引用聖句:ガラテヤ人への手紙5章1節
今回は、「ピンチヒッターを」ということでありましたのですが、家庭集会を開かれている姉妹は、私ども夫婦を今から7年前この集会に、集会にというよりはこの信仰の道に導き入れてくださった、主の御手となってくださった、言わば私どもの「ゴッドマザー」でありますので、イエス様の次にこの人の言うことは聞かなきゃならない、というわけで、いや応なしに、この場に自分の分をもわきまえずに、あつかましく座らせていただきます。 今からしばらく、この時間をみなさまとともに聖書からみことばを学んでいきたいと思います。 今、司会の兄弟にお読みいただきました、 ガラテヤ人への手紙5:1
そういうみことばでありますけれども、イエス様がこの世に来られるまでの世界は、厳しい旧約の「律法」の世界でした。 人々は、自分がとても守りきることができない多くの戒律に縛られて、あえいでいました。しかしイエス様は、自由を得させるために、この律法の戒律のくびきから人々を解放してくださいました。 イエス様の十字架の贖いによって救われた、初代教会の信徒たちは、イエス様がくださったこの自由をどんなに喜んだことでしょう。胸いっぱい空気を吸い込んで、律法の厳しい戒律からの解放感を満喫したことだろうと思います。それがどのようなものであったか、聖書は次のように示しています。 ガラテヤ人への手紙3:22-27
「イエス・キリストに対する信仰」、すなわち「イエス様がわれわれ人間の罪を一身に背負って、十字架の上で犠牲の死を遂げてくださった贖いのみわざと、そして死後3日目のイエス様のよみがえりを信じること」。 この信仰を持つことだけで罪が赦され、そのうえ永遠のいのちの希望まで与えられたのですから、人々が喜んだのは無理ありません。 その以前はと言えば、律法の数多くの戒律を前にして、それらを守ろうと努力をしても自分でしたいと思う善を行なわないで、かえってしたくない悪を行なってしまうと、ローマ人への手紙にパウロが書いているように、そのような自分の罪におびえ、永遠の滅びの恐怖に向かっていった人々であったのですから、神様からの恵みの賜物としての、この福音がどんなに感謝をもって迎え入れられたか、それは想像にかたくありません。 「規則は破られるためにある」というのは少し言い過ぎとしても、信仰という心の領域を、ルールや規則で律することは容易ではなく、たとえそれを強行しようとしても、ともすると人は法の抜け穴を見つけ出してそこに逃げ込みます。良心のある人はこのため罪の意識にさいなまれ、またそうでない人間は、偽善者となります。 しかしそればかりでなく、人を規則でがんじがらめに縛ることは、次のような弊害を生み出すと思われます。 第一に人々の間に不平等が生まれます。ルールや規則の徹底を図るためには、法の執行機関が必要となり、その結果信仰の世界までが権力を持ってこれに従わせようとする支配者と、それに従うことを余儀なくされる服従者とに分かれるようになります。 「神の前には万人がみな平等であり、人は何人をも介することなく一人一人が神と直接に結びつくはずの信仰の世界」が、ここでゆがめられます。 「大司教」や「長老」等の支配階級が、そしてそれを取り巻く「中間権力層」が次々と誕生し、このようにして信仰の世界はだんだんと人間の組織になり、それは階級化され、形式化され、そして儀式化されてきます。 このため人が自由に直接神と結びつくことが困難となっています。 第二に信仰という心の世界において、法を強制するということは、人間をひとつの型にはめこんでしまい、人間一人一人が持つ個性を無視することになりかねません。 人は一人一人異なる顔を持っているように、考え方も異なりまたそれぞれが持っている才能もまちまちです。それは創造主なる神が人を造られたときに、それぞれ顔が異なるように、その人の目的をも一人一人違えてお与えになったからです。 各自が持つ個性、思想、使命、あるいは天職はたといそれが異なっても、それぞれの立場にあって創造者の目的に従って、それを正しく伸ばすことができればよいのであって、これを無理にでもひとつの型にはめ込もうとするのは、神様のご意図ではないはずです。 