引用聖句:マルコの福音書6章30節-44節
今読まれました箇所は、非常によく知られている箇所ですけれど、主題は、「飢えた者にはあなたのパンをわけ与えよ。」と付けたいと思います。 この箇所はイザヤ書に書き記されていますが、これもちょっとお読みいたしたいと思います。 イザヤ書58:7-12
ここで主の約束と条件が書き記されています。主が今年のために与えられてる約束は、11節ではないかと思うんですね。すっばらしい約束です。 「あなた」ということばは4回も出てきますね。複数形じゃなくて、あなたがたじゃなくて、「あなた」、結局主はひとりひとりを導こう、祝福しよう、用いようと望んでおられます。 けど条件とは何でしょうか。条件とは7節ですね。「飢えた者にはあなたのパンを分け与えなさい。」、10節、「飢えた者に心を配りなさい。」 これは主の条件であり、主の命令であります。主はどうしてこういうふうに命令していてくださるのかと言いますと、私たちの心を満たすためです。 そして実例として、マルコの福音書、今、兄弟の読まれた箇所ではないかと思いますね。 マルコの福音書6:31
イエス様の願いは、ほかの人々を離れて、わたしとともに来なさいということでした。わたしのもとに来なさい。 もちろんこれは今日でもイエス様の願いであり、イエス様はあなたとだけいっしょにおられたいと切に望んでおられます。 イエス様はあなたと静かに語りたいと心から願っておられます。 イエス様は、私たちは主の働き人となるためにいっしょになることを望んでおられます。 流れがイエス様から私たちひとりひとりに流れ来るために、イエス様は私たちといっしょにいたいのであります。 ここで見るとわかりますが、弟子たちはもちろん、イエス様もそうなんですけれど、非常に忙しく、食事をする暇もなかったと書いてあります。 われわれの生活もしばしば、この弟子たちと同じではないでしょうか。あんまりの忙しさのために、イエス様との交わりの時間が少なくなっていないのではないでしょうか。 私たちは毎日新しくイエス様と出会うことが必要です。毎日イエス様はこのみことばを賜ったと証しすることができるのでありましょうか。これは絶対に必要なことです。 イエス様ご自身はしばしば父なる神との交わりを持つために山や寂しい場所に行かれ、ひとり、夜じゅう祈られたと福音書に書き記されています。 イエス様は、弟子たちもまたご自身との交わりを持つために静かな場所へ行き、休むことを望まれたのです。 そして32、33節を見ると、たくさんの人たちがイエス様のところに押し寄せたとあります。 疲れてイエス様との交わりに飢え渇いている弟子たちは、その群集を見て、内心怒ったことでしょう。 けども人々は弟子たちのところへじゃなくて、イエス様のところへ来たかったのです。これらの人の妨げとなるものはわざわいです。 群集がご自分のほうへ来るのをご覧になったときイエス様は、彼らのために時間をお割きになりました。イエス様はその人たちを見たときに、心を動かされたと聖書は言っているのです。 もし私たちがその時のイエス様の立場だったらどうでしょうか。私たちは多くの人々を見ると、何を感ずるのでありましょうか。 イエス様は、深いあわれみを感じたと聖書は言ってます。 イエス様は飼う者のない羊のような、そのありさまを深くあわれまれたのです。飼う者のない羊という表現は、聖書の中によく出てくる表現です。なぜならば、人間の姿そのものを表わすことばであるからです。飼う者のない羊とは、もちろん羊飼いのない羊です。あるいは、悪い羊飼いをもっている羊です。 エレミヤ書50:6
エレミヤ書50:17
とあります。結局飼う者のない羊は休むところがありません。飼う者のない羊は獅子に追われて散った羊であります。そしてエゼキエル書の34章6節に、 エゼキエル書34:6
と書いてあります。そしてマタイの福音書の9章36節に、イエスは、 マタイの福音書9:36
