引用聖句:ローマ人への手紙1章14節-17節
「神の存在が信じられない」という人がいます。 この人たちの考えによると、この世界の支配者は人間であり、人間こそ万物の長として、地球上の自然やそこに生きる動植物などすべてを、人間生活の目的に応じて好むままに利用・活用できる最高の存在である、ということになります。 また人間は他の生物には見られない優れた能力を持っており、人間の生み出す自然科学は、いまや地球の外の探索にまで乗り出し着々とその成果を拡げている。しかしこれまで探索の結果では、いまだ人間を超える能力を持つ存在は発見されていない。 この人たちの考えのもう一つの特徴は、彼らは自分の目で見、自分が感知できるもの以外は事実と認めない傾向があります。 ですから「いのち」についても、人間のいのちは肉体と共にあり、肉体を離れては存続し得ない。従って人間のいのちは肉体の死をもって終わりとなり、「来世」の存在を彼らは信じません。 しかし私たちの信じる神のみことばである聖書は、そのような考え方は間違っていると断言しています。神様は創造の昔から人間にご自身を啓示されているのであり、それを認めることができない人には、弁解の余地はないとまでおっしゃっています。 ローマ人への手紙1:18-20
神様の存在、すなわち神様の目に見えない性質や神様の全知全能の永遠の力は被造物によって知られる、とあります。これはどういうことでしょうか。 この宇宙世界そしてそこにある万物を創造されたのは、ただ一人の方、唯一の神である。従って神以外の存在はすべて神によって造られたもの、被造物である。 そして神はその偉大な力をもって被造物すべてを支配しておられ、その被造物一つひとつを通して神の英知を知ることができる、ということではないでしょうか。 たとえば太陽や星の運行を見ると、永遠無限ともいうべき時間と空間を通して、無数の星々が寸分の狂いもなく、整斉とそれぞれの周期と軌道をまもり続けているその驚くべき規則性。 あるいは自然界の明日は枯れゆく草木や花々をも美しく装う、その行き届いた配慮。また人間の身体となると、超ミクロの遺伝子DNA一つひとつにまで異なる機能を持たせて人体を構成する、その不可思議なまでの仕組みと信じ難い精巧さ。 このような精巧な世界と精緻な仕組みは、人間の思考力や技術をはるかに超えており、それは人知を超越した何者かによる設計と運営が前提になければ説明がつきません。従ってこのように自然現象の高度な仕組みと被造物それぞれの存在自体が、まさに神の存在を明らかに証明しているといえます。 人間にはもう一つ、人間にしかないものを持っています。それは善いことと悪いこととを判別する心、すなわち善悪の観念があり、悪いことをしてはいけないという良心を持っています。 人間は悪いことをした場合、してはいけないことをしてしまった自分に対して、良心に呵責を覚えるのが普通です。人間は常に正しいことだけできずに、間違いばかり犯しやすいものでありますが、それを戒める正しい基準ないし尺度が人間の心の中にあります。 言い換えれば人間は絶対的に正なるものを、生まれつき心の中に認識しているのです。 絶対的に正なるもの、それは神です。ですから人間は自分の良心を通して神様を知っているのです。 人間は神様の言いつけ、すなわち律法を守るときは心に平安があり、それを守らないときは良心の呵責を覚えます。 ローマ人への手紙2:14-15
神様の存在をこのように生まれつき知っているにもかかわらず、一部の人間は愚かにも、神様の代わりに「目に見える」被造物を礼拝するようになりました。 太陽や月、自然界の山や岩、草木や動物、果ては人間自身をも神として拝みます。 そのために人間の世界には、真の唯一の神様とは別に、多くの神々が現われることになりますが、それは人間が欲望に惑わされた結果、その無知な心が暗くなったからだと聖書は言います。 ローマ人への手紙1:21-25
日本の古歌に次のようなのがあります。 「なにもののおわしますかは知らねどもそのかたじけなさに涙こぼれる」――そのように、一見森厳(しんげん)かつ神秘的な雰囲気の中に入ると、なにやら有難くなって、どの神々にも手を合わせる人たちは、なにやらとても信心深いように見られるのですが、自分が拝んでいる対象がいったい何であるのか、それを知らずにいるのですから、「鰯の頭も信心から」と評されても仕方ないでしょう。 アテネの町もそのような偶像の神々で溢れていたようです。中には「知られない神に」と刻まれた祭壇もありました。パウロはそれを皮肉にも逆手にとって、本当の神様について人々に語ります。 使徒の働き17:16
使徒の働き17:22-23
このような切り出しからパウロは真の神様について語ります。 使徒の働き17:24-31
パウロの言うことを少し敷衍すると次のようになります。 創造者なる唯一の神は完全で正しいお方である。換言すれば神の本質は完全にして義である。その神が、ご自身に似たものとして神のかたちに人間を造られました。 創世記1:26-27
