引用聖句:詩篇127篇編3節-5節
今、日本は世界で最も無作法な若者を抱えている、とされています。 また、倫理観や社会意識の極端に希薄な少年少女を抱えている国である、といわれています。 たとえば、毎日の通勤通学風景を思い起こしてください。満員電車で脚を広げて二人分の座席を占領し、ヘッドホーンから騒音をまきちらして平気な青年。円陣を組んで大声でバカ笑いする女子学生。あるいは所構わず床にしゃがみこんで、飲み食いする少年少女たち...。 日頃われわれがよく目にし、かつ目に余る光景です。 しかし少しよく観察すると、彼ら彼女らから、他人を困らせてやろうとか迷惑をかけてやろうという、意識的な悪意は感じとれないことが普通です。問題は、他人に迷惑をかけているという意識が、彼らに欠けていることです。 さらにいうならば、彼らは、自分あるいは自分たちだけの世界に溺れ込んでしまっていて、他人がそこにいることすら忘れてしまっているようです。すなわち、彼らの目には自分しか見えず、他人の存在が見えていないようであります。 当然の結果として、そこには他人のことをおもんばかる気持ち、言いかえれば他人への思いやりというものが、発生する余地はありません。 したがって彼らは、自分の世界に他人を受け容れることが苦手なようです。 他人が自分の世界に入り込んできて、その他人との接触を余儀なくされると、それがスムーズにはこなせず、そこから逃げ出すか、あるいは攻撃的に暴力をふるうしか対処の方法がわからない、というケースが多いのではないでしょうか。 最近、学校にいかないいわゆる「不登校小.中学生」に関する報道がありました。それによると、不登校小.中学生の数は、全国で十二万八千人あり、これは、前年と比較すると20%以上の増加であり、とくに中学生では、なんと四十三人に一人が学校に行っていないようです。 大体一クラスに一人の割合です。 また一方では、何かあるとすぐに「ムカツキ」そして「キレ」てしまって、暴力をふるう少年少女たちの報道のなんと多いことでしょうか。 これらはきわめて憂虞すべき事態ですが、このようなことは一体どのようにして起こってきたのでしょうか。 もちろんその原因はいろいろ多岐にわたり、またそのいくつかが複合してよってきたものでありましょう。その辺の詳しい分析は、専門家の手にゆだねるとしても、一素人として、また一人の親として、その聖書のみことばを信じる者して、あえて誤解を恐れず断言させて頂くならば、この原因は彼ら彼女らの幼児の教育にあり、その責任は親にある、ということであります。 この世には、自分と異なる他人の存在があり、この世は一人で生きていくことはことはできない。従ってこの世で生きていくためには、自分と異なる存在の他人との間に、正しい関係、すなわち正しい人間関係を持つ必要がある。 その他人と正しい人間関係を持つためには、守らなければならない最低限のルールがある。 このことを人は幼時に学ばなければならないし、それを教えれる責任は親にある、ということです。 ところで、ここで幼時というのは、普通二歳ぐらいから四、五歳ぐらいまでの期間で、この時期、子供は良きにつけ悪しきにつけ、保護者の影響を非常に受けやすいものです。 この時期に持った習慣や考え方は、かなり永久的なものになります。この時期のチャンスを逃すと、敏感な感受性はなくなって、もう戻ることはありません。 この時期における子供の教育の良し悪しが、十年後の彼または彼女を決定づける、といっても過言ではないでしょう。 現在の日本に、人間関係をうまく保てない若者が多いということは、彼らが幼いとき、一番必要なときに、そのような教育も訓練もきちんと受けていないということであります。 それらは彼らの親すなわちそれは私たちなのですが、親たちがなすべき重大な任務を怠ったことほか鳴りません。 そこで今日は、一人の親としての反省もこめて、五つの側面から、正しい子育てについて聖書から少し学んでみたいと思います。 