引用聖句:ピリピ人への手紙2章1節-11節
今歌いましたのは、日々の歌212番ですね。 3番に「一つ」という言葉は7回も出てきます。結局、一つになることこそが、最も大切なのではないでしょうか。もう一回同じ箇所、2節から読みます。 ピリピ人への手紙2:2-4
この言葉について、少しだけ一緒に考えたいと思います。2つの点に分けて考えましょうか。 第1番目、主イエス様の心構えを得る道とは、いったいどういうものでしょうか。 第2番目、イエス様の心構えの特長とは、いったいどういうものなのでしょうか。 ご存知のようにピリピ人への手紙という手紙は、世界中のイエス様を信じる者によって、大切にされている手紙であり、喜びの書簡と呼ばれているものです。「喜び」という言葉が何回も出てくるのです。 それと同時にこの喜びの根拠なるものについても、すなわちイエス様のことばに尽くすことのできない大いなる愛についても、おもに2章には書き記されています。 旧約聖書の中で358回、新約聖書の中で133回、「喜び」という言葉が出てきます。 どうして旧約聖書の中にそんなに多く出てくるか、おそらくね、ダビデがこういうふうに導かれたからです。ですから、旧約聖書と新約聖書を合わせて523回「喜び」という言葉が出てきます。喜ぶことの大切さ、必要性、そして可能性について書いてあります。 述べられているパウロの願い、パウロの祈りだけではなく、主の御心そのものが書き記されています。すなわち、一致を保ち、同じ愛の心を持ち、心を合わせ、志を一つにしてください。 主なる神の永遠のご予定は、ローマ人への手紙8章29節によると次のようなものです。 ローマ人への手紙8:29
ということです。 私たちは、確かに変わりやすい者ですけど、主の御計画は、決して決して変わらないことです。すなわち、救われた人々は、イエス様の御姿に変えられることこそ重要です。 主なる神の切なる願いは、私たち一人ひとりは、主の側に立つ者となり、妥協せず主を第一にする者となることです。 まず初めの質問は、イエス様の心構えを得る道とは、いったいどういうものでしょうかについて、ちょっとだけ考えてみたいと思いますが、パウロは3つのことについて述べています。 すなわち、まことの一致を持つ必要性、そして、いかにしてこの一致が保たれるか、すなわち謙遜によって、また成熟によってです。 まことの一致について3つの事柄が述べられています。同じ愛の心を持つこと、心を合わせること、志を一つにすることです。 ご存知のように、パウロはこの手紙を刑務所の中で書いたのです。おそらくパウロは、この刑務所から出られなくなったかもしれない。すなわち彼は、殉教の死を遂げたのです。まちがいなくパウロは、刑務所の中で悩んだり、苦しんだり、心配したでしょう。 しかし、はっきり言えることは、彼は自分のことをあまり大切にしたくなかった。自分のことを忘れ、信じる者の成長のために祈り続けたということです。刑務所を出られるように祈りなさいと、彼は頼んだのではない。 私の喜びが満たされるようにお願いします。どうか一致を保ち、同じ愛の心を持ち、心を合わせ、志を一つにしてくださいと。同じ愛の心を持ちなさい。すなわちイエス様を通して、明らかになった主の愛を体験的に知ることができ、それからこの愛を伝える器となることです。エペソ人への手紙の中で似てる箇所があります。 エペソ人への手紙4:2-3
私たち信じる者一人ひとりを通して、他の信者に祝福をもたらすように召されています。 すなわち私たちを通して、他のイエス様を信じる者が、イエス様とさらに深い交わりを持つことができるようになり、兄弟姉妹と主とがさらに近づき、妥協せず、喜びに満たされて、信仰生活を送ることができるようにと、主は信じる者一人ひとりを用いようと望んでおられます。 主なる神が関心を持っておられる唯一のことは、イエス様に導かれ、イエス様に捕らえられている人々に関することです。主なる神が、人間一人ひとりをどのように大切な者であるか、またその一人ひとりを贖うためにどのような犠牲を払ったかということを考えて見るならば、一人ひとりを愛せざるを得ないのではないでしょうか。 これはもちろん、自分の努力の結果ではなく、主の愛の現れです。 よく知られているローマ人への手紙5書5節の中で、「私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。」いつか与えられるかもしれないのではない。もう与えられているとあります。 主なる神は、我々に対して最大の関心を払っておられます。だから私たちの最大の関心事も、区別なしに兄弟姉妹を心から受け入れるということでなければなりません。 