引用聖句:ヨハネの福音書6章37節
ヨハネの手紙第I、1:9
時々、いろいろな人々からいろいろなことを聞くのですけれど、答えられないことが多い。正しい答えは、祈りましょうよ。祈ると、必ず主は生きておられるから応えてくださる。 もちろん困った時、祈りなさいじゃない。絶えず。結局いつも祈りなさい。これは主の提案じゃなくて、主ご自身の命令そのものです。 各集会は、祈りの集会になることこそが、主の御心なのではないでしょうか。祈りほど大切なものはありません。また、祈りほど必要なものもありません。では、いったい祈りとは何でしょうか。イエス様の御許に行くことです。 マタイの福音書11:28
疲れていない人、重荷を知らない人々とは、どうせ行く気持ちにならない。だから、いろいろなことで苦しむこと、悩むこととは祝福です。結果として、助けを求めれば、助け主を知るようになるからです。 本当の祈りを通して、人は偽善者になるのではなく、贈り物をいただくことです。「わたしは、与えよう。」これこそが主の願望です。 「あなたがたの父である神は、喜んでお与えになる。」とイエス様は、約束してくださいました。 私たちの中には、イエス様を信じ、救いの確信を持っている、だいたいそういう方々なのではないかと思うのです。自分の罪と債務は赦された。この知識は、本当にまことの喜びの源です。 けど、我々の中には、この喜びを知らない人々もいるかもしれない。しかし、すべての人に「祈れ。」すなわち、イエス様の御許に行きなさいという要求が向けられています。なぜならばイエス様は、罪を赦してくださるお方であるからです。また、イエス様は、どのような状態からでも、逃れ道を知っておられます。 イエス様は、完全に人を満たすことができます。イエス様は、決して失望させることはなさらないお方であるからです。祈りは、聞かれます。けども聞かれる祈りの条件もあるのではないかと思います。3つの問いについて考えましょうか。 第1番目、聞かれる祈りの秘訣とは、いったい何でしょうかね。 第2番目、イエス様の名によって祈ることとは、いったいどういうことなのでしょうか。 第3番目、いったい誰が、イエス様の御名によって祈ることができるのでしょうか。 この3つの簡単な質問について、ちょっと考えたいと思います。 まず、ヨハネの福音書から2、3箇所読みます。 ヨハネの福音書14:13-14
ヨハネの福音書15:7
ヨハネの福音書15:16
ヨハネの福音書16:23-24
ヨハネの福音書16:26
とイエス様は、当時の弟子たちに約束してくださいました。現実問題として、イエス様が生きておられるあいだに、弟子たちはそうしなかったし、だからこの約束を経験しなかったのです。 五旬節のあとで、「やっぱりイエス様は、本当のことを言った。祈れば、必ず答えられる。」と彼らは何回も何回も経験したのであります。ここに無制限の祈りの約束があります。「求めなさい。そうすれば与えられるのです。」これは我々に対する、全知全能の主が提供してくださるものです。 このすばらしい約束によって、私たちはしばしば多くのことを願い求めるように、励まされるのです。 聞かれる祈りの条件とは、何でしょうか。その条件とは、上に引用したみことばに、6回も登場する。「わたしの名によって。」という言葉です。別の言葉で「あなたがたが、わたしの上に留まるなら。」、結局、わたしと繋がっていればという条件です。 それでは、イエス様の名によって祈るとは、いったいどういうことなのでしょうか。その名前が、所属している方の交わりの内に留まることです。それは、イエス様に拠り頼むことであり、自己支配、自己決定とは反対のものです。したがって、それはまた主の内に生き、主の内に留まることをも意味するわけです。 イエス様の名によって祈るということは、何を意味しているのでしょうか。これこそ正しく知るべきです。というのは、これこそ聞かれる祈りの秘訣であるからです。 マタイの福音書24:5
