引用聖句:ルカの福音書12章35節-37節
ルカの福音書21:34-36
コリント人への手紙第I、16:22
今の読んでくださいました、ルカの福音書21章36節をもう一回お読みいたします。 ルカの福音書21:36
絶えず目を覚まして祈っていなさいと提案されているのではなく、命令されています。絶えず目を覚まして祈っていなさい。目を覚ましているためには、どうしても祈ることが必要です。そして、祈るということは主と一つになる交わりを持つことです。けども主との出会いによって、罪を赦された者だけが主と交わりを持つことができます。 したがって、私たちが主を体験的に知っているかどうかということが、決定的な問題になります。私たちは、罪の中に死んでいるのでしょうか、それとも目を覚ましているのでしょうか。私たちは皆、永遠のいのちを持っているのでしょうか。私たちは、御霊によって新しく造られた者とされているのでしょうか。 再臨について考えると、必ずテサロニケ人への手紙第Iの4章を読むべきなのではないでしょうか。そして再臨について考えると、いつも聖霊、御霊ということばも出てきます。 テサロニケ人への手紙第I、4:8
ローマ人への手紙8:9
大切なことばです。「キリストの御霊を持たない人は、キリストのものではありません。」、すなわち救われていない。 そして、パウロはコリントにいる兄弟姉妹にまた書いたのです。 コリント人への手紙第I、3:16
コリント人への手紙第I、6:19-20
前に話したように、テサロニケ人への手紙第Iの第4章は2つに分けて考えることができるのではないかと思います。 前半は、すなわち1節から12節まで、救われた人々の清めであり、後半は、すなわち13節から18節まで、救われた人々の希望です。 もちろん、清めと望みとは密接に結びついているため、切り離すことはできません。ヨハネは当時の信じる者に、この事実について書いたのです。すなわち、清めと望みとは結びついている。 ヨハネの手紙第I、3:2-3
すなわち、テサロニケ人への手紙第Iは、清めあるいは聖化を呼び起こす手紙であり、また希望を与える手紙です。 今話したように、もちろん清めと希望とはお互いに密接な関係を持っています。イエス様が再び来られるという希望こそ、清めあるいは聖化を押し進める最も強い推進力です。 イエス様の出現を心から待ち望んでいる兄弟姉妹は、絶えず罪から清められたいという強い願いを持っています。 テサロニケ人への手紙第I、4:1-12
今の箇所を見ると、テサロニケに住んでいる兄弟姉妹の古い性質のことが記されています。 その当時、テサロニケは非常に豊かな商業都市でした。したがって、お金に対する欲望が渦を巻く、道徳的にもずいぶん堕落していました。信者といえども、このような悪い影響から免れることは、必ずしも簡単なことではありませんでした。 このような理由から、パウロは、テサロニケの兄弟姉妹に厳しく警告し、「不品行を避けなさい。兄弟を踏みつけたり欺いたりしないで。」と言ったのです。 救われた者といえども、絶えず目を覚ましていないと、不品行に陥り、お金に対して貪欲になるとパウロは警告しました。 肉の思いと欲にふけること、あるいは金に対して貪欲になることは、イエス様を心から待ち望むことと全く相容れないことです。 この問題と関連して、いわゆる清め、あるいは聖化と呼ばれる問題が表れてくるのです。ですから3つの点について一緒に考えてみたいと思います。 第1番目、清めとは、いったい何でしょうかね。 第2番目、新しい生活の力とは、いったい何でしょう。 第3番目、御霊に満たされるとは、いったい何でしょうか。 まず第1番目、清めとは、いったい何なのでしょうか。 この問いに対する答えは、テサロニケ人への手紙第I、4章7節、8節を見ると見いだすことができます。 テサロニケ人への手紙第I、4:7-8
清めとは、実際にはどのように見えるものなのでしょうか。9節を見ると、兄弟に対する態度、すなわち兄弟愛について記されていますね。 テサロニケ人への手紙第I、4:9
そして11節と12節を見ると、外部の人々すなわち未信者に対する態度、すなわち自分の仕事に身を入れることについて記されています。 テサロニケ人への手紙第I、4:11-12
