引用聖句:コリント人への手紙第II、4章8節-12節
パウロたち初代教会の時代、キリスト福音伝道は文字通り命がけの仕事でした。一方では既成勢力であるユダヤ教徒からの迫害。 パウロが上記の「コリント人への手紙」を書いた時点では既にステパノ、さらにはヨハネの兄弟で12使徒の一人であるヤコブも殉教の死を遂げていました。 他方皇帝ネロを筆頭にローマ官憲によるキリスト教徒迫害の手も執拗にのびはじめていました。 そのような中で福音を語るためには、自分の身を危険に曝すばかりではなく、志を同じくする兄弟姉妹にも累を及ぼす危険も覚悟する必要があったと思われます。 言ってみれば、彼らは常に死と直面しながら宣教の道を歩まなければなりませんでした。 時代と程度の差はありますが、敗戦前の日本でもこれに似た状況があったようです。 軍国政府による言論統制・信教の弾圧がきびしく行なわれました。 このため自分の節を曲げこの世と妥協する者がキリスト教徒たちの中でも多く出たようですが、しかしそのような中にあっても弾圧に屈することなく、絶えず主を見上げてイエス・キリストの福音を説き続けたキリスト者もあったことは事実です。矢内原忠雄などもその中の一人に数えられるのでしょう。 そのような困難のさなかにあってもなお福音を語り続ける理由を、パウロは続けて次のように言います。 コリント人への手紙第II、4:13-14
その通り、パウロら初代教会の兄弟姉妹たちに福音を語り続ける勇気と力を与えたのは、復活の信仰、すなわちイエス・キリストのよみがえりの事実にほかなりません。 ヨハネの福音書16:32
とイエス様が言われたように、ゲッセマネの園でイエス様が捕らえられたとき、蜘蛛の子を散らすように逃げ去った弟子たちでしたが、イエス様の復活を目の当たりにして彼らの信仰もよみがえりました。 そのイエス様の復活の様子をルカの福音書から見てみましょう。 ルカの福音書24:36-49
イエス様がここで「わたしは、わたしの父の約束してくださったものをあなたがたに送ります。」と言っておられる「もの」とは、もちろん主の御霊、聖霊のことです。 弟子たちが聖霊を与えられる情景を聖書は次のように記しています。 使徒の働き2:1-4
この不思議な状況に驚きあきれている民衆に向かってペテロが次のように説明します。 使徒の働き2:22-24
使徒の働き2:32-33
このことがあって後、弟子たちはどんな困難にも挫けることなく、勇敢に主の働きをいたしました。 そのことを可能にしたのは、彼ら自身の努力ではなく、彼らが戴いた御霊の力、主のよみがえりの力によるものでした。彼らに代わって御霊ご自身が働いてくださったからです。 ベック兄は、よみがえりの力を戴く前提として、人は自分に死ななければならないことを言われます。 たつまきに乗ってエリヤが天に上げられて、弟子エリシャが預言者として立つ前に、エリシャは死の川ヨルダン川を渡らなければなりませんでした。 それと同様に、私たちも主からのよみがえりの力を戴く前に死を、すなわち十字架の死をイエス様とともに経験する必要があります。 言い換えれば、私たちが本当にイエス様の弟子として主の働きができるためには、生まれながらの自分を捨てて新しく生まれ変わらなければならない。 すなわち私たちの「古い人」を脱ぎ捨て「新しい人」をこの身に着なければならないのです。 よみがえりの力を戴いたパウロは喜びと感謝の声を高らかに上げています。 ローマ人への手紙6:3-8
ところで、ここで言う「イエス様とともに死ぬ」とはどういうことでしょうか。 イエス様が迫害のために死なれたように、同じ迫害の魔手は私たちをも襲って、私たちもいつ殺されるか知れない。そうであるから、お前たちはもう死んだつもりになって、まなじりを決してイエス様のために全力を尽くして頑張れ、ということでしょうか。 確かに、当時の初代教会の兄弟たちは迫害と蔑視の中で「死」と背中合わせにあって、常に「死」を意識せざるを得ない状況にあったことは事実です。それは現代の私たちにははかり知れない緊迫した日々の連続であったことは確かでしょう。 しかし聖書の中の彼らの生き方を見ると、そのような切迫した緊張感はなく、それはきわめて穏やかでゆとりがあって平安なものであったことが窺われます。追い詰められて必死になって抵抗しているような様子はまったく見えてきません。 「イエス様とともに死ぬ」ということは、そういうことではなくて、「自分」を捨ててイエス様に従うことではないでしょうか。自分の考え、自分の計画、自分の感情、自分の意思、自分の興味を捨てて、完全に主のみこころに、主のご計画にゆだねて歩むことです。 なにごとを行なうにも自分の力に頼って自分の努力ですることをしないで、御霊の力により頼むことです。働くのは自分ではなくて、御霊に働いていただくのです。 ガラテヤ人への手紙2:20-21