とあります。イエス様の見られたその群衆は、同じく飼う者のない羊のようなありさまだったんです。 民の教師たちは当時の律法学者、聖書学者たちは彼らを天国の導く道を教えることができなかったんです。自身、知らなかったからです。 飼い主のない羊が何とたくさんいることでありましょうか。飼い主のない羊とは、イエス様のおられない羊のことです。イエス様から離れている人間こそが飼い主のない羊のような者です。 イエス様は助けのない、助け人をもたない、食べ物のない、世話する者のない、導く者のない、あわれな人々をご覧になったのです。 そして、あわれまれたと書いてあります。 イエス様はご覧になり、あわれまれ、それから福音を宣べ伝えたのです。これが正しい順序ではないかと思うんですね。 われわれの場合はいったいどうでしょうか。たとえば個人的な証しや親睦の会話のときはどうでしょうか。 ある人と会ったときにまず、その人をあわれみ話すのでしょうか。それともあわれむことなしに喋るようになるのでありましょうか。 イエス様はご覧になり、それからあわれまれ、それから話されたのです。 イエス様は大きな慈愛を込めて福音を宣べ伝えたのです。 人々は何時間も何時間も熱心に聞き、午後にいたりました。熱心さのあまり、喉の渇いたのも、お腹の空いたのも忘れてしまったんです。 イエス様のことばとはもちろん、いのちそのものだったからです。 イエス様は、「わたしのことばはいのちであり、霊である。」と言われたのです。 みことばを聞くことによって彼らは本当の意味で生かされるようになり、喜びをもつようになり、希望を得るようになったからです。 弟子たちはちょっと違う気持ちだったようです。ひとりはおそらく、「もう遅くなっちゃった。」と言い、別の弟子は、「人々たちは今日帰りたくないらしい。」と話し合ったのではないかと考えられます。 それでひとりはイエス様に、「ここはへんぴな所だよ。もう時刻も遅くなった。みなを解散させてください。そして近くの部落や村に行って何か食べる物をめいめいで買うようにさせてください。」 これを考えると、弟子たちも確かに群衆の空腹を見たのです。知らん顔しようとしなかったのです。弟子たちも群衆の空腹を見てあわれみました。 イエス様はあわれまれたあと、群衆の飢え渇いた様子を知られ、満たすために福音を宣べ伝えたんですけど、弟子たちは「みなを解散させてください。」と言ってたんです。この点が弟子たちとイエス様の違った点です。 前にひとつの歌を読んで、非常に感銘させられたんですけれども、ちょっとお読みいたします。フランス人の作った歌なんです。 「恵みのときは終わりに近づいている。 広い世界に今や静かに終わりの日が近づいている。 遠い砂漠の底から不安な叫びが聞こえてくる。 私たちの真っ暗な夜には決して光が差し込まない。 私たちを照らす神の恵みなくしては、 私たちは苦しみと闇の中、暗い道を行かねばならない。 永遠に。永遠に。 あなたたちは歌い、喜びに満ちて、自分は神の子であると言う。 私たちは死のいけにえであり、恐怖に満ち、ひどい苦しみに満ちている。 あなたたちはなぜ立ち止まっていて、夜の始まる今、私たちを救おうとしないのか。 あなたたちはなぜ主なる神がそのひとり子を遣わして、 自分たちを愛していることを教えないのか。 あなたたちのおかげで自分たちはそれを知らずに希望なく滅びゆくのだ。 自分たちは死ぬために生まれたのであり、 死は永遠から永遠に至るわれわれの運命なのだろうか。 私たちには星が輝かない。約束の光も照らされない。 遠くのほうにさばきの雷が聞こえる。 なぜ。なぜあなたがたは急がないのか。 神は行って、全世界に十字架の勝利者を宣べ伝えようと言っているのに。 あなたたちは私たちのあわれな心のために喜ばしき知らせを持っている。 傷をいやす薬を、苦痛を永遠にいやす薬を持っているのに。 なぜそんなに長く沈黙しているのですか。 あなたたちの信仰の岩に至る道を示すことばを私たちに聞かせてください。 神があなたたちに与えたなぐさめを私たちにもたらしてください。 私たちの涙を拭ってください。 私たちが死につくのもあなたがたのせいです。 