神さまの取り去りと養い


青柳兄

(テープ聞き取り)

私も、今、司会をして頂いた兄弟と一緒に、スイスのキャンプに参加して参りました。わたしの息子も参加させて頂きました。それが盲腸の手術をして、参加できるかどうか危ぶみましたが、前日の検査でOKが出て、参加することができました。

スイスは、天候にも恵まれ豊かな大自然の中で、素敵でした。そして当初、予定されていなかったお二人の方の洗礼も実施されました。
当初予定されていなかったので、どこでするか。バスタブのあるホテルを探して、急遽行われました。
おひとりは、ロンドンに留学中の方でした。その方は、はじめて集会に参加して、二日目の晩に受洗したいと、思いを与えられました。
もう一方は、高山にお住まいの姉妹のご主人でした。ずいぶん長い間、抵抗されたそうですが、その数時間前に受洗したいとおっしゃいました。
こうした主の御手による救いは、神さまの導きでした。

きょうは、神の救いについて、みなさんで考えてみたい。
人が救われることは、人間の自分自身の力によってなるのではなくて、神さまのなされる賜物です。救いは、神さまの人間に対する一方的な愛から来る恵みで恩恵です。
しかし、神さまが人間をどのようにお救いになるかと言うとその方法は一応でなく、スイスでの受洗の方々のように、ケースケースに異なるように思います。
ある人は、何か特別な事件がきっかけとなって、神さま、イエス様と劇的な出会いをはたし、自分は救われたと確信を得て、感謝の涙をはらはらと流され、そのようなドラマティックな場面に遭遇するかと思うと、他方では、自分は信仰の道に入って久しいのに、まだ信仰の確信がない。自分は、救われていないのではないか。こう言う疑問を持つ方もいます。
こう言う人たちにとって、先ほどのケースを目の当たりにしたり、あるいは、その方のお証しから劇的な回心のシーンに出会うと、たいへんうらやましくなります。その陰で、
この自分はとうなだれてしまい、かやの外に置かれているさびしさと、一種のコンプレックスに陥ってしまうことがあります。
それでは、これらの人は救われていないのかと言うとそんなことはないように思います。
きのうと、きょうと言う短期間では気がつかないかもしれませんが、その期間を長くとって、使用前と使用後を比べてみますと、その間に確実に変化した自分を見出すはずです。

神さまは、人間をお救いになるのに、大きく分けてふたつの方法をおとりになるように思います。
そのひとつは、神さまが人から何かを取り去れることによって、ほかのひとつは、神さまが、人の信仰を養われると言う方法によってであります。

第一の方法は、取り去りであります。
神さまは、大切にしているものを人間から無理やり奪い去られることによって、信仰に導かれるケースです。
大切にしているものは、人さまざまでしょう。それは、自分が所有している財産でありましょう。ある人にとっては、それは最愛の夫や妻、あるいは目に入れても痛くないほどかわいい子供や、孫でありましょう。
さらに、ある人が大事にしているものは、自分の肉体の健康と言うこともあるでしょう。
これだけは、失いたくない。これを失えばもう自分の身の破滅だ。と思い込んでいるもの。そのようなものの、ひとつやふたつは、人間であれば誰でも持っているのではないでしょうか。

そのように人間が大切にしているものを、神さまはある時、その人から突然に取り去られることがあります。当然のことながら、人は悲嘆のどん底に沈み涙します。
しかし、そのことによって神さまは、人間の目から、ほこりやちりのような不純なものを取り除いてくださるのです。
取り除かれて曇りのない目で改めて自分を見直した時、人は自分の本当の姿を見ます。そこにいるのは、傲慢で貪欲で、しかも無力な自分です。そして、人は、はじめてその時、目を神に向けるのです。
人はつらくて、苦しくて悲しい道を一時、通らねばなりません。しかし、そのかわり、このような場合、人は、比較的すんなりと、神さまに出会い信仰の道にはいることができるのではないでしょうか。
しかも、神さまは、この取り去りによって人間に与えられた試練をいつまでも捨て置かれず、同時に、この試練からの脱出の道も備えてくださっていることを約束されています。

コリント人への手紙第I、10:13
13あなたがたのあった試練はみな人の知らないようなものではありません。神は真実な方ですから、あなたがたを耐えることのできないような試練に会わせるようなことはなさいません。むしろ、耐えることのできるように、試練とともに、脱出の道も備えてくださいます。

