主との出会い


ベック兄

(吉祥寺学び会、2013/07/09)

引用聖句:マタイの福音書15章21節-28節
21それから、イエスはそこを去って、ツロとシドンの地方に立ちのかれた。
22すると、その地方のカナン人の女が出て来て、叫び声をあげて言った。「主よ。ダビデの子よ。私をあわれんでください。娘が、ひどく悪霊に取りつかれているのです。」
23しかし、イエスは彼女に一言もお答えにならなかった。そこで、弟子たちはみもとに来て、「あの女を帰してやってください。叫びながらあとについて来るのです。」と言ってイエスに願った。
24しかし、イエスは答えて、「わたしは、イスラエルの家の滅びた羊以外のところには遣わされていません。」と言われた。
25しかし、その女は来て、イエスの前にひれ伏して、「主よ。私をお助けください。」と言った。
26すると、イエスは答えて、「子どもたちのパンを取り上げて、小犬に投げてやるのはよくないことです。」と言われた。
27しかし、女は言った。「主よ。そのとおりです。ただ、小犬でも主人の食卓から落ちるパンくずはいただきます。」
28そのとき、イエスは彼女に答えて言われた。「ああ、あなたの信仰はりっぱです。その願いどおりになるように。」すると、彼女の娘はその時から直った。

マルコの福音書7:24-30
24イエスは、そこを出てツロの地方へ行かれた。家にはいられたとき、だれにも知られたくないと思われたが、隠れていることはできなかった。
25汚れた霊につかれた小さい娘のいる女が、イエスのことを聞きつけてすぐにやって来て、その足もとにひれ伏した。
26この女はギリシヤ人で、スロ・フェニキヤの生まれであった。そして、自分の娘から悪霊を追い出してくださるようにイエスに願い続けた。
27するとイエスは言われた。「まず子どもたちに満腹させなければなりません。子どもたちのパンを取り上げて、小犬に投げてやるのはよくないことです。」
28しかし、女は答えて言った。「主よ。そのとおりです。でも、食卓の下の小犬でも、子どもたちのパンくずをいただきます。」
29そこでイエスは言われた。「そうまで言うのですか。それなら家にお帰りなさい。悪霊はあなたの娘から出て行きました。」
30女が家に帰ってみると、その子は床の上に伏せっており、悪霊はもう出ていた。

今の読んできてくださった箇所の内容とは、結局イエス様との出会いの大切さです。イエス様を知ることによって、結局今読みました、悩んでいる娘の母親は、重荷から解放されるようになっただけじゃなくて、必ず感謝して、礼拝したにちがいない。
「家にお帰りなさい。悪霊はあなたの娘から出て行きました。」、女が家に帰ってみると、その子は床の上に伏せっており、悪霊はもう出ていた。母親は居なかったけど、留守中に娘は解放され、元気になったのです。
礼拝したにちがいない。娘がひどく悪霊にとりつかれていた。想像できない悩みです。考えられない苦しみの種なのではないでしょうか。

まず問題であったのは、彼女はイスラエルの国の中ではなく、イスラエルの外にツロとシドン地方に住んでいました。ユダヤ人ではなくギリシャ人でした。
おそらく彼女の夫は、すでに死んで幼い娘と二人だけで生活していたでしょう。けれども、この娘は、母親にとって決して喜びではなかったのです。たしかに悩みの種でした。どうしたらいいか全く解からなかったのです。
この娘は、重病人であっただけではない。ここで汚れた霊が悪霊につかれていたとあります。そうするといくら医者でもお手上げです。何にもできない。ひどく悪霊にとりつかれている人は、もう喜びを知らない、平安もない、希望もない。いかなる医者も助けることができなかった。

そのためにおそらく母親は、偶像の前にひざまずき、必死になって祈ったでしょう。その結果、彼女の祈りは聞かれたのではない。望みなく全く絶望的な状態に陥ってしまいました。
この母親は喜びもなく、生きがいもなくなってしまいました。彼女はそのような運命になって、諦めのうちに毎日を生活していたでしょうけど、ある日彼女は、イエス様のことを聞いたのです。
当時イスラエルの中で、イエス様のことを聞いたことのない人は、おそらく一人もいなかったんです。知らないうちに有名人だった。どうしてであるかと言いますと、病人をみな癒したんです。タダですよ。想像できない。諦めてしまった人々は、イエスができると聞いた時、必ず病人をイエス様の所まで連れて行ったのです。

