引用聖句:詩篇57篇1節-3節
ダビデは30歳でイスラエルの王となりますが、それに至るまでの道のりは決してたやすいものではありませんでした。先王サウルのねたみと恐れによりひどい迫害を受け、何年もの間ダビデは荒野での逃亡生活を余儀なくされます。 聖書は、王位をめぐるこの二人の対決に多くのページを割いていますが、サウルの軍勢に追われダビデが危機一髪脱出する場面などは、まるでサスペンス映画を見るように息詰まる緊張感をおぼえます。 そのような緊張感の連続の中で、これはまたなんとも言いようのないユーモラスなエピソードが語られます。 それはダビデ一行が潜んでいる荒野の洞窟の中に、サウルが独り入り込んできてそこで用を足すシーンです。 自分たちを迫害し討伐しようとするその張本人が、単独でしかも無防備に、いま手の届きそうなところに何も知らずにその場にいるのです。 好機到来とばかりに、普通なら憎っくき相手をここで仕留めて、まずはめでたしということになるところでしょうが、ここはそうはいきません。 サムエル記第I、24:1-4
願ってもないこのチャンスに部下たちは色めき立ち、当然のことながらダビデにこのように進言するのですが、しかしダビデのとった行動は予想外のものでした。 サムエル記第I、24:4
とあります。サウルはなにも気づきません。しかしダビデはサウルの上着のすそをこっそり切り取ったその行為についても心を痛めるのです。 それは、主に油を注がれて王とされた者に対して自らの手をくだすことは、主に逆らうことであるとの思いからでした。 サムエル記第I、24:5-7
ダビデはその思いの根拠を次のように言います。正義と不義のさばきは神のなさることであって、人は自ら手を下さなくとも神がそれを成し遂げられる。それはダビデの神様に対する絶対的信頼でした。 サムエル記第I、24:12、15〔ダビデがサウルに呼びかけるシーン〕
このように主君に対して直接報復することなど思いもよらないとするダビデですが、主君に対してだけでなく、彼は一般に「復讐」を自ら直接手がけること関して否定的でした。 この記事の直後に聖書では、ナバルとアビガイルという夫婦とダビデの挿話が語られます。 かつてダビデに恩義があるナバルという男は、カルメルで幅広く事業をして大変裕福でしたが、苦境にあるダビデとその一行に対して恩義に報いるどころか、頼ってきたダビデの部下たちを逆に辱めて帰します。 これに怒りを発したダビデが復讐に出かけようとする矢先に、ナバルの妻アビガエルの身を挺した機転と配慮により、その復讐を思いとどまります。そしてそのことを次のように喜び、主を賛美するのです。 サムエル記第I、25:32-34
それから十日ほどたって、主はナバルを打たれ彼は死にます。この話にはさらにおまけがあって、ダビデに復讐を留めさしたナバルの妻アビガイルは、その後ダビデの妻として迎え入れられダビデに次男キルアブを生みます。 ダビデは主を恐れる人でした。主を恐れるとは、主に信頼することであると、先般ある兄弟が箴言等を引いて学んでくださいました。 箴言14:26-27
このみことばの通り、ダビデは主を恐れ主に絶対信頼するものでした。従って世の悪に対しても、感情にまかせて自ら直接手をくだすことはせず、それを主のさばきに全面的にゆだねました。 そのようなダビデだからこそ次のように謳うことができたのでしょう。 詩篇37:1-9
パウロも次のように言います。 ローマ人への手紙12:17-21
ダビデもパウロも知っていたのではないでしょうか、人間の正義ほどあてにならないものはないことを・・・。 人はそれぞれに自分の正義を立てます。いつも自分を正当化するものです。ですから人間の正義は人の数だけあって、それらの正義は互いにぶっつかり合うのです。人間同士争いの原因はここにあります。 小は夫婦喧嘩から大は国と国との戦争、みな同じです。自分は正しいとして譲らないことから始まるのです。そして一旦始まったら、復讐が復讐を呼び、留まるところがありません。 ダビデもパウロもそんな人間の愚かしさをよく知っていたのでしょう。だから人間は神様の御翼の陰に避けて神様の御力により頼み、神様の絶対正義のさばきにゆだねるしかないことを自らも悟り、同時に私たちにもそのことを勧めてくれているのでしょう。 