主を待ち望め


ベック兄

(吉祥寺学び会、2013/11/19)

引用聖句:コリント人への手紙第I、16章21節-22節
21パウロが、自分の手であいさつを書きます。
22主を愛さない者はだれでも、のろわれよ。主よ、来てください。

ヨハネの黙示録22:17
17御霊も花嫁も言う。「来てください。」これを聞く者は、「来てください。」と言いなさい。渇く者は来なさい。いのちの水がほしい者は、それをただで受けなさい。

ヨハネの黙示録22:20-21
20これらのことをあかしする方がこう言われる。「しかり。わたしはすぐに来る。」アーメン。主イエスよ、来てください。
12主イエスの恵みがすべての者とともにあるように。アーメン。

今日は、テサロニケ人への手紙第Iの5章の全般について、ちょっと一緒に考えてみたいと思います。
この所の中心テーマは「主イエス様が再び来られる」ということです。題名として、テーマとして「主を待ち望め」ともつけることができるのではないかと思います。
3つの質問について考えましょうか。

第1番目、主の出現とは、いつになるのでしょうか。どなたが来るのでしょうか。どのように来られるのでしょうか。
第2番目、夜の者とは、いかなる者なのでしょうか。すなわち眠っている者であり、酔う者であり、また無防備の者です。
第3番目、昼の子とは、いかなる者なのでしょうか。すなわち目を覚ましている者、慎んでいる者、また完全装備している者です。

本当の回心のしるしは、意識して主の再臨を待ち望んでいるということです。そのことについてパウロは、私たちが、主を待つために改心する恵みを与えられたということです。
確かにどうして信じることができたか、イエス様があわれんでくださったからです。けども救われるためにだけではない。主を待つために救われたと聖書は、はっきり言っています。

テサロニケ人への手紙第I、1:9-10
9私たちがどのようにあなたがたに受け入れられたか、また、あなたがたがどのように偶像から神に立ち返って、生けるまことの神に仕えるようになり、
10また、神が死者の中からよみがえらせなさった御子、すなわち、やがて来る御怒りから私たちを救い出してくださるイエスが天から来られるのを待ち望むようになったか、それらのことは他の人々が言い広めているのです。

結局、周りの人々は「あの連中たちはね、再臨を待っている者だ。」と言えるようになりました。
当時、イエス様が再び来られるということを知ることは、信者たちに対して大きな慰めと勇気と喜びを与えたのです。それに比べて、今日我々の場合はいったいどうでしょうか。主の再臨を知って、我々の慰めと勇気とを与えられているのでしょうか。主のみことばの真理を、本当に自分のものにすると、必ず慰めと希望と勇気を与えられるのです。
このテサロニケ人への手紙第Iの中心なるテーマとは、主の再臨です。そして信じる者は、この再臨に対してどのような態度を取るべきかについて、5章1節からちょっと読みましょうか。

テサロニケ人への手紙第I、5:1-11
1兄弟たち。それらがいつなのか、またどういう時かについては、あなたがたは私たちに書いてもらう必要がありません。
2主の日が夜中の盗人のように来るということは、あなたがた自身がよく承知しているからです。
3人々が「平和だ。安全だ。」と言っているそのようなときに、突如として滅びが彼らに襲いかかります。ちょうど妊婦に産みの苦しみが臨むようなもので、それをのがれることは決してできません。
4しかし、兄弟たち。あなたがたは暗やみの中にはいないのですから、その日が、盗人のようにあなたがたを襲うことはありません。
5あなたがたはみな、光の子ども、昼の子どもだからです。私たちは、夜や暗やみの者ではありません。
6ですから、ほかの人々のように眠っていないで、目をさまして、慎み深くしていましょう。
7眠る者は夜眠り、酔う者は夜酔うからです。
8しかし、私たちは昼の者なので、信仰と愛を胸当てとして着け、救いの望みをかぶととしてかぶって、慎み深くしていましょう。
9神は、私たちが御怒りに会うようにお定めになったのではなく、主イエス・キリストにあって救いを得るようにお定めになったからです。
10主が私たちのために死んでくださったのは、私たちが、目ざめていても、眠っていても、主とともに生きるためです。
11ですから、あなたがたは、今しているとおり、互いに励まし合い、互いに徳を高め合いなさい。

