古い人新しい人


青柳兄

(吉祥寺福音集会、2007/01/28)

引用聖句:コリント人への手紙第II、4章8節-12節
8私たちは、四方八方から苦しめられますが、窮することはありません。途方にくれていますが、行きづまることはありません。
9迫害されていますが、見捨てられることはありません。倒されますが、滅びません。
10いつでもイエスの死をこの身に帯びていますが、それは、イエスのいのちが私たちの身において明らかに示されるためです。
11私たち生きている者は、イエスのために絶えず死に渡されていますが、それは、イエスのいのちが私たちの死ぬべき肉体において明らかに示されるためなのです。
12こうして、死は私たちのうちに働き、いのちはあなたがたのうちに働くのです。

パウロたち初代教会の時代、キリスト福音伝道は文字通り命がけの仕事でした。一方では既成勢力であるユダヤ教徒からの迫害。
パウロが上記の「コリント人への手紙」を書いた時点では既にステパノ、さらにはヨハネの兄弟で12使徒の一人であるヤコブも殉教の死を遂げていました。
他方皇帝ネロを筆頭にローマ官憲によるキリスト教徒迫害の手も執拗にのびはじめていました。

そのような中で福音を語るためには、自分の身を危険に曝すばかりではなく、志を同じくする兄弟姉妹にも累を及ぼす危険も覚悟する必要があったと思われます。
言ってみれば、彼らは常に死と直面しながら宣教の道を歩まなければなりませんでした。
時代と程度の差はありますが、敗戦前の日本でもこれに似た状況があったようです。

軍国政府による言論統制・信教の弾圧がきびしく行なわれました。
このため自分の節を曲げこの世と妥協する者がキリスト教徒たちの中でも多く出たようですが、しかしそのような中にあっても弾圧に屈することなく、絶えず主を見上げてイエス・キリストの福音を説き続けたキリスト者もあったことは事実です。矢内原忠雄などもその中の一人に数えられるのでしょう。
そのような困難のさなかにあってもなお福音を語り続ける理由を、パウロは続けて次のように言います。

コリント人への手紙第II、4:13-14
13「私は信じた。それゆえに語った。」と書いてあるとおり、それと同じ信仰の霊を持っている私たちも、信じているゆえに語るのです。
14それは、主イエスをよみがえらせた方が、私たちをもイエスとともによみがえらせ、あなたがたといっしょに御前に立たせてくださることを知っているからです。

その通り、パウロら初代教会の兄弟姉妹たちに福音を語り続ける勇気と力を与えたのは、復活の信仰、すなわちイエス・キリストのよみがえりの事実にほかなりません。

ヨハネの福音書16:32
32見なさい。あなたがたが散らされて、それぞれ自分の家に帰り、わたしをひとり残す時が来ます。いや、すでに来ています。

とイエス様が言われたように、ゲッセマネの園でイエス様が捕らえられたとき、蜘蛛の子を散らすように逃げ去った弟子たちでしたが、イエス様の復活を目の当たりにして彼らの信仰もよみがえりました。
そのイエス様の復活の様子をルカの福音書から見てみましょう。

ルカの福音書24:36-49
36これらのことを話している間に、イエスご自身が彼らの真中に立たれた。
37彼らは驚き恐れて、霊を見ているのだと思った。
38すると、イエスは言われた。「なぜ取り乱しているのですか。どうして心に疑いを起こすのですか。
39わたしの手やわたしの足を見なさい。まさしくわたしです。わたしにさわって、よく見なさい。霊ならこんな肉や骨はありません。わたしは持っています。」
41それでも、彼らは、うれしさのあまりまだ信じられず、不思議がっているので、イエスは、「ここに何か食べ物がありますか。」と言われた。
42それで、焼いた魚を一切れ差し上げると、
43イエスは、彼らの前で、それを取って召し上がった。
44さて、そこでイエスは言われた。「わたしがまだあなたがたといっしょにいたころ、あなたがたに話したことばはこうです。わたしについてモーセの律法と預言者と詩篇とに書いてあることは、必ず全部成就するということでした。」
45そこで、イエスは、聖書を悟らせるために彼らの心を開いて、
46こう言われた。「次のように書いてあります。キリストは苦しみを受け、三日目に死人の中からよみがえり、
47その名によって、罪の赦しを得させる悔い改めが、エルサレムから始まってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる。
48あなたがたは、これらのことの証人です。
49さあ、わたしは、わたしの父の約束してくださったものをあなたがたに送ります。あなたがたは、いと高き所から力を着せられるまでは、都にとどまっていなさい。」