次に、パウロは刑務所の中で信じる者を思い、2番目ですね。「心を合わせてもらいたい」と書きしるしたのです。同じ目的を目指して走ろうではないか。 演奏会の始まる前に、それぞれの楽器の演奏者は、音程を一つに合わせます。それと全く同じように私たちは、この心を一つにして、同じ思いを持たなければ、主の栄光を現すことができません。 信じる者の集いとは、どういうものであるべきなのでしょうか。ダビデは、次のように書いたのです。「見よ。兄弟たちが一つになって共に住むことは、何という幸せ、何という楽しさであろう。」とあります。 イエス様のからだなる教会は、分裂したものであってはならない。かえってそれぞれの器官は、お互いに配慮しあうべきです。御霊の一致と愛の一致がある所にのみ、共なる賛美と主の御名が崇められることが成就されます。 この一つになること、一致することは、おもにダビデは強調したのではないでしょうか。詩篇34篇3節、2回も、「ともに、共に」という表現が出てきますね。 詩篇34:3
心と声を合わせてくださいと。これはパウロの願いであり、またこれこそが主なる神の命令であり、祝福の秘訣です。 一緒になって奉仕したり、共に働いたりすることができますけど、心の一致がなければ、ちょっと無意味なのではないでしょうか。役に立たないものであり、なぜならば一致のある所のみ祝福があるからです。 新たなる祝福を得ようと思えば、他の信者と心を一つに合わせて主を仰ぎ見ましょう。 使徒の働き1:14
とあります。兄弟姉妹は互いに分裂してはなりません。信じる者であれば誰でも、愛を持って互いに受け入れなければならないと、聖書ははっきり言っているのです。 枝葉の問題よりも大切な問題があります。キリスト者の交わりの目的は、枝葉の問題に関して危惧することではなく、共に心を一つにして主を礼拝することです。これはまた救いの目的でもあり、我々の救われた目的です。 まことの一致は何を意味しているのでしょうかね。同じ愛の心を持つこと、心を合わせることであり、そして志を一つにすることです。 志を一つにすることは、いったい何を意味してるのでしょうか。すなわち、イエス様の内に見られる心構えを持つことです。 つまりイエス様のように、人を見なさい。イエス様のように、この目に見える世界を見なさい。イエス様の持っておられる要求を持ちなさいということです。 パウロは、当時の信じる者の中に2種類があったと書いてあります。 ピリピ人への手紙2:20-21
これは未信者のためじゃなくて、信じる者、救われた人々に書かれた言葉です。 彼らは疑いもなくイエス様を救い主として受け入れていますし、心から信じていますし、しかし、イエス様のことよりも自分自身のことを求めている。 是非覚えていただきたいことは、自分自身を無にして、主の栄光を追い求めるということによってのみ、志を一つにすることができるということです。 イエス様は、たとえばペテロに「あなたは、ヨハネのようになりなさい。」と言わなかったし、ヨハネに向かっても「あなたは、ヤコブのようになりなさい。」と仰いませんでした。同時にイエス様は、マリヤに向かって「マルタのようになりなさい。」とは仰らないで、マルタに向かって「マリヤのようになりなさい。」とは言いませんでした。 コーラスの中には、いろいろなパートがあります。主は、賛美が一本調子ではなく、互いに調和を保ちながら、美しいハーモニーを奏でることを望んでおられます。信仰の弱い人も強い人も、また能力のある人も、無い人も主への賛美のために、一つ心になるべきです。 イエス様は、正しい認識に欠ける信者たち、また欺瞞の中にいる信者たちに、思いやりを示してくださり、彼らを愛してご自分のいのちを、このような人々に対して捧げてくださいました。この心構えを私たちも持つべきです。 今まで私たちは、心の一致を持つことの必要性について考えてまいりましたが、今度は、謙遜について少し考えてみたいと思います。 ピリピ人への手紙2:3
とあります。心の一致の土台なるものは、心の謙遜です。謙遜のない一致は、偽りものであり、にせものにすぎません。 自己中心や強制からすることによって分裂が生じてきます。自分自身のことを求めることの反対は謙遜です。 イエス様は、自分自身を喜ばせなかったただ一人のお方です。 イエス様は、「わたしは、心からへりくだった者です。わたしは、自分の意思を追求せず、わたしを遣わしたお方の御心だけを求めます。」と言えたのです。 我々の最大の敵は、自分の自我です。自我は、神のために役に立ちません。それは死に値するものです。人を自分よりもすぐれた者であると思う精神は、イエス様の精神であり、すなわち本当の謙遜です。悪魔の精神は、高ぶりであり、傲慢です。 