しかしながら、特にこれと言って顕著な試練と言うべきものを、しない、第二のケースの場合は、いったいどう言うことになるのでしょうか。みなさまと共に、少し考えてみたいのは、この第二のケースです。
人間は、日常生活が平穏無事であると神さまのことを真剣に考えることが、普通少ないのではないでしょうか?たまに人から神さまの話しを聞かされても、自分には遠いことに思えて、なかなか本気で耳を傾けようとはしません。
その理由は、いろいろあると思いますが、そのいくつかを拾い出して彼らの言い分を聞いてみますと、次のようなことになるのでしょうか。

第一の理由は、自分は、神さまを必要とするほど、弱い人間ではない。神や仏だと言って宗教に頼るのは弱い人間のする事だ。

自分は、これまでの生涯を振り返って、他人のお世話になることもあったけど、基本的には、自分の力で生きてきた。努力をすればたいていの事はできる。これからもその方針を変えるつもりはない。神さまの助けも必要としない。
これは、そう言う人たちのグループです。

しかし、この人たちは、本当に自分が強いと思っているのでしょうか。
本当の自分はそんなに強い者ではない。それを、一番よく知っているのは、その人自身なのではないでしょうか。多少なりとも、自分を冷静に見つめる事のできる人なら、本当の自分は、欲求不満と劣等感と言う実を、プライドと言う氷砂糖でくるんだだけ、壊れやすいガラス細工のような存在と気がついているのではないでしょうか。
自分ではとっくに、気がついていながら、ただその事を認めたくない。一点、強気のふうを装いながら、自分の中のストレス箱と言う倉庫に、毎日、毎日、ストレスを溜め込み、心身ともに日々弱りつつある自分を、知っているのは、ほかならぬ本人自身なのではないでしょうか。
聖書も彼らのことを次のように一刀両断にして言っています。

ヨハネの黙示録3:17
17あなたは、自分は富んでいる、豊かになった、乏しいものは何もないと言って、実は自分がみじめで、哀れで、貧しくて、盲目で、裸の者であることを知らない。

第二の理由は、自分は罪人ではないと言うものです。

自分は、そんな悪い事をしてきた覚えがない。これまでの人生をまじめに、こつこつろ生きて来た。人間だから完全無欠とは言わないが人に後ろ指が指されることも、法律も犯したことがない。
それなのに、罪人などと呼ばれるのは、はなはだ不本意である。このように、おっしゃる人たちのグループです。

それでは、お尋ねしますが、「あなたは、これまで、人を憎んだことや、嫉妬したことが一度としてありませんか?」そんな人は、いないはずです。
神様が、この宇宙と世界を想像されたとき、神様は、この世界に住むすべての生物をお造りになりました。そして、最後に、これらすべてを支配する者として人間をお造りになりました。
しかも、ほかとは、異なる特別の愛情を持って、人間を神ご自身の形にお造りになりました。そして、人間は、神様の庇護のもと、すべてを神様にゆだねて、永遠の命を楽しんでいました。
ところがある日、へびの誘惑に負けた最初の人アダムと、エバは、神様の言いつけに逆らって、神様の道をはずれて、自分独自の道を歩むようになりました。その時から、人間に、自我と欲望が生まれました。人間は、自我と欲望を追求するようになり、今日に至っています。
世界は、自分中心にある。そしてすべては、自分の利益のためにある。といって、自我と欲望を追い求めていくと、その結果は勢い、他人に対する敵対心と、その裏返しである嫉妬心となって現れてきます。これらは、傲慢と劣等感の反映でもあります。

別の言葉で、言い換えると、自分の心が、神に対しても、他人に対しても、愛のない状態のことです。それが、人間の罪なのです。
聖書が言う基本的な罪とは、個々の行為ではなくて、持つ心の状態、あるいは性質そのものを言うのです。
この罪の性質が人間にはいってから、人間は、その罰として死ななければならなくなりました。すなわち、死と言うものを免れなくなったのです。人間の罪の根元は、人間が神様にそむいたことに発しています。そして、人間は、なにびとと言えども、この罪のらち外に置かれることはありません。

これは残念ながら厳然とした事実です。聖書は、この根元から発する罪が、具体的にどのように現れるかを次のように言っています。

ローマ人への手紙1:29-32
29彼らは、あらゆる不義と悪とむさぼりと悪意とに満ちた者、ねたみと殺意と争いと欺きと悪だくみとでいっぱいになった者、陰口を言う者、
30そしる者、神を憎む者、人を人と思わぬ者、高ぶる者、大言壮語する者、悪事をたくらむ者、親に逆らう者、
31わきまえのない者、約束を破る者、情け知らずの者、慈愛のない者です。
32彼らは、そのようなことを行なえば、死罪に当たるという神の定めを知っていながら、それを行なっているだけでなく、それを行なう者に心から同意しているのです。

さあ、ここで、聖書があげている罪の具体例について、一つとして自分には覚えがないと言える人は果たしてられるでしょうか?