イエス様がここで「わたしは、わたしの父の約束してくださったものをあなたがたに送ります。」と言っておられる「もの」とは、もちろん主の御霊、聖霊のことです。
弟子たちが聖霊を与えられる情景を聖書は次のように記しています。

使徒の働き2:1-4
1五旬節の日になって、みなが一つ所に集まっていた。
2すると突然、天から、激しい風が吹いてくるような響きが起こり、彼らのいた家全体に響き渡った。
3また、炎のような分かれた舌が現われて、ひとりひとりの上にとどまった。
4すると、みなが聖霊に満たされ、御霊が話させてくださるとおりに、他国のことばで話しだした。

この不思議な状況に驚きあきれている民衆に向かってペテロが次のように説明します。

使徒の働き2:22-24
22イスラエルの人たち。このことばを聞いてください。神はナザレ人イエスによって、あなたがたの間で力あるわざと、不思議なわざと、あかしの奇蹟を行なわれました。それらのことによって、神はあなたがたに、この方のあかしをされたのです。これは、あなたがた自身がご承知のことです。
23あなたがたは、神の定めた計画と神の予知とによって引き渡されたこの方を、不法な者の手によって十字架につけて殺しました。
24しかし神は、この方を死の苦しみから解き放って、よみがえらせました。この方が死につながれていることなど、ありえないからです。

使徒の働き2:32-33
32神はこのイエスをよみがえらせました。私たちはみな、そのことの証人です。
33ですから、神の右に上げられたイエスが、御父から約束された聖霊を受けて、今あなたがたが見聞きしているこの聖霊をお注ぎになったのです。

このことがあって後、弟子たちはどんな困難にも挫けることなく、勇敢に主の働きをいたしました。
そのことを可能にしたのは、彼ら自身の努力ではなく、彼らが戴いた御霊の力、主のよみがえりの力によるものでした。彼らに代わって御霊ご自身が働いてくださったからです。

ベック兄は、よみがえりの力を戴く前提として、人は自分に死ななければならないことを言われます。
たつまきに乗ってエリヤが天に上げられて、弟子エリシャが預言者として立つ前に、エリシャは死の川ヨルダン川を渡らなければなりませんでした。
それと同様に、私たちも主からのよみがえりの力を戴く前に死を、すなわち十字架の死をイエス様とともに経験する必要があります。

言い換えれば、私たちが本当にイエス様の弟子として主の働きができるためには、生まれながらの自分を捨てて新しく生まれ変わらなければならない。
すなわち私たちの「古い人」を脱ぎ捨て「新しい人」をこの身に着なければならないのです。
よみがえりの力を戴いたパウロは喜びと感謝の声を高らかに上げています。

ローマ人への手紙6:3-8
3キリスト・イエスにつくバプテスマを受けた私たちはみな、その死にあずかるバプテスマを受けたのではありませんか。
4私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られたのです。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中からよみがえられたように、私たちも、いのちにあって新しい歩みをするためです。
5もし私たちが、キリストにつぎ合わされて、キリストの死と同じようになっているのなら、必ずキリストの復活とも同じようになるからです。
6私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられたのは、罪のからだが滅びて、私たちがもはやこれからは罪の奴隷でなくなるためであることを、私たちは知っています。
7死んでしまった者は、罪から解放されているのです。
8もし私たちがキリストとともに死んだのであれば、キリストとともに生きることにもなる、と信じます。