第一の原則「正しい人間関係は、正しい親子関係から始まる」 この世に生を受けて子供が最初に接する他人は、母親であり父親であります。 すなわち自分と親との関係が、その後、他人のすべての人に対する態度の基礎となるために、親子の関係がどのように始まり、どのように保たれるかが、最も重要となります。 親子関係は、子供が持つ最初の、そして最も重要な社会的関係であり、それに何らかのひずみが生じると、その後の人間関係に悪影響があることは、しばしば見受けられるところです。 たとえば、キャンデーを欲しがっているのに、母親に拒まれた子供を想像してください。彼は拒まれたので、床に倒れて大声を上げて、頭をカーペットに激しく打ち付けます。お母さんはこの激しい誇示に仰天して、「○○ちゃん、ほら、ひとつだけですよ。さあ、泣きやみなさい」と言って、キャンデーをやります。日頃よく見られる光景です。 しかしこのことでお母さんは、子供が感情的に反応すると、得をするようにしてしまいました。彼の泣き声はおいしい配当を受けました。彼の抗議に対して同じような取り組み方を続けるのなら、可愛い○○ちゃんはだんだんおおきくなって、ほかの誰に対してでも自分の母親のように、彼の要求が許されることを期待する、手のつけられないわがままな悪ガキへと、間違いなく変身していくでしょう。 そして思いがけずも、自分の要求が聞き入れられない場面に遭遇すると、激しい混乱と衝突が起こることは間違いありません。 子供は幼いときに、自分よりエラいもの、自分の力ではなんとも動かしようのないもの、言い換えれば、権威といったものを知ることが必要です。 自分が王様なのではなく、自分には従わなければならないものがある、ということを認識しなければなりません。それは第一に親です。 自分よりも大きな存在としての親、畏れ(これは恐がる意味ではなく、畏れ敬う意味でのおそれなのですが)の対象としての親。と同時に、この親は自分を限りなく愛してくれるもの、愛を無限に注いでくれる保護者である。 こういう親というものの正しい認識を、幼いときに持つことができることほど大切なことはないのではないでしょうか。 親はいってみれば壁である。「悪」と「善」の間に、一線を隔する壁。「悪」の世界に向かって突き破ろうとしても、押しても叩いても頑としてビクともしない鉄壁であると同時に、外敵から自分を安全に守ってくれる愛の壁である。 このことが実感できれば、子供心は大きな安心感に満たされるのではないでしょうか。 エペソ人への手紙6:1-3
第2の原則「守るべきルールは、子供に充分明確であること」 子供に守らせるルールは、当の子供が充分明確に理解できるものでなければなりません。 そのためには第一に、それらのルールは、確立した一定のものであることが大切です。 この前は叱られなかったのに今日は叱られた、というように親のその時の気分次第で変更されたり、お母さんは叱るけど、お父さんは叱らない、というようにそこに一貫性がないと、子供は混乱します。 そしてやがてそのルール自体あいまいになってしまう危険性があります。 次に、それらのルールは何故守らなければならないのか、子供によく説明して、納得させることが肝腎です。何故自分は叱られているのかわからないほど、哀れなものはありません。そしてその叱りは、なんの効用もないものとなります。 第三に、ルールはあまり数多くないこと、そして内容ができるだけ簡単明確である方が、その意図を徹底するのに良いように思われます。私どもの家庭では、ルールは三つだけでした。 それは「人に迷惑をかけない。うそをつかない。危険なことをしない。」の三つでした。 箴言4:1-5