第三に信仰の世界を規則で以って統制しようとすると、弱者は生きる余地が狭められます。統制が強化されればされるほど、その規定に従い得ない弱者は排除されます。 しかし当然のことながら、たとい弱くても弱者は弱者としてありのままの姿で生きていく権利があり、同時に弱者としての果たすべき使命も与えられているのです。強者が弱者を蹴飛ばして前に進むのではなく、強者は弱者の手をとって共に歩む、そして弱者は弱者としての勤めを果たし、因って全体の調和を図るというのが創造者たる神のご趣旨であったはずです。 コリント人への手紙第I、12:22-25
このように律法の戒律から解放され、それらの持つ諸々の弊害を免れ、新しい自由を大いに喜んだ初代教会の信徒たちですが、彼らはこの自由をただ喜んだだけだったのでしょうか。 与えられた自由の喜びとともに、彼らは何かしら足元が定まらないような不安定なものを同時に感じ取ったのではないでしょうか。 「自由を与えられたのはそれは嬉しいのだが、それではこの与えられた自由の中で、自分はいったい何をどのように振舞えばいいのか・・・。」 それが分からずに、戸惑ったのではないでしょうか。 一般に「自由」というのは責任と裏腹の関係にあると言われます。他から強制される律法がなくなると、自分は何をどのようにすればよいのか、いわゆる言動の規範というものを自分自身で考えて実行する、すなわち自分の考えや行動を自分自身で律することが必要になってきます。 「自分のことを自分で考え、自分で実行する」、これは一見簡単なことのようですが、しかし困ったことに、これは口で言うほど容易なことではないのです。 人は自分で考えて正しく行動することが苦手で、自信が持てないのが普通ではないでしょうか。人というものは、元来自分で考えるのは苦手で、他人に考えてもらい、他人の命令によって動くことを欲する。だから口ではともかく、心の中では制度や統制のもとで、自ら好んで奴隷のくびきにつながれることを願う人が、多いのではないでしょうか。 ちなみに新興宗教が盛んになるというのも、一因はその辺と関係しているのではないでしょうか。 そういうところへ「さあ、あなたは自由ですよ」と言われたって、これから「祭司」もいない、「制度」も「組織」もない。「会則」もない。だから、「自分で自由に考え、自由に行動しなさい」と言われて、人々はどのように反応したでしょうか。 事実案の定、初代教会の信徒たちの間に混乱と分裂が起こってきました。その一例をコリントの教会に見ることかできます。 コリント人への手紙第I、1:10-12
自分に自信がないため、他人に頼らざるを得ない。イエス・キリストに直接より頼めばいいのに、他人に頼って指図を仰ごうとする。崇拝すべきものはキリストだけであるのに、キリストとは別に自分にとっての理想的人物というものを想像して、これを崇拝する。 この結果徒党が組まれ、人々は党派に分かれる。そして党派下にまた同じ党派内部でも争いが起こる。まさに愚の骨頂ともいうべきものですが、人間社会では残念ながらこれはよく起こることです。 これまでは「律法」というガイドラインがあり、また祭司や長老という「指導者」もおり、内実はともかく少なくとも外面的にはその指図どおり行なっておりさえすればよかったのです。 しかるにそれらが全部取り除かれてしまった今、人々はどうしていいか分からないまま歩み始めるのですが、足元がフラフラしておぼつかないので、つい人にぶつかり、つまずくことになります。この結果、人々の間に仲たがいや争いが生じるようになります。 人間が二人以上集まれば必然的に生じるという、「妬み」や「猜疑心」が働きます。妬みとか猜疑心というのは、「欲望」と表裏一体の関係にあります。 欲望とは「自我」です。自分を第一とすること、自分の利益と安全を第一とすること。この性質は人がサタンによって植え付けられて、生まれつき身につけているもので例外はありません。 ガイドラインがなくなったので、直接神様に向かって何とか自分の力で歩もうとする人間に対して、サタンはこれ幸いと激しい攻撃を仕掛けます。 そして人々の間に反目と敵対心を起こさせ、人の心を神から遠ざけようとします。 ヤコブの手紙4:1
