引用聖句:ヨハネの福音書3章1節-16節
すべての人は、平和を欲します。けれど、すべての人は次の戦争が、遅かれ早かれやって来ることをもちろん知っています。神のみことばである聖書は、将来はばら色ではないとはっきり言っています。政治家たちは成す術を知りません。 将来の戦争について、聖書は何と言っているかと言いますと、人類の三分の一がいっぺんに殺されます。想像できませんし、長い間誰も考えられなかったんです。なぜならば、いっぺんに人類の三分の一を殺すことなどあり得ないと思っていたんですけれど、現代人はもう疑いません。 原子爆弾を持つ国々は、この武器を使いますと5分以内に、人類の三分の一を殺すことができる。いつになるか解からない。けれど、将来いつか成ります。イエス様を信じる者は、おそらくその時、この地上にいないでしょう。先にイエス様に迎えられるようになるのではないでしょうか。 人間は、何を共通して持つべきなのでしょうか。平和に対するあこがれ、それから自由への意思、それから一致への願望です。 人間は皆、絶えざる平和をあこがれていますが、けれど、事実はいかなる世界政府もいかなる宗教も、本当の平和を与えることができません。 初代教会の人々は、喜んで告白しました。 エペソ人への手紙2:14
イエス様の一つの名前は、「平和の君」です。イエス様に出会って、主イエス様をわが身の内に受け入れた者は、絶えざる平和を持っています。 すべての人間は、自由への意思を持っています。束縛されたい人はいないでしょう。けれど、事実はどうかと言いますと、自分のしたいことをする者は、自分の情欲に縛られ、自我の奴隷と罪のしもべになります。罪はめくらにします。 真の自由は、ただイエス様に従う時にのみ存在します。そしてすべての人間は、一致への願望を持っています。というのは、不一致は、いろいろな問題、煩わしさ、苦悩をもたらすからです。人間的に成されたすべての一致は、時間的に制限されており、すぐに壊れてしまいます。しかし、初代教会について、聖書は言っています。 使徒の働き2:46
とあります。まことの一致は、ただイエス様を通してだけ存在します。 私たちは、あらゆる錯覚から逃げ出なければならない。大切なことは、巌のように動かず、昨日も今日も永遠に変わらないイエス様と出会うことです。 イエス様と出会うことによって、イエス様を本当の意味で知ることです。 今読んでもらいました箇所は、聖書の中で一番知られ読まれている箇所じゃないでしょうか。一人の宗教家、聖書学者であるニコデモという男は、イエス様との出会いによって変わりました。 彼の発見とはどういうものだったのでしょうか。このニコデモという男は、本当に真理を求める男でした。彼は、イスラエルの民に属して、広く認められた教師でした。 3章10節によると「あなたはイスラエルの教師である」とイエス様は言われました。けれど、原語を見るとイスラエルの中でただ一人の特別教師という表現が使われていることが解かります。 3章1節によると、彼がユダヤ人の指導者の一人であったことが解かりますが、教師としては別格の人であったのです。ニコデモは、最高の教育を納めた男で、彼は広く一般に認められた人格者でした。道徳的に彼は高尚な模範的な生活を送ったのです。けれど、心の奥底では彼は孤独でした。満たされていなかったのです。 だから、高齢に至るまで真理の探究者であり続けました。諦めようとしなかったのです。偽物はけっこう本物が欲しいと彼は切に望んだのです。 もちろん旧約聖書を徹底的に知り尽くした男でした。もちろん、来るべき救い主の約束を良く解かっていたはずです。彼は、イエス様についてイエス様の教えたことについて、イエス様の成された奇跡について、いろいろなことを聞いたのです。けれども彼は、真理を求め続けたからイエス様を個人的に尋ね、もっと良く知りたいと思って、その決心をいたしました。 私たちは、イエス様が我々よりもはるかに忙しく、大変な毎日を過ごしておられたことを福音書を読むと解かります。あらゆる地方から病人が、イエス様の御許に連れて来られ、それらすべての人をイエス様は癒してくださったのです。 ただで、金を取らないで。