とパウロは、テサロニケにいる兄弟姉妹に書き送ったのです。

初めの質問は、主の出現とはいつになるのでしょうか。どなたが来るのでしょうか。どのように来られるのでしょうか。
イエス様ご自身が再び来られると、全く明確に記されています。今日、青少年犯罪の問題、あるいはさらに戦争の問題が将来いったいどのようになるのかということを、非常に心配し憂いている人が大勢います。
しかし、これらの問いに対してはいかなる人間も、いかなる宗教も答えを与えることができません。ただ聖書だけが答えを与えることができるのです。イエス様は、末の世について次のように言われました。

マタイの福音書24:8
8しかし、そのようなことはみな、産みの苦しみの初めなのです。

すなわち、別の言葉で表現すれば、将来さらにひどい状態になり、そしてそれは今だかつて一度もなかったような恐ろしいものであると聖書は言っています。そして、この世に対する神の裁きが、今までなかったほどのものとして現れるというのです。
未信者にとっては、患難と不安、恐れに満たされた時が来るのですけれど、主の恵みによって救われた人々にとっては、言い表すことのできないほどの喜びと救いがやって来るのです。
いつイエス様は、再臨なさるかということは、そんなに大切なことではなく、大切なのはイエス様ご自身が来られるということです。そしてこのことで充分です。テサロニケの兄弟姉妹は、この確信を持って生活したのです。これこそ本当の喜びの土台そのものです。

戦争が終わった後、ドイツの一つの都市では、爆弾によって廃墟となった所を俊設機が後片付けをしていました。そして俊設機が集めた瓦礫をその後ろにいる労働者が、スコップで傍らに放り投げていました。
ところが、そうしている最中にどこからともなく、時計がカチカチと時を刻む音が聞こえてきました。それを聞いた時、労働者たちは一瞬びっくりしました。なぜなら、その時計の音は、時限爆弾に取り付けられる時計の音に間違いなかったから。
そこでその労働者は仕事を止めて、そのことを警察に通報し、そのあたり一体の人々や住民を遠く離れた所に避難させたのです。その後で時限爆弾が大きな音をたてて爆発したのです。その労働者たちは、時限爆弾が取り付けられた時計が時を刻むのを聞いて、それからいつ爆発するかは解かりませんでした。

けれども必ずいつかは爆発するということをよく知っていました。ちょうどそれと同じように、イエス様の再臨がいつであるか、確かに今は解かりませんが必ずいつか成就されます。なぜならば、主なる神の時計は、正確にその時を刻んでいるからです。
けれどもそれは、イエス様が復活なさった時から正確な時を刻みはじめたのです。
そして、復活祭の時に全人類にとっての最後の時である死が打ち負かされたのです。そのすべての権威を持っておられるお方、そして主イエス様がご自身を啓示なされたのです。

ちょうどイエス様が、この世では貧しく、人々に侮られたことが真理であると同じように、やがて栄光のうちに再び来られるということも、同じく真理です。
ちょうどイエス様が、受難の時、全く力なく十字架で血を流されたように、やがて絶大なる力をもって現れることも真理です。
また、復活祭の時、イエス様が死を打ち負かされたように、やがて天と地また死者と生者に対する死、主として主は来られるのです。これも真理です。

先ほどの話で、時限爆弾が仕掛けられてから、一定の時がたつと正確に爆発するのと全く同じように、復活された主イエス様が、ある時に必ず再臨なさることも確かです。なぜならば、復活という事実が取りも直さず、再臨を証明する事実であるからです。
もし私たちが、この再臨について本当の確信を持っていなかったとしたら、それは本当に悲しむべきことであると言わざるを得ない。
それから、どのようにしてイエス様が再臨なさるかについて、パウロははっきりと書き記したのです。すなわち、イエス様は予期しない時に突然、盗人が喜ぶように来ると言っているのです。

盗人は自分が泥棒に入ろうとする時間を、予め知らせるような愚かなことはいたしません。イエス様が今日、再臨なさるということは、たとえ考えられないとしても、それが実現される可能性はあるのです。そのことを考える時、私たちは本当に喜ぶことができ、また力づけられるのです。
しかし、信者の中にはそのことを考えても、本当に喜ぶことができないような人もいることも事実です。我々の場合はどうでしょうか。
また、いつイエス様が再臨なさるかについて、パウロは、はっきりと答えています。すなわち、人々が「平和だ。無事だ。」と言っているその時に主が来られるのですというのです。