そしてみな癒された。「残念でした、一ヶ月前に来たならばよかった、手遅れです。」とイエス様は一回も言わなかったのです。
イエス様にとって、不可能なことはない。何でもできるお方です。

ルカの福音書7:22
22そして、答えてこう言われた。「あなたがたは行って、自分たちの見たり聞いたりしたことをヨハネに報告しなさい。盲人が見えるようになり、足なえが歩き、らい病人がきよめられ、つんぼの人が聞こえ、死人が生き返り、貧しい者に福音が宣べ伝えられています。

この重病人の娘の母親は、盲人が見え、足なえが歩き、らい病人がきよめられ、耳しいは聞こえ、死人が生き返ることを聞いたはずです。そのため彼女は、イエス様が汚れた霊を追い出すことができると確信したに違いない。
けれども、まず第一に、彼女はイスラエルの国の中に住んでいなかったのです。別の国でした。2番目、イエス様がイスラエルの外に出ることは、まず考えられないことでした。第3に、彼女が娘を一人だけ残して外出することができないということなどの理由のために、イエス様にお会いすることは全く不可能に思われました。
それにもかかわらず、イエス様は後にも先にもただ一度だけ、国境においでになられたのです。なぜイエス様は国境まで来られたのでしょうか。もちろん第一に考えられることは、大勢の群衆から離れて、弟子たちだけとの静かな交わりの時を持ちたいと思われたかもしれない。

イスラエルの中では、もうイエス様が静かな時を持つことは絶対に不可能でした。どうしてであるかと言いますと、多くの悩みや苦しみを持った人たち、病人たち、その他ありとあらゆる人たちが、絶え間なくイエス様の所に押し寄せて来たからです。
けれども主な理由は、この女に会うためであったことは、言うまでもありません。この女は、娘のためたしかに喜びもなかったし、望みもなかったし、全く絶望的な状態に置かれていました。しかし、彼女はどうしてもイエス様にお会いしたいという願いを持っていたため、彼女の所へイエス様ご自身が来てくださったのです。
私たちはイエス様に近づくよりも、イエス様は迎えてくださるお方です。

ある時彼女は、イエス様が弟子たちと共に、彼女の住んでいるツロとシドンにやって来られたことを耳にしました。その時、彼女は自分自身に言い聞かせたのではないかと思います。「今この時を逃せば、私の娘は死ぬまで癒されない。」
そのためには彼女は、全てのものを犠牲にする決心をしました。「私は、どんなことがあっても、このイエス様にお会いしなければならない。」あのギリシャ人の女は、今この時を使わなければ、私は主とお会いし、親しく交わることができないと思ったでしょう。
「私はイエス様を体験的に知らなければならない。すべての事ことは、イエス様との出会いにかかっている。」、我々はみな、そのように考えたことがあるのでしょうか。彼女がこのように考えたのは、全く絶望的な喜びのない状態に置かれていたことを、よく知っていたからです。

誰でも自分が絶望的な状態に置かれていることを知っている者は、彼女と同じ態度を取るにちがいありません。しかしその時、彼女はまだ目的を達成していなかったのです。ちょっと3つの事柄について考えてみましょうか。
第1に、何が彼女の信仰を妨げたのでしょうか。
第2に、この異邦人の女に対して、主イエス様がいったいどのような態度をお取りになったのでしょうか。
第3に、まことの信仰の土台とは、いったい何なのでしょうか。