第三の原則「懲らしめと愛は相反するものではなく、子育ての車の車輪である」 それでは次に、これらのルールを子供が破ったときには、親はどう対処すべきでしょうか。それは当然子供を懲らしめるべきです。 ところで、「子供はどう育てるべきか」というテーマについては、過去何世紀にもわたって、その方法と哲学について激しい論争を巻き起こし、意見が分かれてきました。 一方の端には、激しい高圧的な躾を信奉するグループがあり、もう一方の極端は無計画な自由奔放を主張し、子育ての理論の振り子はこの二つの間を揺れ動いてきました。 しかし戦後、そして最近にいたるまで比較的有力で支配的であったのは、「自由放任の民主主義」とよばれるおめでたい学説でした。 その主張するところは、「子供を育てるのには愛だけで充分である」というのです。立派な親とは、次の義務を果たす親である。すなわち、 (1)子供は純粋な愛情の雰囲気のうちに育てる。というのです。そしてあらゆる形の罰は、子供にとって、有害であり不当であると考えました。 その結果、親たちはこの世代の子供たちを、放任と甘やかし過ぎと、息もつけないような愛情、という祭壇の上に犠牲として捧げてしまいました。そしてそれは正しくない歪んだ親子関係、無秩序な家庭環境をもたらし、同時に、不安定な若者をこの世に送り出す結果となってしまいました。 愛は確かに、人間生活にとって根本的なものですが、親は子供に愛を与えるだけでは充分ではなく、親の責任はそれよりもはるかに範囲の広いものです。親は子供に対し限りない愛を与えると同時に、適切な訓戒と指導力を与える義務があります。 指導の欠けた愛からは、規律正しく自制心のある、そして人を尊敬することのできる子供は育ってこないでしょう。 それでは、まもるべきルールを破った場合の子供の懲らしめについて話を戻しましょう。苛酷で、厳しく、気まぐれで、冷たい、あるいは移り気な罰を使うことによって、親は子供を全くだめにしてしまうことがあります。 従って罰の与え方は慎重でなければなりません。しかしルールを破ったことを子供自身が後悔し、もう二度と同じルー違反をやりたくない、と心から思わせるに充分なだけの、しっかりした罰を与えることを、親は恐れてはなりません。 私どもでは子供のお尻を叩きました。子供が泣きだすほど強く叩きましたが、それ以上のことはしませんでした。それで充分だったからです。 ただ、心して行ったことは、この罰を与える前に何故こうしなければならないのか、もう一度その理由をよく説明するように、それもできるだけ物静かに言うように努めました。 躾ないし懲らしめと愛とは、決して相反するものではありません。相反するどころか、この二つは正しい子育てには欠かすことのできない、いわば子育ての車の両輪であります。 罰とは、子供のために(子供にとっての不利益のためではなく、子供の利益のために)与えるものだということを親は確信しなければなりません。 不従順な子供に対して、「お前を心から愛してるから、そんなことをするのを放っておくことはできない」ということを、よく分からせることが大切だと思います。 ヘブル人への手紙12:5-8
ヘブル人への手紙12:11
第四の原則「子供との対決に親は勝ち抜かなければならない」 子供を懲らしめるということは、口で言うほど容易なものではありません。 何故なら第一に、子供が可愛い過ぎるからです。小さくて丸ぽっちゃな可愛い子供の顔を目の前にすると、親は彼をあえて敵とする勇気がなかなか湧いてきません。なんとかことを荒立たせないですませられないかと、つい思ってしまいます。 第二に、子供が親に反抗する時のエレルギーにはすさましいものがあります。これに対抗するには、親の方にも相当な勇気と忍耐を要求されます。言ってみれば、子供との根くらべです。 私どもにもこんな思い出があります。これはルール違反の懲らしめではなくて、新しいルールを守らせるための躾のケースであったのですが、次男が2歳になるかならないかの頃でした。 どちらかというと癇癪が強くやや神経質な子でしたが、この子は夜、寝付くのが苦手でした。毎晩彼を寝かしつけるのが一仕事でした。1時間あまりも抱っこして、ようやく目を閉じスヤスヤしだしたので、ベットにそっと横たえてそろそろ部屋を出ようとすると、また火がついたように泣き出す。それでまた初めからやり直し、といったことの繰り返しでした。 