どうか私たちも祝いに導いてください。 私たちの罪は悩ませ、夜は近づいている。 私たちは私たちのたましいをサタンの力に与えなければならない。 永遠に。永遠に。 遠くの国々から幾百万という人が『収穫の主よ。聞きたまえ。』と呼んでいる。 私たち信者に新しい恵みを与えてください。 私たちの罪を赦してください。 あなたのためにのみ、私たちをお用いになり、私たちを使者とならしめてください。 待ち焦がれているたましいのところへ十字架のことばを運ぶ者となさしめたまえ。 彼らが永遠に滅びないように。」 こういう歌なんです。「飢えた者にはあなたのパンを分け与えよ。」と主は命令しておられます。 このマルコの福音書6章に戻りますとイエス様はと弟子たちは、結局大群衆の前に立ちました。 けどもイエス様と弟子たちは大変違った考えをもっていました。弟子たちは人々を行かせようと思ったんですけどイエス様は違う考えをもっていました。 イエス様は何と言ったかと言いますと、「あなたがたで、あの人たちに何か食べる物を与えなさい。」と。 イエス様はいつも弟子たちと違っていた、また私たちと違った意見をもっておられることを認めなければなりません。だから私たちがみことばを読み、みこころを知ることは絶対に必要欠くべからざるものです。 イエス様は弟子たちに「パンはいくつあるか、見て来なさい。」と言いますと、弟子たちは確かめて来て「5つあります。それに魚が2匹。」と答えたんですね。大したもんではなかったんですね。 弟子たちは自分の困ったことを正直に言い表わしたんです。黙らないで、正直に自分の困ったことをイエス様に言うことは、非常に大切ではないかと思うんです。 私たちの場合はいったいどうなのでしょうか。私たちは黙っているので、見通しがつかず、見込みがないのではないでしょうか。 イエス様ははっきりとした使命を、命令を与えてくださったのです。 すなわち「あなたがたで、あの人たちに何か食べる物を上げなさい。」と。 イエス様は使命をお与えになるばあい、その使命をやり遂げる力と手段をももちろんお与えになります。 イエス様は不可能なことを命令なさいません。そしてイエス様は弟子たちにその使命を教育するために、いわゆる算術の時間をもうけられたのです。 まずイエス様は、みな、青草の上にすわるように命令なさったんですね。何という羊飼いでありましょうか。イエス様は。 主は100人ずつ、あるいは50人ずつ列を作ってすわらせました。これは厳しい秩序です。 主なる神は秩序の神です。神が罪を赦されるならば、完全に赦してくださるのです。もし主が宮をきよめられるならば、徹底的にきよめてくださるのです。 私たちの生活ではどうなのでしょうか。秩序があるのでしょうか。また、重荷を背負って悲しんでいるのでありましょうか。 大群衆をよく見回すことができたんです。なぜなら、きちんと整列していたからです。 弟子たちはイエス様のところに来て、男だけで5,000人いると報告したのです。この5,000人のために5つのパンと2匹の魚があるだけなんです。これは到底不可能な事がらです。 主イエス様は弟子たちの貧困をご自身に受け入れてくださったのです。弟子たちの悩みの報告を聞き入れてくださいました。 イエス様は弟子たちのあんまりにも少ない絶望、失望をお受けになりました。 それから非常に大切なのは、イエス様は天を仰ぎ見たのです。上を仰ぎ見たのです。 天を仰ぎ見られたイエス様のまなざしを思ってください。この天を仰ぎ見るイエス様のまなざしはイエス様の勝利の生活の、祝福された生活の秘訣だったのです。 なぜイエス様は天を仰ぎ見たのでありましょうか。どんな心の状態で天を仰ぎ見たのでありましょうか。天を仰ぎ見た結果とはどういうものだったのでありましょうか。 4つの福音書を見ると何回も何回も何回もイエス様は天を仰ぎ見たと書き記されています。 例えば、一番よく知られているのはおそらくヨハネの福音書11章の箇所だと思うんですね。 イエス様がラザロの墓の前に立たれたとき、たくさんの訴え、嘆く群衆をご覧になったのです。