第三は、自分は現状に満足している。問題はなにもないだからほっておいて欲しいと言うものです。
いわゆるleave me aloneタイプの人たちであります。

自分は、外においては仕事をばりばりやり、内においては家族にも恵まれ、かといって、問題と言うことがあるわけではない。幸い結婚にも恵まれている。すべて順調だ。
神様もいいけど、今は、とてもそんな事にかかわっていられる心境ではない。
ひとことで言うと、この世で、もっとも幸せな種類に属する人達であります。ご同慶の至りと言っても良いでしょう。

しかし、彼らが、ややもすると陥りがちな落とし穴がありまうす。それは、幸せな今日が、明日へ、そして明後日へ、いつまでも、続いていくかのように錯覚することです。
人は、順境にあるとき、変化を、とりわけ悪い方向への変化を認めたがらないものです。人は、人、自分だけは大丈夫だ。ついつい希望的に物事を見てしまいがちです。
しかし、世の中は、一寸先は闇。いったい何が起こるかはわかりません。何も起こらないかもしれません。ただ、ひとつ確実に言える事は、そしてこれだけはどんな人にも言えることがある事です。
それは、人間は、先に申しましたように、神様に罪を犯した時より、何人と言えども、死を免れることはできないようになりました。しかも、死は、いつ、その人を襲うかはわかりません。
それは、何年、何十年先のことかもしれませんが、明日かもしれません。いや、今日、起こるかもしれないのです。
これは、年齢の老若だけで決まるものではありません。使徒ヤコブは、人の命を次のように言っています。

ヤコブの手紙4:13-14
13聞きなさい。「きょうか、あす、これこれの町に行き、そこに一年いて、商売をして、もうけよう。」と言う人たち。
14あなたがたには、あすのことはわからないのです。あなたがたのいのちは、いったいどのようなものですか。あなたがたは、しばらくの間現われて、それから消えてしまう霧にすぎません。

人は、いつ自分を襲ってくるか解らない死に対して、無防備でいて良いものでしょうか。人間の死は、単に肉体の死だけで終わるものではありません。
神様のみことばである聖書は、肉体の死の後も続く世界について明示しています。そし
て、罪ある(これは、すべての人間に当てはまるのですが)人間の死後、いくつく先は、その人は生前に、自分の罪を認め神様に赦して頂かないかぎり、永遠の滅びの世界です。
聖書は、これを、ゲヘナと呼んでいます。だから、人間は、自分を死後、このゲヘナに投げ込むことのできる方、神様を敬い、恐れなければなあらないのです。イエス様はおっしゃっています。

マタイの福音書10:28
28からだを殺しても、たましいを殺せない人たちなどを恐れてはなりません。そんなものより、たましいもからだも、ともにゲヘナで滅ぼすことのできる方を恐れなさい。

ここで言っている体を殺しても、魂を殺せない人たちとは、人間のことです。たましいの体も滅ぼすことのできる方は、神様のことです。

人間が、神様のところに、なかなか来たがらない理由の第四は、自分は宗教が嫌いだと言うものです。

宗教と言うものほど、嫌なものはない。宗教は、平和とか愛だとかを旗印に、その実、昔からやっている事と言えば、争いであり、金儲けである。
事実、世界の歴史を振り返っても、宗教の名のもとに、幾多の殺戮が行われ、そのためどれだけの命が失われたことか。また、その陰で、宗教家、聖職者と言われる人たちが、信者から金をつみ上げ、それによって、どれだけこの世の栄華を誇ってきたことか。
このように、宗教を毛嫌いする人たちのグループです。

ただ、ここで、彼らが宗教と呼んでいるものは、もっと正確に言うなら、宗教団体と言う言葉に置き換えられるのではないでしょうか。
すなわち宗教と、宗教団体と言うふたつの言葉が、ほぼ同義語として用いられているように思われます。
その意味では、宗教と信仰は、違います。両者は、全く、異なるものです。そして、人間にとって必要なことは宗教にはいることではありません。信仰を持つことです。では、宗教と信仰とは、どう違うのか。

