・・・さんへ 突然ですが今日は、神のことばである「聖書」についてこの手紙を書きたいと思います。 しかし宗教の勧誘では決してありません。すこし長くなるかもしれませんが最後まで読んでくださると嬉しいです。 いま神のことばである「聖書」と言いましたが、この「神」とは、あちこちの神社にまつられているたくさんの神々のことではありません。 この宇宙、世界そしてそこに棲む人間はじめ万物を造られた創造主のことです。 この宇宙は最初どうして始まったのか、これまで多くの科学者が力を尽くして研究してきましたが、いまだ正確な答えが得られていません。 有る物から有る物が生成される、すなわち「有」から「有」が発生することに関して説明することは可能ですが、「無」から「有」を造り出すことに関して現代の科学は答えることができません。 しかも、少なくとも百五十億年以上前にできたと考えられるこの大宇宙に散りばめられた無数の星々は、その間一分の狂いもなくそれぞれの軌道と周期を守って整斉とした活動を続けています。 かたやミクロの世界に目を転じると、人間の遺伝子DNAの一つひとつにまで異なる機能を与えて、複合的にそれぞれの目的に働かせるメカニズム―これを一部の学者が言うような「偶然説」あるいは「進化論」で説明するには、あまりにも整然とし過ぎ、あまりにも精緻であり過ぎると考えませんか。 この完璧にまで統御された秩序、そして最深部にまで行き届いた周到さを見るとき、そこに何か大いなる意思と手が、それも唯一つの意思と手が、働いていることを誰もが認めざるを得ないのではないでしょうか。 「初めに、神が天と地を創造した」ということばで聖書は始まります。創世記一章一節です。 聖書は人間が持つ最古の書物と言われます。どれくらい古いかというと、聖書は紀元前1,500年頃から書き始められます。日本の歴史でいうとこれは有史以前、縄文時代の後期に当たります。 古いだけではなく聖書は最も新しい書とも言えます。なぜなら聖書は現在まで341の言語に翻訳され(抄訳も入れると1140種以上とも言われます)、しかも今でも世界で年々数千万部が頒布されている超ベストセラーです。 聖書は一時に書かれたものではありません。紀元前1,500年頃から紀元1世紀にかけておよそ1,600年間にわたって、約40人の異なる著者によって記されたものです。 内容は、歴史、伝記、詩、諺、預言、寓話、書簡などいろいろな形式のもので、全部で66巻からなっています。66巻のうち、「旧約聖書」が39巻、「新約聖書」が27巻、「3×9=27」と覚えます。 このように聖書は気の遠くなるような長い期間に、40人という、それも当時の最高の教育を受けた人、あるいは無学の漁師、王、外交官、羊飼い、祭司、取税人あるいは医者といった、それぞれの時代の社会のあらゆる階層の人々によって記されました。 聖書は、書かれた時期も、著者も、また書かれた形式もそれぞれに異なるのですが、これはまったく不思議なことですが、聖書66巻に流れる主題(メインテーマ)は素晴らしい一致を見るということです。 その一致は、まるで一冊の書物のように集合的に語られており、取り扱うどの主題も、他の部分と互いにまったく矛盾しないという、不思議な一致です。 こんなことって考えられますか。普通ならまったくあり得ないことでしょう。どうしてそんなことが可能になるのか、それは私たち人間がいくら考えてもわかりません。それならば聖書それ自体に答えてもらいましょう。 テモテへの手紙第II、3:16
ペテロの手紙第II、1:20-21