別のことばで言うならば、汚れた肉の欲ではなく、清い兄弟愛を持ち、貪欲な守銭奴ではなく、勤勉な働き人であるようにと勧められています。 兄弟愛は、決して私たちの努力によるものではなく、主なる神の賜物です。与えられなければ無理。もともと人間は、自分のことばっかり考えて他の人のことを考えない性質を皆持っています。 テサロニケの兄弟姉妹は、イエス様のからだなる教会、すなわち組織ではなく、有機体としての教会を見、他の地方に住んでいる兄弟姉妹をも、心からなる一致を持っており、麗しい兄弟愛を持っていたのです。 しかしそれと同時に、彼らといえども、肉の欲に溺れる危険性に直面していました。汚れた欲の虜になるか、あるいは清い兄弟愛を持つかの、どちらかという二者択一の問題に直面していたわけです。 御霊が我々を満たし、導くことができるかどうかという、非常に重大な問題が存在していたわけです。 主のからだなる教会には、怠け者が入る余地はないとはっきりパウロは言い切っています。信じる者が自分の仕事に身を入れ、一生懸命に働くということと、心からイエス様を証ししたいと切望することとは、切り離すことのできない関係にあります。 パウロが書いたような新しい生活の力とは、いったいいかなるものかといる問いが、これの関連において別のことばとして現れてきます。一言で要約すれば、清い生活をするためには、聖いお方が必要であるということです。この聖い人格は、ただ聖霊によってのみ可能となるのです。 この世には、人間の力で清い心を持ち、清い生活をすることができると考えている人が、数えきれないほどいます。多かれ少なかれ、未信者は誰でもそのように考えています。しかし、彼らは自分自身の本当の姿に対しては、全く盲目です。 彼らは、聖なる主に対しては、ほとんど注意しないのです。イエス様を体験的に知らなければ、人間は誰でも自分自身のエゴ、そして悪魔の虜になっています。この事実を知らないこと、また知りたくないことこそ、最大の悲劇です。 生まれつきの人間ができることは、すべて罪を犯すことだけです。これこそ、主なる神の判断であります。 清い生活は、ただ聖い御霊、すなわち聖霊だけが導き、営み得るのです。したがって、主の再臨に対して聖霊を受け入れるか、否か聖霊の導きに従うか否かということが、重大な問題となります。 私たちは、聖霊の働きに対して3つの異なった態度を取ることができます。 まず第1に、聖霊を全く無視することができます。 救われた人々ならば、誰にでも聖霊の宮であるか、あるいは聖霊の牢屋であるかということです。 多くの信者は、みとこばに正しく向かい、聖霊の働きと導きに正しく従うことをしていない。すなわち、実際問題として自分が決定権を持ち、聖霊は全く無視されているわけです。 第2番目の態度は、聖霊を部分的に受け入れるということ、すなわち言葉を変えて言うならば、聖霊が信じる者の全支配権を持つのではなく、部分的な支配権を持つということです。 そのような場合には、聖霊は単なるお客様として、よそよそしく取り扱われるのです。 おもに自分が支配し、決定し、時々御心は何かと尋ねるにすぎないような信者が少なくないのではないでしょうか。そのような生活の結果は、決して幸福な生活ではない。みじめな生活です。 聖霊を受ける第3の態度は、聖霊にすべてを明け渡し、聖霊がすべての支配権を持つという態度です。 パウロが聖霊に対して取った態度は、まさにこの三番目の態度でした。 その結果、皆さんよくご存知のように「生きているのは、もはや私ではなく、キリストが私のうちにいる。」という告白であります。 今まで、私たちは2つの点について考えてきましたね。まず、清めとは、いったい何でしょうか。2番目、新しい生活の力とは、いったい何でしょう。 今度は第3番目の点、すなわち聖霊に満たされるとは、いったい何なのでしょうかという大切な要求について、最後に考えてみたいと思います。 しかし、それはいかにして可能となるのでしょうか。 第1番目、全く献身することによって。 第2番目、主が全く支配権を取ってくださる事に対して感謝することによって。 第3番目、主が導いてくださるご自身のご栄光を現してくださることを心から期待することによって、御霊が我々を満たし、導くことが可能となることができるのです。 