これではいけないということで、夫婦で相談の結果、「就寝時間は夜8時、ひとりで寝る」ことを決め、それを本人にも言って聞かせ、ある夜を境に実行にうつしました。時間が来たので子供用のクリップに入れ、部屋のドアを閉めました。 案の定、子供は泣き出しました。その内に泣き声は絶叫に変わり、それだけでは足りず、クリップの中に立ち上がりクリップの枠を掴んで揺すり、またそれを乗り越えようとしました。 ドアーの外で息をこらして様子を見ていた私たち夫婦は、枠を乗り越えるのはまだ不可能であることは事前に確認済みでも、それでもヒヤヒヤしたものでした。なによりも私たちにこたえたのは、子供の悲痛な泣き声でした。なんでこんなに苦しいことをやらなければならないのか、いっそうのこと部屋に飛び込んで行って泣き叫ぶ子供抱きしめてやりたい、そんな思いにもなりました。 家内などはもう半泣きで、ぶるぶる震えていました。 戦闘は約2時間ほど続きましたが、息子は泣き寝入りに寝てしまいました。次の夜もことの展開は同じようでした。しかし昨夜と変わったことがありました。 それは戦闘時間が昨日の半分、約1時間で終わったことです。そしてその次の夜は、驚いたことに、クリップに入れられても、息子はもう一声も泣き声を発しませんでした。戦闘は終わりました。その後この息子は、時間が来ると自らベットに行くようになり、もう就寝のことで親を煩わすことはなくなりました。 ところで、子供はこの戦闘に敗れました。そして戦闘に敗れて、子供は傷ついたのでしょうか。敗戦と屈辱と失望に陥り、将来、負け犬のような大人になる心配はないのでしょうか。パウロ流に言わせていただくなら、「絶対にそんなことはありません。」 子供は、この種の親との対決に破れたからといって、傷つくことは決してありません。むしろある種の安心感に浸され、尊敬の目をもって親を見上げるようになるのです。 この親子対決の裏に、溢れるばかりの親の愛情を子供が汲み取る時はなおさらです。 子供は親に反抗しながら、一方では醒めた目で、どこまでなら親は許し、どこを越えると親は許さないなか、冷静に見極めようとしているのです。 同時に、その一線の範囲をできるだけ広げよう広げようとしているのです。しかし親が、一貫としてこの線を頑として定位置に保つなら、やがて子供は自らの「領地」を拡大することを諦めるとともに、この鉄壁のような親に対し、尊敬の念を抱くようになるのです。 自分を危険から守り、安全と平安のうちに繋ぎとめてくれることのできる、賢明で理解のある親に対して抱く尊敬です。 もし反対に、子供の圧力に対して屈して、この一線をズルズル後退させるような親が、子供から受けるものは、軽蔑ととめどない反抗だけです。 コリント人への手紙第II、1:6
第五の原則「罰の後はすぐに仲直り」 親が子供から反抗的な挑戦を受けたときは、決定的に子供に勝つこと以上に、親子を密接に結びつけるものはありません。 親が自分の権威を示すことは、ほかのどんな方法よりも、子供に尊敬の心を起こさせます。しかし同じように重要なのはその後です。言い換えれば終戦処理が大切です。 というのは、罰を受け子供が興奮からさめると、他の時には語ることのできないようなことを、子供に語る機会となるからです。親子のコミュニケーションの絶好の機会です。 私どもには息子が二人おりますが、わが家では罰を与えた後はできるだけ早く、その息子と握手をしました。これを家では「仲直りの握手」と呼んでいました。握手をして、どうして彼が罰を受けたのか、どうすれば罰を受けないですむか、など改めて説明しました。泣いた後で子供は素直になっていますから、この時の話はよく耳にはいるようです。 感情の爆発の後では、子供はよく親の胸に抱いてもらいたがります。力一杯抱きしめてやりましょう。この瞬間こそ、親子は心から語り合えるのです。親が拒否したのは、子供のやったことであって子供自身を拒んだのではないことを、はっきり示してやりましょう。 反対に、ふくれ面のままの子供と分かれるのは、最悪です。是非「仲直り」した上で分かれるようにすることが大切です。 マタイの福音書18:10