まず、何が彼女の信仰を妨げたのでしょうか。彼女の信仰の前に横たわっていた障害物は、いったい何だったのでしょうか。
細かいことはマタイの福音書15章を見るとわかります。すなわち、彼女は叫び続けたのですが、その動機は、絶望的状態と娘に対する愛だったでしょう。けれど、それに対してイエス様は、一言もお答えにならなかったと書いてあります。
弟子たちは、イエス様の御許に来て、変な祈りを捧げた。すなわち「うるさいから、早くいらしてこの女を追い払ってください。」弟子たちは、彼女を静かにさせるために、癒そうとしたでしょうが、これはイエス様にとって不可能でしょう。

これと同じように、たとえば乞食などに対しても、本当の愛と同情ではなく、追い払うために同じようなことをすることは、一般に少なくないのではないでしょうか。弟子たちが取った態度は、本当の愛ではなかったのです。
静かな気持ちの良い状態にいることだったでしょう。けれども、イエス様が取られた態度は、根本的に違ったものでした。そして、答えられなかった理由をイエス様は、はっきりと説明してくださいました。
それは決して静けさや快適な雰囲気を求めたからではない。ご自身がイスラエルのために遣わされたのであるという使命を忘れなかったからです。イエス様の心の中には、戦いがあったでしょう。

一方において、イエス様はイスラエルのために遣わされた者でありながら、他方において、この女に対して深いあわれみと愛とを感じられました。
その時、イエス様は決して自分の思いや考えによって行動することはしないで、父なる神の指図に従うために、それを待っておられたのです。
イエス様の願いは、自分の思いではなく、父の御心が成るようにということだけでした。「わたしの思いではなく、お父様御心だけが成るように。」とイエス様は、夜昼、祈り続けたでしょう。

23節、主イエスは一言もお答えになりませんでした。どうしてであるかと言いますと、まず父に祈って尋ねたからです。イエス様は、一言も答えなかったから、女はがっかりしたでしょう。このような状態でさらにこれ以上求め続けるのはおかしい。価値のないものなのではないでしょうか。
イエス様は、イスラエルの民のために遣わされました。しかし、この女はギリシャ人であるため、選ばれた民ではなく、その意味では排除された、締め出された民でした。彼女は黙って家に帰った方が良かったのではないでしょうか。
しかし、そうではありません。彼女の信仰は、何ものによっても妨げられることなく、ほとばしり出たのです。この女は、イエス様だけが不治の病にかかった娘を癒すことができると確信したのです。そしてこの信仰は、決して失望に終わることはありません。しかし、それにもかかわらず、彼女の信仰にはもう一つ別の試練が待っていました。

イエス様は次のように言われました。「まず子供たちに与えられるべきであり、それを子犬にやるのはよろしくない。」その当時、ユダヤ人はユダヤ人でない、いわゆる異邦人を軽蔑したのであります。犬と同じように考えていたのです。
すなわち、異邦人は汚れた者であり、決して天国に入ることはできないと当時のユダヤ人は思ったのです。このようにして、当然でしょう。ユダヤ人が異邦人を軽蔑したからこそ、その結果反対に異邦人はユダヤ人を徹底的に憎む関係になってしまったのです。
そしてイエス様もご自身が、子供達すなわちイスラエルの民のために遣わされた者であり、子犬すなわち異邦人のために遣わされたのではないとはっきり言われました。このイエス様のことばは、彼女に大きなショックを与えたでしょう。

たしかにこの言葉は、そのような響きを持っていました。しかし、彼女はイエス様が憎んでそのように言われたのでないことを、はっきり解かりました。彼女の信仰はしっかりとしていました。イエス様が癒そうとしておられ、癒すことができるのであるという、彼女の確信は少しも変わらなかったのです。
弟子たちは彼女に対して決して喜んだ態度を取らなかったのです。そしてイエス様も彼女に対して、一言もお答えにならなかったんですが、それにもかかわらず、彼女は少しもひるみませんでした。
彼女の信仰は、それにもかかわらず、すべての妨げにもかかわらず、どんなことがあっても決して変わらなかったんです。彼女は「主よ。おことば通りです。でも」という言葉を続けました。