ここで「神のかたち」という「かたち」とは目に見える姿のことではありません。神様は目に見えない存在ですから、もちろん外面的な姿かたちをお持ちになりません。 神様が人間をご自身のかたちに創造されたということは、神の本質である義(絶対的正しさ)を守ることを望まれ、その能力を人間に与えられたことを意味します。 その目的は、神様が人間との交わりを望まれたからであります。 しかし人間は自分の欲望に負けて神様に背きの罪を犯してしまい、神様の正しさを守る能力、すなわち「神の義」を失ってしまいました。 そのため人間は神様の御前に出ることができなくなりましたが、神様はそれでも本来の「神と人間との交わり」の回復を求めておられます。 人間自身の力ではいくら努力しても手にすることができない「神の義」ですが、それをご存知である神様はついに、「神の義」を福音の中に現わされました。 今から約2千年前、神様はひとり子イエス・キリストをこの世に遣わされ、イエスの十字架の死をもって、人間の罪に対する罰を、人間の代わりに御子イエスに負わせることによって、人間の罪を赦されました。 それは、神様がご自身の義にもとることなく、不義な人間を再び義と認めるためにとられた、イエス・キリストの贖罪という、人間に与えられた大きな恵みでした。これがイエス・キリストの福音です。 その結果、この事実を知りその福音を信じる者に対して、神様は「神の義」を再び人間に与えられたのです。そればかりではなく、十字架の死から三日目にイエス・キリストをよみがえらせ、それを信じる者に「永遠のいのち」を与え、人間の肉体の死後も、神の国すなわち天国で、神と人間との交わりを回復されたのです。パウロは言います。 コリント人への手紙第II、5:21
ローマ人への手紙3:21-24
このようにイエス・キリストの福音を信じる者に対しては、何の差別もなく、価なしに「神の義」が与えられるのです。そこで次のような疑問がわいてきます。 福音を知り、それを信じた人はそれでよいとして、生涯その福音を知ることなくこの世を去っていった人たちは一体どうなるのか、ということです。 彼らは一生涯を通してキリストの福音に触れる機会がなかったため、死後はみな永遠の滅びの世界すなわち地獄に陥っているのか、という疑問です。その疑問にはイエス様ご自身が語られた、次のエピソードが答えてくれるのではないでしょうか。パリサイ人と取税人の話です。 ルカの福音書18:10-14
この取税人は、もちろんキリストの福音は知りませんでした。しかし自分が罪人であることは十分自覚し、しかもその罪が自分の力ではどうしても拭いきれない自分の無力さを知っており、そのことを神に告白しあわれみを心から乞いました。 神様はそれをよしとして彼を義と認められた、言い換えれば彼に「神の義」を与えられたのです。 私の亡くなった母親なども含めて、昔の人がよく口にしたことばを子ども心に覚えています。それは「お天道様はすべてお見通し」、「そんなことをしたらお天道様に顔向けができない」ということばでした。 「お天道様」とは一義的にはお日様、太陽のことですが、彼ら彼女らがこの「お天道様」を思い浮かべるとき、それは単に太陽そのものだけではなく、その背後に控えておられる方、すなわち天地をすべてつかさどり支配しておられる方の存在を、心の中に素朴に意識していたのではないかと、このごろになってそのように思われてなりません。 母親はイエス様の福音を知らぬままに逝きました。しかし彼女らは「お天道様」という絶対的に正しい基準を心に持っていました。そしてそれに引き比べて自分がいかにわがままで、それでいて無力で、どんなにみじめな者であるかということを、無意識の内に知っていたのではないでしょうか。 イエス様はそんな人のためにも、彼ら彼女らの知らないところで、十字架にかかって死んでくださいました。ですからたといイエス・キリストの福音を聞いたことのない人でも、自分の罪を認め、悔い改め、それでもなお罪を犯し続ける自分をどうか赦してくださいと心から叫ぶとき、イエス様の十字架の贖罪はその人のものともなるのではないでしょうか。 但しここには一つ違いがあります。イエス様の福音を知らない人は、自分の罪が赦された事実を知らないままなのではないでしょうか。さきほどの取税人も、自分が義と認められたことを知らないまま家に帰ったのではないでしょうか。 これに反しイエス様の十字架の死と復活という福音を知っている人には、罪赦された確信が与えられ、従って心に限りない平安と喜びそして感謝が湧いてきます。 そればかりではなく、「永遠のいのち」という希望を持つこともできます。これを持つか持たないかは、大きな違いです。 同じく救われた者同士といえども、その救いを知らずになお自分自身を責め続けている人に対して、救いの確信を持ち、喜びと感謝に溢れた平安な心で、日々希望に満ちて主イエス様とともに歩むことのできる人のしあわせはどんなに大きいことでしょうか。 福音を知ることの大切さはここにあります。 私たち福音を先に知って救われた者の使命は、この福音をまだ知らない人に伝えることです。それがどんなに大切なことであるか、パウロは次のように言っています。 ローマ人への手紙10:13-15
福音 ローマ人への手紙10:15-17
そのようにして福音を聞いた人は、みことばを素直に受け入れ、心に信じてそのことを口で神様に告白すれば、だれでも救われ、その人には永遠の平安が与えられる、と聖書は言っています。その箇所を読んで終わりたいと思います。 ローマ人への手紙10:8-13
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