悪魔は、頭を下げたくないし、決して「ごめんなさい」と言いません。 多くの人々の特長は、誰もが自分自身だけのことを考えるということではないでしょうか。それですから、結婚生活、家庭生活、社会生活そのものが、もはやうまく行かないのではないでしょうか。ですから、至るところ、恐ろしいほどの形相、妬み、憎しみがあります。 謙遜であるということは、決して弱さのしるしではありません。最も強い武器です。「わたしは、心やさしくへりくだっている。」と言われたイエス様に対して、悪魔はどうすることもできませんでした。 もし、私たちは自分は他の者よりもすぐれた者であると思い込み、その他の兄弟姉妹の助けを必要としないと考えると、必ず分裂が生じます。4節ですね。「自分のことだけではなく、他の人のことも顧みなさい。」とあります。 自己否定を伴わない生活は悲劇です。自分のために生きるとは、すなわち不幸になる原因です。自分のために生きるとは、それは自己満足であります。 誰でもが、自分自身のために生き、自分が中心になりたいと思い、自分自身の願望を追及することは、もちろん可能です。なぜならば、今話したように、我々の最大の敵は、自分自身の自我であるからです。 自分のためではなく、十字架の上で犠牲になり、また3日目に復活なさったイエス様のために生きることは、最高の特権であり幸せです。 自分のことばかりを大切にする人は、的外れの生活をしますけれど、イエス様のために生きたいと望む者は、自由になります。幸せになり、そして豊かな実を結ぶようになります。 私たちは、イエス様の御姿に変えられなければならない。イエス様ご自身が、我々の内に形造られなければならないと強調されています。 もう一つの点について、ちょっと考えたいと思います。そして、イエス様の心構えの特長とはいったいどういうものでしょうか。 1番目、自分を無にすること 2番目、自分を卑しくすること 3番目、死にまでも従うこと 4番目、人に仕えること この4つの点について最後にちょっとだけ考えて終わりたいと思います。 まず、イエス様は、自分を無にしてくださいました。イエス様は、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられました。 イエス様は、永遠なる神であられたのに、天におられたならば、何の不自由なく恐るべき祝福のうちに住むことができたのに、自分を空しくしてくださいました。自分の持ち物、自分の知恵、また力を全部捨てました。 イエス様は、人の誉れも名誉も得ようとは、一時だに思われなかったのです。全く自分を空しくしておられました。ある人は、これは私の権利だと思い込んでしまい、戦うようになりますが、しかし、我々の権利とは、自分の権利を捨てる権利にすぎない。すなわち、自分を空しくすることです。 イエス様は、自分の喜びを求めることや自分の名誉を求めることや、富を求めることとは全く無関係でした。イエス様の切なる願いは、次のような事柄、すなわち「父よ。あなたの御名が崇められますように。」ということだけでした。 イエス様は、「わたしは、自分の栄光を求めない。父の栄光を求める。」とはっきり告白したのであります。イエス様は、「わたしは、自分の意思ではなく、わたしを遣わした父の意思によって歩む。」と告白することができたのです。それからイエス様は、前に言いましたように、自分自身を卑しくしてくださったのです。 ピリピ人への手紙2:8
本当の意味での謙遜なるお方は、イエス様お一人のみです。「わたしは、へりくだっている。」とイエス様は、真心から言うことができたのです。すなわちイエス様は、自分のことを完全に忘れました。自分自身を喜ばせようとはなさいませんでした。自分自身を喜ばせるとは、自己満足です。人は、簡単な楽な道を望みます。 人は、問題に入りたくない。人は、自分の利益を追求する者なのではないでしょうか。イエス様は、自分自身を喜ばせなかったただ一人のお方です。 悪魔は、傲慢のかたまりですけど、イエス様は、自分を卑しくしてくださいました。そして、主なる神の御心は何であるかと言いますと、イエス様の内にみられる心構えでいなさいと。ペテロも同じ事実について書いたのです。 ペテロの手紙第I、5:5
聖書全体の言わんとしていることは、それでしょう。もう一箇所、コロサイ人への手紙3章12節です。 コロサイ人への手紙3:12
