競争の規定


ベック兄

(吉祥寺学び会、2014/05/27)

引用聖句:コリント人への手紙第I、9章24節-27節
24競技場で走る人たちは、みな走っても、賞を受けるのはただひとりだ、ということを知っているでしょう。ですから、あなたがたも、賞を受けられるように走りなさい。
25また闘技をする者は、あらゆることについて自制します。彼らは朽ちる冠を受けるためにそうするのですが、私たちは朽ちない冠を受けるためにそうするのです。
26ですから、私は決勝点がどこかわからないような走り方はしていません。空を打つような拳闘もしてはいません。
27私は自分のからだを打ちたたいて従わせます。それは、私がほかの人に宣べ伝えておきながら、自分自身が失格者になるようなことのないためです。

今まで私たちは、キリスト者の生活の目的、また使命につて、それから信仰の戦い、また勝利を得る為の必要性について一緒に考えてまいりました。今日は、競争の規定について一緒に考えてみたいと思います。
イエス様を信じることは、確かにすばらしいことです。我々の人生において最も大切なことです。イエス様、すなわち救い主を持つこと、主イエス様を体験的に知ることは最も大切なことです。その体験によって、初めて私たちはこの地上において、本当に満たされた生活を送ることができます。
満たされた生活の土台は、永遠のいのち、主イエス様との平和、また罪の赦しを持つことです。しかしそれだけでは充分ではありません。むしろイエス様が我々を御手の中に置くことによって、我々の主として私たちのすべてを支配なさることこそが大切なのではないかと思います。

イエス様を信じることは、すなわち勝利の戦いを勝ち取ることを意味しています。したがって私たちは、この力によって主の目的である勝利の冠を得るために走ることを急がなければなりません。
我々の生涯は、おもむくままの散歩ではない。まさに勝利を得るための戦いそのものです。
言うまでもなく、私たちは自分自身の力によって戦うのではなく、主の恵み、またあわれみによって与えられた上からの力によって戦わなければなりません。

新約聖書の中には、ギリシャ、ローマ時代の競技のことが描かれているが、いったいこれは何のために書かれたのでしょうか。
すなわち我々によっては、救われたということだけでは充分ではない。それは単に初めの第一歩にしかすぎません。むしろ戦いの目標が重要なものです。そのために私たちは、今まで以上にもっとイエス様を信頼し、イエス様にすべてを委ねなければなりません。
私たちは、真剣にそして喜びに満ちて、主に従って行くべきです。私たちは、主の証し人として働かなければならないのです。したがって、私たちはイエス様の目標をめざして走り、イエス様において上に召してくださる主の勝利を得ようと努めるべきであると、パウロははっきり証ししたのであります。

イエス様は、心からの献身を望んでおられるのですから、決して妥協することは許されません。
残念なことに多くの兄弟姉妹は、自分の利益を考え、この世の愛を求め、他人に対して冷たくあしらったり、心が堅くなったり、生き生きとした祈りの力を体験することがなく、証しにも力がなく、みことばを尊重せず、罪に負けてしまうのではないでしょうか。
栄冠を得るために、私たちは決して中途半端な曖昧な態度を取るのではなく、すべてを主に委ね、主に拠り頼むことが大切です。

今日はまず、競争の規定についてちょっと一緒に考えてみたいと思います。
競技をする許可のための必要条件について、ギリシャ時代を振り返ってみるとわかりますが、まず第1番目、奴隷ではなく、自由な民、第2番目、外国人ではなく、その国の市民、すなわちギリシャ人、第3番目、犯罪者ではなく、ギリシャの神々に対して尊敬の念を持ち、忠誠を誓った人々だけが競技に参加することができたのです。
したがって、自由、市民権、そして市民としての忠誠と尊敬がその前提となっていたのです。もちろん、それだけではなく、身体の力と訓練が必要でした。その競技を指導するために、一人あるいはそれ以上の審査官がいて、彼らの前で競技の参加希望者は、あらかじめ試験を受けなければならなかったのです。