ところで、ここで言う「イエス様とともに死ぬ」とはどういうことでしょうか。
イエス様が迫害のために死なれたように、同じ迫害の魔手は私たちをも襲って、私たちもいつ殺されるか知れない。そうであるから、お前たちはもう死んだつもりになって、まなじりを決してイエス様のために全力を尽くして頑張れ、ということでしょうか。
確かに、当時の初代教会の兄弟たちは迫害と蔑視の中で「死」と背中合わせにあって、常に「死」を意識せざるを得ない状況にあったことは事実です。それは現代の私たちにははかり知れない緊迫した日々の連続であったことは確かでしょう。

しかし聖書の中の彼らの生き方を見ると、そのような切迫した緊張感はなく、それはきわめて穏やかでゆとりがあって平安なものであったことが窺われます。追い詰められて必死になって抵抗しているような様子はまったく見えてきません。
「イエス様とともに死ぬ」ということは、そういうことではなくて、「自分」を捨ててイエス様に従うことではないでしょうか。自分の考え、自分の計画、自分の感情、自分の意思、自分の興味を捨てて、完全に主のみこころに、主のご計画にゆだねて歩むことです。
なにごとを行なうにも自分の力に頼って自分の努力ですることをしないで、御霊の力により頼むことです。働くのは自分ではなくて、御霊に働いていただくのです。

ガラテヤ人への手紙2:20-21
20私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が、この世に生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。
21私は神の恵みを無にはしません。

そうは言うものの、自分に死ぬこと、古い自分を脱ぎ捨てること、すなわち自分の自我を殺すということは容易なことではないこともまた事実です。
「私は神の恵みを無にはしません」と誓った当のパウロでさえ、そのことは簡単ではありませんでした。
キリストとともに十字架につけられ死んだはずのパウロですが、なお毎日が古い自分との戦いの連続で、その戦いに疲れた彼は絶望の嘆きを発しています。

ローマ人への手紙7:18-24
18私は、私のうち、すなわち、私の肉のうちに善が住んでいないのを知っています。私には善をしたいという願いがいつもあるのに、それを実行することがないからです。
19私は、自分でしたいと思う善を行なわないで、かえって、したくない悪を行なっています。
20もし私が自分でしたくないことをしているのであれば、それを行なっているのは、もはや私ではなくて、私のうちに住む罪です。
21そういうわけで、私は、善をしたいと願っているのですが、その私に悪が宿っているという原理を見いだすのです。
22すなわち、私は、内なる人としては、神の律法を喜んでいるのに、
23私のからだの中には異なった律法があって、それが私の心の律法に対して戦いをいどみ、私を、からだの中にある罪の律法のとりこにしているのを見いだすのです。
24私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか。

人はなかなか簡単には自分の自我を殺し、古い人を脱ぎ捨てることができないのです。死んだはずの古い人が、生まれ変わった新しい人に絶えず戦いを挑むのです。ですから人の心はこの葛藤でいつも揺すぶられます。
生まれつきのからだの中にある罪の性質・自我を殺すことが、人間は自分の力ではできないのです。
しかし「私は、ほんとうにみじめな人間です」と嘆いたパウロですが、次の瞬間彼は喜びと感謝の叫び声をあげています。

ローマ人への手紙7:25
25私たちの主イエス・キリストのゆえに、ただ神に感謝します。

と。いったいパウロに何が起こったのでしょうか。
イエス様は祭司長たちに捕らえられる前、ご自分の死と三日目のよみがえりについて、弟子たちに次のように言われました。

ルカの福音書9:23-24
23イエスは、みなの者に言われた。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。
24自分のいのちを救おうと思う者は、それを失い、わたしのために自分のいのちを失う者は、それを救うのです。

パウロはたちどころに知ったのではないでしょうか。

自分を捨て自分の十字架を背負うことは、自分を打ちたたいていくら頑張ってもそれは自分の力ではできないけれど、イエス様についていくためだったらそれはできる。
なぜならイエス様は無力な自分に、聖霊の力を与えてくださるからだ。聖霊の力によってイエス様は、私が背負わなければならない十字架をも軽くしてくださるからだ。
イエス様はそのために十字架の死につかれ三日目によみがえられたのだ。この主のよみがえりの力によって、自分には新しいイエス様のいのち、永遠いのちが与えられ、本来不可能なこともできるようになる。それは自分がするのではなく、主の御霊が自分に代わってなしてくださるのだ。
パウロはそのことに気が付いたのではないでしょうか。

