まことの礼拝とは何か


ベック兄

(吉祥寺学び会、2014/04/08)

引用聖句:ヨハネの福音書4章23節-24節
23しかし、真の礼拝者たちが霊とまことによって父を礼拝する時が来ます。今がその時です。父はこのような人々を礼拝者として求めておられるからです。
24神は霊ですから、神を礼拝する者は、霊とまことによって礼拝しなければなりません。」

マタイの福音書14:24-32
24しかし、舟は、陸からもう何キロメートルも離れていたが、風が向かい風なので、波に悩まされていた。
25すると、夜中の三時ごろ、イエスは湖の上を歩いて、彼らのところに行かれた。
26弟子たちは、イエスが湖の上を歩いておられるのを見て、「あれは幽霊だ。」と言って、おびえてしまい、恐ろしさのあまり、叫び声を上げた。
27しかし、イエスはすぐに彼らに話しかけ、「しっかりしなさい。わたしだ。恐れることはない。」と言われた。
28すると、ペテロが答えて言った。「主よ。もし、あなたでしたら、私に、水の上を歩いてここまで来い、とお命じになってください。」
29イエスは「来なさい。」と言われた。そこで、ペテロは舟から出て、水の上を歩いてイエスのほうに行った。
30ところが、風を見て、こわくなり、沈みかけたので叫び出し、「主よ。助けてください。」と言った。
31そこで、イエスはすぐに手を伸ばして、彼をつかんで言われた。「信仰の薄い人だな。なぜ疑うのか。」
32そして、ふたりが舟に乗り移ると、風がやんだ。

このヨハネの福音書4章23節、24節を見ると、真の礼拝者という表現が出てきます。本物があれば偽物もある。本物がなければ、誰も偽物を作ろうとしない。真の礼拝者もいるし、表面的に礼拝する人もいる。けど、真の礼拝者たちは、探し求めておられます。
イエス様は、「今がその時です、明後日ではない。」
ヨハネの黙示録の中で、将来についての箇所です。ヨハネの黙示録4章からずっと将来のことについて書いてありますけど、ヨハネの黙示録5章12節からを読むと解かります。これこそまことの礼拝です。

ヨハネの黙示録5:12
12彼らは大声で言った。「ほふられた小羊は、力と、富と、知恵と、勢いと、誉れと、栄光と、賛美を受けるにふさわしい方です。」

ふさわしいお方とは、十字架の上で犠牲になられたイエス様しかない。

ヨハネの黙示録5:13-14
13また私は、天と地と、地の下と、海の上のあらゆる造られたもの、およびその中にある生き物がこう言うのを聞いた。「御座にすわる方と、小羊とに、賛美と誉れと栄光と力が永遠にあるように。」
14また、四つの生き物はアーメンと言い、長老たちはひれ伏して拝んだ。

悪魔も礼拝の大切さを知っているだけじゃなくて、何があっても大切にされてもらいたい、礼拝されてもらいたい、そういう気持ちなのではないでしょうか。
マタイの福音書4章を見ると次のように書かれていますね。

マタイの福音書4:8-10
8今度は悪魔は、イエスを非常に高い山に連れて行き、この世のすべての国々とその栄華を見せて、
9言った。「もしひれ伏して私を拝むなら、これを全部あなたに差し上げましょう。」
10イエスは言われた。「引き下がれ、サタン。『あなたの神である主を拝み、主にだけ仕えよ。』と書いてある。」

もし悪魔が礼拝されれば、もうおしまい。そうすれば今日、霊とまことをもって礼拝する人は一人もいない。
旧約聖書の最も大切な人物の一人は、言うまでもなくダビデです。彼は、決して完全ではなかったのですけど、御心にかなう人だったと聖書は何回も言っているのです。いったいどうして?礼拝する人だったからです。
サムエル記第II、22章を見ると、彼の告白、証しが載せられています。

