引用聖句:ヨハネの黙示録5章12節-14節
ヨハネの福音書4:23-24
主を拝むこと、礼拝することとは最も大切なのではないでしょうか。 ダビデは、主の御心にかなう人と呼ばれました。彼は、どうして御心にかなう人であったかと言いますと、主を拝んだ、主を礼拝した男だったからです。 サムエル記第II、22:47
結局、主はあがむべきかな。わが救いの岩なる神。主は、あがむべき礼拝すべきであるとダビデは、もちろん確信しました。 今読んでくださったヨハネの福音書4章は、礼拝について考えると一番よく知られている箇所なのではないかと思います。 「真の礼拝者たち」、真の礼拝者がいると、表面的だけ礼拝する人々もいます。本物があれば必ず偽物もあります。そして、悪魔こそが礼拝を求めています。 マタイの福音書4:8-9
そしたら、あなたは十字架に行かなくてもすむ、 マタイの福音書4:10
悪魔は、礼拝の大切さをよく解かる。 結局、将来について考えると、何が起こるようになるか、成されるようになるか、今、ヨハネの黙示録5章の中で書かれています。 ヨハネの黙示録5:12-14
天国で、将来は礼拝に満ちた所です。もちろん永遠にわたる礼拝になります。 表面的に礼拝する者がいると、本物もいます。そしてもちろん、イエス様は本物を探しておられます。このヨハネの福音書4章23節によると、明日、明後日、再来年ではなくて「今がその時である」と書き記されています。 主を礼拝することこそが、考えられないほど大切です。イエス様を知り、イエス様の前にひれ伏し、また自分の理解しがたい悩みは主の道である、主が許したものである、主のせいであると認めた人々は、必ずまことの礼拝に導かれます。 イエス様は、霊とまことを持って礼拝する、まことの礼拝者を尋ね求めておられます。本当は、我々の全生涯そのものは、主に対するまことの礼拝そのものであるべきなのではないでしょうか。 私たちは、日曜の朝、いったいどういう気持ちで集会に集うのでしょうか。もっともっとイエス様を知りたいという、ひたすらなる願いをもって集るのでしょうか。 イエス様の弟子たちは、主を礼拝するようになったと聖書は言っています。 マタイの福音書14:24-27
主の弟子たちは、嵐の真っ最中、海の真ん中に出ていて荒れ狂う波をいかんともすることができないでいました。そこにもってきて、変な姿が現れましたが、弟子たちはなおさら恐れおののきました。 彼らは、幽霊だと叫んだと聖書は言っています。けど、幽霊ではなかったよ。これはイエス様でした。「しっかりしなさい。わたしだ。恐れることはない。」イエス様は、ご自身を啓示してくだったから、弟子たちは主を知るようになりました。 イエス様を知ることこそが、主に対する礼拝のもとです。主を知らなければ、誰も本当の意味で主を礼拝することができません。 マタイの福音書14:33
礼拝したと書いてあります。 ちょっと旧約聖書からもう一箇所読みます。 歴代誌第II、33:10-13
ここでは書いていないけど、当然です。彼は心から礼拝するようになったに違いない。 彼は、いったいいかにして主を知ることができたのでしょうか。いろいろな苦しみを通してです。彼は、敵によって鉤で捕え、青銅の足かせにつないで、バビロンへ敵の国へ引かれたのです。 けれど、それは終わりではなかったのです。悩みを通して、理解しがたい導きを通して、彼の心の目が開かれたのです。そしてマナセは、主こそ神であると体験的に知るようになりました。 私はいったい、どういうふうに真の礼拝者となることができるのでしょうか。主なる神が、私たちの天のお父様であり、また私たちは、この偉大なる主の子供であるという知識を持つことが、充分です。 私たちは、主をすべてを支配しておられるお方として知る必要があります。主を知ることは、自分は徹頭徹尾、主のものである、自分の持っているものすべては、主のものであるということを意味しているのです。 主を主として知るようになった者だけが、霊とまことをもって礼拝することができます。イエス様の弟子たちが、波の上で主の御声を聞いた時、すなわち主がご自身を啓示してくださった時、彼らが「それは主である」と知るようになり、結果として主を拝むようになりました。 マナセ王は、それが主の導きであると知った時、それが主であることを知りました。主を知り、主の前にひれ伏し、また自分の理解しがたい悩みは、主のせいである、主の導きであると認めた人は、礼拝に導かれます。 今日なお主は、我々の真ん中にご臨在しておられ、霊とまこととを持って礼拝するまことの礼拝者を尋ね求めておられます。真の礼拝者たちが、霊とまことによって父を礼拝する時が来ます。今がその時です。 父はこのような人々を礼拝者として求めておられるからです。神は霊ですから、神を礼拝する者は、霊とまことによって礼拝しなければならない。一つの質問が出てきます。すなわち礼拝とは何でしょうかね。2つのことが言えます。 第1番目、主の道、主の導きに全き心からなる賛意を表することです。 第2番目、すべての事を主の御心のままにお委ねすることです。主の道に己を委ねることです。 主のなさること、主の導きは、主の道です。主はご自身のなさること、またご自身の導き、経験によって私たちが、主に目を開くその結果、私たちが自発的に心から、主を礼拝せざるを得なくなるように、主は働いておられます。主を心から礼拝を捧げうる人のみ、主の道を歩み行くことができます。 主の道を知り、主の道を喜ぶ、これこそが一番大切な我々に与えられている課題なのではないでしょうか。 そうなったなら、私たちは結局、変えられます。主が支配しておられます。偶然はない。全部主の御手から受け取れば、やっぱり喜ぶことができるだけではなく、礼拝せざるを得なくなります。 主を礼拝したモーセについて、ちょっと考えたいと思います。このモーセは、エジプトの国からイスラエルの民を導き出した男です。 出エジプト記34:5-9