そうは言うものの、自分に死ぬこと、古い自分を脱ぎ捨てること、すなわち自分の自我を殺すということは容易なことではないこともまた事実です。 「私は神の恵みを無にはしません」と誓った当のパウロでさえ、そのことは簡単ではありませんでした。 キリストとともに十字架につけられ死んだはずのパウロですが、なお毎日が古い自分との戦いの連続で、その戦いに疲れた彼は絶望の嘆きを発しています。 ローマ人への手紙7:18-24
人はなかなか簡単には自分の自我を殺し、古い人を脱ぎ捨てることができないのです。死んだはずの古い人が、生まれ変わった新しい人に絶えず戦いを挑むのです。ですから人の心はこの葛藤でいつも揺すぶられます。 生まれつきのからだの中にある罪の性質・自我を殺すことが、人間は自分の力ではできないのです。 しかし「私は、ほんとうにみじめな人間です」と嘆いたパウロですが、次の瞬間彼は喜びと感謝の叫び声をあげています。 ローマ人への手紙7:25
と。いったいパウロに何が起こったのでしょうか。 イエス様は祭司長たちに捕らえられる前、ご自分の死と三日目のよみがえりについて、弟子たちに次のように言われました。 ルカの福音書9:23-24
パウロはたちどころに知ったのではないでしょうか。 自分を捨て自分の十字架を背負うことは、自分を打ちたたいていくら頑張ってもそれは自分の力ではできないけれど、イエス様についていくためだったらそれはできる。 なぜならイエス様は無力な自分に、聖霊の力を与えてくださるからだ。聖霊の力によってイエス様は、私が背負わなければならない十字架をも軽くしてくださるからだ。 イエス様はそのために十字架の死につかれ三日目によみがえられたのだ。この主のよみがえりの力によって、自分には新しいイエス様のいのち、永遠いのちが与えられ、本来不可能なこともできるようになる。それは自分がするのではなく、主の御霊が自分に代わってなしてくださるのだ。 パウロはそのことに気が付いたのではないでしょうか。 イエス様とともに十字架に死んで生まれ変わった自分は永遠のいのちを持ち、自分の中に聖霊が住んでおられる。 壊れやすくて何の価値もない土の器に過ぎない自分であるが、そんな大切な宝物をいだいている。そして自分のうちに住んでおられる聖霊は、自分に代わって生きて働いてくださる。 だから私たちはどんなに苦しめられても窮することはなく、途方にくれても行きづまらず、迫害されても見捨てられず、倒されても滅びることはない、とパウロは言います。 コリント人への手紙第II、4:7-11
私たち土の器は空っぽなって、そのままイエス様の御霊に明け渡すならば御霊が働いてくださる。 逆に、自分の力で何とかしようと頑張る限り、御霊が働かれる余地がなくなる。御霊により頼んで御霊の御力にゆだねるとき、生まれつきの肉の性質は弱められて、キリストと共に新しく生まれ変わった私の内なる人は日々新たにされる。 日々新たにされる自分は、この世でたといどんな患難に出会っても、勇気を失うことなく感謝に満ちあふれながら、永遠の天国をめざして歩み続けることができる。そのように確信したパウロは、続けて次のように言うことができました。 コリント人への手紙第II、4:15-18
冒頭に、初代教会の聖徒たちが厳しい迫害の中で、文字通り命がけの伝道を行なったこと、また時代と程度の差こそあれ、わが国でも戦時中軍国政府の弾圧のもと、自分の地位や生活を賭してでも福音伝道を続けたキリスト者があったことに触れました。 彼らの時代と違って、今われわれの置かれている環境はなんと平和なことでしょう。冷淡や無関心、時には多少の嫌がらせはあっても、イエス様の福音を伝えて命まで狙われる危険はありません。 それは良い環境と言えばその通りに違いありませんが、逆にその環境に甘えて、私たちのうちに切迫感や緊張感が欠けているといった面はないでしょうか。 いかなる時代でも悪魔の攻撃は止むことを知りません。私たちは一見平和な周りの環境に惑わされて、悪魔の攻撃に無防備・無警戒になっていることはないでしょうか。 悪魔は巧みに私たちの心のすき間をついて忍び込んで来ます。私たちは今こそ真剣に聖書のみことばに立ち返らなければなりません。 私たちはそのように今みことばに聞き従っているでしょうか。そしてイエス様の福音の喜びを一人でも多くの人と分かち合おうとしているのでしょうか。自分自身を省みて足らざることを思います。 しかしこのことも自分の力ではなく、内住の御霊の力により頼んで、自分自身は主の証し人に徹することが必要でしょう。 コリント人への手紙第II、3:17-18
ペテロの手紙第I、5:8-9
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