その競技が開催される前に、競技参加希望者は、一人ひとり、時には10ヶ月にもなるほどの長い特別な訓練をすることがしばしばありました。さらに一般には、その準備のために非常に節制した生活が必要になったのです。
ギリシャの競技の場合には、一定の期間すなわち当時の体操場であった講堂で、保健体育だけでなく、一般的な教養に関する講義を受けた者でなければ参加の許可を得ることができなかったのです。
ギリシャの考え方は、当時、肉体の訓練と精神的な教養とが切り離すことができないものでした。

いったい誰が、信仰の走るべき行程を走り尽くすことができるのでしょうか。誰が栄冠を勝ち取るために走りぬくことができるのでしょうか。
ただ罪の赦しを得、罪の力から解放されている者、また神の国の市民、すなわち神の子供とされた者、そして御心にかなった生活をしようと心から願って、そのように望む者だけが勝利の栄冠を得る為に走りとおすことができたのです。
もう一回このコリント人への手紙第Iを見て見ましょうか。

コリント人への手紙第I、9:24-27
24競技場で走る人たちは、みな走っても、賞を受けるのはただひとりだ、ということを知っているでしょう。ですから、あなたがたも、賞を受けられるように走りなさい。
25また闘技をする者は、あらゆることについて自制します。彼らは朽ちる冠を受けるためにそうするのですが、私たちは朽ちない冠を受けるためにそうするのです。
26ですから、私は決勝点がどこかわからないような走り方はしていません。空を打つような拳闘もしてはいません。
27私は自分のからだを打ちたたいて従わせます。それは、私がほかの人に宣べ伝えておきながら、自分自身が失格者になるようなことのないためです。

これはパウロの決心、めざした目的を表す言葉じゃないでしょうか。
彼は、節制が我々にとって必要であることを思い起こします。節制、自制、自己否定が勝利に輝く、我々にとって必要な前提となります。すなわち私たちは、自分自身を否定し、一番大切なもののために、枝葉のものを断念し、喜んで犠牲を捧げる用意を常に持っていなければならないということです。
自分の栄華を否定しなければ、本当の意味でイエス様に従うことができません。喜んで犠牲を払う決心を持っていない者は、勝利の栄冠を勝ち取ることができません。

いつも自分だけを大切にする者は、イエス様が再臨された時に、大きな失望を経験するようになります。この世を思う心、快適な生活をしたいと思う気持ち、快楽にふけること、傲慢、自分が主役を演じたいと思う気持ちなどに、いつも囚われている人は、走るべき行程を決して走りつくすことはできません。
心から主イエス様を思い、日常生活が本当の信仰生活となった者だけが、イエス様によって強められます。
私たちは、そのような信仰生活に入った時に初めて、いくら走っても疲れることのない者となります。私たちはそのような時にだけ、はじめてスタートラインからゴールインするまで、全速力で信仰を走りべき行程を走りつくすことができるのです。

そのようにして、走りぬいた結果、天にいます審判者、すなわち勝利を与えるお方は、我々に冠を与えてくださいます。
しかし、パウロはそれと同時に、大きな危険をも忘れなかったのです。それは、あらゆるキリスト者に対して、共通に言えることであるが、他の人に福音を宣べ伝えておきながら、自分は失格者にならないように、自制と自己否定をし続けなければならないということです。
私たちはパウロと同じような心構えを持っているのでしょうか。それは次のようなことをはっきりとさせることによって知ることができます。すなわち、イエス様のために、自分の命を失う者だけがいのちを得るようになるということです。

ヨハネの福音書12:24
24まことに、まことに、あなたがたに告げます。一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます。

マタイの福音書16:25
25いのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしのためにいのちを失う者は、それを見いだすのです。

イエス様は、決して群衆から誉められるためにしたことがなかったんです。

ルカの福音書9:57-58
57さて、彼らが道を進んで行くと、ある人がイエスに言った。「私はあなたのおいでになる所なら、どこにでもついて行きます。」
58すると、イエスは彼に言われた。「狐には穴があり、空の鳥には巣があるが、人の子には枕する所もありません。」

