引用聖句:マルコの福音書5章24節-34節
今の読んでくださった所で、主の力を自分で体験する必要性が強調されているのではないかと思います。そして主の力を実際に体験した人間の例が、ここに挙げられています。 ちょっと3つの点について簡単に考えてみたいと思います。 第1番目、彼女の状態は、本当に慰めのないものでした 第2番目、彼女は、主の力を体験したのであり 第3番目、彼女は、主の声を聞いた。結果は、病が完全に癒されたということです。 まず第1に、望みがなく慰めのない彼女の状態について、簡単に考えてみたいと思います。 おそらく、それまでの彼女の人生がどのようなものであったか、おおよそ見当がつくことと思います。すなわち、病気の苦しみ、失望と心の奥底にある悩みなのです。しかも彼女は、12日間じゃなくて12年間も患っており、いかなる医者もどうすることもできませんでした。 この12年間は、彼女にとって苦しみと悩みに満ちた連続だったでしょう。医者もお金もどうすることもできなかったのです。彼女は、結果として全く失望してしまいました。だんだん悪くなっていく一方でした。だから彼女は、失望しただけじゃなくて貧乏になってしまいました。 彼女は、持ち物をみんな費やしたとあります。けど、病気は治らなかったのです。彼女は、全くみすぼらしい状態になり、人々から遠ざかり、全く孤独な人になりました。旧約聖書の律法によると、血の流出のある女は汚れた不浄のものとされ、その女と交わることは禁じられたのです。 今日べつに読まなくてもいいですけど、レビ記15章25節から27節までを見るとこういうふうに書かれています。 レビ記15:25-27
「交わってはいけない」けれどイエス様は、律法ではなくご自身の十字架を目の前に見ておられました。この十字架においてあらゆる悩み、あらゆる苦しみ病が担われたのであります。 イエス様は、長血を患った女を遠ざけることなく、かえって近づかれ受け入れてくださいました。おそらく彼女は、その時までに主の力を主の奇跡のことを聞いていたでしょう。 そのため彼女は、イエス様が自分の病を癒すことができる。完全に癒してくださるという確信を持つようになったに違いない。主イエス様と出会う幸いな時を心から待ち望んでいたに違いない。 彼女はうしろから、イエス様の御衣をさわりました。それは、御衣だけにさわれば直していただけると思ったんです。これこそが本当の信仰なのではないでしょうか。 彼女は、医者などとは違って、イエス様は必ず自分の病を癒すことができるということを信じました。何の疑いもなく確信したのです。彼女は、ただイエス様にさわりたいという強い願いを持っていました。 すなわち、彼女はイエス様にさわれば、主の偉大な力を体験することができるということを確信したので、その時、イエス様の周囲にはおおぜいの群衆がいたため、イエス様に近づくということは簡単ではなかったのです。 大変なことでしたが、彼女の信仰がそれを可能としたのです。いかなる者も信仰を妨げることができない。彼女がイエス様にさわった時、実際イエス様の力を体験することができるということを知っていたのです。 その時、イエス様の周囲には、今話したように沢山の人々がいましたし、なかなか簡単ではなかったのです。けれど、彼女はイエス様にさわった時、実際イエス様の力を体験することができたのです。 すると彼女の血の元がすぐに渇いたのです。決して長い時間がかかって少しづつゆっくりと癒されたのではない。一瞬にして癒されました。 イエス様は、すぐ自分の力が出ていったことに気づかれました。もちろんイエス様の力が、なくなったのではない。力が働いたことを感じられました。 その時、彼女は誰にも気がつかれないように、忍び足でその場を去ろうとしたことでしょう。けれども、そのままで帰ったとしたならば、それは彼女にとって大きな損失だったに違いない。 イエス様は、ただ単に彼女が主の力を体験するだけではなく、本当に出会うことを望んでおられます。贈り物よりも、それを贈った贈り主の方がはるかに大切です。そのために、イエス様は「誰が、わたしの着物にさわったのですか。」と言われました。 疑いもなくその時、女は恐れおののいたことでしょう。彼女は、イエス様の力を信じていましたが、今やイエス様の人格を、イエス様ご自身を体験的に知る必要がありました。