イエス様とともに十字架に死んで生まれ変わった自分は永遠のいのちを持ち、自分の中に聖霊が住んでおられる。
壊れやすくて何の価値もない土の器に過ぎない自分であるが、そんな大切な宝物をいだいている。そして自分のうちに住んでおられる聖霊は、自分に代わって生きて働いてくださる。
だから私たちはどんなに苦しめられても窮することはなく、途方にくれても行きづまらず、迫害されても見捨てられず、倒されても滅びることはない、とパウロは言います。

コリント人への手紙第II、4:7-11
7私たちは、この宝を、土の器の中に入れているのです。それは、この測り知れない力が神のものであって、私たちから出たものでないことが明らかにされるためです。
8私たちは、四方八方から苦しめられますが、窮することはありません。途方にくれていますが、行きづまることはありません。
9迫害されていますが、見捨てられることはありません。倒されますが、滅びません。
10いつでもイエスの死をこの身に帯びていますが、それは、イエスのいのちが私たちの身において明らかに示されるためです。
11私たち生きている者は、イエスのために絶えず死に渡されていますが、それは、イエスのいのちが私たちの死ぬべき肉体において明らかに示されるためなのです。

私たち土の器は空っぽなって、そのままイエス様の御霊に明け渡すならば御霊が働いてくださる。
逆に、自分の力で何とかしようと頑張る限り、御霊が働かれる余地がなくなる。御霊により頼んで御霊の御力にゆだねるとき、生まれつきの肉の性質は弱められて、キリストと共に新しく生まれ変わった私の内なる人は日々新たにされる。
日々新たにされる自分は、この世でたといどんな患難に出会っても、勇気を失うことなく感謝に満ちあふれながら、永遠の天国をめざして歩み続けることができる。そのように確信したパウロは、続けて次のように言うことができました。

コリント人への手紙第II、4:15-18
15すべてのことはあなたがたのためであり、それは、恵みがますます多くの人々に及んで感謝が満ちあふれ、神の栄光が現われるようになるためです。
16ですから、私たちは勇気を失いません。たとい私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています。
17今の時の軽い患難は、私たちのうちに働いて、測り知れない、重い永遠の栄光をもたらすからです。
18私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。

冒頭に、初代教会の聖徒たちが厳しい迫害の中で、文字通り命がけの伝道を行なったこと、また時代と程度の差こそあれ、わが国でも戦時中軍国政府の弾圧のもと、自分の地位や生活を賭してでも福音伝道を続けたキリスト者があったことに触れました。
彼らの時代と違って、今われわれの置かれている環境はなんと平和なことでしょう。冷淡や無関心、時には多少の嫌がらせはあっても、イエス様の福音を伝えて命まで狙われる危険はありません。
それは良い環境と言えばその通りに違いありませんが、逆にその環境に甘えて、私たちのうちに切迫感や緊張感が欠けているといった面はないでしょうか。

いかなる時代でも悪魔の攻撃は止むことを知りません。私たちは一見平和な周りの環境に惑わされて、悪魔の攻撃に無防備・無警戒になっていることはないでしょうか。
悪魔は巧みに私たちの心のすき間をついて忍び込んで来ます。私たちは今こそ真剣に聖書のみことばに立ち返らなければなりません。
私たちはそのように今みことばに聞き従っているでしょうか。そしてイエス様の福音の喜びを一人でも多くの人と分かち合おうとしているのでしょうか。自分自身を省みて足らざることを思います。

しかしこのことも自分の力ではなく、内住の御霊の力により頼んで、自分自身は主の証し人に徹することが必要でしょう。

コリント人への手紙第II、3:17-18
17主は御霊です。そして、主の御霊のあるところには自由があります。
18私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。

ペテロの手紙第I、5:8-9
8身を慎み、目をさましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたけるししのように、食い尽くすべきものを捜し求めながら、歩き回っています。
9堅く信仰に立って、この悪魔に立ち向かいなさい。ご承知のように、世にあるあなたがたの兄弟である人々は同じ苦しみを通って来たのです。




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