とあります。それと全く同じように、次のようなことも言わなければならないのではないでしょうか。多くの人々は、イエスの名によって、父なる神に祈っていると思っていますが、けど、彼らは惑わされているのであり、自分自身を欺いているのであると。 イエス様の名によって祈るとは、もちろん、祈りの最後の文章としてイエスの名によってと付け加えるということを意味するのではありません。多くの人々は、自分のことだけしか考えないで、その全体の祈りは、自己中心の言い表しにすぎない。 ですから最後にイエス様の名によってと付け加えるとしても、ちょっとそういう祈りは聞かれえないのです。 ヤコブの手紙4:3
動機は、結局大切です。イエス様の御名によってという言葉が使われるかどうかということが大切なのではなく、大切なのは、私たちの心の状態であり、イエス様だけがすべてに勝って栄光をお受けになってもらいたいという思いが、我々の心を支配しているかどうかこそが問題です。 このヨハネの福音書4章13節によると、イエス様は、父が子によって栄光をお受けになるためであれば、我々の祈りは聞かれると言っておられます。我々の祈りの目的は、自分の富とか自分の健康だとか、あるいは成功とか快楽、さらには奉仕のみであってはいけません。ただ、イエス様の栄光が現れることこそ、祈りの本当の目的です。 実際は、イエス様の血潮による力を体験した者だけが、イエス様の名によって祈ることができます。 キリスト者は、主の血潮によって義と認められて、しかもイエス様の血潮によって贖われ、また罪の赦しを与えられています。ある人は、神は信じるが、イエス様は別に必要ない。けどもイエス様なしの祈りは、もちろん全く的外れです。 非常に頭の良い裁判官は、そのような方の一人だったのです。彼の妻は、イエス様を信じる者であったため、当時有名なムーディという伝道者の所へ行き、夫と話してくれるように頼みました。けどもムーディは、いくら話しあっても議論しても無駄であるということを知っていましたから、その婦人の申し入れを断りました。 それからムーディは、その裁判官のために祈り始めました。すると、遠からずして裁判官は、導かれ救われました。 祈りの力を確信することこそが大切です。その時の様子は次のようなものでありました。祈りの答えとして、裁判官は心に不安と動揺を感じるようになりました。ある日、彼の妻は、祈り会に行っているあいだ、彼の心の中にある動揺は、恐ろしく大きなものになりました。そこで彼は、すぐ寝ようと思いましたが、一晩中眠れなかったのです。 翌日彼は、朝食も取らずに事務所に行きました。そして彼は、従業員に休暇を与え、事務所を閉めました。その後で彼は、祈り始めたのです。「神よ。私の罪を赦してください。」けど、彼の祈りは全く価値がないように思われました。 最後に彼は、絶望的になって、突然大声で叫びました。「神よ。イエスの名によって、イエスのゆえに私を赦してください。」すると、その瞬間に平安が心を満たしたのです。このようにして、その裁判官は救われました。 イエス様こそ、生けるまことの神を知るための、ただ一つの道です。道しるべではない。道そのものです。私たちは、流されたイエス様の血潮のゆえにのみ、生けるまことの神に近づくことができるのです。イエス様の名によって祈るということは、流された血潮のゆえに、生ける神に近づくことを意味します。 イエスの名によって祈るということは、無記入の小切手を銀行に持って行って、現金に代えると同じことを意味します。私たちは、たとえば銀行に預金口座を持っていれば、そこに行って小切手で現金をもらうことができます。 けど、その小切手に私の証明があれば、誰でもそれを持ってお金を引き出すことができるのですけど、私の証明がなければ、私の子供といえども、お金をもらうことができません。 また、たとえばある銀行に何の預金口座を持っていなければ、もちろんその銀行からは何ももらうことができません。祈りとは、このような無金融の小切手のようなものです。 主は言っておられます。「何でも欲しいものがあれば、その無記入の小切手に記入して、わたしに願い求めなさい。そうすれば、わたしは、あなたがたに願ったものを与えましょう。ただし、わたしの名前によって与えましょう。」 私たちは、イエス様により頼んで生活しないで、イエス様と結びついていないかぎり、天国に私は何の口座も持っておらず、私の願いは満たされず、また私の祈りは、聞かれないのです。けど、イエス様の名によって祈る者は、聞かれます。イエス様の豊かさは、尽きることはなく、それゆえに、私たちは、いくらでも願い求めるようにと要求されています。 