今日ここでも、平和という言葉が聞かれ、また大抵の人はそれだから安心だ、無事だと思っていますけど、聖書はそのように思い込むことが誤りですとはっきり言っています。
3節に書いてありますように、イエス様が再び来られることを確信して、心から待ち望むことをしていない人々にとっては、主の再臨が取りも直さず滅びを意味しているのです。

2番目の質問は、夜の者とは、いかなる者なのでしょうか。すなわち眠っている者であり、酔う者であり、また無防備の者です。すなわち、彼らはイエス様など来ないと言うか、あるいは当分来ないと言うかのどちらかですけども、彼らが取る態度の結果、あるいは終わりは恐れ、患難そして滅びなのです。
それですから彼らは、希望なく望みなき者です。聖書のことばによると、彼らは眠った者であり、酔う者です。私たちは、酔う者がどういう者であるかよく知っています。酔う者は、責任能力がなく、信心の状態が成長ではない者です。酔っ払い運転が見つかれば、すぐに免許書は取りあげられてしまいます。
聖書の中では、未信者は酔う者にたとえられています。すなわち、酔う者は自分が何をしているか解からずにいるわけですが、未信者も提供された救いを拒むという全く愚かなことをしている。自分の状態に気がつかないでいるわけです。なぜならば、イエス様を拒むことの結果が滅びに至るということを知らないでいるからです。

また聖書は、未信者のことを眠っている者とも呼んでいます。すなわち、未信者はイエス様を待つことをせず、主の御心を真剣に受け取ろうとせず、愚かにも自分勝手な道を行こうとしているのです。
イエス様をまだ体験的に知っていない人は、当然次のような問いが起こってきます。光の子になるために、どうしたらいいのでしょうか。

ローマ人への手紙3:23
23すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、

イザヤ書64:6
6私たちはみな、汚れた者のようになり、私たちの義はみな、不潔な着物のようです。

また聖書は言っています。光の子となるためには、自分自身の罪だらけの状態、失われた状態を認め、告白し、それから離れることも必要であると聖書の中で、何回も何回も書き記されています。
自分の背きの罪を隠す者は成功しない。それを告白して、それを捨てる者はあわれみを受ける。聖書全体の言わんとしていることはそういうものです。
隠しても無駄。へりくだればOK。主のみことばを信じることですね。

エペソ人への手紙1:7
7私たちは、この御子のうちにあって、御子の血による贖い、すなわち罪の赦しを受けているのです。これは神の豊かな恵みによることです。

主があわれんでくださらなければ、恵んでくださらなければ本当におしまいです。
旧約聖書の中でも同じようなことばが書きしるされています。私は何十年前に、このことばによって確信を持つようになり救われました。

イザヤ書43:1
1だが、今、ヤコブよ。あなたを造り出した方、主はこう仰せられる。イスラエルよ。あなたを形造った方、主はこう仰せられる。「恐れるな。わたしがあなたを贖ったのだ。わたしはあなたの名を呼んだ。あなたはわたしのもの。

こういう約束を自分のものにすれば、やっぱり幸せになります。

マタイの福音書9:2
2すると、人々が中風の人を床に寝かせたままで、みもとに運んで来た。イエスは彼らの信仰を見て、中風の人に、「子よ。しっかりしなさい。あなたの罪は赦された。」と言われた。

ここでアンダーラインすべきことばは「彼ら」、「彼」じゃないよ。けっきょく運んだ人々の信仰を見て、イエス様は、中風の者に「子よ。しっかりしなさい。あなたの罪は赦された。」とあります。

ヨハネの福音書5:24
24まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしのことばを聞いて、わたしを遣わした方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきに会うことがなく、死からいのちに移っているのです。

それから次の一報は、あなたの罪のために尊い血潮を流して、贖ってくださったイエス様に感謝をすることです。
しかも感傷的にそうするのではなく、聖書に書かれている主のみことばの上に、感謝することが大切です。解かったからじゃない。約束されているから。
最後の一報は、主を隠さずに、どこででも公に告白し、証しをすることです。

ローマ人への手紙10:9-12
9なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、あなたは救われるからです。
10人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。
11聖書はこう言っています。「彼に信頼する者は、失望させられることがない。」
12ユダヤ人とギリシヤ人との区別はありません。同じ主が、すべての人の主であり、主を呼び求めるすべての人に対して恵み深くあられるからです。