本当の意味でのホームレスなのは、イエス様だったんです。

ルカの福音書9:59-62
59イエスは別の人に、こう言われた。「わたしについて来なさい。」しかしその人は言った。「まず行って、私の父を葬ることを許してください。」
60すると彼に言われた。「死人たちに彼らの中の死人たちを葬らせなさい。あなたは出て行って、神の国を言い広めなさい。」
61別の人はこう言った。「主よ。あなたに従います。ただその前に、家の者にいとまごいに帰らせてください。」
62するとイエスは彼に言われた。「だれでも、手を鋤につけてから、うしろを見る者は、神の国にふさわしくありません。」

イエス様は、間違いなく次のことを言われたでしょう。すなわち、弟子となることは、激しい戦いを意味する。
そしてあることをする場合、前もってその費用を計算し、それを支払う用意ができた者だけが、実際問題として本当に、イエス様に従って行くことができるということです。

ルカの福音書14:26-33
26「わたしのもとに来て、自分の父、母、妻、子、兄弟、姉妹、そのうえ自分のいのちまでも憎まない者は、わたしの弟子になることができません。
27自分の十字架を負ってわたしについて来ない者は、わたしの弟子になることはできません。
28塔を築こうとするとき、まずすわって、完成に十分な金があるかどうか、その費用を計算しない者が、あなたがたのうちにひとりでもあるでしょうか。
29基礎を築いただけで完成できなかったら、見ていた人はみな彼をあざ笑って、
30『この人は、建て始めはしたものの、完成できなかった。』と言うでしょう。
31また、どんな王でも、ほかの王と戦いを交えようとするときは、二万人を引き連れて向かって来る敵を、一万人で迎え撃つことができるかどうかを、まずすわって、考えずにいられましょうか。
32もし見込みがなければ、敵がまだ遠くに離れている間に、使者を送って講和を求めるでしょう。
33そういうわけで、あなたがたはだれでも、自分の財産全部を捨てないでは、わたしの弟子になることはできません。

意味は、戦いがなければ勝利なし。十字架がなければ栄冠なし。
イエス様は、妥協せずに断固として次のように言われました。「あなたがたはだれでも、自分の財産全部を捨てないでは、わたしの弟子になることはできません。」
この世には、喜んで主に従って行く兄弟姉妹たちばかりいるのではありません。そのような兄弟姉妹は、いつまでたっても霊的、信仰的に成長することはない。そして、他の人に対しても祝福を与える者になりません。

勝利に満ちて実り豊かに、主イエス様に従うことの奥義は、そのような兄弟姉妹に対して遠ざかってしまっています。そのような兄弟姉妹は、絶望してあきらめてしまうか、あるいは心から祈り、主にだけ頼るか、分けることができます。
いずれにしても、罪を告白しないかぎり、必ず障害物にぶつかってしまう。すなわち、その障害物とは、その人だけが知っている罪、嘘、偽り、あるいは性格的な弱さによって犯した罪、悪い習慣、今の悪い関係を完全に断ち切ることなく、妥協して曖昧にしてしまうことなどが信仰の妨げとなってしまうのです。
ですからイエス様のために約束された勝利を得るために、罪の束縛から自由にしていただくように告白すべきことがあれば、すべてを隠さずに告白しましょう。別れなければならない人とは、はっきりと別れましょう。はっきりとした態度を取りましょう。その時、はじめて主の祝福が我々の上に下るのです。

聖書は単に主の勝利についてだけでなく、人間の責任感についてもはっきり語っています。すなわち、イエス様から与えられる値なしの恵みについてだけでなく、我々の献身の必要性についてもはっきり語っています。
したがって、私たちは心の中で、いわば次のように言うべきです。「私はもはや、私自身の栄光を知らない。私は私の栄光とは全然関係を持たない。私は私自身の願いのために、思い煩うことなく、栄光を大切にしない。というのは私と私の栄光とは、離婚したものであるからです。」
ガラテヤ人への手紙の中で、パウロは同じ真理について次のような言葉を書いたのです。よく皆暗記していることばでしょう。

ガラテヤ人への手紙2:19-20
19しかし私は、神に生きるために、律法によって律法に死にました。
20私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が、この世に生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。

