引用聖句:イザヤ書30章15節
最近、世の中は非常に忙しくなったと申しますか、一方では、携帯電話が普及して世界中どこでも瞬時に誰とでも連絡をとることができ、相手の答えも直ちに知ることができるようになりました。ですから、私たちは、そのために「待つ」という必要がなくなってきました。 便利な世の中になったと言えばその通りですが、その便利さが逆に影響して、今の世の中は待つということがだんだん苦手になってきているのではないでしょうか。 物事を長い目で見る余裕がなくなり、何事に対してもすぐに答えを求めたがる風潮になってきました。 たとえば企業の短期間の成果主義にも現れているのではないでしょうか。 さらに言えば、人の心はいつも何かに急かされていて、じっとしていられてない。何かをして時間を埋めないと間が持たない。ただ、待つだけという空白の時間が恐いと言った不安にかられています。 一昔前の、「時が満ちるまで待つ」とか、「機が熟するのを待つ」とかいう言葉は、死後となりつつあります。 このような不安と思い煩いに悩まされている現代人は、今こそ、創造主なる神の御言葉に耳を傾ける時ではないでしょうか。 この悠久無限の世界と、そこに住む万物の創造者であり、またそれらを永遠に支配される方、唯一の神は、完全な知恵と最善の計画をご自身持っておられます。そして、神様は、そのご計画を実行されるにあたり、決して急がれることのないお方です。 神様は、時には待つことを人間に要求されます。それは人間の知恵では計りがたい、底知れず深い神様のご配慮であって、後になってそれが最適の神の時であったことに人は気がつくのです。 伝道者の書3:11
ソロモンは伝道者の書で歌いました。 また神様は、預言者イザヤを通してつぎのようにおっしゃいました。 イザヤ書55:8-9
今日は、待つことの大切さについて聖書から少し学んでみたいと思います。 アブラハムが、神の仰せに従って生まれ故郷を捨て去って、主の示される全く未知の地へと出発したのは、すでに75歳の時でした。神様は、その時彼に言われました。 創世記12:2
そして、その後再び主の言葉が幻の内に彼に臨みます。 創世記15:4-5
しかし、このように言われたものの、年老いたアブラハム自身にはこの時点で跡継ぎになる子供が一人もいませんでした。 それでも彼は、神様のこのお約束を信じました。 創世記15:6
そう信じたけれども、このことが実現するためにはアブラハムはさらに長い歳月を待たなければなりませんでした。 アブラハムとその妻サラの間に、ついに嫡子イサクが与えられたのは、なんと彼が100歳、彼女が90歳になってからでした。 このように、神様の約束は必ず成就します。しかし、そのためには人間の側に神様に対する揺るぎのない信頼と、待つ忍耐が必要とされます。このことを後になってパウロは次のように語っています。 ローマ人への手紙4:18-22
へブル人への手紙では次のように記されています。 へブル人への手紙11:8-12
次は待つことができなくて失敗した例です。 エジプトを脱出したイスラエルが、モーセやヨシュアによってカナンの地に導き入れられてからおよそ300年の間は、全国民を統一する指導者は現れず、神は、士師・さばきつかさと呼ばれる人々を遣わして、彼らを政治的、軍事的な指導にあたらせました。 しかし、異教徒、異民族のイスラエル攻撃や圧迫は止まず、それに悲鳴を上げた国民はイスラエルに国王を求めました。この要求は、神様や神様に遣わされた最後の裁き司のサムエルには気に入らなかったのですが、しかし、ついにその要求は受け入れられる所となり、ベニヤミン人キシュの子サウルが名指しされます。 サムエル記第I、8:22、9:1-2
主の命によって、サムエルは油の壺をとって、民の君主としてサウルの頭に油を注ぎます。そして、次にように告げます。 サムエル記第I、10:8
7日間そこで待つように。このギルガルは、エリコとヨルダン川の中間にある町で、ヨシュアに引き入れられたイスラエルの民がヨルダン川を渡って最初に宿営した所です。イスラエル人にとっては、カナン征服の記念すべき拠点です。 このギルガルに先に到着したサウルは、思いもかけずペリシテ人の攻撃にさらされます。 海辺の砂のように多いペリシテ人に圧迫されて、イスラエルの民は恐れおののき、ほら穴や水溜の中に隠れる者、あるいはサウルを見放して彼から散って行こうとする者が続出します。 しかも、7日間待ってもサムエルが現れません。 そこで、サウルはサムエルを待つことをやめて、自ら全焼のいけにえを主に捧げてしまいます。ちょうど、彼が全焼のいけにえを捧げ終わった時、サムエルがやってきます。そして、この有様を見て、驚いて言います。 サムエル記第I、13:11-14
このサムエルの預言どおりにサウル王朝は一代で途絶え、やがてダビデにイスラエルの王位は引き継がれることになります。 サウルは「待て」という主の命令を守ることができませんでした。目の前の状況に心を奪われ、心を急かされて、自分の手でなんとか状況を修復しようと動いて、結局の所、自ら墓穴を掘ってしまいました。 主に信頼して主を見上げ、主の御手を待つことができなかったのです。 確かに、周囲の状況が自分にとって不利に向かう時、私たちはじっとしておられなくなり、なんとか事態を打開しようとつい自分で動きたくなってしまう者です。 しかし、そんな時こそ心を静めて、神の御前にひざまづき、その御心に聞き従うことが大切ではないでしょうか。 しかもこのサウルの場合は、神様のご意志、御心がサムエルを通して明らかに彼に伝えられていたのです。「あなたは私がそこに着くまで7日間待たなければなりません。私があなたの待つべきことを教えます。」 