サムエル記第II、22:47
47主は生きておられる。ほむべきかな。わが岩。あがむべきかな。わが救いの岩なる神。

すばらしい告白です。まことの礼拝とは、結局こういう心がまえを持つことなのではないでしょうか。
私にとって最も大切なダビデの告白の一つは、歴代誌第I、29章なのですね。非常にすばらしい告白です。我々も毎日、こういうふうに祈ることができれば、ありがたいと思います

歴代誌第I、29:10-13
10ダビデは全集団の目の前で主をほめたたえた。ダビデは言った。「私たちの父イスラエルの神、主よ。あなたはとこしえからとこしえまでほむべきかな。
11主よ。偉大さと力と栄えと栄光と尊厳とはあなたのものです。天にあるもの地にあるものはみなそうです。主よ。王国もあなたのものです。あなたはすべてのものの上に、かしらとしてあがむべき方です。
12富と誉れは御前から出ます。あなたはすべてのものの支配者であられ、御手には勢いと力があり、あなたの御手によって、すべてが偉大にされ、力づけられるのです。
13今、私たちの神、私たちはあなたに感謝し、あなたの栄えに満ちた御名をほめたたえます。

彼は、この態度をとったから御心にかなう人と呼ばれるようになりました。主を礼拝することこそが、我々にとっても、最も大切なのではないでしょうか。
けれども本当の礼拝とは何でしょうかね。イエス様を知り、イエス様の前にひれ伏し、また自分の理解しがたい悩みは、主の道である、主の許したものであると認めた人は、必ずまことの礼拝に導かれます。
イエス様は、霊とまこととをもって礼拝するまことの礼拝者を訪ねて求めておられます。本当は、我々の全生涯は、主に対する本当の礼拝そのものであるべきなのではないでしょうか。

イエス様の弟子たちは、主を礼拝するようになったとありますね。
読んでもらいましたマタイの福音書14章に戻りますと、書かれていますね。

マタイの福音書14:24-27
24しかし、舟は、陸からもう何キロメートルも離れていたが、風が向かい風なので、波に悩まされていた。
25すると、夜中の三時ごろ、イエスは湖の上を歩いて、彼らのところに行かれた。
26弟子たちは、イエスが湖の上を歩いておられるのを見て、「あれは幽霊だ。」と言って、おびえてしまい、恐ろしさのあまり、叫び声を上げた。
27しかし、イエスはすぐに彼らに話しかけ、「しっかりしなさい。わたしだ。恐れることはない。」と言われた。

「わたしだ。恐れることはない。」、イエス様は、今日もそういうふうに呼びかけておられます。「偶然じゃない、運命でもない。わたしです。」
イエス様の弟子たちは、嵐の真っ最中に、海の真ん中に出ていて、荒れ狂う波をいかんともすることが出来ないでいました。そこへもってきて、変な姿が現れましたが、弟子たちはなおさら大変だと恐れおののきました。どうしてであるかと言いますと、イエス様だったら安心したでしょうけど、幽霊だと思い込んでしまいました。
けど、幽霊じゃなくてイエス様だったんです。「しっかりしなさい。わたしだ。恐れることはない。」、イエス様は、ご自身を啓示してくださったから、弟子たちはイエス様を知るようになったのです。そして、イエス様を知ることこそが、主の礼拝に対する元なのではないでしょうか。

マタイの福音書14:33
33そこで、舟の中にいた者たちは、イエスを拝んで、「確かにあなたは神の子です。」と言った。

結局、礼拝したとあります。
もう一箇所読みましょうか。今度は、マナセという王様についての箇所です。

歴代誌第II、33:10
10主はマナセとその民に語られたが、彼らは聞こうともしなかった。

聞く耳がなければおしまい。結果として、聞こうとしなかったから、主はアッシリヤの王の配下にある将軍たちを彼らのところに連れて来られた。主のせいだったね。

歴代誌第II、33:11-13
11そこで、主はアッシリヤの王の配下にある将軍たちを彼らのところに連れて来られた。彼らはマナセを鉤で捕え、青銅の足かせにつないで、バビロンへ引いて行った。
12しかし、悩みを身に受けたとき、彼はその神、主に嘆願し、その父祖の神の前に大いにへりくだって、
13神に祈ったので、神は彼の願いを聞き入れ、その切なる求めを聞いて、彼をエルサレムの彼の王国に戻された。こうして、マナセは、主こそ神であることを知った。