主は、たくさんのものを与えたいと望んでおられますが、それは、イエス様の御名が損なわれず、すべての誉れが主に帰される時にのみ、このことを主は行なうことができるのです。また、私たちが損なわれない時にのみ、主は祈りを聞いてくださいます。 主の御名によって祈るということは、主の御心を知ること、そして、主の御心だけがなるようにと願うことです。このような心の備えがあれば、その祈りは、どんな場合でも必ず聞かれます。 主は、我々一人ひとりのために、備えられた道を持っておられますから、私たちは、祈る前に私たち自身にとって、この備えられた道、すなわち主の御心が何であるかを正しく知ることが大切なのではないでしょうか。私たちは、主の御心を知るならば、自由に祈ることができ、一つの願い、すなわち主の御名が崇められることを切に望むようになります。 ヨハネの手紙第I、5:14
望んでいることだけではなく、動かすことのできない確信です。 次のことに充分気をつけましょう。すなわち、イエス様の名によって祈るということは、主の御心を知ることであり、それに基づいて祈り、それを自分のものとすることを意味します。 主なる神の御心を知らない者は、もちろんイエス様の御名によって祈ることができません。 イエス様の名によって祈るということは、自分の名前によってではなく、イエス様の名前によって何かを願い求めることを意味します。 多くの人は、誰かある人を保障したり、誰か他人に実印を与えたりして、自分の名前を使うことを許してしまったことをたいそう後悔しています。なぜならば、その人たちは、騙されてしまったからです。ですから私たちは、信用できない人に、自分の名前を使わせる権利を、そのような人たちに与えることはできません。 そのようなことの一つの例を、私たちは預言者エリシャの僕であるゲハジに見ることができます。 ゲハジという男は、エリシャの名前を使ったのです。主の栄光が現れるためではなくて、自分だけのことを考えて、金持ちになりたいと思ったからです。 確かに彼は、金持ちになったけれども、主の祝福が無くなってしまいました。 そして、彼は呪われたことのしるしとして病気、らい病に侵されてしまったのです。 ここでもう一度、今まで話したことをまとめましょうか。イエス様の名によって祈るということは、聖霊により頼みながら、御心にかなった祈りをすることです。 したがって、イエス様の名によって祈るということは、主が望むことを望み、主が願うことを願い、聖霊が持っているのと同じ目的を持つこと、すなわち聖霊が、どんなことがあっても、ただイエス様の栄光だけを求めることです。主の御心は、我々の願いとならなければいけません。 そして、それはただ私たちが妥協しないで、徹頭徹尾、主に自分自身を明け渡す時にだけ可能です。我々の心がまえが、正しければ、我々は主の名によって祈ることもできるのです。結局、条件つきです。 ヨハネの福音書15:7
弟子たちだけにではなく、我々にも与えられているすばらしい約束なのではないでしょうか。「なら」と書いているから条件つきです。 もう一箇所読みます。内容として全く同じです。 ヨハネの手紙第I、3:22
初代教会の兄弟姉妹は、この確信を持っていたのです。 私たちは、主のお望みになることを行なうならば、主は私たちが望むことを行なってくださいます。どうか、主の声を聞きましょう。そうすれば、主は聞いてくださいます。計り知れないほどの富が、我々に提供されています。 けれども、それにはただ一つだけ条件がいります。それは、すなわち主の内に留まること、またイエス様の名によって祈ることです。けれどもこのことは、私たちが主の御心を知る時だけ可能です。ですから、日々私たちが切に求めることは、主の御心、主の願い、そして主の伺いを知ることです。 私たちは皆、主の御心は我々にとって最高のものであることを知っています。また、私たちは主が我々を祝福したいと望んでおられ、我々をお用いになりたいということをも知っています。 さらに、私たちは皆、私たちが自分自身の意思に従う時は、自分自身だけではなく、他人にも害となることを知っています。 私たちが、主の御心を求めないならば、我々の生活はまさに悲劇そのものです。