今日は中高生若者の集いで、みなさんと一緒に聖書から学ぶことができることは感謝です。 みなさんがこの集会に来るようになった理由はそれぞれに異なるでしょうが、この集会に集われたときみなさん誰もが、ふだんあまり聞きなれない言葉を聞かれたのではないでしょうか。それは「がんばらなくてもいいんだよ」という言葉です。 みなさんびっくりしたのではないでしょうか。それはそうですよね。いつもはお家でも学校でもどこででも、「がんばりなさい」「がんばらないといけませんよ」とみなさんは言われ続けているんですものね。ところが集会では「がんばらなくてもいいんだよ」と言ってくれるのです。 「へえーがんばらなくっていいんだって。勉強もお母さんのお手伝いもがんばらなくても遊んでいていいんだ、ラッキー!」みなさんはそう思うでしょうか。 あるいは、聖書から少し学んだ諸君なら、「もうすぐ再臨でイエス様が迎えに来てくださるんだって。そうしたら永遠のいのちをいただいている私たちみんな天国へ行くんだから、残り少ないこの世の人生、あくせくがんばらなくっていいんだよ」そんなふうに考えるでしょうか。 ここにおられる賢明なみなさんはそんな風には考えませんよね。「がんばらなくてもいいんだ」というのは、イエス様の救いにあずかるためにはなにもがんばる必要はない、ということだということはみなさんはもちろん知っていますね。 信仰を持つには努力はいらない、ただ赤子のような素直な心で、ありのままの姿でイエス様のところに来ればよい。 信仰を持つために、善い人になろうとか、善い行いをしようなどとがんばらなくっていい――そういう意味合いで「がんばらなくていいんだ」と言われていることをみなさんはすでにご存知ですよね。 イエス様ご自身がそう言って私たち一人ひとりを招いてくださっています。 マタイの福音書11:28-30
これは無条件の受け容れです。あなたを休ませるためにあなたに善い人になれ、善い行いをせよ、あるいは勉強や修行に励めなどといった一切の条件をつけません。 ただわたしのところに来てわたしにとどまりなさい、と言ってくださいます。 このようにイエス様のみ救いにあずかるためには、ただ真っ直ぐにイエス様のところへ行って素直に「ごめんなさい」をすればよいのです。 なぜ私たちはイエス様の前で「ごめんなさい」をしなければならないのでしょうか。 「僕いたずらくらいなら少しはするけど、そんなに悪いことはしてないよ」とあなたは思うかも知れません。それはその通りでしょう。 イエス様に「ごめんなさい」をするのは、あなたが何か悪いことをしたからというよりも、あなたがそもそも「悪い」人間だからなのです。 いま世の中では、子が親を殺す、親が子を殺すといった、もう目をふさぎ耳を閉ざしたくなるような、悲惨で残酷な事件が続いていますね。 「なんという悪い人たちなんだ」とみなさんは彼らのことを腹立たしく思われることでしょう。と同時に、「あんなことはごく一部の人でなしのすることだ」とその事件と事件を起こした人たちを自分とは別世界のこととするでしょう。 そして「私はあんな人間に生まれなくてよかった」と内心ほっとするのではないでしょうか。 しかしあなたはこれまで人を憎んだり、恨んだり、妬んだり、あるいは軽蔑したりしたことはないでしょうか。 「あいつだけは絶対に許せない」と人を憎む、「あいつがあんなことさえしなかったなら、自分はこんなことにならなかったのに」と人を恨む、「なんだあいつは、実力もないのにあんなにうまいことやって」などと人を羨み妬む。 あるいは「なんというバカだろう、あんなことをしてあいつは」と人をさばき軽蔑する――あなたにこんな経験はないでしょうか。 また「あんなやつには絶対に負けたくない」とか、「これだけは絶対に欲しい、自分のものとしたい」とばかり、他人との競争心や自分の欲望を募らせたことはないでしょうか。 これらの性質すべての根っ子にあるのは、人間の「自己中心」と「高ぶり」です。 「自己中心」と「高ぶり」は「大切なのは自分だけ、そして自分は常に正しいのに、そう評価しない他人が悪いのだ」という思いを抱かせます。 先ほど「人でなし」と軽蔑した人たちと、そのような自分とを比べてみると、そんなに違いがあるのでしょうか。 もし置かれた環境が逆転していたらどうだったろうか。もしかりに自分が彼の立場に置かれたとしても、自分ならあんなことはしないと、果たして言い切れるのでしょうか。 犯罪者に共通するのは言い訳です。自分のしたことを他人のせいに、ないしは環境のせいにします。 「自分は本当は悪くないのに、そんなことをしたのは○○のせいだ。」すぐ自分を正当化します。 しかしこれは犯罪者でなくても、私たちが日常茶飯事にとりやすい態度とどこが違っているのでしょうか。 聖書は、人間は例外なくだれでもそのような性質を持っていると断言します。 マルコの福音書7:20-23