しかしキリスト者たる者が、これは避けられない戦争と言っておさまっていて良いのでしょうか。キリスト者は自分の力で自ら信者になったのではありません。信者になれたのは神様の恵みの賜物によるものです。 エペソ人への手紙2:8
このように神様の一方的な恵みと御愛によって、救っていただいたキリスト者たる者が、争いは避けられないなどと言ってすましていることは赦されません。 ではどうすれば良いのでしょうか。少しヤコブの助言に耳を傾けたいと思います。 ヤコブの手紙1:18-19
ヤコブの手紙2:1
ヤコブの手紙2:14
ヤコブの手紙4:11
このように「兄弟たち」と個別に呼びかけて、具体的に注意を喚起するとともに、ヤコブはまとめとして次のように言っています。 すなわち「平和な良い生き方をするためには、妬みと敵対心を捨てて、自分の知恵ではなく、上からの知恵に頼ること。そのために神に近づき、神に従うことだ」と、いうことです。 同じく、 ヤコブの手紙3:13-18
ヤコブの手紙4:6-8
せっかく与えられた「律法からの解放」。自由ではあるけれど、自分には自分自身を律する力もない。だからといって他人に頼ることもできない。 そのことが自覚できた人は幸いではないでしょうか。なぜならその人の目は、おのずと向かうべきところへ向かうからです。向かうところはただ一つしかありません。それは「イエス・キリスト」です。 「律法からの解放」は無償で成されたものではない。それは「イエス様のいのち」と引き換えに与えられたものである。それだけ高価な代償を払わなければならなかったほどに、私たちの罪は大きかった。 罪が大きいだけではない。私たちは自分では何事もなすことができない無力な者である。「自由は責任と裏腹の関係にある」と言われても自分には、その責任をとる力がそもそもないのだ。 自分の罪の大きさと、自分の無力さをこのように真に感じ得たとき、人は初めてイエス様なくして生きられない自分をはっきりと知ります。 そしてイエス様をかしらとする体の一部、言いかえればイエス様を「あるじ」とする家族の一員となることができるのです。そうなって初めて、イエス様にある「神の教会の一致」が見出されるのではないでしょうか。 ただしこの「神の教会の一致」は、「真の一致」でなければなりません。仮に一致を乱す者が出ても、見てみないふりをして、何とか波風を立てないようにする、そのような「見せかけの一致」であってはなりません。 神の教会は決して「仲良しクラブ」であってはなりません。聖書はこのような場合の心得として、次のように言っています。 テサロニケ人への手紙第II、3:6
テサロニケ人への手紙第II、3:14
しかし聖書は「このような人から離れて絶交せよ」とだけ言っているのではありません。 テサロニケ人への手紙第II、3:15
兄弟が悔い改めて、再びともに歩めるよう他の者全員が努力すべきことをさとしています。 わが「キリスト集会」も「初代教会」と同じく、自由な集まりです。神の御心によって、キリスト・イエスにある赦しを受け、神の教会に召された者の自由意志による集まりです。 初代教会と同様、ここには牧師制度がありません。組織も制度もありません。会則もありません。出入りは自由です。 このように自由であるだけに、反面サタンの攻撃にさらされる危険も大きいと言うことができます。われわれが「神の教会の真の一致」を保とうとするのに対して、サタンはすきあらばとばかりに人の思いに植え付けた、悪の・・・ (テープ A面 → B面) このサタンの攻撃からわれわれ自身を守るためには、日頃余程の注意が必要です。 それでは最後に、われわれは日頃からどのような点に心して置くべきなのかということについて、少し考えてみたいと思います。 まず第一に、「相手も聖徒である」という事実を心に留めること。 私たちが義とされたのは、自分の行ないによるのではなくただ信仰によって、主からの賜物として与えられた義によること。しかし義とされたのは自分だけではない。相手も主から義を与えられた者であること。主は私たちの主であるとともに、相手の主でもあること。 この事実を心に留めることができれば、おのずと相手を尊重する気持ちがわいてくるのではないでしょうか。 コリント人への手紙第I、1:2