彼女は、イエス様に対してとった態度や行動を始めから見てみると、始めと後では著しい対象をなしたことであります。 初めは自分自身に言い聞かせて行った女が、今やイエス様にすべてありのままを申し上げました。始めは、後ろから御衣にさわった女が、今やイエス様の前にひれ伏しているのです。始めは恐れおののいていた女が、今やイエス様の愛を全人格的に受け入れるようになりました。 その時、イエス様は彼女を叱ったり、厳しく戒めたり批判したり咎めたりすることなく、本当に愛をもって「娘よ。」と言ったのです。これは全く個人的な人格的な愛を表現しています。 いつイエス様は、このようなみことばを彼女に語られたのでしょうか。それは彼女が、イエス様に悩み苦しみを告白し、すべてありのままを申し上げた後のことでした。 私たちも、イエス様から愛に満ちたみことば、自由を得させるみことばを聞きたいと思うならば、正直にすべてをありのままを申し上げるべきです。 ダビデという王様は同じことを体験したのです。 詩篇32:3-5
イエス様に悩み苦しみを打ち明け、罪を告白するならば、今日でもイエス様のみことばを聞くことができます。 マルコの福音書に戻りまして、 マルコの福音書5:34
似ている箇所はいっぱいあります。 マタイの福音書9:2
本当に聖書の中に、こういう力を与えるみことばはいっぱいあります。 イザヤ書43:1
イザヤ書43:25
初めは、彼女は癒し、解放、健康、助けだけを求めました。そしてイエス様にさわることによって、彼女は完全な癒しを体験したのです。もはや、別の医者に見てもらう必要はなくなりました。今や、あらゆる失望、落胆から解放されたのです。新しい力と喜びが彼女を満たすようになったに違いない。 彼女は、そのようにして求めたことが満たされたわけですが、イエス様は決してそれで満足なさいませんでした。イエス様は、私たちが考えているよりもはるかに多くのものを与えようと望んでおられます。 イエス様は、ご自身を深く体験的に知ることを望んでおられます。そのことだけが、本当の幸せを意味するからです。 12年間も長血を患った女にとって、病が癒されたということは、筆舌しがたい喜び、幸せでした。けれども、イエス様はそれ以上のことを望んだのです。肉体の健康のみならず、心の平安、また安全をすなわち心の病の癒しを与えたいのです。 そして、心の平安、また安全はイエス様との出会い、イエス様を体験的に知ることによってのみ、与えられるものです。私たちは、イエス様にすべてをありのままを申し上げ、罪が赦された時に初めて心の平安が与えられるのです。 サムエル記第I、1:17
私たちの求める願いは何でしょうか。主イエス様も同じように「安心して行きなさい。わたしが、あなたの願ったその願いをかなえてくださるように。」 しかしそれは、イエス様を体験的に知り、債務が支払われ、罪が赦された時に初めて成就されるのです。 集会に来て、ただ聞くだけでなく、イエス様ご自身から新しくされ、力をいただかなければなりません。私たちは、イエス様の力を自分のものとすることができるし、また自分のものとしなければ、立ち上がれないのではないでしょうか。 マルコの福音書5:30
パウロはローマ人への手紙で「福音は、神の力である。」と書き記したのであります。我々にとって、福音は聖書のみことばは、力なのでしょうか。それともただ決まって読む書物にすぎないのでしょうか。 パウロは、愛弟子であるテモテに書いたのです。「わが子よ。あなたはキリスト・イエスにある恵みによって強くなりなさい。」と「弱くなりなさい。弱くなってもいい。」なのではなく、強くなりなさいと。 エペソ人も、主にあってその偉大な力によって強くなりなさいとパウロによって励まされていますが、これらのことばを私たちは、よく知っていますが、このみことばは我々のいのちなのでしょうか。 私たちは、イエス様の力についてだけじゃなくて、イエス様の力をいただく、悪の霊が恐れて逃げるまでになっているのでしょうか。 パウロは、ひざまづき主に訴え、主の力が信者一人びとりのものとなることができるようにと祈っています。パウロの心からの救われた人々のための祈りです。 エペソ人への手紙1:15-23