このように人間が生まれつき持っている負(マイナス)の性質を聖書では「罪」と呼びます。そしてその罪を背負った人間を待ち受けているのは、永遠の滅びの世界であると聖書は言います。 ヘブル人への手紙9:27
このように、人間はなに人といえども死を免れることはできません。死は遅かれ早かれ誰にも訪れます。 この人間の死は、単に肉体の死だけで終わりになるのではなく、肉体の死後にも永遠に続く世界のあることを聖書は示しています。 そこで人間は一人ひとり神様の前でさばきを受け、その結果人間は一人残らず永遠の滅びの世界に投げ込まれ、そこで永遠の苦しみを味わうことになる。聖書はこれを「第二の死」と言っています。 しかも悲しいことに、人間は自分の持つこの「罪」を自分の力ではなんとしても拭い去ることができないのです。そしてその人間の行き着く先は「第二の死」、永遠の滅びなのです。 しかしこの人間を永遠の滅びから救い出すことのできる方がおられます。それはこの宇宙世界とそこに棲む、人間をはじめ万物を造られた創造主である唯一の神様です。 ご自身が特別の愛をもって創造された人間、その人間がご自分に背いて、自己中心の罪を負い破滅に向かっているのを憐れまれた神様は、人間にたった一つの救いの道を開いてくださいました。 神様は、今から約2,000年前そのひとり子イエス・キリストを、人間の姿をとらせてこの世に遣わされました。 イエス様は地上でおよそ30年の生涯の後、全人類の身代わりとしてみずから十字架につかれて、人間が神様に背いた結果背負った自己中心の罪を、十字架上で流された尊い血潮によってすっかり拭い去ってくださいました。 これを罪の贖いといいます。 そればかりではありません。十字架の死から3日目に神様はイエス様をよみがえらせられました。そしてこのイエス様の罪の贖いと復活を信じる者一人ひとりに「永遠のいのち」を与えてくださるのです。これがイエス様の福音(グッドニュース)です。 永遠のいのちを与えられた私たちは、この世での肉体の死後待ち受けている「第二の死」、すなわち永遠の滅びを経験することなく、それとは正反対の世界、イエス様のおられる天国に行きます。 天国では福音を信じて先に逝った最愛の、主にある兄弟姉妹たちと再会でき、イエス様の祝福のうちに、その懐かしい人たちとともに永遠に生きることが約束されているのです。 ヨハネの福音書3:16
いま私たちが生きているこの世の人生は、天国へ向かうための準備期間と言われます。 天国での永遠の生活と比べるとこの世の人生は、ほんの一瞬の短いものに過ぎません。しかしそれは天国に向かう大切な準備期間なのです。 だがその準備期間は楽しいだけのものではありません。いやむしろつらいことや苦しいことの方が多いくらいです。それはなぜでしょうか。 そのつらいことや苦しみを通して神様が私たちを訓練しようとしておられるからです。 何のための訓練でしょうか。それはイエス様のみ救いにあずかった私たち一人ひとりを、天国に住むものとしてふさわしく、イエス様に似たものへと変えてくださるためなのです。 私たちは日々少しずつでもイエス様に似たものへと変えていかれることによって、イエス様のかおりを放ちながら、まだイエス様の福音を信じていない人たちが一日も早くイエス様のみ救いにあずかることができるように、実を結ぶためなのです。 私たちが豊かな実を結ぶためには、日常生活のすべてを通して私たちがイエス様のご愛を証することが必要です。 私たち一人ひとりがイエス様のみ救いにあずかってどんなに喜んでいるか、そんな私たちのありのままの姿が大きな証となり、豊かな実を結ぶことにつながるのです。 「そんなこと言われても私たちの日常生活はきびしくて、そうそう喜んでばかりもおられないよ」そう思う人がいるかも知れません。 確かにこの世の人生はいつもきびしいものでしょう。なぜならそれは神様の訓練だからです。訓練というのは時にきびしさをともなうものです。 しかし私たちが日常生活で経験するつらいことや苦しみを、それらすべてを神様の御手から受け取ったらどうでしょうか。その苦しみは喜びに変わるのではないでしょうか。いやもっと正確に言うと、その苦しみは変わらないかも知れません。 しかしその苦しみを神様の御手から受け取った人は、苦しみながらそれを喜ぶことができるのです。 