聖書は個々の人間の考えによって書かれたのではなく、神の啓示によって書かれたのです。言い換えれば聖書の真の著者は神、すなわち天地万物の創造主なのです。 創造主が時代を超えてその時々に40人の人々にご自身を現わされて、その人を通して語られた神自身のことばが聖書なのです。 確かに聖書の中には、「主が仰せられた」「神がこう語られた」または「イエスは言われた」といった伝聞記録形式が多用されています。 もうひとつ聖書には驚くべきことがあります。それは聖書が書き始められた3,500年昔から現在に至るまで聖書の内容に一切変更がない、ということです。 ここで言う「内容」とは、「概要」とか「主旨」といったおおよその内容という意味ではありません。 聖書に使われている一言一句が変わらない、という厳格な意味において内容が不変なのです。 もちろん印刷技術が発明されるまで、聖書は人の手による多くの写本によって少しずつ伝えられていきました。筆写は人間のやることですから、書き間違いもあったことでしょう。 また聖書の原典は、旧約聖書はヘブライ語、新約聖書はギリシャ語ですが、そこから多くの外国語に翻訳されていきました。従って翻訳の過程における間違いも皆無ではなかったでしょう。 しかし、これまでなされた多くの検証の結果、奇跡的とも言ってよいくらい原典の正確性は保たれたそうです。 従って私たちはいま、2,000年前イエス・キリストや使徒たちが用いたと同じ旧約聖書を手にしています。 また新約聖書も、ある調査によれば1,000語のうち999語は原著者の手から伝わってきたままの原文で、しかもその疑問のある一語でさえ、原典の本質には影響しないことが認められています。 古来、聖書ほど多くの攻撃や批判にさらされた書物はないと言ってもよいでしょう。 聖書は多くの歴史家や、近代に至っては殊に自然科学者たちに、数々の「誤り」を指摘され厳しい批判に晒されました。 しかしどうでしょう。現在振り返ってみると、残ったのは聖書の真正性だけでした。 聖書の記述が歴史的事実に反するという多くの批判は、その後考古学等の新発見によって次々と覆えされて歴史の中から消えていきました。 また人間の科学は発達したとはいえ、神の領域から見れば科学がこれまでに解明してきたところは、像の巨体のうちそのつま先の一部をかすったかどうか程度であることを、心ある学者は認めています。 「知らない」ことを「間違っている」と言えないのは当然でしょう。このようにどんな批判攻撃にもかかわらず、聖書は一言一句変わらず今も生き続けています。 聖書は預言の書であると先にも言いましたが。聖書は何世紀もの未来に起こることを正確に予告しています。 詳述は避けますが、聖書の中にある何千という預言がこれまでに実現(成就)していることが実証されています。 一つだけ例をあげますと、イスラエルの国が滅びて国民は諸外国に散り散りにされること、しかし彼らは立ち滅ぼされることなく、神は再び彼らを集め、もといたところに帰らせるという預言が、旧約聖書にあります。 レビ記26:33、44
エレミヤ書32:37
この預言の通り、西暦70年ローマ軍の攻撃によりエルサレムは陥落し、イスラエルの民は何度目かの流浪の旅に出されます。 以後ユダヤ人は地球上の各所に散在しますが、他民族の中に埋没し、いつしか消滅してしまうことなく、厳しい迫害や排斥を受けながらも民族の純粋性を守り抜きます。 それからおよそ2,000年の歳月が流れて、西暦1948年ついにイスラエル国の建設を見ることになります。 ある学者の試算によれば、旧約聖書中に数々あるキリストに関する預言のうち、これまで332の異なった預言が成就された。 このことを数学的確率で示すと、それは「84×10の97乗分の1」の確率ということです。これがどのくらいの数字になるのか想像もつきませんが、いずれにしてもこれだけ正確な預言をすることは人間技でないことは確かなようです。 ・・・さん、この手紙もだいぶ長くなってきました。そろそろまとめとして「聖書はいったい何を語っているのか」をお伝えして終わりたいと思います。 神のみことばである聖書が、旧約、新約全66巻を通して一貫している主題は、「救世主イエス・キリストによる人間の救い」です。 「人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっている」と聖書が言うように、なに人といえども人間は死を免れることはできません。死は遅かれ早かれ誰にも訪れます。 この人間の死は、単に肉体の死だけで終わりになるのではなく、肉体の死後にも永遠に続く世界のあることを聖書は明示しています。 