イエス様が言われたことに対して、彼女は「主よ。その通りです。あなたは正しい。」と素直に答えました。私は異邦人の女であり、犬のように汚れたものであり、イスラエルに属していない者ですと。
彼女はそのようにイエス様を信頼して、みことばに従い、それを受け入れましたが、その時でさえも、イエス様が娘の救い主であり、癒し主であるという確信に変わりはありませんでした。
彼女は何とはっきりその時の状況を理解したことでしょうか。彼女は、自分が異邦人であるため、イエス様に対して何の権利も持っていないことを素直に認めました。彼女は、食卓の下にいる子犬と同じように、子供たちのパンくずをいただきたいと謙遜に答えました。

この女にとって、与えられる権利も資格もないものとして、全く低くされた者として、恵みを受け取る以外に何にも残されていなかったのです。それこそまさに一番確実で最善のことなのではないでしょうか。
たとえば、イザヤ書49章13節を見ると次のように書かれています。

イザヤ書49:13
13天よ。喜び歌え。地よ。楽しめ。山々よ。喜びの歌声をあげよ。主がご自分の民を慰め、その悩める者をあわれまれるからだ。

イザヤ書54:8
8怒りがあふれて、ほんのしばらく、わたしの顔をあなたから隠したが、永遠に変わらぬ愛をもって、あなたをあわれむ。」とあなたを贖う主は仰せられる。

イザヤ書60:10
10外国人もあなたの城壁を建て直し、その王たちもあなたに仕える。実に、わたしは怒って、あなたを打ったが、恵みをもって、あなたをあわれんだ。

このイザヤ書は、いわゆる福音書の福音を宣べ伝える本であるとあります。
新約聖書を見ても同じ内容のことばがいっぱいあります。

マタイの福音書9:27
27イエスがそこを出て、道を通って行かれると、ふたりの盲人が大声で、「ダビデの子よ。私たちをあわれんでください。」と叫びながらついて来た。

彼は癒されました。イエス様は、彼らの祈りに答えて、奇跡を成し遂げてくださいました。
17章15節同じような祈りの叫びが書かれています。

マタイの福音書17:15
15「主よ。私の息子をあわれんでください。てんかんで、たいへん苦しんでおります。何度も何度も火の中に落ちたり、水の中に落ちたりいたします。

この「あわれんでください。」という祈りも聞かれ、息子は癒されました。

マルコの福音書10:47
47ところが、ナザレのイエスだと聞くと、「ダビデの子のイエスさま。私をあわれんでください。」と叫び始めた。

こういうふうに叫んだ盲人は、乞食であるバルテマイの祈りは聞かれ、彼は癒されました。

ルカの福音書17:13
13声を張り上げて、「イエスさま、先生。どうぞあわれんでください。」と言った。

主イエスは、この10人のらい病人の祈りを聞いて、彼らを完全に癒されました。
前に読みましたマタイの福音書15章21節以下を見ると、異邦人の女が、「主よ。ダビデの子よ。私をあわれんでください。娘が悪霊に取り付かれて苦しんでいます。」と叫び続け、そしてイエス様は答えてくださいました。
「そのとき、イエスは彼女に答えて言われた。「ああ、あなたの信仰はりっぱです。その願いどおりになるように。」すると、彼女の娘はその時から直った。」とあります。

今まで学んだ所をまとめてみると、恵みとあわれみを求める叫びに対して、主はその人を助けざるを得なかったことが解かります。
このように、イエス様との出会い、救いの確信を体験的に知り、罪からの解放の喜びと感謝を持つための最善の道は、イエス様に対して、真剣に恵みとあわれみをこい願うことです。
「ごめんなさい。あわれんでください。赦してください。」これこそ、最善の要求されている祈りです。

そこで次の2番目の問いについて、ちょっとだけ学びましょう。すなわちイエス様は、この女に対して、どのような態度を取られたのでしょうか。
最初イエス様は、彼女を厳しく拒む態度を取ったことについては、おそらく誰でも驚くのではないでしょうか。その時、この女はイエス様が、イスラエルの民、ユダヤ人のものであることを知らなければなりませんでした。しかし、主イエス様のみことばは、彼女を失望させるものではなく、反対に勇気づけ、望みを与える力を持っていました。
イエス様は、彼女を見ていかに喜んだのでしょうかね。イエス様にとって最大の喜びは、自己正当化せずに、御前にひれ伏してすべてを捧げる信仰なのではないでしょうか。