宗教と信仰の違いは、神様と人間と間に媒介者がいるか、いないかと言うことです。
言い換えると、神様と人間の間をとりもつ、媒介者があいるか、それと両者の間には、いかなる介在者もなく、人々が直接、神様に結びついているかどうかであります。
宗教には、法王とか僧侶とか牧師とか教祖とかがいます。しかも、それは、会社組織のように、いくつかの位からなるピラミッド組織によって運営されていて、人が、神様と関係を持つときは、必ず彼らの媒介や取り次ぎを必要とします。
それにひきかえ、人間は、神様の前にすべて平等であり、両者の関係は、神様と人との関係に何人の介在も必要とせず、ひとりひとりが、神様と直接の交渉を持つ。それが信仰であります。

それならと、あるいは、人はおっしゃるかもしれません。
わかった、信仰は、神様と人の1対1の関係。言い換えれば、唯一の神といっこの人間の直接、かつ個別の関係なんだな。それならば、ひとりで、家でひっそりと神様と個別に、交わればいいのであって、なぜ、君たちのキリスト集会のように、信者が群れ集まるのか。
これでは、ほかのキリスト「教」の教会と、どこが異なるのか。本当のところは、集会と言うのも、教会ではないのか。

しかし、それは、違います。わたしたちキリスト集会は、創造主である唯一の神様を、お父さまとし、イエス・キリストを頭とする家族であります。
家族ですから、お互いに集まり、交わりを持ちます。それは、当然のことであり、また、必要なことであります。
言い換えると、これは、制度とか、組織とか、教義とか形式と言った、そのようなもので、作った人為的な団体ではありません。イエス様を頭として敬い、兄弟姉妹が、互いに愛し合う、まさに、家族であり、ファミリーであります。
さらに言い換えるなら、家族の一員、一員の愛による霊的な結合体であります。
イエス様は、このような家族のつながりをぶどうの木にたとえておっしゃっています。

ヨハネの福音書15:1、5
1わたしはまことのぶどうの木であり、わたしの父は農夫です。
5わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。

聖書にある初代教会とは、このように直接的な集まりでした。それが、時代を経るにつれ、人が制度を作り、組織化することにより、今日のようなキリスト教会ができました。
これは、人が作り上げたものであって、聖書から出たものではありません。
わたしたちのキリスト集会は、聖書にある初代教会にならって、ただ、純粋にイエスキリストのい福音を信じる人たちの集まりです。
したがって、人間が作ったキリスト教と言う宗教のキリスト教会と言う宗教団体とは、根本的に異なるものです。

以上、人が、神様のところに来たがらない4点について、見ました。
人は、自分の言い分をそのように主張しながらも、このように反論されると、「ふん、そう言われれば、それはそれで一理ある。」とうなずいていることも確かです。でも、まだ、一歩、踏み出す決心がつかず門の外でためらっているのが実状です。
門の中では、イエス様が両手をさしのべて招いてくださっているのですが、その門を自分の手で叩かないかぎり、そのことに気がつきません。
しかし、幸いにも、門を叩いて、中にはいった人は、そこに待ちかまえておられるイエス様の御手が、しっかりと自分をつかむことを知るのです。
人によってこれには、なんの差別もありません。パウロは、ローマ人への手紙の中で言っています。

ローマ人への手紙3:22
22すなわち、イエス・キリストを信じる信仰による神の義であって、それはすべての信じる人に与えられ、何の差別もありません。

このように、自ら求め、門の中にはいった人は、誰彼の差別なしに、招き入れられるのは、事実です。ただ、中にはいってからの、歩むも道筋は、言い換えるなら行程は、人によってそれぞれ、異なるようです。
ある人は、中にはいった途端、高いビルの谷間から広びろとした大草原に抜け出たような、大いなる回復を持って、広い天を見上げることができます。まさに、別世界に導き切れられた思いに溢れます。
しかし、ある人にとっては、見上げてみれば、確かに周りのビルディングは、低くなっていて、大空の面積は、大きくなっているが、それほど顕著に変わった気がしない。丸の内のビル街から、神田界隈に移ったくらいの、違いと思われるかもしれません。
また、ある人は、ぜんぜん景色が変わらない。丸の内のままだ。言うことかもしれません。
神の国の門を叩いて、はいってはみたものの、今までとそれほど変わった実感が持てない。本当に、自分は救われたのだろうかと言う思いを持つ事があります。