ラザロの姉たちも泣いていました。屍はすでに腐ってしまったんです。 一口で言えば、まったく望みのない状態だったのです。そのようなときイエス様は天を見上げたと聖書は言っています。 イエス様はそのあわれな様をご覧になって、涙を流されたと聖書は言っています。聖書の一番短いことばは、一番短い一節はそれなんですね。「イエスは泣いた。」という箇所です。 イエス様は涙を流されましたが、確信して天を仰ぎ、「主よ。わたしの願いをお聞きくださったことを感謝します。あなたがいつでもわたしの願いを聞き入れてくださることをよく知っている。」とイエス様は言われたのです。 結果は何だったでしょうか。多くの人々がイエス様を信ずるようになり、ラザロの姉たちも喜ばせるようになり、死を逃げ去られました。ラザロはよみがえったのです。 たぶんこのように天を仰ぎ見られることは、イエス様にとって簡単だったんじゃないの?彼は神の御子だったからです。当然じゃないの?と言われるかもしれないけれど、ちょっと人間のほうを見てみたいと思います。 使徒の働きの7章。別の実例が書き記されています。よく知られているステパノの取った態度です。 彼もイエス様とまったく同じ態度を取ったんです。 使徒の働き7:54-58
あとのパウロのことですね。 使徒の働き7:59-60
とあります。ステパノの状態も結局、絶望的な状態だったんです。 彼は石を投げる人々に取り巻かれていました。しかし彼は喜び、天を仰ぎ見、イエス様を見たのです。心に怒ることなく、祈りながら、もちろん生き生きとした希望をもって死ぬことができたのです。 たぶんあなたはご自分の生活を損ねる人々に取り巻かれているかもしれない。そこには怒ってる人、悲しんでいる人、泣いている人がいるかもしれない。 逃れ道はない。あなたは失望し、落胆したいと思いますか。天を仰ぎ見てください。 ダビデは詩篇の34篇5節に、次のように証ししたのです。 詩篇34:5
あなたは悩んでいる人々が信じ、悲しんでいる兄弟姉妹が喜び、いのちを得させたいと思うならば、天を仰ぎ見てください。 マルコの福音書6章に戻りますと、弟子たちはただ5つのパンと2匹の魚しか持っていなかったのです。悩みと欠乏がそこにありました。けどイエス様は天を仰ぎ見られたのです。それからイエス様は感謝しました。なんにも起こらないのに感謝したのです。 これはもちろん生まれながらの人が絶対に理解できない行動でありましょう。生まれながらの人は悩みや苦しみに感謝しません。 けど父なる神がいつも願いを聞き入れてくださることを知っている者は、感謝することができるのです。 なぜならば、目に見える現実よりも大切なのは主の忠実さ。主の約束であるからです。 イエス様は5つのパンを分け与えるために裂かれました。これこそが信仰です。 信仰は目に見えざるものから生きます。目に見えるものは結局5つのパンと2匹の魚だけだったんです。けどもイエス様は分配し始められたのです。 信仰は馬鹿げたこと、愚かなこと、奇妙なことをやります。5つのパンと2匹の魚は中学生ぐらいの人には十分かもしれないけど、5,000人にはとっても足りません。いくら考えても無理です。 けどもイエス様は弟子たちに「あなたがたで、あの人たちに何か食べる物を上げなさい。」と言われたのです。 それからイエス様から弟子たちは無制限に分けてもらったんです。弟子たちはイエス様からパンを受け取り、人々に配るのにきっとたくさん歩いた。歩かなければならなかったのではないかと思うんです。 そしてイエス様が弟子たちに裂いたパンを分け与えるたびにイエス様はわたしができることを今わかったかと無言のうちに教えられたのではないかと思います。 12人の弟子と男だけで5,000人の人がそこにいました。5000÷12は416と余りが8です。 私たちは416回、イエス様の御手のわざを見て、イエスはできることを知ったのです。たぶん2つ、または3つのパンをみんなが食べたでしょうし、また女、また子どももたくさんいたはずですから、弟子たちは本当に何回も何回もイエス様のところへパンをもらいに行ったことでありましょう。 