とパウロは書いたのであります。なぜ、そんなに実りが少ないのでしょうか。なぜ、御霊はそんなにしばしば、悲しまれるのでしょうか。なぜならば、私たちが自分自身を喜ばせているからなのではないでしょうか。私たちは、何かの役割を演じたいと思っているのではないでしょうか。私たちは、自分自身を同情するからです。 もう一つ、イエス様について書かれているのは、イエス様は死にまでも従ったということです。これこそ、イエス様の心構えの特長でした。 従順は謙遜の結果です。イエス様は、自分自身を忘れ、誤解されたり、そしられたりすることを良しとされました。そればかりでなく、イエス様は、人間の罪に対する父なる神の怒りの裁きを、ご自分の上に引き受けることを良しとされました。 イエス様は、のけ者にされ、呪われることも良しとしてくださったのです。これは、イエス様にとって何を意味したのか、全く考えられない犠牲でした。 自分自身の名誉欲を満たしたいと思う者、また自分自身の利益を追求する者は、気の毒です。イエス様は、「わたしは、心からへりくだった者です。だからわたしは、自分の意思を追求せず、わたしを遣わされたお方の御心を求めます。」と正直に証しすることができたのです。 自分の考えによって導かれる者は、本当に災いです。イエス様は、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われました。 もう一つのイエス様の心構えの特長とは、4番目ですけど、人に仕えることです。 へりくだる者だけが、従順に従うことができ、従順に従う者だけが仕えることができます。 イエス様は、次のように告白しました。マルコの福音書10章、このマルコの福音書の中の一番大切な一節でしょう。 マルコの福音書10:45
イエス様は、僕の形をとり、弟子の足を洗ってくださいましたが、それはまさに当時の奴隷の仕事にほかならなかったのです。しかもイエス様は、それを喜んでしてくださいました。 我々の生まれつきの性質の特長は、自分、自分だけのことを考えるということです。だからこそ人は、不幸になり、孤独になり、満たされていません。 だからこそパウロは、刑務所の中で、信じる者の成長のために心配し、また祈りながら書き記したのです。「主イエスのうちに見られる心構えでいなさい。」と。 イエス様は、自分を無にしてくださり、死にまでも従順に従う者となり、救いの代価を払うことによって、犠牲になることによって、本当の意味で人に仕えたのです。 それゆえ、神は、キリストを高く上げて、すべての名にまさる名をお与えになりました。それは、イエスの御名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが、ひざをかがめ、すべての口が、「イエス・キリストは主である。」と告白して、父なる神がほめたたえられるためです。 父なる神は、イエス様の一番高い御位をお授けになったのです。イエス様は今、天の御位に座しておられますが、けど、イエス様はただ一人でそこにおられることを願っていません。 十字架に架かってくださったのは、信じる者の一人ひとりがイエス様の心構えを持ち、御座に着くことができるようになるためだったのです。 その道が、どんなに恥と苦しみに満ちていても、御座に続く道は、主の望んでおられることです。 主の目標を心の目で見た人は、自分自身を省みません。イエス様のうちに見られる心構えでいなさいとパウロは、ピリピにいる兄弟姉妹に書いたのです。 私たちはすべてを、すなわち、自分が持っている考え、自分が持っている意思、自分が持っている感情をすべて主に捧げ、また自分が当然良いと思われる権利も、イエス様に捧げようではないでしょうか。 その結果は、どういうものでしょう。パウロは、自分の体験として次のように告白しました。すばらしい証しです。 ピリピ人への手紙3:8
イエス様のうちに見られる心構えでいなさい。 すべての問題の原因は、我々の生まれつきの性格にあるのではない。我々の我がままな気持ちです。特にいつも自分を正当化しようという気持ちが、傲慢な思い、自己追求などに問題の原因があるのではないでしょうか。 確かに、イエス様のために生きたいと思う人は、犠牲を捧げるようになるでしょうけど、そのために失うことはない。多くのものを得るようになります。 自分自身のことだけを考え、自分自身の楽しみを追求する者は、心からの満足を得ることができません。 また前進することもできません。 イエス様をより良く知りたい、そしてイエス様に用いられたいと思う人は、したがって幸いであり、祝福され、用いられるようになります。 自分の思い、感情、意欲などを大切にしないで、ただイエス様だけが、すべてのことにおいて最優先されるという備えができている人は、必ず祝福され、主の姿に似た者と変えられるようになります。 自分のことばかりを大切にする人は、的外れの生活をします。 けど、イエス様のために生きたいと望む者は、自由になり、幸せになり、また間違いなく豊かな実を結ぶようになります。 |