引用聖句:ガラテヤ人への手紙6章14節-15節
私、春のキャンプに出させていただきました。非常に恵まれたことは、その間にドイツの兄弟姉妹方と非常にゆっくりとお交わりをすることができ、色んなお話も聞くことができました。 いつもは遠くから眺めているだけのドイツの兄弟姉妹の人柄なども、本当にお側近くで接することができましたけれども、本当にお一人お一人は、心貧しい人と言いますか、心砕かれてへりくだった、謙遜な人たちであることが本当に身にしみてわかりました。 ベック兄姉のご活動、もう長年に亘って経済的にも精神的にも支えてこられておられるわけですけれども、そんな素振り、そんな功績については、もう本当にかけらほども、気振りも見せずに、本当に謙遜に、静かに、そして感謝して喜んでおられるお姿を見ますと、本当にこういう人っていうのがあるのだなという思いをいたしました。 この世の人間には二種類の人間があるようでありまして、一つの種類の人間は、自分はできると思っている人間のグループではないかと思います。したがってもう一つのグループは、自分はできないと思う人たちのことであります。 最初のグループに属する人は、自分の力で何でもできると思いますから、当然のことながら自分の力に頼りますし、自分の力で努力をいたします。そして、努力をすればたいていのことは人間の努力でできないことはない、というふうな信念に固まっている人と言えるかと思います。 ですから非常に自分で頑張ります。頑張って自分の力に頼りますから、自分以外に頼るということはあまりしない。したがってこのグループの人たちはどちらかというと神や仏といった存在からは非常に離れたところにいる人たちではないかと思います。 そしてあとのグループのほうは、自分はできないと思っているわけですから、自分の無力、自分の力の限界を知っているわけですから、もう自分に頼ることはしない。できないわけです。したがって自分以外の、自分よりも大きな絶対的な力に、絶対的な存在に頼らざるを得ないようにされている人であります。 したがってこういう人たちを見ますと、端的に何が違うかというと、前者のグループの人たちというのは、非常にプライドを持っています。後者の人は、もうそのプライドを持ちようにも、持ちようがない。 よく、「人間プライドを失えばもう人間ではなくなるよ。」というようなこともこの世では言われておりますけれども、本当に果たしてそうなのだろうかというふうに思います。 私自身振り返って見ても、つい、そう遠くない最近までですが、私はどちらかと言うと、Aグループに属しているほうであったかなとは思います。自分で努力。一にも努力。二にも努力。だから頑張れ、頑張れと自分にも人にも言ってきたタイプの人間である。 しかし幸いなことに、10年ほど前に初めて聖書を手にしてこの集会に導かれたときに、それ以来少しずつ、本当の自分の姿というものを見させていただくことができて、段々と探られていくにしたがって、何て自分というのは無力で、そしてまた非常にみじめな者、存在であるかということが本当によく知らされました。 そして普通ならそのプライドの鼻を折り曲げられて、へし折られて、そんな自分を普通なら、みじめであわれで悲しく思うはずであろうと思うのですけれども、ところがそれは全く逆に、そのプライドを奪われて、本当にホッとしたと言うか、大きな存在のふところの中に抱かれているような、そんな嬉しい、安心し切った平安な気持ちと、そしてその中に憩う安心感、平安、喜び、感謝というものが身に迫ってきて、本当に日々嬉しいというような日を送っております。 そんなことで、人間のプライドというのはいったい何なんだろうかということで、少し今日は聖書から学んでみたいと思います。 人間社会にはとかく争いが絶えないものです。この地球上では常にどこかで戦争や争いが行なわれており、それは人類の歴史が始まって以来このかた変わりません。今も戦争がこの地球上では行なわれております。人間の歴史は言い換えれば、争いの歴史と言えるのではないでしょうか。 人間同士のその争いの原因というのは多くの場合、人間の持つプライドにあります。 プライド。これは日本語に直すと、誇り、あるいは少し古い日本語で言えば、矜持などと言いまして、そういうと何やら立派なものに聞こえますけれども、所詮は人間の高ぶりに過ぎません。 プライドは人間の高ぶり。傲慢心。あるいは自惚れから来るものです。そして私たちのプライドというのは他者、すなわち他人のプライドと常に競り合うという性質を持っているのではないでしょうか。 その意味ではプライドというのは極めて相対的です。例えば、プライドは何かを所有することに喜びを感じるのではなくて、隣人よりもより多く所有することに喜びを感じるのであります。ほかの者よりも金持ちで、ほかの者よりも聡明で、ほかの者よりも美貌であることを自慢するのです。 