くしする。今日も、とんてんかん、とんてんかんと、作り変えてくださる。たいへんです。
時には痛みも、激痛もともないます。もうダメかと思うときもあります。どんな試練にも逃げることなく立ち向かい、主の特訓に耐えぬいた時、主は「よくやった」と抱きしめてくださる。
兄弟姉妹助け合い、励ましあい、走りつづけましょう。
どうも、ありがとうございました。




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