引用聖句:テモテへの手紙第II、1章9節-10節
日本人の多くは、神は人間のために存在する、人間の用に役立つために存在すると考えているようです。またもう一つ、神は人間が創るものだとも考えます。 ですから、自分たちの用に役立つと思えば、どんどん新しい神を創り、それを祀り上げますから、日本人はたくさんの神々を持つことになります。 志賀直哉に「小僧の神様」という短編小説があります。 ある商店で丁稚奉公をする小僧が、当時流行りだした屋台店の握り鮨を、自分もいっぺんだけ食べてみたいとの思いが募り、ある日勇気をふるって屋台の暖簾をくぐりますが、一握りの鮨の値段が懐中にある自分の小遣い銭では足りないことを知ります。 すごすごと引き返す小僧を見ていたさる紳士が、別の日偶然小僧に出会い鮨屋で食べ放題にご馳走をして、名も告げずに姿を消します。あとで小僧はその紳士を、あれは神様だったのだと思い込むようになります。このようにして神は誕生するのです。 たとえてみれば、日本の神様は救急箱の中にあるいろいろな薬のようなものです。 これは腹痛の薬、これは熱さまし、これは頭痛薬と、それぞれの用途に使い分けるように、家内安全、商売繁盛、交通事故厄けなどと目的に応じて備えておき、さらに必要なら新しい神々を創造するのです。 しかし聖書の神はこれとは正反対に違います。神は人間のために存在するのではなくて、人間が神のためにある。また、神が人間を造るのであって、その逆ではない。さらに、神は唯一であり、創造主なる神のほかには神はいないと聖書は言います。 創造者なる神は被造物たる人間を絶対的に支配する権利を持ちます。したがって救急箱の中の薬のように人間の望む用途にではなく、ことは神が望まれるように、その望みどおりに実現されます。 その様子を聖書は陶器師と粘土にたとえて説明します。 エレミヤ書18:1-6
陶器師が粘土を気に入った器に作るように、神様は人間を取り扱われます。 アブラハムの子イサクに生まれた、双子の兄弟エサウとヤコブにもその典型例を見ることができます。 二人がまだ生まれてもおらず母リベカの胎内にいるとき、神様はすでに二人の運命を決めておられました。「兄エサウは弟ヤコブに仕える」と神様はリベカに告げられたのです。 創世記25:23-26
この預言はやがて現実のものとなりました。ヤコブは紆余曲折の末、イスラエル民族、イスラエル12部族の祖となるべく神様の祝福を受けますが、他方エサウの方は、弟ヤコブに長子の権利を奪われてしまい、後々までもイスラエルに敵対して神の怒りを受けるものとなります。 創世記35:9-12
他方エサウに与えられた運命は過酷なものでした。 マラキ書1:2-4
ヤコブとその子孫は神に選ばれた民としてその後も栄え続けます。他方エサウとその子孫はイスラエルに敵対し続けます。 しかし皮肉なことにイスラエルに敵対する度に、彼らは逆にイスラエルの栄光に寄与するという役回りを演じてしまい、やがて歴史から完全に消えてしまいます。 なぜ両者はこのように異なる道を歩むことになったのでしょうか。それは神がそのように決められたからです。陶器師が粘土を思い通りの器に作るように、神様は人間の歩む道をどのようにもお決めになることができます。 このことについてパウロは次のように言っています。 ローマ人への手紙9:10-13
ローマ人への手紙9:15-16
「そんなことって不公平じゃないか」と私たちはついつぶやいてしまいがちですが、パウロはそんな私たちを次のように一蹴します。 ローマ人への手紙9:20-21
こう言われると私たちは一言もなく、ただ「恐れ入りました」と引き下がらざるをえません。 私の友人たちの中に次のようなことを言う者がおります。 「キリスト教では『予定説』とかいうのがあって、キリストの信者になるかならないかが、あらかじめ決まっているそうじゃないか。君なんかは選ばれて信者になれたんだから羨ましいよ。俺たちはそんな選びからは洩れているようだから、キリストの救いには与れないだろう。仕方がないから俺たちは俺たちで地獄へ行って仲間同士でまあ楽しくやるよ。」 そのようにやや自嘲気味に彼らは言うのですが、この意見は少なくとも二つの点で間違っていると思います。 一つは、イエス・キリストの救いは全人類のために用意されたのであって、一部の選ばれた人たちだけのものではないということです。 「そんなことはない、聖書にそう書いてあるじゃないか」、そう言って、かつて聖書も読んだことのある友は、たとえば「エペソ人への手紙」を指し示します。 エペソ人への手紙1:4-5
