引用聖句:ヨハネの福音書4章23節-24節
マタイの福音書14:24-32
このヨハネの福音書4章23節、24節を見ると、真の礼拝者という表現が出てきます。本物があれば偽物もある。本物がなければ、誰も偽物を作ろうとしない。真の礼拝者もいるし、表面的に礼拝する人もいる。けど、真の礼拝者たちは、探し求めておられます。 イエス様は、「今がその時です、明後日ではない。」 ヨハネの黙示録の中で、将来についての箇所です。ヨハネの黙示録4章からずっと将来のことについて書いてありますけど、ヨハネの黙示録5章12節からを読むと解かります。これこそまことの礼拝です。 ヨハネの黙示録5:12
ふさわしいお方とは、十字架の上で犠牲になられたイエス様しかない。 ヨハネの黙示録5:13-14
悪魔も礼拝の大切さを知っているだけじゃなくて、何があっても大切にされてもらいたい、礼拝されてもらいたい、そういう気持ちなのではないでしょうか。 マタイの福音書4章を見ると次のように書かれていますね。 マタイの福音書4:8-10
もし悪魔が礼拝されれば、もうおしまい。そうすれば今日、霊とまことをもって礼拝する人は一人もいない。 旧約聖書の最も大切な人物の一人は、言うまでもなくダビデです。彼は、決して完全ではなかったのですけど、御心にかなう人だったと聖書は何回も言っているのです。いったいどうして?礼拝する人だったからです。 サムエル記第II、22章を見ると、彼の告白、証しが載せられています。 サムエル記第II、22:47
すばらしい告白です。まことの礼拝とは、結局こういう心がまえを持つことなのではないでしょうか。 私にとって最も大切なダビデの告白の一つは、歴代誌第I、29章なのですね。非常にすばらしい告白です。我々も毎日、こういうふうに祈ることができれば、ありがたいと思います 歴代誌第I、29:10-13
彼は、この態度をとったから御心にかなう人と呼ばれるようになりました。主を礼拝することこそが、我々にとっても、最も大切なのではないでしょうか。 けれども本当の礼拝とは何でしょうかね。イエス様を知り、イエス様の前にひれ伏し、また自分の理解しがたい悩みは、主の道である、主の許したものであると認めた人は、必ずまことの礼拝に導かれます。 イエス様は、霊とまこととをもって礼拝するまことの礼拝者を訪ねて求めておられます。本当は、我々の全生涯は、主に対する本当の礼拝そのものであるべきなのではないでしょうか。 イエス様の弟子たちは、主を礼拝するようになったとありますね。 読んでもらいましたマタイの福音書14章に戻りますと、書かれていますね。 マタイの福音書14:24-27
「わたしだ。恐れることはない。」、イエス様は、今日もそういうふうに呼びかけておられます。「偶然じゃない、運命でもない。わたしです。」 イエス様の弟子たちは、嵐の真っ最中に、海の真ん中に出ていて、荒れ狂う波をいかんともすることが出来ないでいました。そこへもってきて、変な姿が現れましたが、弟子たちはなおさら大変だと恐れおののきました。どうしてであるかと言いますと、イエス様だったら安心したでしょうけど、幽霊だと思い込んでしまいました。 けど、幽霊じゃなくてイエス様だったんです。「しっかりしなさい。わたしだ。恐れることはない。」、イエス様は、ご自身を啓示してくださったから、弟子たちはイエス様を知るようになったのです。そして、イエス様を知ることこそが、主の礼拝に対する元なのではないでしょうか。 マタイの福音書14:33
結局、礼拝したとあります。 もう一箇所読みましょうか。今度は、マナセという王様についての箇所です。 歴代誌第II、33:10
聞く耳がなければおしまい。結果として、聞こうとしなかったから、主はアッシリヤの王の配下にある将軍たちを彼らのところに連れて来られた。主のせいだったね。 歴代誌第II、33:11-13
この神をもちろん礼拝したに違いない。] マナセは、いったい如何にして主を知ることができたのでしょうか。いろいろな苦しみを通してです。彼は、敵によって鉤で捕らえられ、青銅の足かせにつないで、バビロンへ、結局、敵の国へ引いて行かれました。 悩みを通して、理解しがたい導きを通して、彼の心の目が開かれました。そして、彼は主こそ神であると、体験的に知るようになりました。 私たちは、いったいどういうふうに、まことの礼拝者となることができるのでしょうかね。主なる神が、我々の天のお父様であり、また私たちは、この偉大なる主の子供であるという知識を持つことが重要です。 私たちは、主をすべてを支配しておられるお方として、知る必要があります。主を知ることは、自分は徹頭徹尾、主のものである。自分の持っている物すべては主のものであるということを意味しているのです。主を主として知るようになった者だけが、霊とまことを持って礼拝することができます。 イエス様の弟子たちが、波の上で主の御声を聞いた時、すなわち主がご自身を啓示してくださった時、彼らは、それは主であると知るようになり、主をもちろん拝むようになりました。 マナセ王は、それが主の導きであると知った時、それが主であることを知りました。主を知り、主の前にひれ伏し、また自分の理解しがたい悩みは、主のせいだ、主の道であると認めた人は、まことの礼拝に導かれます。 今日なお、主は我々の近くにおられ、霊とまことをもって礼拝する、まことの礼拝者を訪ね、求めておられます。 けれども、礼拝とは何でしょうかね。言えることは、主の道、また主の導きに全き心からなる賛意を表することです。すべてのことを、主の御心のままにお委ねすることです。主の道に己を委ねることこそが、まことの礼拝であると言えます。 主のなさること、主の導きは、主の道です。主はご自身のなさること、またご自身の導き、経験によって私たちが、主に目を開く、その結果、私たちが自発的に心から主を礼拝せざるを得なくなるように、主は働いておられます。 主に心から礼拝をささげうる人のみ、主の道を歩み行くことができます。 主の道を知り、主の道を喜ぶ、これが一番大切な我々の課題なのではないでしょうか。 そうなったなら、私たちは「なぜ、どうして」と主に言うことができなくなります。 何故でしょうと言う人は、主を見上げない人であり、したがってまことの礼拝をささげることができない者です。 モーセについて、聖書は次のように言っています。 出エジプト記34:5-9