競技の規定とは何なのでしょうか。オリンピックの競技が始まる前に、競技者たちは宣誓によって責任を明らかにしなければならなかったのです。すなわち、彼らは競技の規定を守る義務を持っていたのです。
例えば、定められたコースに従わずに、勝手に最短距離を走ったりすることはもちろん許されなかったのです。
全競技を規定に従って行なうことは、非常に苦しいことでしたが、定められた規定を忠実に守った者だけが、勝利者として冠をかぶせられる見通しを持つことができたのです。

心から主イエス様に従おうとする時、あるいは忠実な証し人として主を証しする時に、必ず出てくる困難を決して避けないようにしましょう。
主は決して、罪の前に降伏しません。したがって私たちも、罪の前に降伏してはなりません。節制を守りましょう。
そして快楽や休楽、あるいは自分の利益や楽な生活など、走るべき行程の妨げとなるようなものは捨てましょう。自分の全生涯をイエス様に委ねましょう。献身は、豊かなる実をもたらします。

祝福は、ただ自分を無にすることによってのみ与えられるものです。それは、主のために成されるあらゆる霊的な勝利と働きの原則です。
イエス様のために命を失う者は、目標に向かって走るあらゆる競技者にとって、規定に従って競技をすることを意味します。それは主ご自身の場合にもそうでした。
我々の場合はいったいどうでしょう。イエス様は、競争者でした。すなわち、自分の前に置かれている喜びのゆえに、十字架の死を忍んだと聖書は言っています。

ヘブル人への手紙12:1-2
1こういうわけで、このように多くの証人たちが、雲のように私たちを取り巻いているのですから、私たちも、いっさいの重荷とまつわりつく罪とを捨てて、私たちの前に置かれている競走を忍耐をもって走り続けようではありませんか。
2信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。イエスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されました。

パウロもまた競争者だったと言えるのじゃないでしょうか。そして彼は、信仰生活の中ですでに目的をめざして、天の栄光を得ようと体を伸ばしたのです。
ローマの刑務所の中で、彼はピリピ人への手紙を書いたのであります。このピリピ人への手紙の中で、彼は自分は競争者であると告白しています。

ピリピ人への手紙3:13-16
13兄弟たちよ。私は、自分はすでに捕えたなどと考えてはいません。ただ、この一事に励んでいます。すなわち、うしろのものを忘れ、ひたむきに前のものに向かって進み、
14キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の栄冠を得るために、目標を目ざして一心に走っているのです。
15ですから、成人である者はみな、このような考え方をしましょう。もし、あなたがたがどこかでこれと違った考え方をしているなら、神はそのこともあなたがたに明らかにしてくださいます。
16それはそれとして、私たちはすでに達しているところを基準として、進むべきです。

コリント人への手紙第I、9:26-27
26ですから、私は決勝点がどこかわからないような走り方はしていません。空を打つような拳闘もしてはいません。
27私は自分のからだを打ちたたいて従わせます。それは、私がほかの人に宣べ伝えておきながら、自分自身が失格者になるようなことのないためです。

使徒の働き20:24
24けれども、私が自分の走るべき行程を走り尽くし、主イエスから受けた、神の恵みの福音をあかしする任務を果たし終えることができるなら、私のいのちは少しも惜しいとは思いません。

すごい告白、また証しです。
主のみことばもまた、競争者であります。ですから、パウロは、主のことばが早く広まるようにと祈ったのです。

テサロニケ人への手紙第II、3:1
1終わりに、兄弟たちよ。私たちのために祈ってください。主のみことばが、あなたがたのところでと同じように早く広まり、またあがめられますように。

原語では、非常に早く走るようにという意味です。
聖書は、最も大切にされるようにと要求しています。聖書は、我々と共にいて、私たちを支配し、警告し、力を与える私たちの友なるものです。そして、現在と将来にわたって、主の愛のご計画を私たちに見させるただ一つの書物です。
聖書は、ただ単に読まれるだけでなく、個人的に体験されなければなりません。聖書を体験的に知った兄弟姉妹は、この喜びの訪れを一人でも多くの人々に述べ伝えずにおられないものです。