イエス様は、非常に喜んで「ああ、あなたの信仰はりっぱです。その願いどおりになるように。」と約束してくださいました。なぜイエス様は、初め黙っていたのに、後でこのようにすばらしいみことばをお与えになったのでしょうか。
イエス様は、彼女を見た時、非常にあわれみ、愛を持って助けようと思ったに違いない。しかし、まだ時が来ていなかった。まず、天のお父様に聞かなくちゃいけないと解かったからです。彼女はイエス様に向かって「主よ。私は、異邦人の女であり汚れた子犬であり、何ら権利を持っていませんが、どうか私をあわれんでください。」と叫んだんです。
この告白は、自分が作り上げたものではない。まさに聖霊の働きによるものです。誰でも、彼女と同じような態度を取る時には、主があわれんでくださり、その時がやって来るのです。誰でも、悩みや苦しみを隠さないで、すべてありのままを主に明け渡す時、主はあわれんでくださり、恵んでくださいます。

イエス様が、彼女に取った態度は本当に厳しいものだったでしょうか。イエス様は、異邦人の女を汚れた犬のようなものに例え、神の国にふさわしくないと言ったことばは事実です。
ただ一つの逃れ道、可能性は、それを受けるに値しないほどの大いなる恵みに他なりません。けど、我々一人ひとりに対しても、主は同じく厳しいことを言っているのではないでしょうか。
例えばローマ人への手紙3章を見ても、あらゆる人間についての主の判断とは、どういうものであるかが解かりますね。

ローマ人への手紙3:9-12
では、どうなのでしょう。私たちは他の者にまさっているのでしょうか。決してそうではありません。私たちは前に、ユダヤ人もギリシヤ人も、すべての人が罪の下にあると責めたのです。
それは、次のように書いてあるとおりです。「義人はいない。ひとりもいない。
悟りのある人はいない。神を求める人はいない。
すべての人が迷い出て、みな、ともに無益な者となった。善を行なう人はいない。ひとりもいない。」

旧約聖書の中で違うことばが使われていますが、内容的には全く同じものです。

イザヤ書1:5-6
5頭は残すところなく病にかかり、心臓もすっかり弱り果てている。
6足の裏から頭まで、健全なところはなく、傷と、打ち傷と、打たれた生傷。絞り出してももらえず、包んでももらえず、油で和らげてももらえない。

我々にとっても、ただ一つの逃れ道は、私たちが受けるに値しない主の恵みなのではないでしょうか。
パウロは、この恵みを褒め称えました。ローマ人への手紙4章24節25節を見ると、彼は次のように告白して、またイエス様を紹介したのです。

ローマ人への手紙4:24-25
24また私たちのためです。すなわち、私たちの主イエスを死者の中からよみがえらせた方を信じる私たちも、その信仰を義とみなされるのです。
25主イエスは、私たちの罪のために死に渡され、私たちが義と認められるために、よみがえられたからです。

福音書を見ると、はっきり中心として宣べ伝えられているのは、私たち一人ひとりを救うために、イエス様は人間にならなければならなかったのです。
血を流すことがなければ、罪の赦しは得られない。イエス様は神として死ねません。死ぬことができるために、奇跡的に人間の体を持つようになりました。人間になっただけではなく、イエス様は、自分を無にして、すべての栄光を捨ててくださいました。
イエス様は、罪の国、悪魔の国に、すなわちこの地上に下ってくださいました。もしもイエス様が、そのようにして十字架で死んでくださらなかったとしても、己を空しくして人間の姿になられたことは、考えられない大きな犠牲だったでしょう。

イエス様によって、またイエス様のために全世界は造られました。そして、イエス様はご自分を無にしてくださったのです。それは他ならぬ私たち一人ひとりを救うためでした。そして福音書によると、イエス様は人間になられただけではなく、しもべの形をとられたことも、はっきり書き記されています。
イエス様は、弟子の足を洗ってくださいましたが、それはまさに奴隷の仕事に他なりませんでした。しかもイエス様は、それを喜んでしてくださったのです。
天の軍勢は、イエス様を恐れかしこんで、礼拝しましたが、今や人間一人ひとりのためにしもべの形をとられました。