イエス様は忙しさに忙殺され、しばしば何かを食べる時間さえ見いだせないほどであったと、聖書は言っています。そして弟子たちが疲れ果てて横たわっていた時、イエス様は立ち上がって何時間か山の中で、ただ一人で祈りました。 そういうことですから、昼間イエス様と個人的に話し合うことは、実際問題として不可能に近いことでした。そこでニコデモは夜、イエス様の所にやって来たのです。彼は、正直かつ率直に自分の問題を持ってやって来ました。そして、イエス様のもとに来る者は、決して無駄にはならないということを経験したのです。 イエス様は、すべての質問に答えてくださり、あらゆる問題を解決なさり、真理へと導いてくださるのです。 イエス様のご臨在のもとで、ニコデモは驚くべき発見をしました。すなわち、模範的で正直な努力にもかかわらず、自分が霊的にはめくらで死んだ者であり、失われた者であるということを解かったのです。 神の国についての最も根本的な真理は、彼には全く解からなかったのです。 今日も、ある人々は忠実に礼拝に参加し、洗礼を受けて熱心にご奉仕し、多くの良いことを行なっているにもかかわらず、主なる神の目には、ニコデモのように霊的にめくらで死んだ者であり、失われている人が大勢いるのではないでしょうか。 パウロの時代で、そういう人々は多かったらしいです。ちょっと一箇所見てみましょうか。 テモテへの手紙第II、3:5-7
「いつも学んではいるが、いつになっても真理を知ることのできない」のは悲劇的なのではないでしょうか。もちろん動機は純粋ではない。へりくだることを考えようとしない。頭をさげたくない人々です。 イエス様との会話を通して、ニコデモは7つの発見をしました。そのことについて少し考えたいと思います。 第1の発見とは何だったでしょう。すなわち、イエス様が求める魂には、出会ってくださる備えを持っておられるということです。イエス様は、拒もうとしない、受け入れてくださる、耳を貸してくださる、もちろん助けてくださるお方です。 イエス様は、個人に対する神の配慮を知ることができました。ニコデモは、次のことばでイエス様に語ったのですね。「先生。私たちは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神がともにおられるのでなければ、あなたがなさるこのようなしるしは、だれも行なうことができません。」 ここで、ニコデモは3つのことについて語っていますね。すなわち、第1番目、イエス様が主なる神のもとから来られたお方です。2番目、主なる神が、イエス様と共におられるということ。そして第3に、主はお出来になるということです。 ニコデモの心の奥底にあった問題は、「私は、いかにして永遠なる神の国に入ることができるのでしょうか」という問題でした。けれども、ニコデモがこの問いを言葉で質問する前に、イエス様はその答えを彼に与えてくださった。 真理を求め、救われたいと思う者は、イエス様は必ず答えてくださるということを知ることができます。というのは、イエス様は昨日も今日もいつまでも変わらないお方であるからです。 私たちも、主の招きのことばが当てはまります。 ヨハネの福音書7:37-38
マタイの福音書11:28
宗教家になれなのではない。聖書を読んで勉強せよなのではない。しっかりしなさい、立派になれなのではない。 ただ、ありのままでおいで。わたしの所に来る者を、わたしは決して捨てません。 詩篇107:9
真理に飢え乾いている者は、イエス様がこの心の飢え渇きを満たしてくださることが、お出来になることを経験するようになります。ニコデモは求めた。求めると与えられることを、彼は経験しました。 結局、彼は真理の探究者でした。彼の飢え乾いた魂は、聖書の知識によっては満たされませんでした。というのは、彼は広く認められた立派な聖書学者でした。豊富な聖書知識を持っていたにもかかわらず、その聖書知識によっても、真の救いを彼はまだ知っていなかったのです。 聖書の戒めを守ることによっても、真の満たしは与えられませんでした。彼が必要としたものは、いのちの水であり、心の安らぎでした。永遠の救いを本当に得たいと思うならば、先入観を捨て、自分自身に頼ることを止め、生ける救いの神を求めるべきです。 イザヤ書55:6-7
