引用聖句:ヤコブの手紙5章17節-18節
イエス様は十字架にかかって死なれ、三日目によみがえって今も生きて働いておられます。 今も生きておられるイエス様は今年何歳でしょう?約2千年前の誕生だから今年200X歳でしょうか?答えはNO!です。 イエス様は世界創造の前からおられ、創造に当たられました。 コロサイ人への手紙1:15-17
創造の昔からおられた神の子イエス様が、何故人間として誕生されたのでしょうか?死ぬためでしょうか。 神は死ぬことができません。そのため、死ぬために人間になられたのです。 では、何故死ぬ必要があったのでしょうか?人間の罪を贖うためです。――これは創造の時からの神のご計画でした。神の「人間救済計画」は2段階から成り立っています。
本日は、エリヤを初めとするその預言者たちについて聖書から学びたいと思います。 エリヤといえば預言者、しかも預言者の代表といわれます。もちろんエリヤ以前のモーセやサムエルも預言者と呼ばれることがありますが、エリヤ以降の預言者とは少し性格が異なるようです。 時の施政者や権力者から独立して彼らから一定の距離を置いたところで、国のまつりごとや人々の信仰のあり方について神様のみことばを伝えるため、神に召され神に用いられた預言者たち。そしてエリヤは彼らの初めにして彼らの代表者と目されています。 彼らの使命は、偶像崇拝の蔓延した時代にあって、その昔モーセによって伝えられた神の律法に対する真の信仰をなんとか回復することでした。 そんなエリヤですが、いわゆる「エリヤ書」といったものを遺しておりません。彼の後に現われエリヤの路線を継いだイザヤやエレミヤは、それぞれ「イザヤ書」や「エレミヤ書」を遺していますが、エリヤにはそれがありません。 考えてみると国王や時の権力者に盾突き、彼らに追われて荒野や僻地に独り避難を余儀なくされたエリヤの生涯には、著作をものする時間などなかったのかも知れません。 しかし感謝なことに聖書の中の各所に彼に関する記述があり、私たちはそれらから彼の活動をみることができます。 それによると、彼のいた時代は凄まじく偶像崇拝の嵐が吹き荒れ、真の神様がないがしろにされていた時代であったことがわかります。 それは、ダビデ・ソロモンと続いたイスラエル統一王国が南北二つに分裂してから60年あまり、紀元前9世紀半ばの北王国でのこと、時の王様はアハブでした。 列王記第I、16:29-33
なぜこのように偶像崇拝が盛んになったのでしょうか。イスラエルの民は、彼らの先祖をエジプトから救出された神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神、すなわち創造主なる神のことを当然知っていました。 しかし苦難が去って平穏な日常生活が続くと、ついつい怠惰と堕落に陥りやすい人間のことです。モーセを通して与えられた神の律法――それらは守ることができるならまだしも、いくら努力しても自分の力で完全に守ることは人間には不可能。そんな厳しい戒律を与えられる、目に見えない神様よりも、現実に目で見、手で触れることができ、こちらが奉仕すればその分ご利益が返ってくるという、「give and take」の宗教の方が彼らには受け入れ易かったからなのでしょう。 そのような状況の中で、エリヤはアハブ王の前に敢然と立って神のことばを告げます。 列王記第I、17:1
王や民にとってこんな不都合なことを預言するエリヤを王の怒りから守るため、神様は彼をヨルダン川の東にあるケリテ川のほとりに避難させ、カラスに食物を毎日運ばせ彼を養われます。 しかし彼の預言通り天から一滴の雨も降らないため、やがてケリテ川の水も枯れます。そこで今度はシドンのツァレファテという所に彼を行かせ、ひとりのやもめに、「粉の尽きないかめと油のなくならないつぼ」の奇蹟をもって、彼は養われることになります。 それから3年目、 列王記第I、18:1
という神様のことばに従って再び王の前に出たエリヤは、偶像に仕える者、すなわち450人のバアルの預言者と400人のアシェラの預言者との対決を申し出ます。そして見事に勝利をおさめます。 列王記第I、18:36-39
エリヤとの対決に敗れたバアルの預言者たちは皆殺しにされますが、このことを知った王の妻イゼベルは怒り心頭に発します。そこでエリヤは再度身を隠さなければならなくなります。 彼は40日40夜苦難の旅を続け、ついに神の山ホレブに着きます。このホレブ山こそ、あのモーセに神がはじめて現われ「苦難のイスラエルの民をエジプトから連れ出せ」との啓示を与えられた山、シナイ山のことです。 また後にこの山頂でモーセが神様から十戒を与えられた場所でもあります。 「エリヤよ。ここで何をしているのか」という神様の「かすかな細い声」を聞いたエリヤは、幼児が母親に訴えるように自分の遭った苦労を神様に掻きくどきます。 列王記第I、19:14