しかし、あせることはないと思います。その人も確実に、救われているのです。神様は、その人に、イエスキリストの聖霊を宿され、その人に、最適の方法で持って、その人をお導きになります。これが、神様の養いです。
親が子を養い育てるように、神様は、ひとりひとりの信仰を養われます。
確かに、短期間では、その成長は目立たないかもしれません。しかし、ある日、ある人から「あんたこの頃、顔つきが変わったね!」と言われて、「え!」と思うことがあります。
また、以前の自分なら度を失ってあわてふためいたであろう出来事に出会ってもそんな事がなく、自分の心が平安で落ち着いているのに驚くことがあります。

イエス様の御霊は、ひと、それぞれに働きます。ある人には一気に、また、ある人には、少しづつ、その人に最もふさわしい方法で、その信仰を育んでくださいます。
しかし、そうとは、わかっていても、あとから来た人が、あっと言うまに救われてしまい、喜んでどんどん信仰の道を走って行かれるのを横目で見ると、わたくしのように、歩みの遅い者は、ひがみたくなります。

ある時、そんな愚痴をある兄弟にこぼした事があります。その時、その兄弟は、英国の文学者であり、また信仰者でもあるCSルイスの次の言葉を引用して、励ましてくださいました。

「キリストのふりをしよう。」と言うものです。
長い間、仮面をつけていなければならなかったある男の話しがあります。仮面は、その男の実際の顔よりも、ずっと美しくできていました。しかし、仮面を長くつけているうちに、だんだんと男の顔は、仮面にぴったりとあうようになってきたのです。そして、ついに、仮面を脱ぐ時がきました。
仮面を脱いだ男の顔は、以前よりずっと美しくなっていました。偽装が、本物に変わったのです。だから、キリストのふりをしよう。
自分が、キリストに及ばぬことは、百も承知。でも、キリストの仮面をかぶっているうちに、少しずつこの自分をイエス様が良い方へ変えてくださるのだ。

その兄弟は、こう私を励ましてくださいました。
人が、信仰の力を、受ける秘訣は、信仰生活を長く継続することにある事がわかります。信仰生活とは、主として次の3つを、実行することだと思います。
すなわち、一番目は、聖書を繰り返し読むこと。二つ目。主に、心からの祈りを捧げること。そして、三番目は、兄弟姉妹との交わりを広く、深くすること。この3つであります。
これらの事を日夜、たゆまず続けていると、たとえゆっくりした歩みでも、自分が気がつかない間に信仰の力が増し加わり、あらゆることを、主にゆだね、心は平安で、いつも、希望を持って喜んでいる。そんなふうに、自分が帰られていく、予感がします。
これが、イエス・キリストの聖霊の働き。すなわち、神の養いと言うものではないでしょうか。

以上、救いについて、考えて来ました。
救いは、神様の一方的な恩恵によってそれを望む者には、誰にでも与えられる。その与えらる方法は、ひとによって、様々に変わることがあるが、救い自体が与えられることについて、ひとによってなんの差別もない事を学んできました。
確かに、救いは、だれかれの区別なく、誰にでも平等に与えられる。ただし、たったひとつだけ条件があります。それは人が、神の国の門の前に立ったとき、その門を、自分の意志で叩くことであります。
門を叩くとは、なにか。それは、自分の意志で、イエス様の福音を信じる事であります。

話が、先ほどの人間が、神様に罪を犯したところに戻りますが、神様は、正義を重んじられる方ですから、この人間の罪を赦すことがおできにならない。
それでも、神様は、人間を限りなく愛して、悔い改めて、戻ってくるように、おっしゃっておられる。

しかし、自我と欲望に、目がくらんだ人間は、死の破滅に向かうばかりで、神様に立ち返ることができない。それでも、人間を愛されるあまり神様は、それを放っておくことができない。
神様は、今から、2000年前、一人子イエス・キリストを人間の世界に送られ、人間の罪をイエス様に負わされ、イエス様を十字架におつけになった。
これによって、神様の正義は全うされ神様が、人間をお赦しになることができる、言い換えれば、イエス様の犠牲の死によって、人間は、なんの代価も払うことなく、ただ、信じるだけで、その罪を赦され、その罪から、解放される。