「だろう?だから君たち信者は、あらかじめ愛をもって神が選んで定めておられたと書いてあるじゃないか」、彼はそう言うのですが、しかしこの聖句の「私たち」の後に「人間」を入れて読んでみてはいかがでしょうか。 「私たち」を何も信者に限定して受け取ることはありません。創造主なる神はその被造物の一つである人間を選ばれ、人間にだけ自由意思を与えられますが、人間がその自由意思を用いて、いずれご自分に背くことになることをあらかじめご存知でした。 神に背いた罪のために滅びに向かう人間をあわれんで、神様はそのひとり子イエス・キリストによる人間の救いを、あらかじめ定めておられたのです。 神様は人間一人ひとりに神様の目的に従って、それぞれに使命、言い換えれば天職を与えられます。 神様は、時にはご自身の義、すなわち正しさをあらわすために人間をお用いになります。これが「怒りの器」です。 また神様はご自身の恵みをあらわすために人間をお用いになります。これが「あわれみの器」です。神様のこのようなご計画を「神の予定」とも言います。 しかし神様の予定は、「救い」とは関係ありません。「救い」は全人類のために提供されており、イエス・キリストの十字架の死による贖罪は、全人類のためになされたみわざなのです。 ただこれを自分のものとして受け取るかどうかは、人間一人ひとりの自由意思ひとつにかかっています。 繰り返すと、救いとは、イエス・キリストによって全人類のために成し遂げられたものであって、信じる者には例外なく値無しに与えられるのです。 ローマ人への手紙3:22-24
テモテへの手紙第I、2:4
ペテロの手紙第II、3:9
もう一つの間違いとは、「救われない者は救われない者同士地獄でまあ楽しくやるよ」という点です。これは地獄というものを完全に誤解しています。 まず地獄とは文字通りの意味で決して「楽し」いところではない筈です。 聖書では、イエスの救いを受けなかった人が死後行き着く世界のことを、「地獄」あるいは「ゲヘナ」という言葉で言い表していますが、一つにはそれは「暗やみ」の世界であると言っています。 ペテロの手紙第II、2:4
また別の箇所では「火と硫黄の池」とも言います。 ヨハネの黙示録20:10
ヨハネの黙示録20:14-15
救われていない者 ヨハネの黙示録20:15
ここで聖書が「暗やみの穴」と言っているのは、「孤独」のことではないでしょうか。また同様に「火と硫黄の池」は「苦痛」の比喩的表現だと思われます。 誰とも接触を絶たれて、まったくの独りぼっちの孤独の中に永遠に住まう――人間にとってこれほどの苦しみはないのではないでしょうか。 人間というものは、完全な孤独の中に置かれるくらいなら、たとい相手が鬼や悪魔であってもコンタクトしたい、せずにおられない生き物ではないでしょうか。 死後は「永遠の孤独の世界」、とてもとても「仲間同士で楽しくやる」ところではなさそうです。 ついでにもう一つ敷衍すれば、「この世の死はすべての終わり、天国も地獄もない。死後一切は無に帰す」という考え方があります。 人間の死は、肉体とともにその霊魂もすべて無に帰る、すなわち消滅してしまうという考えです。そうなると知覚も感覚も当然無くなるわけですから、もはや喜びも感じないかわりに苦しみ悲しみもないことになります。 ということは、この世で良いことをした者も悪いことをした者も、神への罪を悔い改めた者もそうでない者も、死ねば無となってすべて帳消し、すべてが無に解消されるということです。 なんという都合のよいイージーな考え方でしょう。 