ダビデの部下にヨアブという男がいます。ヨアブはダビデ王の軍団長として、異邦人との戦いに数々の輝かしい戦績をあげ、ダビデ王朝の基盤を築き上げた最大の功労者のひとりでした。 しかし彼はダビデとは異なり、神様に頼るよりも自分の力で何事をもやり抜こうとするタイプの男でした。ですから敵に対しては、自力で相手を滅ぼすまで勇敢に立ち向かいました。 ことに自分の仇敵、すなわち恨みを持っている相手や自分の出世のためにならないと思われる相手などに対して、容赦することはありませんでした。 サウルの将軍であったアブネルとの争いにおいても、それは見られます。 サウルの死後その残党をまとめイスラエル軍を率いて、ユダの王ダビデに対抗したアブネルですが、ヨアブとその兄弟アビシャイおよびアサエル連合軍に敗れます。 逃走するアブネルを執拗に追った末弟アサエルをアブネルはやむを得ず殺害して自分の国に逃げ帰ります。 その後何年間も両者の戦いは続きますが、そのうちダビデはますます強くなり、一方サウルの家はますます弱くなります。 サウル王家を見限った将軍アブネルは、ダビデに講和を願い、以後ダビデの支配に服従することを誓うために、少数の部下のみを連れてダビデのもとにやって来ます。 ダビデはその申し出を受け入れアブネルをこころよく送り出しますが、このことを知ったヨアブは彼の後を追って不意をついてアブネルを殺します。 サムエル記第II、3:23-27
ヨアブは口ではダビデ王朝の安泰のためと忠臣面をしていますが、本音のところは、自分の弟アサエルの仇をとること、もう一つは、ダビデの軍団長という自分の地位を将来脅かすライバルの芽を絶つこと。 彼の心底にはこのような私怨と私利私欲が間違いなくあったことは容易に察せられます。 もう一つ同様な事件がありました。 ダビデが晩年に近づいた頃、自分の血を分けた息子、三男アブシャロムの謀反を受け骨肉の戦いとなります。このときアブシャロム側の軍団長としてヨアブに対したのがアマサでした。 結果はダビデ軍が勝利をおさめ争いは終結しますが、ダビデの息子アブシャロムに直接手をかけて殺害したヨアブは、ダビデの不興を買い失脚させられ、替わって敵軍の将であったアマサが軍団長に取り立てられます。 ヨアブはこのアマサをも自分の手で亡き者にしてしまいます。 サムエル記第II、20:8-10
殺されたアマサはヨアブの実の従姉妹の子で、いわば伯父・甥の間柄でした。しかしヨアブはそんなことには頓着なく、邪魔者は自分の目の前から容赦なく取り除きました。しかもヨアブはこの後、イスラエル全軍の長に復帰します。 ヨアブという男は、このように目的のためには手段を選ばず、何でも自分の力により頼んで決着をはかりました。彼はダビデとは異なり、神様のさばきにより頼むというところからは遠くはなれていました。 このようにダビデの意思に反して不遜とも思える態度と言動を貫いたヨアブを、ダビデは一体どのように処分したのでしょうか。 結局のところダビデはなにもしませんでした。その背景にはいろいろダビデにも政治的配慮があったのでしょう。しかしもっと基本的にはダビデという人は、自分の部下に対してでさえ、自分自身になされた悪を自分自身の手で報復することはなかったのです。 しかしダビデはそれらを忘れたり、見逃したりしたわけではありません。ずっと覚えていました。 それはダビデの後王位を継いだソロモンにしっかりと言い遺していることからもわかります。 列王記第I、2:1-4
ダビデの後継者として一番大切な心構えをこのように諭したあと、真っ先にそのことに触れています。 列王記第I、2:5-6