このように人がプライドを感じるとき、それは自分を他者と比較して、比較することによって、自分がほかの者たちよりも上にいることを思って、その喜びを噛み締めるときなのではないでしょうか。したがってこのプライドというのは、その性格上、本質的に競争的であると言えます。 この広い世界に、私よりも権力のある、私よりも金持ちである、あるいは私よりも賢明な人間がひとりでもいる限り、私は許せない。私は彼のライバルであり、敵であり、私は彼を許すことができない。だからどんな努力をしても彼を蹴落として、彼の上位に立ちたい。 世界が始まって以来このかた、国と国との間に、また人と人との間に起こった悲惨の主要原因は、この人間のプライドにあったのではないでしょうか。戦争、流血、不和、虐待、これらの不幸はすべて人間の持つプライドから発しています。 このようにプライドは他人に対して対抗心、ないし敵意を燃やします。しかも人間は人間に対して対抗心をもよおすだけではなしに、これは極めて悲劇的なことですが、神に対しても対抗心を抱くのです。 最初の人間、アダムとエバが神様の言いつけに背いて禁断の木の実を取って食べたのも、蛇に化身したサタンによって彼らのプライドを巧妙に刺激されたためでした。 蛇は二人に言います。「あなたがそれを食べるその時、あなたの目が開け、あなたが神のようになり、善悪を知るようになることを神は知っているのです。神はそれが嫌なのです。」 このように蛇は巧妙にこの二人のプライドを、自尊心をくすぐって誘惑いたします。 今のは創世記の3章5節にありますが、これを聞いて二人は、「神のようになりたい。負けるものか。」という神様に対する対抗心がわき、結果的に彼ら二人を天の御国である神の国、エデンの園から追放し、そしてそれ以後人間は罪の苦しみの中に生きなければならなくなった。 その意味でプライドが全ての罪悪のもと。人間全ての罪の根源なのです。人間はそれ以降ずっとアダムとエバのこの罪の性質を持ったまま今に至っています。 人類史上初の人間同士の争いはアダムとエバの最初の子どもたち、カインとアベルの間に起こりました。アダムとエバが犯した罪が早速その子どもたちに働いたというべきでしょうか。少し聖書を見てみたいと思います。 創世記4:1
人というのは、これはアダムです。 創世記4:1-8
かくして人類史上初の殺人が行なわれたわけであります。このとき、なぜ神様はアベルのささげ物に目を留めて、他方カインのささげ物には目を留められなかったのか。色々その理由は考えられるでしょうが、本当のところは何だったのか私たちにはわかりません。 ただこのことによってカインを恋い慕って、戸口で待ち伏せしていたプライドという罪は彼に襲いかかって、彼を完全にそのとりこにしてしまいました。 人というのはプライドを傷付けられると、まず第一に何とか力を尽くしてそれを修復しようとします。これはときには向上心につながり、一時的には人の成長を促すこともあるのですが、プライドがいつまでも保たれ続けるというのは、競争の激しいこの人間社会においては極めて稀なことです。皆無と言ってもよいでしょう。 それではどうするか。相手との競争に勝てなくて、自分のプライドが保てないことを知った人間はコンプレックス、劣等感に陥ります。そして次にそのコンプレックスをもたらす原因となった相手に対してねたみや憎しみを抱くようになります。 ねたみや憎しみが高じると、その力はその原因となった相手を自分の世界から排除することに働きます。その際、目的のためには手段を選びません。これがカインがたどった道筋でした。 プライドはねたみや憎しみのほかにも、色々な形を取って私たちに現われます。例えば、あざけりや軽蔑です。人は他人の欠点や弱点を見逃しません。そして、それを見いだすと自分がそのようでないことを内心誇るのです。 具体的にはこれは他人に対する無関心か、あるいはさばきとなって現われます。その人の気持ちやその人の弱さ。あるいはその人が置かれている特別な境遇を思いやることもなく、性急にさばいてしまうのです。 へつらいや媚というのもプライドのひとつの変形です。プライドが相手に対抗できないと知ったとき、人は劣等感に苛まれます。その結果、他人の言動や思惑に思い煩い、人を恐れ、人に媚びへつらうのです。 いうまでもないことですが、このへつらいはへりくだり、すなわち謙遜とは全く別のものです。イエス様は人間の性質について次のように仰います。 マルコの福音書7:20
この言われたのはイエス様です。 マルコの福音書7:20-23