すばらしい約束ではないでしょうか。ニコデモは、イエス様のご臨在において、すべてを自分の努力、あらゆる宗教性、自分の正義というものが、永遠なる主の前に全く無価値なものであることを知りました。 彼は経験しました。主は、イエス様は、求める魂を迎えてくださるのです。 イエス様は、あらゆる人のために、時間を作ってくださいます。イエス様は、苦しみや悩みをご存知であられ、解決することがお出来になる、これこそがニコデモの経験した、最初の発見でした。 第2の大発見は、イエス様は、偉大な教師以上のお方であるということを知ったことでした。 すでにニコデモが、イエス様と出会う前に、教えと行ないにおいて比類のないお方であると確信しました。それだから、ニコデモがはきだした結論は、イエス様が神から来られたお方であるということ、そして主なる神ご自身が、イエス様と共におられるということでした。 しかし、ニコデモがイエス様に出合った時、イエス様はそれ以上のお方であることが、いっぺんに解かりました。 もちろん、イエス様はあらゆる時代の最大の教師です。誰もイエス様のように、そのような言葉を語った者はいませんでした。 イエス様は、人間のあらゆる教えをはるかに超えています。そのことは当時、一般に認められていました。疑う人はいなかったでしょう。 有名な山上の垂訓の最後のことばを読むと解かります。 マタイの福音書7:28-29
けれどもイエス様は、教師であるよりも、まず第一に救い主です。というのは、私たちは私たちに教えてくれる誰かを必要としているのではなく、我々を救ってくださるお方を必要としているからです。 最大の聖書知識でさえも、我々を救ってくれません。救いは人間の心の中で、主なる神だけが成してくださる行ないであるから。つまり救いは、罪の問題の解決です。 御使いはイエス様のご降誕の前に、なぜイエス様が来てくださるのかを発表しました。 マタイの福音書1:21
イエスという名前は、罪からの救い主です。 ニコデモの第3の発見は、何であったかと言いますと、すなわち、肉によって生まれた者は肉であるということでした。 肉はいつまでも肉に留まります。すなわち、私たちは我々の生まれつきの性質を変えることはできません。我々の生まれつきの性質は、罪を犯すことしかできない罪の性質です。 よく言われることわざは、果たして本当でしょうか。すなわち、失敗は成功のもと。昔よく歌われた歌は本当なのではないでしょうか。すなわち、「わかっちゃいるけれど、やめられない。」、ダビデは3,000年前にそのことを経験しました。 詩篇51:5
ある人は、罪を犯すから人間は罪人ですと言います。 聖書は逆のことを言っています。人間は罪人だから罪を犯すのです。 イザヤ書64:6
人間の生まれつきの性質すなわち肉は、非常に礼儀正しく敬虔で、外から見ると良いように見えるかもしれないけれど、主なる神の目にはとても受け入れられないほど、罪に汚れています。 私たちは、まだ肉の中にいるのでしょうか、あるいは主なる神の霊によって、新生を経験したのでしょうか。 ニコデモの第4の発見とは何であったかと言いますと、まことの救いが宗教とは何の関係もないということで、したがって単なる頭の知識とも関係ないということでした。 すべての人間の行ないは、救われることにとって妨げとなるだけです。イエス様は、そのことをはっきりと仰いましたね。 ヨハネの福音書3:3、5-7
救われたいと思う人は、新生を経験しなければなりません。ここで大切なことは、外側の変化ではなく、全く新たなる創造です。 パウロは、コリント人への手紙第IIの中でこの事実について次のように書いたのです。 コリント人への手紙第II、5:17