みなさんがやっている毎日の勉強や仕事だって神様の訓練です。勉強や仕事は楽しいばかりではありません。「なんでこんなことしなきゃならないんだろう」とついつぶやきたくなることもあります。 しかし自分でどんなにつまらないと思っても、それが神様から来ていると考え直してみるとどうでしょう。それらはあなたがなすべきこととして神様から与えられたもの、言い換えれば天から与えられた務め、すなわち「天職」なのです。 ですから私たちは神様が自分に与えてくださった天職に対して、これを喜んで受け取り、真正面から取り組んで、一生懸命やり遂げなければならないのです。 そしてそんな真剣なみなさん一人ひとりの姿こそ、イエス様の御姿に似たものとして、あなたの周りの未信者の方の心の目と耳を開いて実を結び、それを神様はよしとされるのです。 パウロという人はローマ人への手紙の中で次のように言っています。 ローマ人への手紙8:18
ローマ人への手紙8:28-30
私たちにいま与えられているすべてのことが神様の愛のご計画の中にあることを知るならば、それらに向かって私たちは真剣に取り組まねばならず、この世の人生を大事に生きていくことが必要となります。 それですから、冒頭にある人が言ったように「この世は仮の浮世さ、がんばらなくっていいんだよ」などとうそぶいてはいられないことになります。 天国に向かう大切な準備期間であるこの世を、神様からの天職をないがしろにして、そのように無為と怠惰な生き方をすることを、神様は決してお喜びにはなりません。 また別の人は言うかもしれません。「この世は憂き世と言うくらい、つらくて悲しいことばかり。こんな憂き世に早くさよならをして、イエス様のいらっしゃる天国へ急ぎましょう。」 そう言って死を望む人、さらには「自殺」という方法でみずから自分のいのちを絶ってしまうという人があります。 これは神様を最も悲しませる、まったく誤った考え方というほかありません。 せっかく神様から与えられて、今神様に生かされているいのちなのです。神様が「生きよ」と命じられるこの世のいのち、すなわち天国へ向かう準備を、自分勝手な感情や思いに負けて、いい加減にすることは許されません。 私たちがこの世で生きているのは自分の思いや自分のためではなくて、主のみこころによって主のために生かされているのだ、だから自分の生や死を決めるのは自分ではなくて、主ご自身であります。 パウロは同じくローマ人への手紙の中で言っています。 ローマ人への手紙14:7-9
この世は天国の永遠の生(いのち)に向かうための準備期間である。死は終わりではなく、次なる永遠の生(いのち)へと続く希望の入口である。 そしてこの世において自分たちに与えられる出来事はすべて、神様の愛のご計画のうちに神様ご自身の御手から来ているのだ。このことを知るみなさんはなんという幸せ者でしょう。 これは、この宇宙世界とそこに棲む、人間をはじめとする万物を造られた創造主なる唯一の神様を知る者の特権であります。そしてこの特権はだれかれの差別なくすべての人に平等に与えられます。 ただ自分の心の奥底を探り、真の自分のありのままの姿を見つめて、その負(マイナス)の性質すなわち「罪」を認め、その罪を赦すために十字架の上で自分の身代わりとなって死んでくださったイエス様に「ごめんなさい」と「ありがとう」をすればよいのです。 そうすればあなたはもはや「罪人(つみびと)」ではなくて神様の前に義、すなわち正しいものとされると、聖書は言っています。 それは神様のあなたに対する一方的な恵みです。 ローマ人への手紙3:21-24
反対に、この神様を知らない人たち、あるいは知っていても意識的に神様を避けている人たち、この人たちにはこの幸せと特権は与えられません。 それどころか彼らは死後永遠の滅びの世界、「第二の死」へと投げ込まれるのです。なんという悲惨な話でしょうか。 ですから、毒麦が集められて火で焼かれるように、この世の終わりにもそのようになります。 マタイの福音書13:41-43
神様を知ると知らないとではこれだけ大きな、まるで天と地ほどの違いがあります。 みなさんの家族や親戚、あるいは親しいお友達の中でまだ神様を知らない方、イエス様のみ救いにまだあずかっていない方のために祈りましょう。 一日も早く真の神様を知り、神様が与えてくださるイエス様のみ救いにあずかることができるようにと、真剣に祈り続けましょう。あなたの親しい人を決して「第二の死」へと追いやらないために・・・。 伝道者の書12:1
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