そこで人間は一人ひとり神様の御前でさばきを受け、その結果人間は一人残らず永遠の滅びの世界に投げ込まれ、そこで永遠の苦しみを味わうことになる。 聖書はこれを「第二の死」と言っています。俗に言うところの「地獄」です。 「地獄」とはどんなところかもちろん私たちにはわかりませんが、聖書から推察するに、それは文字通りの火の海や針地獄で鬼や悪魔に痛めつけられるといったところではないようです。 それはあくまで苦痛の比喩的表現であって、真に意味するところは「孤独の世界」ではないでしょうか。 誰とも接触を絶たれて、まったくの独りぼっちの孤独の中に永遠に住まう―人間にとってこれほどの苦しみは無いのではないでしょうか。 人間というものは、完全な孤独の中に置おかれるくらいなら、たとえ相手が鬼や悪魔であってもコンタクトしたい、せずにはおられない生き物ではないでしょうか。 なぜそのような苦しみに、私たち人間は遭わなければいけないのでしょうか。それは人間がすべて「罪人」だからです。 これは何か具体的に罪を犯したという意味であるよりも、人間そのものが生まれながらにして「悪い」のです。 なぜなら人間は、自分たちの創造者である神のご意思に背いて、神様を無視して自分を神とするのです。自己の都合と自己の利益を最優先する自己中心の罪を人は生まれながらに持っているのです。 自分の性質そのものが悪いことを、人はなかなか認めたがらないものですが、ひとたび静まって自分の心の奥を探ってみると、そこに邪悪なものがいっぱい潜んでいることに気づくのではないでしょうか。 聖書は言います。 マルコの福音書7:20-23
しかもここで言う罪とは、実際の行為だけではなく、それを心に抱くことも含まれます。すなわち、人を憎むことは「殺人」、他人の持ち物や裕福な生活を羨むことは「盗み」、また異性を見て情欲を抱くことは「姦淫」の罪だというのです。 人間はなに人といえども生まれながらにこの性質を持っており、そしてその人間を死後待ち受けるのは「第二の死」すなわち「永遠の滅びの世界」「永遠の孤独」なのです。 それではこの永遠の苦しみから逃れる道、言い換えれば人間に「救い」はないのでしょうか。実はあるのです。 人間を創造された神は、そのように自我と欲望のかたまりとなって滅びの世界へと向かっている人間を憐れんで、人間に救いの道を開いてくださいました。 今から約2,000年前、神様はひとり子イエス・キリストを人間の世界に送られ、その十字架の死によって人間の罪をすべて贖い出してくださったのです。 イエスのこの犠牲の死によって、私たち人間はなんの代価を払うことも無く、ただその事実を信じ自分の罪を悔い改めればその罪は赦される。 そればかりではない。十字架の死から3日目に甦えられたイエス・キリストの復活を通して、罪赦された人間は「死」から解放され、「永遠のいのち」を与えられ、新しく生まれ変わる。 新しく生まれ変わった自分は、この世で肉体が滅んだ後も、天国に復活されたイエス・キリストと共に永遠に生きる。 ・・・さん、これがイエス・キリストの福音(グッドニュース)です。 そしてこれこそが聖書66巻を一貫する主題「救世主イエス・キリストによる人間の救い」です。 聖書の中にイエス・キリストの言葉が次のように記されています。 ヨハネの福音書11:25-26
ヨハネの福音書5:24
「私は、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きる」と約束されたイエス・キリストは、宗教家ではありません。もちろんキリスト教の教祖でもありません。キリスト教はイエス・キリストの死後何世紀も経ってから人間が始めた宗教です。 同じように仏教も紀元前六世紀頃人間釈迦が、人生の苦しみと悲しみから解脱する方法として瞑想の中に見出した一種の人生哲学です。 イスラム教は6世紀後半アラビヤ半島の町メッカに生まれたマホメット(ムハンマド)によって始められました。 世間では、釈迦とマホメッドと並べてキリストを世界三聖人の一人ということがありますね。しかしこれはまったく的を外した列挙というほかありません。 なぜならそれはまったく異次元、異質なものをひとからげにするものだからです。