私たちは、すべての自己追及の目的を捨てて、自分自身を主の導きに委ねようではないでしょうか。 私たちが祈っても、何の答えも得られない時には、それは主の責任ではない。私たちが、間違った心の姿勢で、主に向かっているところに責任があることを知る必要です。 私たちが祈っても、何の答えも得られない時には、それは主の約束が信頼するに値しないということの原因があるのではなく、むしろその原因は、我々の不信仰と不従順にあるのです。 私たちが祈っても、何の答えも得られない時には、それはいつもただ、我々の最善だけを思っておられる主に対する悔い改めと徹底的な献身への、絶えざる招きに他なりません。 今まで何度も申し上げましたが、それでもまだ申し上げたいことは、私たちがどんなことがあっても、主の御心を知らなければならないということ。それは可能でしょうか。 神のみことばである聖書は、この問いに対してはっきりと、可能であると答えています。 ピリピ人への手紙2:5
もしこれが不可能であれば、パウロはこういうふうに書かなかったでしょう。 コリント人への手紙第I、2:16
と書かれています。詩篇の作者であるダビデは、また書き記したのです。 詩篇25:14
とあります。大切なことは、主は、私たちが本当に、主を知りたいと願い、御心を行いたいという心の備えができている時にだけ、御心を明らかにされるということです。 つまり、神の御心を知ることと、主の御心が行なわれるということは、切り離すことができない。 もし、誰かが「私は、まず神の御心を知りたいと思うが、それから御心を行いたいと思うかどうかを考えたい」とそのように思っているならば、その人の一生は、破局に終わります。 ヨハネの福音書7:17
神のみことばは、聖書の中に明らかに示されています。 主がみことばの中で約束しておられることは、主の御心の表れです。たとえば、私たちは期待を持って、知恵を祈り求めることができます。 なぜなら私たちは、そのための明確な約束を持っているからです。 ヤコブの手紙1:5
ヤコブもそれを必ず何回も何回も経験したにちがいない。 御心にかなう祈り人となりたいと、切に望む人は、主の御心を知るためにみことばを読むべきです。大きな励ましは、信者が誰でも聖霊を持っているという事実です。 しかもその聖霊は、祈りの助け手として与えられているということです。 ローマ人への手紙8:26-27
すばらしい約束です。このみことばによれば、次のことが言われていますね。すなわち、私たちが何を祈るべきか解からず、望みのない状態に置かれ、聖霊が我々を導くことができるならば、私たちは幸いです。祈らない者は、何の言い訳もできません。絶えず祈りなさい。これは主のはっきりとした命令です。 けれども私たちは、ただ単に祈らなければならないだけではなく、祈ることもできるのです。なぜならば、聖霊が与えられているからです。 中途半端なキリスト者であることは、何の甲斐もありません。意識してイエス様に従わない者は、主のためにも人間のためにも、実際の価値を持っていません。 ただ一つの罪ぐらいは大したことではないと、自分の生活の中で考えたならば、主は、そのような者をお用いになることができないし、私たちからあらゆる喜びを取り去り、我々は実りのない者になってしまいます。 大切なことは、私たちがパウロと同じように、「主よ。私は何をなすべきか。」と問うことですけども、それから、また主の力によって、主の御心を行なう心の備えを持つことです。 パウロは、主に尋ね、そして彼は明確な答えを得ることができた。この答えは、もちろん我々にも当てはまるでしょう。 コロサイ人への手紙3:12-17
我々が、信じ、愛し、仕えたいと思っている主イエス様は、祈るお方でした。 祈る、キリストの名によって、祈りたいと願う者は、祈りの生活を知らなければならない。イエス様は、この地上におられた時、主にとって一番大切だったのは、何でしょうかね。 祈ることです。そして今日も、天におられるイエス様にとっても、一番大切なのは祈ること、とりなすことです。 我々にとって、祈りが一番大切なものでないならば、ちょっと大変です。私たちは、間違った状態に置かれるようになります。 イエス様は、絶えず祈られたのです。そして我々に対する呼びかけとは、結局同じです。絶えず祈りなさいと。 |