エペソ人への手紙3:14-21
こういうふうにパウロは、もちろん主の恵みによって救われた人々のために、彼らの成長のために祈り続けたのです。 イザヤ書40:31
またパウロは、テモテに次のように書いたのです。 テモテへの手紙第II、3:5
信心深い様子をしながら、その実を捨てる者となる、原語では「力を捨てる者となる」という意味になっています。今日の多くの信じる者は、このみことばに当てはまる状態になっているのではないでしょうか。 多くの人々は、習慣的に聖書を読み、祈りをするけど、力を失うであろうとパウロは言っているのです。信心深いだけでは何もなりません。内に力を宿しているかどうかが問題です。 イエス様の力は、我々の内に現れ、また私たちを通して現されるということを堅く信じているのでしょうか。イエス様は、次のように言われたことがあります。 ヨハネの福音書4:14
私たちは、これを自分のものとしているのでしょうか。あるいは、自分にはできないと思うのでしょうか。 「もし子が、あなたがたを自由にするなら、あなたがたは本当に自由なのです。」とイエス様は約束してくださいました。私たちは、このみことばを信じているのでしょうか。あるいはこれは私の身には起きそうにないことと考えているのでしょうか。 イエス様は、弟子たちにすごいことを約束してくださいました。すなわち、ルカの福音書10章19節なのです。 ルカの福音書10:19
私たちは、このみことばを確信し、また救われていない家族の人々、あるいは求道中の友達の上に、すでに勝利が与えられていることを確信し、喜びの賛美をあげているのでしょうか。 イエス様は、長血を患った女が衣にさわった時、自分の内の力が出て行ったことに気づかれました。私たちも女のように、主の力を受けることをイエス様は望んでおられます。 イエス様は、我々の生活の力を、生活の中に自分の力を現すことができるのでしょうか。聖書のみことば福音は、いかにして我々の力となることができるのでしょうか。 一つの答えは、みことばを自分のものにすることです。エレミヤは「食べる」という表現を使いました。 彼は、いろいろなことで悩みました。苦しみました。誤解されてしまったし、云々と。けども、みことばを食べることによって、元気になりました。 エレミヤ書15:16
解かったんじゃない、理解できたのではない、食べた。結果はすばらしい。 エレミヤ書15:16
「みことばこそ、汝のいのちなり」とモーセは叫んだのであります。「わたしのことばは、いのちである。」とイエス様は証ししたのです。「わたしは、いのちのパンである。わたしを食べる者は、永遠に生きる。」 自分はどうして、そんなに信仰がダメになってしまったかと、疑いあやしむ者がいます。けれども、その理由は、霊の糧を食べていないからです。聖書を何回も、できるだけたくさん読まない人は、信じる者として一番損なことなのではないでしょうか。 我々にとって大切なのは、ただイエス様と、そのみことばです。みことばを読むことが、我々の一番好きな仕事になっていなければならない。福音はいかにして、我々に力となることができるか。今話したように、みことばを食べることによって。自分のものにすることによって。 第2番目の答えは、福音はいかにして、我々に力となることができるかと言いますと、自分の意見を捨てることによってです。 自分の意見を捨てること。私たちの考えや、外面を繕った意見のために、イエス様がその働きを妨げられている場合が、たびたびあるのではないでしょうか。 自分がこうだと思い込んで、その意見を離さないでいると、ちょうど牢屋に入っているみたいなもので、間違いを起こしやすいものです。弟子たちの場合がそうでした。彼らは、いろいろな事をイエス様より、よく知っていたようです。 マルコの福音書5:30-32