ヨアブは自分が滅ぼされるという強迫観念に怯え、やがて自ら墓穴を掘ってしまい、ソロモンの命によって討ち取られます。 繰り返しになりますが、ダビデは、自分自身になされた悪への報復は自らの手ですることではなく、もしそれが必要なら代わりに神が成し遂げてくださる、との信念を持っていました。 言ってみればこれは「神による代替、神の代行」(神の身代わり、神が代わって成してくださる)に対するダビデの確信でした。それはダビデの神様に対する絶対的信頼に由来するものでした。 最後にナタンという人について少し触れて終わりたいと思います。 ナタンは神のことばを伝える預言者としてダビデの側に仕えますが、彼はダビデ王朝の危機に際して二度までも重要な役回りを演じて、その危機から救います。 一度目はよく知られる「バテ・シェバ事件」のときでした。部下ヘテ人ウリヤの妻バテ・シェバに横恋慕したダビデは、彼女をわがものにするため、姦淫の罪を犯したばかりか、謀計をめぐらして夫ウリヤを異邦人との戦いで死なせ、殺人の罪をも犯します。 これを知ったナタンはダビデのところに駆けつけ彼を激しく譴責します。ナタンの必死の諌言により、ダビデははっとわれにかえり悔い改めに導かれます。 サムエル記第II、12:13
と。ダビデの心からの悔い改めを主はよしとされ、ダビデの罪を許されます。そればかりか神様は、その後ダビデの妻となったバテ・シェバに、やがてダビデの後継者となるソロモン王を誕生させられます。 もう一つの危機とは、ダビデのあとの王位継承をめぐる争いのときでした。 ダビデの長男アムノンは異母妹タマルのことで三男アブシャロムに殺害されます。そのアブシャロムも先に見たように、父ダビデに対する謀反により殺されます。 ナバルの妻であったアビガイルとの間に生まれた次男キルアブは早死にし、従って通常ならば王位継承権はその次に控える四男アドニヤに来るものと思われました。自他ともにそう考えたアドニヤは、早々に彼に味方するものを糾合して旗上げをします。 それに気づいた預言者ナタンは、これは王家の一大事とばかりに急遽バテ・シェバを動かして、ダビデのもとに走ります。そしてソロモンが次の王となることの言質をダビデから引き出します。 列王記第I、1:28-30
こうしてナタンの電光石火の早業によって危機一髪、後のソロモン王朝が守られることになったのですが、ナタンはどうして人の世の慣例や常識を破るような荒療治をここで行なったのでしょうか。 それはナタンの考えによったのではありません。神のご意思に沿ったまでのことでした。 先の事件のとき譴責するためにダビデのところに行ったのも、彼独自の判断によるというよりも主がナタンを遣わされた、と聖書は言っています。 今回のことも、ナタンがダビデのソロモンへの偏愛につけこんで無理押しをしたのではなく、ソロモンを王とすることはすでに神様が決めておられたのです。彼はその神の御心に従順に従ったに過ぎません。 歴代誌第I、22:7-9
歴代誌第I、28:5
神のご意思によりこうしてダビデからソロモンへと家系が引き継がれていき、それからおよそ970年後ついには、神の子イエス・キリストが人のかたちをとって、救世主としてこの世にこられたとき、肉の上ではこの血統が使われるという、この家系はまさに人の想像を超える栄誉を受けることになるのです(詳細はマタイの福音書第1章参照)。 イエス・キリストは、この世でのほぼ30年の生涯の後、人間が自分の力ではどのように努力してもぬぐいきれなかった罪をその一身に背負って、全人類の身代わりとして、十字架の上で贖罪の死を遂げてくださいました。 人間が自分の力ではできないことを、神様が人間に代わってそのことを成し遂げてくださったのです。神様はちっぽけな人間が果たすことのできる限界を先刻承知しておられます。 ですからそのような人間をあわれみの眼差しで絶えず見ておられる神様は、自分の無力さを知り、神様を恐れ神様に信頼する者に対しては、必要とあらば彼に代わってそのことを成し遂げて下さる――そのことを一番よく知っていたのはダビデだったのではないでしょうか。 ですから彼はいつでも「神による代替、神の代行」(神の身代わり、神が代わって成してくださる)を確信し、神様により頼んでその生涯を送ることができたのでしょう。 そして神様は、そのようなダビデだからこそ、神様にとっても最大の犠牲を払って、ひとり子イエス・キリストの受肉と贖罪というイベントを、このダビデの家系を用いて成し遂げられたのではないでしょうか。 神様のご計画はわれわれ人間には測り知れないものがあり、また神に信頼するものに対する神の愛の底知れぬ深さを、あらためて覚える次第です。 最後にみことばをお読みして終わります。 詩篇145:17-21
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