以上、幼時の子育てについて、聖書から五つの側面から学んできました。 しかし最後に、最も強調しておかなければならないことが一つあります。それは、子育てとは夫と妻の共同作業である、ということです。 父親と母親が一致協力して、同じ熱心さで、同じ愛情を持って、同じ基準で子育てに当たることが大切です。 とにかく、父親は仕事に追われて、また外での付き合いに草臥れて帰宅するのが通常の我が国においては、子育てとは母親の専業事項として、妻に任せっきりの傾向が強くあります。 これは私自身の反省でもありますが、「僕は仕事、妻は子育て」と、夫婦の分担をはっきりし過ぎて、お互い他の領域を侵さない、みたいなところが確かにあります。 それでも戦前の日本、すなわち明治、大正、昭和の初めで、それはわれわれの親の時代にあるわけですが、その頃の父親のことを思い起こしますと、まだ「地震、雷、火事、親父」の雰囲気はありました。 父親は、夜は卓袱台を囲んで、家族とともに食事をし、子どもたちに何かと説教を垂れ、怖い存在でした。 当時の父親は、精力と時間を仕事に向けて使い果たし、子育ては母親に任せました。子供にとって父親は他所の人の感なきにしもあらず、言ってみれば「不在親父」でした。 しかしこれは間違っていたというしかありません。母親のやさしさの愛とともに、父親の厳しさの愛、これら二つの愛が共に働いてこそ、正しい子育てがなることを、われわれは今一度思い起こすべきではないでしょうか。 テモテへの手紙第I、3:4
テモテへの手紙第I、3:12
外にあって責任ある職に就く人は、このような父親でなければならない、聖書は教えています。子育てにおいて父親は、決して「沈黙の部外者」であってはならないということです。 もう一つ、子育てにおける夫婦のありかたについて言及するならば、それは、子どもの前では夫婦はお互いを批判し合ってはならない、ということです。 特に、子どもの躾や、教育の仕方についての意見の相違を、子どもの前で論じ合わないことが大切です。 夫が子どもを叱ったり指導している最中に、妻は、たとえ夫の言い分が自分の方針なり意見と食い違っていても、その場で異論をとなえないこと。 また、その逆の場合、妻が子供に意見しているとき時は、たとえ自分の意に添わなくとも、夫は妻の指導を尊重する、いや少なくとも尊重しているふりを守るべきです。 お互いの意見の食い違いは後で、子供の居ないところで、夫婦で話し合い意見の調整はかるべきです。 ましてや、「そんな悪い子でいると、大人になるとお父さんのようになってしまいますよ」というがごときはもっての外です。これだけは言ってはならない禁句です。 使徒パウロも言っているように、 エペソ人への手紙5:22-25
ということです。 この教訓はわれわれ凡人には、守ることが甚だ難しいことであることは事実です。しかし、改めて創世記第2章24節をひも解くまでもなく、 創世記2:24
のであります。一体となり、そしてお互いの人格を尊重し合う、両親の円満な夫婦関係こそが、健全な子育ての何よりの土台になることを、われわれは改めて銘記すべきではないでしょうか。 子供自身が幼い時から、自分より大きな、絶対の存在であり、かつ同時に愛の存在である、親に対して畏敬の念を抱くことは、特にわれわれキリスト者にとって重要であります。 何故ならば、親に対する畏敬の気持ちは、やがて神に対する畏敬の念へと育っていくことが期待できるからです。 尊敬する父は母が、心からひれ伏す畏れの対象、敬愛の対象たる主イエスさま破、幼い子供心にとっても、同じように畏れと愛の的となって成長していくことは、ごく自然なことと思われるからであります。 伝道者の書12:1-2
伝道者の書12:12-13
今育ちつつある幼いものたちが、必要な時に必要な訓練と指導を受けて、やがて、父母を敬い神を畏れる若者として巣立っていってくれることを、みなさんとともに祈っていきたいと思います。 |