それから魚を分け与えられたから、弟子たちはまた何回も何回もイエス様のところへ行って、イエス様の御手のわざを見たはずなんです。 これが弟子たちのための算術の時間だったんです。5つのパン+2匹の魚=5,000人前以上の食事と余りが12のかごにいっぱい。 42節を見ると、人々はみな、食べて満腹した。100人だけじゃなくて、人々はみな例外なく食べて、食べただけではなく、満腹したと書いてあります。 これこそが主の目的だったんです。人間はみな空腹です。それを知りましょう。 われわれの周りに住む人々、また毎日会える人々はみな例外なく空腹です。人々はみなまことの喜び、心からの平安を望んでいます。本当にたくさんの求めている人々がわれわれの周りにいます。 これらの人たちはみなイエス様といっしょにならなければならない。大切なのはイエス様といっしょになることです。 イエス様といっしょになることによって、人間の心は満たされるようになります。5,000人の男だけがイエス様のところへ行って、満腹したとここで書いてあります。これはもちろん考えられないことですし、奇蹟です。 人々はイエス様のところへ行って初めて、空腹がいやされることも確かです。イエス様のところには満ち足りた喜びと完全な満足があります。 自分の力に頼って、何をやっても決して平安は得られません。もし自分で正しい者となろうと努力するならばますます偽善者にならざるを得ません。イエス様のもとにのみ満足があります。 すべての人々が十分に食べてもなお、12のかごにいっぱい残ったんです。イエス様のもとではいつもあふれ出るほど余っています。よく知られているマラキ書の箇所、 マラキ書3:10
これも主の命令です。主は与えたくて、与えたくてしょうがないから、わたしをためしてみなさいと言われます。 当時の人々は、みな食べて満腹した。そして、パン切れの余りを拾うと、12のかごにいっぱいあったとあります。 たくさんの人々はまだイエス様のことを少しも聞いてません。イエス様が自分のために亡くなられたことを知らない人々がたくさんいます。 そしてイエス様は次のように呼びかけておられます。「あなたがたで、あの人たちに何か食べる物を上げなさい。」と。 人間の努力はみな無駄な努力です。彼らは救いの道を知りません。彼らはイエス様の流された血潮の力を知りません。彼らは神の子であるという喜びを知りません。 「あなたがたで、あの人たちに何か食べる物を上げなさい。」とイエス様は命令しておられます。 最後にヨハネの福音書6章8節、9節ちょっと読んで終わりましょうか。 ヨハネの福音書6:8-9
とあります。この箇所によると5つのパンと2匹の魚は小学生、または中学生ぐらいの少年のものだったことがわかります。 この少年は自分の持ってるものを全部イエス様に差し出し、その結果5,000人以上の人々を満腹させたということです。 私たちはあの少年のように、自分の持ってるものを全部、自分自身をイエス様にささげようと思いませんか。多くの救われていない人々のために。 結局あなたが一番ちいちゃな者として偉大なるイエス様とともに働くのならば、非常に偉大なことが起きます。 私たちひとりひとりはイエス様といっしょに働くべき召されていると聖書ははっきり言っているのです。 「あなたがたで、あの人たちに何か食べる物を上げなさい。」と呼びかけておられます。飢えた者にはあなたのパンを分け与えよ。生きるパンとはもちろんイエス様ご自身です。 ただ自分でイエス様を信ずることはすばらしいことでしょうし、もっとも大切なことでありましょうけれども、救われた人々はほかの人々の幸せのために祈りの中で戦うべき者とならなければなりません。 当時のイザヤは次のように呼びかけたのです。主の呼びかけに対して答えたのです。すなわち、「主よ。私がここにいます。私をお遣わしください。」、私たちも同じ態度を取ることができたら本当に幸いと思います。ちょっとそこまでにしようと思います。 |