「主、主は、あわれみ深く、情け深い神、怒るのにおそく、恵みとまことに富み、恵みを千代も保ち、咎とそむきと罪を赦す者」と書いてありますが、モーセは、この恵みのことばを聞いた時、主を礼拝せずにはおられませんでした。 けど、この恵みのことばとともに、モーセは7節の後半のごとく「主は、罰すべき者は必ず罰して報いる者。父の咎は子に、子の子に、三代に、四代に。」という厳しいことばを聞いた時、モーセは主の前に、まず己の罪を赦してくださいと謝る前に、主を礼拝いたしました。モーセは、急いで地にひざまずき伏し拝んだ。結局、主を礼拝したとあります。 主の恵みのみことばを聞いた時、主を礼拝することは、そんなに難しくない簡単でしょうけど、厳しいみことばの前にあっても、主を礼拝するということは、きわめて難しいことです。 礼拝とは何でしょう。今言いましたように、主の導きに全く心からなる賛意を表することであり、すべての事を主の御心のままにお委ねすることです。主の道に己を委ねることです。 私たちは、しばしば「主よ、御心をこのようにしてください。この環境を変えてください。」と祈り、叫び求めます。それは必ず間違っているのではないけど、礼拝ではない。単なる祈りです。 祈りは、我々の願いの言い表しであり、礼拝は、己の全てを何もかも主にお委ねすることです。十字架につけられる前、イエス様はゲッセマネの園で祈られました。 マタイの福音書26:39
イエス様の変わらない態度とはそういうものでした。 イエス様の祈りは、自分の願いの言い表しよりも、まことの礼拝でした。すなわち、わたしの願うようにではなく、あなたの御心のようになさってください。 モーセに続いて、イスラエルの歴史の最も優れた王ダビデをちょっと観察してみましょうか。 サムエル記第II、12:13-20
聖書は、ダビデについて「彼は神の心にかなう者だ」と言っています。いったいどうして? ダビデは、主を拝むまことの礼拝者だったからです。ダビデの歌った詩篇を読むと、ダビデは、最も深いどん底の苦しみにあっても、また非常な絶望に陥っている時も、逃れ道が見えず前途が真っ暗の時も、ひたすらに主を礼拝する礼拝者でした。 主なる神の道や導きは、いつも我々の願いと同じとは限りません。ダビデの場合もそうだったのです。彼の祈りは、彼の思ったように聞かれなかったのです。 この主なる神の御心にかなう人ダビデに「あなたに生まれる子は必ず死ぬ。」という恐るべきことばが臨みました。 ダビデは、自分の子を愛し、主に請い求め断食し、地に伏してひたすらに祈り求めました。しかし、その子は死んだと聖書は言っています。 多くの人々は、かかる立場に置かれる時、「どうして、なぜ」と言うでしょう。けど、ダビデは主の宮に入り礼拝をしたとあります。 礼拝とは何でしょう。主の導きに全く心からなる賛意を表することです。 全てのことを主の御心のままに、お委ねすることです。主の導きに己を委ねることです。 ダビデは、いつもこの態度を取りました。 ちょっと一箇所、また見ましょうか。 よく引用する大好きな箇所の一つです。ダビデの心からの祈りです。 その時、もちろんダビデは、この世界を支配する王でした。けれど、主の前に彼は、全部きれいに忘れました。 歴代誌第I、29:10-13
これはダビデの心からの告白でした。彼は、この態度を取ったから結局、主の御心にかなう人と呼ばれるようになりました。 最後に、もう一人の男についてちょっとだけ考えて終わります。すなわち非常に苦しんだヨブについてです。 ヨブ記1:13-22
ヨブのそれまでに持っていた財産の全部が取り去られ、愛する10人の子供も全部死んでしまいました。 多くの人々が、あの神に仕える人が、どうしてこんな苦しみにあうのでしょうかといぶかしく思ったに違いない。けど、ヨブはどうでしょう。ヨブは礼拝したと書いてあります。「主の御名はほむべきかな」と彼は告白しました。「主の御名はほむべきかな」これこそ彼の切なる願いでした。 私たちは、主の道に従うことを学ばなければなりません。そして、これはただ、こういう風に礼拝することによってのみ出来うることです。 何千年前に、ヨブは次のように証ししました。「私は知っている。私を贖う方は生きておられます。」、このヨブは、短期間のうちに彼の全財産、冨も宝も、また子供たちも、自分の健康も失ってしまいました。けれど、彼は不平や不満を言わず、主の完全な愛をも疑いませんでした。 たとえ彼が、主の導きを理解することができなかったとしても、彼は、主なる神を次の言葉をもって、礼拝したのであります。「私の造り主なる神は、夜には、褒め歌を与える。主が取られたのだ。主の御名はほむべきかな。私は知っている。私を贖う方は生きておられます。」と。 ダビデは確かに罪を犯してしまったんですけど、ヨブは主の前に全き人だったと聖書は言っています。それにもかかわらず、2人とも己をすべて主の御心に委ねたのではないでしょうか。何故でしょう、どうしてでしょうと尋ねられても、答えることができません。なぜか全然理解できなくてもただただ、心から主を褒め称え礼拝することこそが、主が望んでおられます。 「主よ、あなたは常に完全なお方です。全きことを成されます。あなたの導きも完全です。理解することができませんが、あなたを心から崇めます。」、この態度を取ることができれば、本当に幸いだと思います。 礼拝とは、全てのことを主の御心のままにお委ねすることです。主の道にお委ねすることです。 |