新生は、ただ単に決断ではありません。今から集会に行きます。私は聖書を読む。私は祈ることもする。この事すべては、外側のことです。主なる神の救いは、新生から始まります。 人はどうしようもない者として、イエス様の御許に来て、イエス様を自分の救い主として受け入れることによって、全く新しいいのちを持つようになります。 イエス様を持つ者は、永遠のいのちを持ちます。永遠のいのちを持つことこそ、要求されている新生であります。 ニコデモの第5の大発見は、この新生が絶対に必要であるということでした。 もう一回、3章3節において、イエス様は「あなたが新しく生まれなければ、何をやっても無駄で空しい、役に立たない。」ということばを使っています。 7節においてイエス様は、はっきりと「あなたがたは新しく生まれなければならない」ということばを用いておられます。 救われたいと思う者は、新しく生まれなければなりません。天国に行きたいと思う者は、新しく生まれなければなりません。 ですから私たちが、本当に新しく生まれ変わっているかどうかということは、もっとも大切な問題です。 新生なしには、人間は永遠の滅びに定められています。新生なしにはまことの喜びも平安もありません。新生なしには、生き生きとした望みも存在しないのです。 ニコデモの経験した第6番目の発見は、新しく生まれ変わるのに、誰も歳とりすぎているのではないということでした。4節ニコデモは言った。「人は、老年になっていて、どのようにして生まれることができるのですか。もう一度、母の胎にはいって生まれることができましょうか。」 イエス様は、彼にはっきりとした答えを与えました。「ニコデモよ。あなたも新しく生まれることができるのです。もちろんこれは自然の事柄ではなく、超自然の事柄であり、霊的な覚醒を意味している。今まで霊的に死んでいたあなたも、新しく生まれることができます。 あなたは生ける神と結びつくことができ、あなたの債務が帳消しにされ、あなたが本当の救いの確信を得ることを経験できます。」、イエス様を信じ受け入れた者は救われ、父なる神の子となるのです。 ヨハネの福音書1:12
ニコデモの第7の発見は何であったかと言いますと、新しく生まれるためには、ただ一つの道だけが存在するということでした。 富士山の頂上に至るための道はたくさんあります。けれど、救われるためには、ただ一つの道しかない。ですから前に読んでもらいましたヨハネの福音書3章の箇所は、非常に大切です。 もう一回読みます。 ヨハネの福音書3:14-15
永遠のいのちを持つ者は、もはや裁きにあうことはありません。というのは、身代わりとなって裁かれたお方ご自身が、今や我々のためにとりなしてくださり、弁護してくださるからです。 イエス様を持つ者は、死からいのちへ移されています。救われた人々みんな、ニコデモが発見したと同じ7つの大発見をした者です。 彼らが次のように告白しています。 第1番目、イエス様は、私を迎え入れてくださり、私が求める前にイエス様は私を探し出してくださった。イエス様は、ただ単に私の苦悩を理解してくださっただけではなく、私の罪の問題を解決し、すべての悩みを解決してくださいました。 第2番目、イエス様は、偉大なる教師以上のお方であり、私の救い主、私の贖い主です。イエス様は、私の罪と債務を赦してくださいました。イエス様は、私にまことの安らぎを与えてくださった。 第3番目、肉は肉でとどまり、決して良くなることはないというイエス様の言明は、共通して経験したのです。自分の努力は、どんなものであっても、まことの救いの喜びを得るためには助けとならなかった。 第4番目、イエス様は、別の宗教をお与えになりません。新生を通して、私たちは永遠のいのちをいただきましたと信じる者は、証しすることができます。 第5番目、イエス様は、新生を通して、私に新しいいのちを与えてくださっただけではなく、まことの喜び、深い平安、生ける望みをも与えてくださいました。新生なしには、私はおしまいだったでしょう。 第6番目、私は救われましたので、私でさえ贖われましたので、この可能性はどなたに対してもあり得ることです。イエス様の恵みは、誰に対しても充分であり、イエス様は、すべての人をあわれもうと望んでおられます。 そして7番目、永遠のいのちに至る唯一の道は、イエス様です。 イエス様を知ることは、本当の意味で生きがいのある人生を知る土台です。というのは、イエス様は完全な満足を与えてくださるからです。これこそ、救われた兄弟姉妹の証しです。 この大いなる主がすべての兄弟姉妹の生活を通して、褒め称えられ、崇められるように。 |