このように、神様はサムエルを通して御心をすでに伝えておられたのです。しかし、サウルは待つことができませんでした。 信仰と言うのは、いつも主を見上げて、主に従って判断することです。逆に、不信仰は、いつも自分や、自分の周りに目を向けるのです。 「兄弟ラザロが病気です。」、と急を告げる使者がベタニアからイエス様の所へ送られたのは、彼の病状が緊急になった時でした。 身内であるマルタとマリヤの両姉妹は、その時、イエス様が万難を排して、一国も早くラザロの病床に駆けつけてくださることを、願っていたに違いありません。 なぜなら、彼女たちは、イエス様がラザロを愛しておられること。また、イエス様なら彼の病気を癒す力をお持ちであることを、知っていたからです。 しかし、このことを聞かれたイエス様はすぐに動こうとなさらずその所になお2日間留まられました。 ヨハネの福音書11:1-6
そのような次第で、イエス様が到着された時は、ラザロが死んで墓の中に葬られて4日もたっていました。 ヨハネの福音書11:21
主よ、もしここにいてくださったらなら、私の兄弟は死ななかったでしょうに。そう訴える姉妹に対してイエス様は言われます。 ヨハネの福音書11:25-26
神様が、御子イエス・キリストにおいて病人を癒すことなどは、容易にお出来なるのは当然ですが、この場合そうなさらず、ラザロの死を待たれたことには意味がありました。 それは、死者を甦らせることが神様にはお出来になることが、明らかにされるためでした。 アダムとエバのそむきの罪を生まれつき背負っている人間を、その霊的な死から甦らせ、信じる者に永遠の命を与えるため、間もなくイエス様ご自身が十字架にかかられて身代わりの死をとげられること。 そして3日目にに甦られることを、このラザロの死を通して予告するものでした。事実その通りになりました。 ヨハネの福音書11:39-44
来るべきイエス様の死と復活の真理を証しする決定的な「しるし」となりました。 イエス様がラザロの危篤のニュースを聞かれても、なお2日間動かずに待たれたのは、この「しるし」が人々の前に明らかにされるためだったのです。 サタンはいつも私たちを急かします。「さあ、お前が、今早くなんとかしないと、たいへんなことになるぞー!」と私たちを脅して急き立てます。その反対に神様は、決して急がれません。急がれないと同時に、これからなさろうとする計画を事前に、人間が理解できるように説明なさろうとも致しません。 先ほど、ラザロの危篤の報を聞かれてイエス様は言われました。「この病気は、死で終わるだけのものではなく、神の栄光のためのものです。神の子がそれによって栄光を受けるためです。」そうイエス様はおっしゃいました。そしてそこに2日間じっと留まられました。 しかし、イエス様のこの言動は使いに来た者にも、周りの弟子達にも理解の範囲を越えていたに違いありません。同じようなやりとりが、神様とモーセとの間にありました。 神様は、モーセに命じてエジプトから連れ戻ったイスラエルの民をカナンの地に導かされますが、モーセとしては、そこにたどりつくまでの道筋や日程などはおおよその所は、あらかじめのところは承知しておきたかったのでしょう。彼は、神様に尋ねます。 出エジプト記33:12-13
どうか、あなたの道を教えて下さい。大勢の民のリーダーとしては当然の心構えです。ところが神様の答えは意外なものでした。 出エジプト記33:14
「わたし自身がいっしょに行って、あなたを休ませよう。」 先般、5月の連休に来日されたドイツの兄弟が御代田でメッセージをしてくださいました。 そのメッセージの中でこの箇所をひいて、彼は次のように言われました。 「すなわち、主は先のことを教えられない。教えたとしても、次の一歩だけ。一歩、一歩ずつしか教えない。 しかし、主は私たちと一緒に行くこと、共にいることを約束してくださっている。それで十分ではないか。 主が私たちのすぐそばにおられること。すなわち主の御臨在を間近に覚えて、主の導きに信頼するだけでよい。 主の前に静まって、主の次の一手を信頼して待つ。そして、主が最終的に目的地に私たちを導かれるまで、信頼して待つことだ。」 人間が先走りする必要は毛頭無いともおっしゃいました。 携帯電話や電子メールの普及により、コミュニケーションの手段がスピード化されたことについては冒頭にふれました。 しかしそれらの利用状況をみると、相手の意見を聞くためと言うよりは、自分の言い分や要件を一刻も早く相手に伝えて、一刻も早くその懸案の決着を図りたい。そういう目的で利用されることが多いようです。 また、もうひとつの使われ方は、エンドレスなおしゃべりを楽しむためでしょうか。このおしゃべりというのは、たいていの場合、会話や対話とは異なって、一方的に互いにしゃべりあって、相手のいうことなど、ほとんど聞いていないことが多いようです。 いずれにしても、現代人はそのスピード感に惑わされて、先へ先へとつんのめってしまい、主の前に静まり、耐え忍んで主を待てという心境から遠く離れてしまっているのではないででしょうか。 祈りというのは当然のことですが、自分の描く計画の実現を神様に強制することではなくて、幼子のように素直に神様にゆだねて、与えられた勤めを忠実に果たしつつ神様の答えを待つことでしょう。 私たちは、神様の答えをじっと待つことができる忍耐と、そしてその答えが自分にとって最善のものであるという神様への絶対的な信頼を、いつも自分のものとできるように日々祈っていきたいと思います。 みことばをひとつ読んで終わりたいと思います。 詩篇130:5-6
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