一方、十字架の上で復活されました。イエス様の十字架の死と復活を信じた人は、もはや死からも解放されます。
なぜなら、イエス様が自分のために、自分の身代わりとなることを信じた瞬間、イエス様と自分は、霊的に一体化され、昨日までの罪に汚れた自分は、イエス様とともに葬られた。
そして、イエス様の復活と共に永遠の命を与えられ、新しく生まれ変わった。新しく生まれ変わった自分は、この世で、肉体が滅んだ後も、変わる事なく、天国に、復活されたイエス様と共に、永遠に生きる。
これが、イエス様の福音です。パウロは、次のように言っています。

ローマ人の手紙6:4-8
4私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られたのです。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中からよみがえられたように、私たちも、いのちにあって新しい歩みをするためです。
5もし私たちが、キリストにつぎ合わされて、キリストの死と同じようになっているのなら、必ずキリストの復活とも同じようになるからです。
6私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられたのは、罪のからだが滅びて、私たちがもはやこれからは罪の奴隷でなくなるためであることを、私たちは知っています。
7死んでしまった者は、罪から解放されているのです。
8もし私たちがキリストとともに死んだのであれば、キリストとともに生きることにもなる、と信じます。

救われるための、たったひとつの条件は、イエス・キリストの福音を自らの意志で、信じることであります。
ここで、ちょっと違和感をお持ちになるかもしれません。と言うのは、一般に、信じると言う言葉は、次のような場合に用いられるのが普通ではないでしょうか。
すなわち、いくつかの情報が自分の頭の中に積み重なってきて、それらが、自分がこれまでに持っている知識や、経験に照らして疑いがない時に、それがひとつの事実となって、頭に定着する、普通はこれが信じると言うことでしょう。それは、どちらかと言うと受け身の行為であり、また、理性の作用です。

ところが、福音を信じる場合は、それとは、少し異なる場合があります。

この場合、信じる対象が、これまでに自分の持っている知識や経験で測るには、少し大きすぎるのです。したがって、自分の目で見た情報や耳で聞いた事実をいくら積み重ねても、この事は信じられません。
福音を信じるのは、自らの意志による決断です。
いくら待っていても、この事はなりません。自分の罪を認めて、自分の赦しを求めて、自ら一歩、踏み出すことです。福音を信じること。受け身ではなく、積極的な意志の行為であり、また理性ではなく、心と魂の作用です。
このように、自らの意志で、自らの手を持って信仰の門を叩く、この事さえできれば、あとは、聖霊の導きにまかせるだけで、救いへの道は備えられるのです。イエス様、ご自身がおっしゃています、

ルカの福音書11:9-10
9わたしは、あなたがたに言います。求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。
10だれであっても、求める者は受け、捜す者は見つけ出し、たたく者には開かれます。

ところで、私たちの周囲には、どうか救われて欲しいと日々祈られている方々が多くおられます。ことに、当集会の姉妹たちのご主人たちで、まだ、救われていない方々が、多くの兄弟姉妹の長年の祈りの課題になっているケースが多いように思います。
そこで、そのようなご亭主方に、ひとこと申し上げたいと思うのですが、一度、奥さんに騙されてみては、いかがですか?騙されるのは、誰しもあまり愉快なことではないかもしれませんが、あなたを心から愛しておられる奥様になら、一生のあいだに、一度くらい、たとえ黙れても人生の帳尻はあうのではないでしょうか。
長年の奥様の祈りに答えて、騙されたつもりで、一歩踏み出してみては、いかがでしょうか?門の前で、ああでもない、こうでもないと考え込んで、突っ立っていないで、思い切って、自分の手で門を叩いて入ってみられたら如何でしょう?

入ってみれば、決して後悔はされないでしょう。そえどころか、ああ騙されて良かったと、きっとそう思いになることでしょう。
これは、かつて、同じ経験をした者のひとりとして、申し上げられることであります。経験者は、語るであります。(場内、笑い)

また、救われて欲しいのは、ご亭主方ばかりではありません。家族の中で、まだ救われていない妻、両親、兄弟、子ども、娘婿、息子の嫁たち・・。あなたがたにも言います。
あなたがたが、ひとりひとりの救いがご家族によって祈られています。
同じように、お勧めします。どうか、この救いを祈る祈りに答えて、あなた自身の意志で、自ら一歩、踏み出してください。

最後に、みことばを、ひとつ拝読して終わります。

ヨハネの福音書10:9
9わたしは門です。だれでも、わたしを通ってはいるなら、救われます。また安らかに出入りし、牧草を見つけます。

このイエス様の門を、ひとりでも多くの人が、自分の手で叩いてはいって行かれますよう、みなさんと共に祈り続けていきたいと思います。ありがとうございました。




戻る