旧約聖書に書かれています。ダビデは、アヒメレクに言った。「ここに、あなたの手元に槍か剣はありませんか。私は、自分の剣も武器も持ってこなかったのです。」、王の命令があんまり急だったのでとあります。
エペソ人への手紙5章16節に「機会を十分に生かして用いなさい。悪い時代だからです。」、この言葉は、私たちが今の時を主のために生かして用いることを意味しています。すなわち、全生涯を一分一秒ごとに、主に明け渡し、すべてを主に委ねることに他なりません
。私たちは、徹頭徹尾すべてを主に委ねるならば、主のみことばも早く広められる結果になります。私たちは、恥じることなく、イエス様を多くの人の前に忠実に証しするならば、みことばはずーと早く広められるようになります。このように個人的に証しすることは、非常に大切なことです。

使徒の働き20:31
31ですから、目をさましていなさい。私が三年の間、夜も昼も、涙とともにあなたがたひとりひとりを訓戒し続けて来たことを、思い出してください。

すごい告白です。一人ひとりに対して証しをする用意のない者は、多くの人に語る権利を持っていないのではないでしょうか。
伝道の歴史を振り返ってみると、おもな伝道方法として、大衆伝道よりは、むしろ初代教会などに見られる個人伝道の方が、みことばを早く走らされた結果になっているのです。
キリスト者が他の人々に向かって、イエス様が自分にいかに大いなることをしてくださったかということを、また同時に私たち自身に対しても、イエス様は同じような恵みを与え、救ってくださったことを証しする義務を持っています。

最後に、勝利についてちょっとみことばから見たいと思います。
競技の勝利者は、ギリシャ人にとって最高の名誉を得た者と一般に考えられていました。その勝利者が、自分の国旗を書いた時には、最高の尊敬をもって歓迎されたのであります。
紀元前776年から紀元217年まで、勝利者とその国旗の名前は全部隙間無く書き記されて今日に至っています。新約聖書の中には、5種類の栄冠について記されています。まず、義の栄冠という言葉が出てきます。

テモテへの手紙第II、4:8
8今からは、義の栄冠が私のために用意されているだけです。かの日には、正しい審判者である主が、それを私に授けてくださるのです。私だけでなく、主の現われを慕っている者には、だれにでも授けてくださるのです。

主の現れを慕うことこそが、考えられないほど大切です。義の栄冠、今度は朽ちない栄冠。

コリント人への手紙第I、9:24-26
24競技場で走る人たちは、みな走っても、賞を受けるのはただひとりだ、ということを知っているでしょう。ですから、あなたがたも、賞を受けられるように走りなさい。
25また闘技をする者は、あらゆることについて自制します。彼らは朽ちる冠を受けるためにそうするのですが、私たちは朽ちない冠を受けるためにそうするのです。
26ですから、私は決勝点がどこかわからないような走り方はしていません。空を打つような拳闘もしてはいません。

こういうふうに義の栄冠について、朽ちない冠について書いてあります。また、誇りの冠という表現も出てきます。

テサロニケ人への手紙第I、2:19
19私たちの主イエスが再び来られるとき、御前で私たちの望み、喜び、誇りの冠となるのはだれでしょう。あなたがたではありませんか。

それから、いのちの冠ということばも出てきます。

ヤコブの手紙1:12
12試練に耐える人は幸いです。耐え抜いて良しと認められた人は、神を愛する者に約束された、いのちの冠を受けるからです。

ヨハネの黙示録2:10
10あなたが受けようとしている苦しみを恐れてはいけない。見よ。悪魔はあなたがたをためすために、あなたがたのうちのある人たちを牢に投げ入れようとしている。あなたがたは十日の間苦しみを受ける。死に至るまで忠実でありなさい。そうすれば、わたしはあなたにいのちの冠を与えよう。

ペテロの手紙第I、5:3-4
3あなたがたは、その割り当てられている人たちを支配するのではなく、むしろ群れの模範となりなさい。
4そうすれば、大牧者が現われるときに、あなたがたは、しぼむことのない栄光の冠を受けるのです。

したがって、永遠のいのちとか救いとかだけが問題なのではなく、主の栄光を自分自身のものにすることこそ最も大切なことであることを忘れてはなりません。
イエス様は、ヨハネの福音書17章の中で祈られました。