これはモーセの心からの願いでした。 「主は、あわれみ深く、情け深い神、怒るのにおそく、恵みとまことに富み、恵みを千代も保ち、咎とそむきと罪を赦す者」と書いてありますが、モーセは、この恵みのことばを聞いた時、主を確かに心から礼拝せざるを得なくなりました。 けれども、この恵みのことばと共に、モーセは7節の後半のごとく、「罰すべき者は必ず罰して報いる者。父の咎は子に、子の子に、三代に、四代に。」という厳しいことばを聞いた時、モーセは主の前に、まず己の罪を赦してくださいと謝る前に、主を礼拝いたしました。 モーセは急いで地にひざまずき、伏し拝んだとあります。 主の恵みのまことを聞いた時、主を礼拝することは、そんなに難しくない。簡単でしょう。 けど、厳しいみことばの前にあっても、主を礼拝するということは、簡単ではない、難しいことです。 礼拝とは、何でしょう。今話したように、主の導きに全く、心からなる賛意を表することです。 私たちは、しばしば「主よ。御心をこのように与えてください。このように変えてください。この環境を変えてください。」と思い、願い、祈ります。それは間違っているのではないけど、祈りでしょう。祈ることよりも大切なことがある。 礼拝すること。 祈りは、結局、自分の願いの言い表しにすぎないでしょう。礼拝は、己のすべてを何もかも主にお委ねすることです。 イエス様は、絶えずこの態度をお取りになりました。十字架につけられる前に、ゲッセマネの園でイエス様は祈りました。 何を祈ったかと言いますと、今度はマタイの福音書26章を見ると次のように書かれています。すばらしい祈りです。 マタイの福音書26:39
この告白を見るとわかります。イエス様の祈りは、自分の願いの言い表しよりも、本当の礼拝でした。 すなわち、わたしの願うようにではなく、あなたの御心のように、なさってください。 モーセに続いて、イスラエルの歴史の最も優れた王様は、言うまでもなくダビデでした。 サムエル記第II、12:13-20
聖書は、ダビデについて、彼は主の御心にかなう人だったと言っています。どうしてでしょうかね。彼は、主を拝むまことの礼拝者だったのではないでしょうか。 彼の歌った歌である詩篇を読むと、ダビデは最も深いどん底の苦しみにあっても、また非常な絶望に陥っている時も、逃れ道がなく前途が真っ暗な時も、ひたすらに主を礼拝する礼拝者でした。 主の導きは、いつも我々の願いと同じとはかぎりません。ダビデの場合がそうでした。この主なる神の御心にかなうダビデに、「あなたに生まれる子は必ず死ぬ。」という恐るべきことばが臨みました。 ダビデは、自分の子を愛し、主に請い求め断食し、地に伏してひたすらに祈り求めました。けど、その子は死んだと聖書は言っています。 多くの人は、かかる立場に置かれると「どうして、なぜ。」と言うでしょう。ダビデは、主の宮に入り礼拝したとあります。 最後に、もう一人の礼拝した男について考えましょうか。ヨブという男です。 ヨブ記1:13-22
ヨブのそれまで持っていた財産の全部が取り去られ、愛する10人の子供も全部死にました。 多くの人が、「あの主に仕える人が、どうしてこんな苦しみに会うのでしょうか。」といぶかしく思ったに違いない。けど、ヨブはどうでしょう。「ヨブは礼拝した。」と書いてあります。 「主の御名はほむべきかな。」と彼は告白しました。すばらしい証しなのではないでしょうか。 私たちは、主の道に従うことを学ばなければいけない。けど、これはただ礼拝によってのみできる事柄なのではないでしょうか。 何千年前に、ヨブは証ししましたね。「私は知っている。私を贖う方は生きておられます。」と。このヨブは、今話したように短期間の内に、彼の全財産、富も宝も、また子供たちも自分の健康も失ったのです。 けれども、彼は不平や不満を言わず、主の完全な愛をも疑いませんでした。たとえ彼が、神の導きを理解することができなかったとしても、彼は主を次の言葉でもって礼拝しました。「私の造り主である神は、夜には褒め歌を歌える。主は与え、主が取られたのだ。主の御名はほむべきかな。私は知っている。私を贖う方は、生きておられます。」と。 前に話したようにダビデは、確かに罪を犯してしまった。けど、ヨブは主の前に全き人だったと聖書は言っています。それにもかかわらず、二人とも己を全て主の御心に委ねたではありませんか。 「どうしてでしょう。」、「なぜでしょうか。」と尋ねても答えることができません。なぜか全然理解できなくても、ただただ心から主を褒め称え、礼拝することこそが大切であるとわかったのです。 「主よ。あなたは常に完全なお方です。全きことを成されます。あなたの導きも完全です。理解することができませんが、あなたを心から崇めます。」という態度を取ることができれば、本当に幸いです。 礼拝とは、すべてのことを主の御心のままにお委ねすることです。 主の道に己を委ねることです。 |