キリストと他の二人を分かつ大きな理由があります。 それは彼らは人間ですが、イエス・キリストは神だということです。 これは何もキリスト者の独善的な見解でもなんでもありません。その証拠に、死から復活したのはイエスしかいないということです。 死から復活、これこそイエス・キリストの「神のひとり子」としての位置づけを確立する事実です。 「キリストの復活?それは信者が後で考え出した作り話か伝説だろう。科学の発達した現在に通じる話ではない。」―そのように思うかもしれませんが、キリストの復活は、その事実を目撃した大勢の人たちがまだ存命中に書かれた証言によって明らかにされている歴史的事実なのです。 この歴史的事実の前にはなにびとも口を閉じざるを得ないのではないでしょうか。 事実復活はイエスが神であることを証明するものであり、このことによってイエス・キリストは、その福音を信じる者全員に対して天国、すなわち永遠のいのちへの道を開かれました。 ですから、天国はイエス・キリストにおいてしかありません。 人間がつくった宗教は人間に要求します。 いわく、善い人になれ、善い行いをせよ、修行を積んで悟りを開けと要求します。あるいはお金を要求します。 しかし、聖書の神は人間に要求しません。ただそのままの姿で重荷を背負った人間を受け入れてくれます。イエス・キリストのことばです。 マタイの福音書11:28
これは無条件の受け容れです。あなたを休ませるためにあなたに、お金や善行あるいは勉学修行といった一切の条件をつけません。 ただわたしのところに来て私にとどまりなさい。そうすればあなたはきよめられ、神の子として実を結ぶのです、と言っています。 再びイエス・キリストのことばです。 ヨハネの福音書15:4-5
「死は終わりではない」そのあとに続くイエス・キリストの永遠の世界がある。 そこでは先に逝った最愛の夫や妻、懐かしい家族や親戚、親しかった友人や知人に再会することができる。そして天国行の切符はそのことを信じるだけで手に入るのです。 長々と書きました。もうおわかりでしょうが、この手紙を書いた私たちの願いは、あなたたちにもこの「天国行の切符」を手に入れてもらいたいのです。 そしてこの世ではたとえ別れ別れになることがあっても、天国で再び一緒になり、今度こそはもう別れの心配なく、永遠に生きてほしいのです。 そこはもちろんご両親はじめ懐かしい家族や親戚、親しかった友人知人たちと再会できるのです。その天国のありさまを聖書は次のように語っています。 ヨハネの黙示録21:3-4
病気の無い世界、悲しみの無い世界、苦しみの無い世界、死の無い世界−−この世でいったん別れた後は、みんなでそこへ行きましょう。 どちらが先になるか後になるか、それは神様だけがご存知です。そこで再びお会いしましょう。 ・・・さん、間違っても独りぼっちの「永遠の孤独の世界」にだけは行かないでください。また愛する人をそこへ送らないでほしいのです。聖書を読むにあたって、一つだけ強調しておきたいことがあります。それは、聖書は心開いた人にだけ語りかける、ということです。 聖書の言い回しや話法には独特のものがあり、また外国語の翻訳という制約もあり、現代のわれわれには一寸とっつきにくいところや馴染めない表現もあります。また書いてある内容を頭で理解しようとしても、それは「理解できない」のが普通ではないでしょうか。 聖書は神が書かれたものであるという事実を思い浮かべれば、それは至極当然です。 人間の有限の知恵と知識で、無限なる神の知恵と計画を推し量ることはできないのが当たり前でしょう。 しかし、聖書の著者である創造主の前に静まって、「どうぞ語ってください」という態度で謙遜に心の耳を傾けるなら、主は私たちの心の目も開いてくださいます。 そうなると聖書の一句一句が、あるときは火花のように鋭く、あるときは慈母の子守唄のようにやさしく、どんどん胸に飛び込んで来ること請け合いです。 最後にみことばを一つお贈りします。 ローマ人への手紙8:28
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