この神をもちろん礼拝したに違いない。]
マナセは、いったい如何にして主を知ることができたのでしょうか。いろいろな苦しみを通してです。彼は、敵によって鉤で捕らえられ、青銅の足かせにつないで、バビロンへ、結局、敵の国へ引いて行かれました。
悩みを通して、理解しがたい導きを通して、彼の心の目が開かれました。そして、彼は主こそ神であると、体験的に知るようになりました。

私たちは、いったいどういうふうに、まことの礼拝者となることができるのでしょうかね。主なる神が、我々の天のお父様であり、また私たちは、この偉大なる主の子供であるという知識を持つことが重要です。
私たちは、主をすべてを支配しておられるお方として、知る必要があります。主を知ることは、自分は徹頭徹尾、主のものである。自分の持っている物すべては主のものであるということを意味しているのです。主を主として知るようになった者だけが、霊とまことを持って礼拝することができます。
イエス様の弟子たちが、波の上で主の御声を聞いた時、すなわち主がご自身を啓示してくださった時、彼らは、それは主であると知るようになり、主をもちろん拝むようになりました。

マナセ王は、それが主の導きであると知った時、それが主であることを知りました。主を知り、主の前にひれ伏し、また自分の理解しがたい悩みは、主のせいだ、主の道であると認めた人は、まことの礼拝に導かれます。
今日なお、主は我々の近くにおられ、霊とまことをもって礼拝する、まことの礼拝者を訪ね、求めておられます。
けれども、礼拝とは何でしょうかね。言えることは、主の道、また主の導きに全き心からなる賛意を表することです。すべてのことを、主の御心のままにお委ねすることです。主の道に己を委ねることこそが、まことの礼拝であると言えます。

主のなさること、主の導きは、主の道です。主はご自身のなさること、またご自身の導き、経験によって私たちが、主に目を開く、その結果、私たちが自発的に心から主を礼拝せざるを得なくなるように、主は働いておられます。
主に心から礼拝をささげうる人のみ、主の道を歩み行くことができます。
主の道を知り、主の道を喜ぶ、これが一番大切な我々の課題なのではないでしょうか。

そうなったなら、私たちは「なぜ、どうして」と主に言うことができなくなります。
何故でしょうと言う人は、主を見上げない人であり、したがってまことの礼拝をささげることができない者です。
モーセについて、聖書は次のように言っています。

出エジプト記34:5-9
5主は雲の中にあって降りて来られ、彼とともにそこに立って、主の名によって宣言された。
6主は彼の前を通り過ぎるとき、宣言された。「主、主は、あわれみ深く、情け深い神、怒るのにおそく、恵みとまことに富み、
7恵みを千代も保ち、咎とそむきと罪を赦す者、罰すべき者は必ず罰して報いる者。父の咎は子に、子の子に、三代に、四代に。」
8モーセは急いで地にひざまずき、伏し拝んで、
9お願いした。「ああ、主よ。もし私があなたのお心にかなっているのでしたら、どうか主が私たちの中にいて、進んでくださいますように。確かに、この民は、うなじのこわい民ですが、どうか私たちの咎と罪を赦し、私たちをご自身のものとしてくださいますように。」

これはモーセの心からの願いでした。
「主は、あわれみ深く、情け深い神、怒るのにおそく、恵みとまことに富み、恵みを千代も保ち、咎とそむきと罪を赦す者」と書いてありますが、モーセは、この恵みのことばを聞いた時、主を確かに心から礼拝せざるを得なくなりました。
けれども、この恵みのことばと共に、モーセは7節の後半のごとく、「罰すべき者は必ず罰して報いる者。父の咎は子に、子の子に、三代に、四代に。」という厳しいことばを聞いた時、モーセは主の前に、まず己の罪を赦してくださいと謝る前に、主を礼拝いたしました。