ヨハネの福音書17:22-24
22またわたしは、あなたがわたしに下さった栄光を、彼らに与えました。それは、わたしたちが一つであるように、彼らも一つであるためです。
23わたしは彼らにおり、あなたはわたしにおられます。それは、彼らが全うされて一つとなるためです。それは、あなたがわたしを遣わされたことと、あなたがわたしを愛されたように彼らをも愛されたこととを、この世が知るためです。
24父よ。お願いします。あなたがわたしに下さったものをわたしのいる所にわたしといっしょにおらせてください。あなたがわたしを世の始まる前から愛しておられたためにわたしに下さったわたしの栄光を、彼らが見るようになるためです。

イエス様は、将来多くの兄弟の中の長子として、完全に明らかにされます。

ローマ人への手紙8:28-29
28神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。
29なぜなら、神は、あらかじめ知っておられる人々を、御子のかたちと同じ姿にあらかじめ定められたからです。それは、御子が多くの兄弟たちの中で長子となられるためです。

私たちは、主の召しにあずかっている者、そしてイエス様にあずかる者となるのです。

ヘブル人への手紙3:1
1そういうわけですから、天の召しにあずかっている聖なる兄弟たち。私たちの告白する信仰の使徒であり、大祭司であるイエスのことを考えなさい。

ヘブル人への手紙3:14
14もし最初の確信を終わりまでしっかり保ちさえすれば、私たちは、キリストにあずかる者となるのです。

主なる神の審判者なるイエス様は、勝利を得た兄弟姉妹たちと共に、御自身の栄光を現されるのです。
主は、御自身の王としての栄光をただ一人、御自身のために持とうとしておられるのではありません。信仰の創始者またともにイエス様のご栄光にあずかるようになると、とりなして下さいます。
勝利者は、イエス様とともに、世々限りなく支配すべきです。

ヨハネの黙示録22:5
5もはや夜がない。神である主が彼らを照らされるので、彼らにはともしびの光も太陽の光もいらない。彼らは永遠に王である。

それが競技者の目標です。そのために、私たちは主にふさわしく歩むことが必要です。

テサロニケ人への手紙第I、2:12
12ご自身の御国と栄光とに召してくださる神にふさわしく歩むように勧めをし、慰めを与え、おごそかに命じました。

とありますけども、すべてのキリスト者が勝利の栄冠を得るためではなく、ただ忠実にすべてを主に委ねた兄弟姉妹だけが、勝利者となる資格を与えられるのです。
私たちは、楽な生活をしようと思えばすることができます。私たちは、犠牲なしに与えることができ、苦労することなく働くことができ、自己否定なしに愛することができるでしょう。私たちは、競争者でなくてもいい。目標に向かってゆっくりと前進してもかまいません。
私たちは、激しい戦いの苦労と患難なくしても生きてゆくことができる。しかし、私たちは冠を与えられない時に驚いてはなりません。真の代償なしには勝利は得られません。本当の苦労がなければ、報いはありません。激しい戦いがなければ、勝利の栄冠は与えられません。

ただ、忠実なる者だけが冠を得るようになります。前に読みました箇所を見ると、競技者が失格者になる可能性についても書いてあります。私たちは、いかなる場合にも次のことを忘れてはならない。その競技に参加することは、必ずしも勝利を保障するとは限りません。
冠は、競争の初めにではなく、最後に与えられるものです。疑いもなく、救いと永遠のいのちとは、十字架の犠牲に基づいた信仰、主の恵みの贈り物です。しかし、勝利の冠は、忠実な信仰によってのみ与えられます。したがって、聖書は非常に真剣な警告を与えています。
たとえば、「わたしは、すぐに来る。あなたの冠を誰にも奪われないように、あなたの持っているものをしっかりと持っていなさい。」とあります。競技をする時も、規定に従って競技をしなければ、栄冠を得ることはできないとパウロも書いたのであります。また、コロサイ人への手紙3書24節、25節を見ると次のように書かれています。

コロサイ人への手紙3:24-25
24あなたがたは、主から報いとして、御国を相続させていただくことを知っています。あなたがたは主キリストに仕えているのです。
25不正を行なう者は、自分が行なった不正の報いを受けます。それには不公平な扱いはありません。