ここでイエス様が指摘される人間の罪というものの多くが、いや、殆どすべてが、人間のもつプライドから由来していることがわかります。プライドが人間の最大の罪、全ての罪悪の根源であると言われる所以です。 それでは私たちはどうすればこの最大の罪、プライドを取り除くことができるのでしょうか。 人間は人間の力、すなわち自分の力ではこのプライドを取り除くことができません。人間は自分の力にいささかでも拠り頼んでいるときは、このプライドという呪縛から解き放たれることはありません。 その反対に、自分は全く取るに足りない者であること。自分は自分自身に対しても、また自分を取り巻く世界に対しても、何の力も無い者であること。しかもちっぽけなプライドのとりことなって、自分ではしたくないと思っている悪を行なっている自分。このような絶望的な自分が見えてくると。それと対照的に、全ての全てであられる神様の存在が浮かび上がってくるのではないでしょうか。 自分の無価値、無力に対して全知全能の神の愛の目、神様の愛の目に私たちの目が開かれるのではないでしょうか。そのとき初めて私たちは神様に立ち返ることができ、このプライドという呪縛から解放の糸口を見いだすのではないでしょうか。 言い換えれば、自分が自分のプライドとそれを取り除くことにおいて、いかに無力であるかに絶望し、自分自身を空っぽにして明け渡すとき、イエス・キリストご自身が自分の中にはいって来てくださり、イエス様ご自身の謙遜といういのちで自分を満たしてくださるということではないでしょうか。謙遜そのものであられるイエス様はそのためにこそ私たちのところに来てくださったのではないでしょうか。 ピリピ人への手紙2:6-9
十字架の死後、3日目の復活によってイエス様を高く上げられた主なる神様は、代わってイエス様の御霊を信じる者一人一人に送ってくださいました。ですから、以前私の中にプライドという自我の罪が占めていた場所を今やイエス様の御霊が謙遜のいのちで満たしてくださるのです。 私たちがプライドという罪を捨てて、真に謙遜になるためには、自分の空っぽの器にして、謙遜そのものでいらっしゃるイエス様の御霊の内住、内に住んでいただく、イエス様の御霊の内住をお願いするしかほかに道は無いのです。 ローマ人への手紙8:1-4
自分のプライドを捨てて、自分を明け渡し、全てを神様の御手にゆだねて、みこころに聞き従うこと。謙遜とは神への信仰にほかなりません。 人の毀誉褒貶、人の評価は気にしないで、神様からの栄誉だけを求める。言い換えるならば、人を喜ばせるのではなくて、神に喜んでいただく生活を送ること。これが私たちに求められているのです。 イエス様はかつて仰いました。 ヨハネの福音書5:41
と自ら言われたイエス様は、この世と人の評価だけを気にして、神のことを思わないユダヤ人に対して次のように戒めておられます。 ヨハネの福音書5:44
パウロも次のように言っています。 ガラテヤ人への手紙1:10
テサロニケ人への手紙第I、2:4
先ほども申しましたように、プライドは多くの場合、他人との比較の上で成り立つ極めて対人的、相対的なものですから、プライドにこだわる人は、とかく他者の評価や評判を気にします。人の目を強く意識します。だから人前では精一杯振る舞おうとします。 これは逆に、人が見ていないところでは何をしても構わないという偽善につながりかねません。しかし神様の目はごまかすことができません。 歴代誌第II、16:9
このように歴代誌第IIの16章では言っております。ですから私たちは人の目を恐れるのではなく、神様の御目を恐れなければなりません。 (テープ A面 → B面) しかしこのことは他人を無視せよとか、あるいは他人に無関心になれと言っているのでは決してありません。そうではなくて、人は人に対して、愛をもって互いに忍び合い、尊敬をもって互いに人を自分よりまさっていると思いなさいと、このように聖書は言っているのです。 ローマ人への手紙12:10
飛んで16節。 ローマ人への手紙12:16
ガラテヤ人への手紙5:26
エペソ人への手紙4:2-3
最後に、 ピリピ人への手紙2:3
こうして開けて見ますと、もう次から次へこれでもか、これでもかというように聖書は、他人を尊び、他人を敬え。そして他人に愛を示すことを言っております。いずれもこのようなみことばは私たち、特に私には耳の痛いみことばです。 確かに人を自分よりすぐれた者と思って尊敬することは必要でしょう。しかし知恵や能力が明らかに自分よりもはるかに劣っていると見える人を相手にするとき、あるいは考え方が著しく常軌を逸しているとみられる人を相手とするとき、あるいはまた、道徳的に問題があると思われる人を前にしたとき、それでも相手を自分よりまさっているとして、愛と尊敬をもって対することができるでしょうか。 あいつだけは尊敬できない。あんな奴は尊敬できないという思いが心に起こることはないでしょうか。 アンドリュー・マーレーは、「謙遜」という本の中で次のように言っています。一部だけお読みいたしますと、 『真の謙遜がもたらされるのは、神の光に照らして、自分が無きに等しい者であることを知り、自我と別れ、自我を捨て去り、神をすべてのすべてとすることに同意したときにである。 