モーセは急いで地にひざまずき、伏し拝んだとあります。
主の恵みのまことを聞いた時、主を礼拝することは、そんなに難しくない。簡単でしょう。
けど、厳しいみことばの前にあっても、主を礼拝するということは、簡単ではない、難しいことです。

礼拝とは、何でしょう。今話したように、主の導きに全く、心からなる賛意を表することです。
私たちは、しばしば「主よ。御心をこのように与えてください。このように変えてください。この環境を変えてください。」と思い、願い、祈ります。それは間違っているのではないけど、祈りでしょう。祈ることよりも大切なことがある。
礼拝すること。

祈りは、結局、自分の願いの言い表しにすぎないでしょう。礼拝は、己のすべてを何もかも主にお委ねすることです。
イエス様は、絶えずこの態度をお取りになりました。十字架につけられる前に、ゲッセマネの園でイエス様は祈りました。
何を祈ったかと言いますと、今度はマタイの福音書26章を見ると次のように書かれています。すばらしい祈りです。

マタイの福音書26:39
39それから、イエスは少し進んで行って、ひれ伏して祈って言われた。「わが父よ。できますならば、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願うようにではなく、あなたのみこころのように、なさってください。」

この告白を見るとわかります。イエス様の祈りは、自分の願いの言い表しよりも、本当の礼拝でした。
すなわち、わたしの願うようにではなく、あなたの御心のように、なさってください。
モーセに続いて、イスラエルの歴史の最も優れた王様は、言うまでもなくダビデでした。

サムエル記第II、12:13-20
13ダビデはナタンに言った。「私は主に対して罪を犯した。」ナタンはダビデに言った。「主もまた、あなたの罪を見過ごしてくださった。あなたは死なない。
14しかし、あなたはこのことによって、主の敵に大いに侮りの心を起こさせたので、あなたに生まれる子は必ず死ぬ。」
15こうしてナタンは自分の家へ戻った。主は、ウリヤの妻がダビデに産んだ子を打たれたので、その子は病気になった。
16ダビデはその子のために神に願い求め、断食をして、引きこもり、一晩中、地に伏していた。
17彼の家の長老たちは彼のそばに立って、彼を地から起こそうとしたが、ダビデは起きようともせず、彼らといっしょに食事を取ろうともしなかった。
18七日目に子どもは死んだが、ダビデの家来たちは、その子が死んだことをダビデに告げるのを恐れた。「王はあの子が生きている時、われわれが話しても、言うことを聞かなかった。どうしてあの子が死んだことを王に言えようか。王は何か悪い事をされるかもしれない。」と彼らが思ったからである。
19しかしダビデは、家来たちがひそひそ話し合っているのを見て、子どもが死んだことを悟った。それでダビデは家来たちに言った。「子どもは死んだのか。」彼らは言った。「なくなられました。」
20するとダビデは地から起き上がり、からだを洗って身に油を塗り、着物を着替えて、主の宮にはいり、礼拝をしてから、自分の家へ帰った。そして食事の用意をさせて、食事をとった。

聖書は、ダビデについて、彼は主の御心にかなう人だったと言っています。どうしてでしょうかね。彼は、主を拝むまことの礼拝者だったのではないでしょうか。
彼の歌った歌である詩篇を読むと、ダビデは最も深いどん底の苦しみにあっても、また非常な絶望に陥っている時も、逃れ道がなく前途が真っ暗な時も、ひたすらに主を礼拝する礼拝者でした。
主の導きは、いつも我々の願いと同じとはかぎりません。ダビデの場合がそうでした。この主なる神の御心にかなうダビデに、「あなたに生まれる子は必ず死ぬ。」という恐るべきことばが臨みました。