私たち人間を造られた唯一の神様は、そのような不公平や不公正を見過ごしにされるような方では決してありません。 最後に、「怒りの器」と「あわれみの器」についてもう少し考えてみたいと思います。 神様は、人間に対するご自分の豊かな恵みをあらわすために「あわれみの器」を用いられますが、他方神様が「怒りの器」を必要とされるのは、神様ご自身の正しさ、すなわち義をあらわされるときに限ります。 神様がご自分の義をあらわさねばならぬときとはどんなときでしょう。それは人間が神を恐れず、神様の命令に従わないときではないでしょうか。 人間が神様のみこころに背いて自分勝手な生活をしているとき、神様は怒りをもって人間にその非を悟らせなければなりません。 しかし人間がそれを悔い改めて、これからは神様のみこころに沿う生活に切り替えることを決心して、自分を清めるならば、神様はもはや「怒りの器」としてその人を用いる必要はありません。それどころか、神様はその「怒りの器」を、今度は「あわれみの器」として用い直してくださるのです。 人間はみな「怒りの器」として生まれつきました。その生まれつきの「怒りの器」が悔い改めて神様の御前に出てくることを、神様は忍耐深く待っておられると聖書は言っています。 ローマ人への手紙9:22-23
テモテへの手紙第II、2:21
不義 テモテへの手紙第II、2:21
私たちはそのように主に用いられる器とされなければなりません。 冒頭に、日本人の神観(神に対する見方)についてちょっと触れました。 神と人間との関係において、どちらが支配者なのか。人間が神を支配するのか、神が人間を支配するのか。このことは誰が考えても自明であると思われるのに、日本人の多くは大して疑問を持たずに、あちこちの神に手を合わせて、お賽銭と引き換えにご利益(りやく)を要求するのです。 これはいったいどうしたことでしょうか。それは日本人の持つ性癖にあるのではないでしょうか。 一つには、日本人の過去の慣行に対するこだわりです。日本人は今までにずっとやってきた仕来たりを、過去からずっと行われてきたというただそれだけの理由で、それを正しいとする傾向があります。 自分の考えはともかくとして、仏壇や先祖の位牌あるいは宗教的伝統など、家に代々伝わってきたからというだけでこれまで通り踏襲します。 もう一つは、「それは誰でもやっていることだから」という大勢順応です。自分ひとり「群れ」から離れることに抵抗感を持ちます。 これは正しいから遵守する、これは正しくないから廃止するという、合理的選択を一人ひとりが行いません。自ら独自の判断で実行することに躊躇し、過去の先例はどうか、それと世間がどう見るかという点に気を遣います。 これは一面、社会の調和を保つことには有益かも知れませんが、反面善悪の感覚を鈍くさせることにもつながりかねません。「これまでもやってきたことだから」とか「誰でもやっていることだから」という自己弁護と、今世間を騒がしている業界の談合事件や、お役所の汚職や裏金作りといったものとの関連はないのでしょうか。 自分の思惑や都合のよい便益的な神々ではなく、正義と不義を峻別し、恵みと義によって導かれる創造主なる唯一の神に立ち返って、その絶対的支配のもとに私たち自身を置くことこそが、真の意味での調和と幸福への道ではないのでしょうか。 まだ救われていない方々の一人ひとりが悔い改めて、自らの自由意思でまことの神に立ち返ることを、その結果、生まれつきの「怒りの器」から「あわれみの器」に作り変えられることを、先にみ救いに与った私たちは祈りたいと思います。 同時に私たち自身がその目的のために、主ご自身が私たちの中で存分に働いてくださる通りよき管とならなければなりません。そのために私たちは、自分自身が空っぽの壊れやすい土の器に過ぎないことを、しかしながら同時に、その中にキリストの福音という大切な主の宝を抱く器であることを、常に自覚しながら歩みたいと思います。 コリント人への手紙第II、4:6-7
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