私はあなた(神)を見いだすことにおいて、自分自身を失ってしまったのである。だから、もう自分とほかの人とを比較することはしない。』 このように言っているのであります。少し言い換えますと、本当の謙遜というのは、自分が無価値で、無力で、神様の御前で無に等しいことを認めたときに生まれる。自分を無、すなわち何も無い者とするものだから、もうほかの人と比較しようがない。ただ神のしもべとして仕えるだけである。 隣人はすべて神の子であるから、その人がたとえどのように取るに足りない人であっても、神に仕えるように、その一人一人を尊ぶのだ。このように彼は言うのであります。 確かにその通りには違いありませんが、これは私のような凡人にはなかなか困難なことであります。 ただ凡人は凡人なりに、最近ちょっと心がけていることが一つあります。それは人に対するさばき、ないしつぶやきを口にしないということです。他人に対するさばきやつぶやきを心に思わないというのではありません。心に思っても、それを口にはしないということであります。 心に思うということは避けようがありませんが、それを口に出すか出さないかは、ある程度自分の意思で決定できます。というのは、さばきを口に出すということは、ほかの人に影響を及ぼします。 それを耳にした人の選択肢は二つあります。一つはそれに同意することです。「うん。その通りだ。あんたの言う通りだ。」と。そうなるとそれを聞いた人も、言った人に同調して相手をさばくことになります。こうしてさばきが二重となり、それがまた四重となって、ねずみ算的に増えていきます。 もう一つの選択肢は、それに反対することです。「いや。それは違う。あんた間違っている。」と。この場合はそのさばきはそこでストップしますが、今度はその言った人に対してさばきが起こります。「この人はこんなことを言って。」と、それを口に出した人に対してさばきが起こります。いずれの場合も、さばきはさばきを呼ぶのであります。 したがって、さばきを口にするということは一種の公害であります。 今日この場に私の家内が来ておりますが、私のさばき公害の一番の被害者は、もっとも身近な他者である家内であります。私は心に浮かんできた他人に対する批判をわりあい率直に、極めて気軽に口にするほうです。新聞を読んでいても、テレビを見ていても、町を歩いていても批判する種は無数にあります。 最近世の中が悪くなったせいか、あるいは私が年を取ったせいか、たぶん後者でしょうが、やたらと腹が立ってくるのです。そんなとき、ただちにそれを口に出して、口汚く罵っていたのですが、最近は意識して少し口を慎んでおります。 そんな私の変わり様を見て、それに気が付いているかどうか知りませんが、もし気が付いて家内が、「イエス様のおかげでうちの亭主も変わって、少し人格が出て来たのではないか。」などと思っていたとしたら、それはとんだ誤解です。口に出すことこそ減ったかもしれませんが、心に浮かんで来ることは以前とそう変わらないからであります。 しかし、こんなことも言えるのではないかと思います。行為、行ないというものは習慣を生み出します。習慣は性質を生み出す。そして正しく形作られた性質は人格を形成すると言われます。 口に出さないことが習慣と化して、やがて心に思うことも、それに連れて減ってくるのではないかと期待しているのですが、果たしてどうでしょうか。確かに、心に思うことを口に出せないというのはまことに腹膨るるわざであります。苦しいことであります。 しかしそんなときにパウロの次のような手紙は私に勇気を与えるものであります。パウロは言います。 ローマ人への手紙5:3-4
いずれにしましても、人間が努力してできることはしれています。人間はイエス様によって神様に頼らないと何事もできません。 アダムのそむきによって、私たちの中にプライド、高ぶりという罪が植えつけられました。その罪は代々受け継がれて、人間を強力に支配して来て、それは今や私たちの性質そのものとなりました。これを自分の力で取り除くことは不可能です。 しかし、謙遜そのものであられるイエス様が私たちの中に住んでくださることによって、イエス様の謙遜が私たちに働いて、私たちはそれを第二の性質として受け取ることができるようになるのではないでしょうか。そして私たちは少しずつイエス様に似た者に変えられていくのです。イエス様のその働きの邪魔をしないように、私たちは常に主の前に静まって、みことばを伺い、みこころに聞き従っていきたい。そのようにしてこれからの日々を歩んで行けるように祈ってまいりたいと思います。 最後に聖句をお読みして終わりたいと思います。サムエル記第Iの2章1節から3節。これはサムエルの母、ハンナの祈りです。 サムエル記第I、2:1-3
どうもありがとうございました。 |