絶望的ともいえる激しい訴えをするエリヤに対して神様はやさしく諭されます。 エリヤよ、神の働き人はお前ひとりではないよ。お前の後にもお前の遺志を継ぐ預言者たちをわたしは用意している。また 列王記第I、19:18
列王記第I、19:16
神様のこのことばの通り、やがてエリヤは後事を弟子エリシャに託し、彼自身はたつまきに乗って生きたまま天に上げられます。 列王記第II、2:9-11
列王記第II、2:15
エリヤとエリシャの時代からおよそ1世紀、紀元前8世紀後半北イスラエル王国はアッシリヤによって滅ぼされますが、それを南の隣国ユダから目撃した一人に預言者イザヤがおりました。 イザヤも主から召命を受け、エリヤやエリシャの路線を継承する預言者として50年もの間活躍します。しかし彼の度重なる警告にもかかわらず、偶像崇拝の悪弊はますます国中にはびこり、とどまるところを知りませんでした。 そして南王国ユダもやがて滅びへの道を歩むことになるのですが、しかし神様はイザヤを通して、滅びと共に彼らに救いへの道を啓示されるのです。それは救世主誕生の預言です。 イザヤ書9:2
イザヤ書9:6-7
さらにそのみどりごがやがて成長して、全人類の罪を贖うため、身代わりの死を遂げることを預言されます。 イザヤ書53:4-6
イザヤからさらに約1世紀後、紀元前7世紀後半から6世紀にかけて活躍したのがエレミヤでした。 彼は、彼自身の度々の忠告を無視された挙句、祖国ユダがバビロンに攻め取られ、エルサレムの陥落とバビロン捕囚という惨事を自ら体験した、悲しみの預言者でありました。 しかし同時に、神様はこのエレミヤを通して新しい希望の光の到来をも預言してくださいました。 それは神と人との間の新しい契約のことでした。 いくら努力しても神の律法を守りきることができない人間の無力を補うために、神様が新しい契約を人間に用意されていることを告げるものでした。 それはやがて来るべき救世主キリストによる新しい契約、すなわちイエス・キリストの福音の予告でした。 エレミヤ書31:31-34
救世主メシヤの来臨の預言と並行して次第に強まってきたのが、「エリヤ再来」の期待でした。それは、メシヤの到来に備えて、その道を整え、人々の心を偶像礼拝から真の神に立ち返らせるために、エリヤが再び現われるという期待でした。 エリヤは先に見たとおり、死を経験しないで生きたまま天に引き上げられましたから、それ以来「エリヤ再来」伝説は人々の間に語り継がれたようです。 それに加えて、メシヤ到来の前にその環境の総仕上げをするものは、最初の預言者にして預言者の代表エリヤに違いないとの期待が持たれていたからではないでしょうか。イザヤ書では次のように言っています。 イザヤ書40:3-5
マラキ書では次のように言います。 マラキ書3:1
マラキ書4:4-6
この「エリヤ再来」の預言はバプテスマのヨハネにおいて実現しました。 マタイの福音書3:1-4
列王記U、1:8
両者とも荒野で生活し、外見の類似点もさることながら、両者の使命の共通点が重要です。 ルカの福音書1:13-17
そしてついに救世主メシヤの誕生となります。 ルカの福音書2:6-14
このようにして地上にご降誕されたイエス様は、およそ30年のこの世の生涯の後、全人類の罪を贖うために十字架の死を、そして三日目の復活を成し遂げてくださいます。 それは神様がその遠大なご計画に基づいて、人間を滅びから救い出すために人間に与えられた福音でした。信じる者一人ひとりの罪を赦し、彼らに新しい永遠のいのちを与えるのです。 人間が主なる神様に背いた罪を償うため、神様がモーセを通して与えられた律法の定めに従って歩もうといくら努力しても、それは人間の力では不可能である。そんな無力な人間でも、ただ心からの悔い改めとイエス様を信じる信仰を自分のものとするだけで、人間は滅びから救われる――これがイエス様の十字架によって私たちに与えられた福音です。 そしてここまでの行程を繋いだ者、すなわち律法から福音までその橋渡しをしたのが、エリヤからバプテスマのヨハネに至る預言者だったのではないでしょうか。 最初にモーセに神様の律法が与えられ、民がその律法に従って真の信仰を守るように働いた預言者たち。しかし律法により翻弄される人間の弱さを前にして、やがて神様は預言者を通して、人間に代わって律法を成就する救世主の到来を告げられます。 民の迷いと苦しみが頂点に達したとき、イエス様のご降誕となりました。そしてイエス様の福音が全人類に明らかになったのです。イエス様はご自身について言われます。 マタイの福音書5:17-18
この結果,律法と預言者はそれぞれ使命を終えて舞台から降りました。そして福音がとって代わりました。 このことを象徴するような出来事が起こりました。聖書からその箇所を読んで終わりたいと思います。 マタイの福音書17:1-8
いま私たちはこの福音の時代に生きているのです。なんという感謝なことでしょう。 再臨が近づいた今、この福音を私たちの回りの一人でも多くの人に伝えることこそが、先に救われた私たちの使命であることを心に刻みたいと思います。 |