心すべき第二の点は、自分の「無力」を自覚すること。「自分は、自分の力では正しく歩むことができない者である」という事実を自覚すること。 これは頭の中でそう思うだけではなく、全身全霊で感じ取ること。 イエス様はわれわれとは異なり、何でも正しくおできになる方です。そのイエス様でさえ次のように言っておられます。 ヨハネの福音書5:30
心すべきことの第三は、「みことばと聖霊の導きに従う」こと。神の真理は聖書に示されております。だからことあるごとに聖書は何と言っているかを確かめること。聖書を唯一の基準とすること。聖書によって示された神のみことばを、聖霊の導きによって学ぶこと。 これが大切ではないかと思われます。 先ほどの コリント人への手紙第I、2:11-12
法律や規則によって、他から強制的に保たされる一致というのは、真の一致ではありません。一人一人が自分の自由意思によって守る一致こそが、価値あるものといえます。 主のお召しによって集められた人々が、イエス様をかしらとする体の一器官となって、それぞれの用を果たしお互いを尊重しつつ全体の調和を図る。このような有機的な調和こそが、真の一致というのでしょう。 これに対してサタンの攻撃は、常に覚悟しなければなりません。しかしそのようなサタンの攻撃があるからこそ、それだけ主により頼むことができるのではないでしょうか。 サタンの攻撃のさなかにあっても、主により頼みつつ、ゆるがない調和が図れるとするならばこれこそ真の一致であり、まさに神の教会の一致ということができると思います。 この神の教会の一致を保つためには、数多くの規則や戒律はいらない。必要なのはただ一つの律法、すなわち「最高の律法である」とヤコブは言っています。 ヤコブの手紙2:8
そしてその「最高の律法」を与えてくださったのはイエス様です。それはイエス様が最後の晩餐の席で、イスカリオテのユダが一人去った後、残った11人の弟子にお与えになった、ただ一つの律法です。 ヨハネの福音書13:34-35
この13章のすぐ後に17章があります。実は今朝、家内とともに読みました聖書のみことばがこの17章でした。このヨハネの福音書17章6節は、イエス様がこの世の最後に父なる神に祈られた祈りです。 この中でイエス様はとりなしの祈りをしてくださっております。そしてそのとりなしは、自分の弟子たちのことをここでは、 ヨハネの福音書17:6
と言っています。この自分の弟子たちのためのとりなしの祈りであるわけですけれども、ただそのとりなしは、その弟子たちだけではなく、 ヨハネの福音書17:20
と言われて、イエス・キリストを信じるすべての人々、すなわち私たち一人一人のためにも祈ってくださってるのを知って、改めて感動しました。 そしてイエス様は、その祈りの目的をキリスト者が一つとなるためであると言われます。ここでイエス様は「彼らが一つとなるため」ということを、4度も繰り返しておられます。 ヨハネの福音書17:11
ヨハネの福音書17:21
ヨハネの福音書17:22
ヨハネの福音書17:23
イエス様はこのように私たちキリスト者が、みな一つとなってイエス様のぶどうの木、一本につながりそこで実を結ぶことをどんなに願っておられるかをよく知ることができます。 イエス様が私たちを愛してくださるように、私たちも互いに愛し合うこと。これがただ一つ守らなければならない最高の律法なのです。この最高の律法を常に心に留めて、主にある神の教会の一致を保っていけるよう、御霊のお導きを祈ってまいりたいと思います。 |