この聖句が何を意味しているか、解釈の問題になると、私たちは必ずしも厳密な意味で一致しているとは言えないかもしれないけど、その聖句が聖書に記されているゆえに、それを無視したり、あるいはその鋭い警告を曖昧にしてしまうことは、もちろん許されません。
パウロは、確かにキリスト者は救われているが、そのすべての業が焼き尽くされる可能性についても書いたのです。皆さん覚えているでしょう。コリント第1の手紙3章13節から

コリント人への手紙第I、3:13-15
13各人の働きは明瞭になります。その日がそれを明らかにするのです。というのは、その日は火とともに現われ、この火がその力で各人の働きの真価をためすからです。
14もしだれかの建てた建物が残れば、その人は報いを受けます。
15もしだれかの建てた建物が焼ければ、その人は損害を受けますが、自分自身は、火の中をくぐるようにして助かります。

パウロは、主に選ばれた器であるが、不忠実になったり、退けられた者となったりして、勝利を得られなくなる危険性を持っていることについて絶えず警告しました。
だから、私は決勝点がどこか解からないような走り方はしていません。空を打つような拳闘もしていない。私は自分のからだを打ちたたいて、従わせます。それは私が、他の人々に述べ伝えておきながら、自分自身が失格者になるようなことのないためです。
これらすべてのことは、非常に真剣な問題であり、救われた喜びと、イエス様の再臨を心から待ち望む場合には、新約聖書のこの真剣な警告を決して忘れることは許されません。

このような警告が、具体的には、はたして何を意味しているのでしょうか。私たちは、次のような文が並んでいるということが解かります。「約束と警告」、「前もって喜ぶことと神聖な恐れ」、「幸せと真剣さ」
最後に次のような問いについてちょっとだけ考えて終わります。走る途中で、駄目になってしまった競争者は、栄冠を与えるのでしょうか。
それに対して、聖書ははっきりNOと言っています。他の人々をイエス様のもとに導かなかった者に対して、冠が与えられるのでしょうか。これに対しても、聖書はNOと言っています。なぜなら、多くの人々を義に導いた者だけが、冠を与えられるとダニエル書12章3節に書かれています。

ダニエル書12:3
3思慮深い人々は大空の輝きのように輝き、多くの者を義とした者は、世々限りなく、星のようになる。

それから、主の群れを守らなかった者、すなわち兄弟姉妹のために、労を取らなかった者は、報いを得るでしょうか。これに対しても、聖書はNOと言っています。
忠実なる僕、イエス様の再臨を心から待ち望む者のために、義の冠が約束されていますけれど、その反対に不忠実で主の再臨を真に待ち望むことをしない者に対しては、その冠が与えられるのでしょうか。聖書はNOと言っています。
試練を耐え忍ばなかった者に対して、冠が与えられるのでしょうか。これに対しても、聖書はNOと言っています。

ヤコブの手紙1:12
12試練に耐える人は幸いです。耐え抜いて良しと認められた人は、神を愛する者に約束された、いのちの冠を受けるからです。

我々の生涯は、永遠の目標に仕えるべきです。我々の時は、この永遠からはじめて、その意味と内容を持つことができます。その道は、永遠の目標のために続いています。永遠にわたって、価値あるものだけが、我々の生涯においても本当に価値あるものです。その他の多くのものでも、現在非常に大切であると思われているものが少なくありません。
しかし本当の意味は、この永遠なるものの中にしか存在しない。主の国なしには、すべての世的なものであり、価値のないものです。
この永遠なるものとして、パウロは次のような証しを、なくてならないものとしたのです。「キリストは私のいのちです。」と。

イエス様の復活の勝利は、現在も我々のすべてに貫いています。イエス様は、我々のすべての主であり、いのちの要素、私たちの力です。すべての会話は、主の前で話すことであり、この世のあらゆる仕事は、すべてイエス様に奉仕することです。
我々の日常生活は、すべてイエス様による信仰生活です。今日のように、すべてを委ね明け渡す者は、この地上の生活においても、決して損をしません。イエス様は、我々を引き上げ、我々の地上での生活を聖めてくださいます。
したがって、私たちはただ単に、救われた喜びに満足するのではなく、一人ひとりに課せられた義務について、真剣に考え直さなければなりません。勝利を得る者だけが、冠を得るとあります。




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