最後に第3番目の質問は、昼の子とはいかなる者なのでしょうか。すなわち、目を覚ましている者、慎んでいる者、また完全装備している者です。

テサロニケ人への手紙第I、5:6
6ですから、ほかの人々のように眠っていないで、目をさまして、慎み深くしていましょう。

光の子とは、目を覚ましている人であり、また慎んでいる人です。すなわち、待っている者です。彼らは望みと喜びに満たされています。

テサロニケ人への手紙第I、5:8
8しかし、私たちは昼の者なので、信仰と愛を胸当てとして着け、救いの望みをかぶととしてかぶって、慎み深くしていましょう。

胸当てとかぶとを身につけている者は、すなわち光の子です。すなわち、非常によく装備している者です。
ここで胸当てとは、イエス様を信じる信仰とイエス様に対する愛との胸当てです。自分に拠り頼むことをしなくなり、すべてを主に委ね、何ものにも増して主を第一にし、誰よりもイエス様を愛する者だけが、完全な装備をしている者であり、いかなる敵に対しても立つことができる者です。
また、かぶととは、イエス様が必ず来られるという確信と喜びのかぶとです。イエス様は今日来られるかもしれないという待ち望みを持っていない者、すなわちそのようなかぶとを身につけていない者は、弓矢で射られたり、刀や槍で傷つけられやすい非常に危険な状態にあるわけです。

これらの武具、すなわち胸当てとかぶととは、まさに主の賜物以外に何ものでもありません。けどもあらゆる賜物は、同時にその中に一つの課題あるいは使命を宿しているのです。
賜物はいつも、目的を持って与えられるものです。目を覚ましていなさい。慎んでいなさい。眠っている者は、意識がありません。したがって、近づく危険を感じ取ることができず、戦いを放棄してしまっているのです。
酔っ払っている者は、全く無防備の状態に置かれているのではないでしょうか。私たちは、絶えず目を覚まして、慎んでおり、互いに助け合うようになるのです。私たちはいったい光の子なのでしょうか。それとも夜の者なのでしょうか。

眠っている者なのか、それとも目を覚ましている者か、酔う者でしょうか、慎んでいる者でしょうか。
望みのない者、生き生きとした望みを持っている者なのでしょうか。不安に満たされている者でしょうか、それとも喜びに満たされている者なのでしょうか。全く無防備な者でしょうか、それともよく装備した者なのでしょうか。
私たちは、イエス様の再臨という不確実な真理について考えてきました。それは我々にとって、何を意味しているのでしょうか。

まずイエス様が再臨なさると、イエス様が再臨なさるというこの事実は、我々に決断を迫るということです。
すなわちイエス様は、我々との出会いを望んでおられますが、私たちは、この主を今受け入れるのか、それとも拒むのでしょうか。
今日こそ、その決断をする絶好の機会なのです。さもなければ大変なことになるかもしれない。主なる神の時限爆弾が、爆発する時まで待つことは、全く遅すぎることであり、また愚かなことです。

イエス様が再臨なさるというこの事実は、私たちが主イエス様に仕えることを迫る。自分だけのことを考えて、のんびりと楽な生活を楽しむための時間は、もはやなくなりつつあるのです。
私たちはイエス様のために実を結ぶように召されているのです。イエス様のために実を結ぶとは、他の人が永遠のいのちを持つことができるよう、そのきっかけを与えることです。
イエス様の再臨なさるというこの事実は、我々を不安から引き出すのです。多くの人は、心配や不安のため、将来のことを考えようとはしません。私たちが将来のことで思い煩い、心配するならば、それは主に対する不信頼の現われなのではないでしょうか。私たちは、思い煩ったり恐れたりする必要はないとイエス様は言っておられます。

最後にもう一箇所読んで終わります。

ヨハネの黙示録1:17-18
17それで私は、この方を見たとき、その足もとに倒れて死者のようになった。しかし彼は右手を私の上に置いてこう言われた。「恐れるな。わたしは、最初であり、最後であり、
18生きている者である。わたしは死んだが、見よ、いつまでも生きている。また、死とハデスとのかぎを持っている。

そして生きている者、すなわちイエス様は再び来られるのです。もし私たちが今日、すべてを主に明け渡し委ねるならば、主の再臨という真理を心から喜ぶことができます。




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