それのみならず、イエス様は犬のように、取り扱われました。ここで解かるように、当時、異邦人は汚れた犬のように考えられていたのです。
けれども、聖書はイエス様が犬のような異邦人のためにも、血を流し、身代わりとなっていのちを捨ててくださったと言っています。
イエス様がもしも、一つの目的あるいは考えを持っていなかったならば、決して犬などという表現を使わなかったはずです。イエス様は、我々を救うために、いかに低くなられたかを示そうとなさったに違いない。

ある犬は、自分の住むところもなく、愛されることもなく、絶えず追い払われていくのです。イエス様にも、心の休まるふるさとはなく、ゆっくりと寝ることのできる所さえありませんでした。
イエス様も人々から侮られ、ののしられ、あげくの果てには、十字架につけられて殺されてしまいました。けどもイエス様は、人間一人ひとりの永遠の幸せのために、一人ひとりを救うために、さらに大いなることをしてくださいました。
すなわち、単に人の姿をとられ、しもべの形をお取りになり、汚れた犬のようになられただけでなく、罪そのものとなってくださったと聖書は言っています。よく知られている大切な箇所です。

コリント人への手紙第II、5:21
21神は、罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされました。それは、私たちが、この方にあって、神の義となるためです。

十字架の上では、イエス様は父なる神の愛するひとり子としてではなく、罪のかたまりとして取り扱われました。常に父の御心だけを行なわれたイエス様は、あたかも全然、父の御心を行なわなかった者のように取り扱われました。
全人類に対する父なる神の裁きは、イエス様の上に下されました。そして、それはすべては一人ひとりのために成されたことです。
自分自身に全く絶望して、次のように祈る者は幸いです。「イエス様よ。私をあわれんでくさい。私の過ちわがままを赦してください。私を解放してください。」と。

最後に救いに至る信仰の土台とは、いったい何なのでしょうか。信仰を支えようとするあらゆる人間の努力の結果は、実際は信仰を強めるのではなく、弱めることになってしまう。
すなわち信仰の土台は、決して目に見えるもの、人間の理解、考量、観賞ではありません。正しい信仰の土台は、イエス様ご自身またはイエス様の成された救いの御業です。このことについて聖書は、忠実に告げ知らせています。
主のみことばは、いかなる場合でも、絶対に変わることのない真実そのものです。自分の悩み苦しみ、いろいろな問題は、すべてありのまま告白し、言い表す者には、罪の赦しが与えられると聖書は、はっきり言っているのです。

なぜならば、債務は主イエス様の血によって、支払われたからです。イエス様は、次のように言われます。「あなたの願い通りになるように。あなたの罪は赦されたのだ。わたしはあなたの罪をこころに留めない。」
信仰の土台、確信の土台が、私たちが理解したことや感じたことではなく、偽りのない真実なみことばだけです。
信仰とは、主のみことばに支えられていることであり、そのような信仰があれば、我々の心の中に、そしてその他の人々の心の中に、奇跡が行なわれるのです。

あの女は、後で振り返って、その時叫び続けたことは良かった。もしも黙っていたなら、そのようなことは起こらず、癒しも成されなかったと思ったことでしょう。彼女は、自分の思いや考え、感情にはよらず、また弟子たちや多くの人々の言うことをも大切にしないで、ただイエス様だけを大切にしましたが、これこそ信仰の土台です。
イエス様は、我々にも「求めよ。さらば与えられん。」と言っておられます。「さらば与えられん。」と主は約束しておられます。そのような場合、私たちの家族、知り合いの人々も含まれています。
私たちもこの女のように、家族のまた知り合いの人々のために、叫び、祈り続けているのでしょうか。もしもこの女と同じように、真剣に求め、祈り続けるならば、今日もまちがいなく、主イエス様は答えてくださり、救い、解放してくださるのです。




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