イエス様は、誰が信仰をもって自分の衣に手をふれ、自分の体から力が出て行ったのをもちろん感じました。けれど、弟子たちはイエス様に、「そんなことはない。」と言いました。自分の意見を言い張ったのです。我々もときどき、弟子たちと同じような態度を取っているのではないでしょうか。 もし、イエス様が今、「信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も、知り合いの人々も救われる。」、また「わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます。」、と約束される時、私たちは自らの経験で、「そんなことはあり得ない。」と自分の意見を言い張るのでしょうか。 または、この約束を素直に信じ受け入れて、心から感謝するのでしょうか。 イエス様は、自らの意見を言い張った弟子たちには、御顔を向けませんでした。主は、ただ信仰によってご自分にふれた女だけを捜し求められたのです。私たちは、主によって、しっかりと握っている自らの考えから解放していただきたいのではないでしょうか。御霊は、イエス様のみことばを信じ受け入れようとしない人からは、離れてしまいます。 イエス様は、ひしめく群衆の中で女に親しく語りかけられました。他の者は誰もそこにいないかのように、女に話されさました。イエス様が女に話されたように、私たちがどんなにひしめく群衆の中にいても、家にいても会社にいても学校にいても、親しく話すことができるお方です。 福音はいかにして、我々に力となることができるのでしょうか。今話したように、みことばを食べることによって。それから自分の意見を捨てることによってです。 もう一つ、福音はいかにして、我々に力となることができるかと言いますと、我々の信仰の決断によってです。もう一度、長血を患った女を見ましょう。 あの女は、イエス様のことを聞いた時、心を動かされ、「イエス様の所へ行きたい、行きたい。」と何ものかによって動かされて、イエス様の所へ行きました。 聖書を研究し、イエス様について知ることは、さほど自らを生かしません。イエス様ご自身から聞いたことばこそ、我々に力を与えます。もし、私たちがイエス様ご自身からみことばを聞く時、あの女のように信仰の決断をすることができます。 マルコの福音書5:27-28
これが本当の信仰です。彼女は思ったことをいたしました。その時、同じ瞬間、癒されました。主のことばを聞き、信仰の決断をするなら、昔のように今日でも、主の力は我々のいのちに現れます。 その他の何ものによっても、主の力を経験することはできません。できたとしても、せいぜい信心深い様子をしながら、その実を力を捨てるといった状態にしか達することができません。 いかなる環境で、彼女は信仰の決断をしたのでしょうか。 マルコの福音書5:25-26
彼女は、絶望的な状態にありました。12年間も病で倒れていました。しかも、この病は治らない病です。この病気にかかると、前に話したように掟によって、他の人々と交わってはいけないということでした。 パウロは次のように書いたのです。結局この女は、ローマ人への手紙7章と比べるのにちょうどいい例ではないかなと思います。 ローマ人への手紙7:18-19
ローマ人への手紙7:24
もし、私たちがこの状態まで導かれているなら、次の段階としてこのマルコの福音書5章29節に、女が経験したと同じ経験をすることができます。 マルコの福音書5:29
またパウロと同じローマ人への手紙8章1節、2節が自分のものとすることができます。 ローマ人への手紙8:1-2
これは単なる理論ではなく、事実起こったことです。イエス様の尊い血の力を体験した一人の人の証しです。この力は、我々一人びとりのためにも、もちろん備えられています。私たちは、それを必要としています。 女は、イエス様の力を身に受けた後、打ちのめされた者としてではなく、癒された者として主にひれ伏し拝みました。女は、一番低い所に自分の身を置きました。 御霊の目的は、我々を塵の中にひれ伏すまでに、砕くことなのではないでしょうか。悪魔は、人をいつも上に持ち上げます。おだてます。 マルコの福音書5:33
低くへりくだれば、へりくだるほど、私たちはありのままの姿になります。高い所にいる人、高ぶる人は、自分自身を何も知っていません。したがって、イエス様にありのままを申し上げることもできません。 弱い病気の女が、力に満ちた救い主にふれました。そのとたんに、病は癒されました。信仰を持ってイエス様を見た瞬間に、救いと癒しと元気が与えられたのです。 この主は、もちろん変わらないお方であり、イエス様のところへ行くと、必ず主の力を体験的に知るようになります。 |