聖霊に満たされることは、もちろん人間の感情の問題ではなく、意思の問題です。すべてを主に明け渡した時に初めて、私たちは聖霊に満たされるようになります。 したがって、聖霊に満たされるための前提条件は、まず第1に献身、第2に、主が支配権を取ってくださったという確信に他ならない。そしてこれは、我々の決断にかかっています。 私たちは聖霊に満たされるまで、待つ必要はない。私たちが心を開いて、すべてを主に明け渡しさえすれば、満たすことを常に望んでいる聖霊は、ただちに私たちを満たしてくださるのです。 ガラテヤ人への手紙5:22-23
もし聖霊だけが支配できるならば、御霊の実は啓示されるのです。これは決して、敬虔ぶった宗教家、あるいは宗教的な人の努力の結果ではない。ここで書かれているように、御霊の実です。 御霊は、私たちが過去に犯した罪のみならず、罪そのものの本当の恐ろしさをも明らかに示してくれます。そして、罪は我々の内に宿っているのです。御霊は、イエス様による罪の贖い、あるいは救いが我々にとってますます本当のものとなり、ますます深くなるようにと導き助けてくれるのです。 テサロニケの兄弟姉妹は、イエス様が再び来られるという喜ばしい訪れを聞きました。それは単に、情報あるいはニュースのみならず、聖霊に対する用意ができているか否かという呼びかけでもありました。私たちにとっても、イエス様が再臨なさるという真理は、まさに清めに対する呼びかけじゃないでしょうか。 ヨハネの手紙第I、3:1-3
私たちは、聖霊に対していかなる態度を取るのでしょうか。全く無視するのでしょうか。一部だけ支配権を明け渡すのでしょうか。それとも全支配権を主イエス様に明け渡すのでしょうか。終わりにもう一回考えましょう。 すなわち、私たちは、聖霊に満たされるために何をしたらいいのでしょうか。御霊に満たされた生活の秘訣とは、いったい何でしょうか。 疑いなく私たちの主イエス様は、絶えず御霊に満たされていたのです。この主イエス様は、父の御心に完全に従いました。「わたしの思いではなく、あなたの御心が成るように」とイエス様は、父の御手にある従順な器でした。 その態度は、常に次のようなものでした。 「お父様、わたしはここにいます。どうかあなたのご自由になさってください。わたしは、この地上でただあなたの御心だけが行なわれますように、何でもいたします。」 イエス様がこの態度をお取りになられたので、聖霊は高い所からの力として、イエス様の内に宿り、絶えず満たされたのです。 祈りこそ、聖霊に満たされるための前提です。五旬節の時、120人の兄弟姉妹が祈っているあいだに聖霊に満たされました。その少し後で、祈りの答えとして弟子たちが新しく聖霊に満たされました。 私たちが聖霊に満たされたいと願うなら、我々の人生がすべてイエス様に明け渡されなければなりません。 また、イエス様の御心だけを行なうということが、我々の願いとならなければならない。そしてまた我々の祈りは、「主よ。私は、ただあなたの名誉だけを望みます。」というものでなければなりません。 イエス様の切なる願いは、いつも絶えず同じものでした。 すなわち「わたしは、ここにいます。お父様、あなたの御心だけがわたしを通して、行なわれますように。」、と。 このイエス様は、今日、我々に次のように言っておられます。 「父がわたしを遣わしたように、わたしはあなたがたを遣わします。父はわたしを遣わしました。しかし、父はわたしを一人にされず、聖霊がわたしの上に下り、わたしの中に留まりました。わたしを通して、父は聖霊の力によって、贖いの御業を成就してくださいました。 そして今、わたしはあなたがたを遣わします。あなたがたを通して、誰でも罪の赦し、神との平和、永遠のいのちをただでいただくことができるということが、宣べ伝えられるべきです。 けれどもわたしは、あなたがたを一人では行かせません。わたしにあなたがたの人生の全支配権を与えなさい。そうすれば、わたしはあなたがたを用いることができるようになります。わたしの霊は、あなたがたを満たし、器として用いるようになります。」 聖霊に満たされること、またイエス様の御手にある器となるに勝る大いなるものは何ひとつありません。 |