ダビデは、自分の子を愛し、主に請い求め断食し、地に伏してひたすらに祈り求めました。けど、その子は死んだと聖書は言っています。
多くの人は、かかる立場に置かれると「どうして、なぜ。」と言うでしょう。ダビデは、主の宮に入り礼拝したとあります。
最後に、もう一人の礼拝した男について考えましょうか。ヨブという男です。

ヨブ記1:13-22
13ある日、彼の息子、娘たちが、一番上の兄の家で食事をしたり、ぶどう酒を飲んだりしていたとき、
14使いがヨブのところに来て言った。「牛が耕し、そのそばで、ろばが草を食べていましたが、
15シェバ人が襲いかかり、これを奪い、若い者たちを剣の刃で打ち殺しました。私ひとりだけがのがれて、お知らせするのです。」
16この者がまだ話している間に、他のひとりが来て言った。「神の火が天から下り、羊と若い者たちを焼き尽くしました。私ひとりだけがのがれて、お知らせするのです。」
17この者がまだ話している間に、また他のひとりが来て言った。「カルデヤ人が三組になって、らくだを襲い、これを奪い、若い者たちを剣の刃で打ち殺しました。私ひとりだけがのがれて、お知らせするのです。」
18この者がまだ話している間に、また他のひとりが来て言った。「あなたのご子息や娘さんたちは一番上のお兄さんの家で、食事をしたりぶどう酒を飲んだりしておられました。
19そこへ荒野のほうから大風が吹いて来て、家の四隅を打ち、それがお若い方々の上に倒れたので、みなさまは死なれました。私ひとりだけがのがれて、あなたにお知らせするのです。」
20このとき、ヨブは立ち上がり、その上着を引き裂き、頭をそり、地にひれ伏して礼拝し、
21そして言った。「私は裸で母の胎から出て来た。また、裸で私はかしこに帰ろう。主は与え、主は取られる。主の御名はほむべきかな。」
22ヨブはこのようになっても罪を犯さず、神に愚痴をこぼさなかった。

ヨブのそれまで持っていた財産の全部が取り去られ、愛する10人の子供も全部死にました。
多くの人が、「あの主に仕える人が、どうしてこんな苦しみに会うのでしょうか。」といぶかしく思ったに違いない。けど、ヨブはどうでしょう。「ヨブは礼拝した。」と書いてあります。
「主の御名はほむべきかな。」と彼は告白しました。すばらしい証しなのではないでしょうか。

私たちは、主の道に従うことを学ばなければいけない。けど、これはただ礼拝によってのみできる事柄なのではないでしょうか。
何千年前に、ヨブは証ししましたね。「私は知っている。私を贖う方は生きておられます。」と。このヨブは、今話したように短期間の内に、彼の全財産、富も宝も、また子供たちも自分の健康も失ったのです。
けれども、彼は不平や不満を言わず、主の完全な愛をも疑いませんでした。たとえ彼が、神の導きを理解することができなかったとしても、彼は主を次の言葉でもって礼拝しました。「私の造り主である神は、夜には褒め歌を歌える。主は与え、主が取られたのだ。主の御名はほむべきかな。私は知っている。私を贖う方は、生きておられます。」と。

前に話したようにダビデは、確かに罪を犯してしまった。けど、ヨブは主の前に全き人だったと聖書は言っています。それにもかかわらず、二人とも己を全て主の御心に委ねたではありませんか。
「どうしてでしょう。」、「なぜでしょうか。」と尋ねても答えることができません。なぜか全然理解できなくても、ただただ心から主を褒め称え、礼拝することこそが大切であるとわかったのです。
「主よ。あなたは常に完全なお方です。全きことを成されます。あなたの導きも完全です。理解することができませんが、あなたを心から崇めます。」という態度を取ることができれば、本当に幸いです。

礼拝とは、すべてのことを主の御心のままにお委ねすることです。
主の道に己を委ねることです。




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