引用聖句:詩篇32篇7節-11節
今読んでくださった箇所は、よく知られている箇所で、ダビデの告白であり証しでもあります。結局、イエス様を見上げることの大切さ、必要性、可能性についての箇所です。 イエス様を見上げる者は、前に想像しなかったほどの喜びを与えられます。そして、イエス様を見上げる程度にしたがって、私たちはその度合いに応じて喜びを与えられます。 もう一回、8節を読みましょうか。「わたしは、あなたがたに悟りを与え、行くべき道を教えよう。わたしはあなたがたに目を留めて、助言を与えよう。あなたがたは、悟りのない馬や騾馬のようであってはならない。それらは、くつわや手綱の馬具で押えなければ、あなたに近づかない。」とあります。 聖書は、救われて神の子であっても、救いの喜びを失う可能性があるとはっきり言っています。信仰が成長しない理由は、イエス様だけを見ずに、他人を見たり、また他のものを見たりするのです。 今の読んだ箇所の中で、2つの導き方があるとありますね。すなわち、一つは目を留めて諭す導き方であり、もう一つはくつわや手綱を持って押さえて従わす方法です。 信じる者の中には、イエス様の目、あるいはイエス様のまなざしによって導くことができない人もいるのではないでしょうか。そのような人に対しては、主は、やむを得ずくつわや手綱を持って従わせざるを得ません。 けれども、くつわや手綱を持って導かれる場合でさえも、主は信じる者を決して捨てません。愛しておられます。愛し続けてくださるのです。それですから、いかなる状態にあっても、イエス様の愛を覚えることによって、誰でもが喜んで感謝することができるのではないでしょうか。 くつわや手綱を持って導かれる時には、確かにおもしろくない。苦痛を伴います。 私たちの自己決定や自己支配を捨てて、イエス様だけを見上げて、信仰生活を歩む方がどれほど苦痛を伴わず簡単なものであるか解かりません。私たちの見上げる目の方向によって、喜びに満たされた者になるか、あるいは自ら墓穴を掘る結果となるかのどちらかです。 皆さんご存知ですけど、日光には猿があります。見猿、聞か猿、言わ猿という3つの猿があります。 すなわち、悪いものを見たり聞いたり話したりしなければ、安全に保たれるという教訓を意味しているのではないでしょうか。すなわち人間が、見たり聞いたり話したりすることのない状態に置かれた時、たとえば、めくら、おし、つんぼは、いろいろな事から守られます。 ちょっと民数記からもう一箇所読みます。 民数記13:30-33
遣わされた者は、イスラエルの人々に次のように悪く言いふらしました。「私たちには自分がいなごのように見えたし、彼らにもそう見えたことだろう。」 けれども、その時ヨシュアは、次のように言いました。「主にそむいてはならない。その地の人々を恐れてはならない。主が私たちとともにおられるのだ。彼らを恐れてはならない。」 この言葉からも解かるように、確かに目に見える現実は、遣わされた使者が言ったとおりだったことです。けど、彼らは目に見えない現実を見失ったのであります。すなわち、主を見上げることを忘れてしまったのです。けども主を見上げる者は、想像しなかったほどの力を体験します。 ヨハン・セバスチャン・バッハという音楽家は、多くのカンタータを作ったのです。毎週作ったのです。ちょっと想像できない。もういろいろの人々に教えたし、家族が多かった。子供20人、そしたら毎週一つのカンタータをだいたい35分間から50分間で作ったんですね。 彼は、そのカンタータの中で言ったのです。「主を見上げる者は、新たなる力を得、鷲のようになる。」と言っています。言葉はすごい、けれど音楽を聞くと踊りたい気持ちになる。彼はそれを体験的に知るようになったからです。 後で有名になったんです。けど生きている間に、あんまり大切にされていなかった。多くのクリスチャンたちは、教会の中で音楽は必要ない、やめろ。彼にとってショックだったでしょう。天国で賛美がいっぱいになるからね。そうすると、生きている間にも練習しないと。そんなことはないでしょうか。 主を見上げる者は、想像しなかったほどの力を得る。けども、残念なことに多くの兄弟姉妹は、鷲のような者ではなくて、もぐらのような者になっているのではないでしょうか。 すなわち、もぐらのようになっているという意味は、自分のことでがんじがらめになってしまい、主を見上げることができなくなっている状態に他なりません。 主を見上げること、仰ぎ見ることこそが大切です。そして、主イエス様のまなざしとは、どういうものでしょうか。言うまでもなく、イエス様のまなざしとは、愛に満ちたまなざしです。 マルコの福音書10:17-22
どなたがもっと悲しんだかな。おそらくイエス様です。 イエス様は、彼に目を留め、いつくしんで言われたとありますが、この箇所を見ると、金持ちは少なくても飢え渇きを持っていたんです。だからイエス様のもとに走り寄って、御前にひざまづき、永遠のいのちを受けるためには、何をしたらよいかと尋ねたのです。 彼は、豊かな財産にもかかわらず、心は満たされていなかったのです。というのは、彼には見えるこの世のものが、移り行くはかないものであることが解かっていなかったため、永遠のいのちについて尋ねたでしょう。 人間はすべて、永遠のいのちによって本当に満たされます。永遠のいのちを得るためには、自分の滅び行く状態を知って、救いの必要性を知るようになります。 その状態を示すために、イエス様は若者にモーセの十戒を示されました。「殺してはならない。姦淫してはならない。盗んではならない。偽証を立ててはならない。欺きそれらのことは守っております。」と答えました。 すなわち彼は、自分自身の本当の状態について、何も知らなかったのです。全くめくらでした。自分自身の罪を知らない者は、当然罪を告白することもありません。そして、罪を告白しない者は、罪の赦しをも得ることができません。さらに罪の赦しを得ていない者は、永遠のいのちをも持つことができません。 ヨハネの福音書3:36
今日、多くの人は、この金持ちのように「私は、すべての事を守っている。」と思うわけでしょう。 結局、間に合っています。これは、取りも直さず悪魔が、その人々の心の目をくらまし、自分自身の本当の状態を見ることができないために、そのようなことになってしまうのです。 イエス様を信じる者の場合でもあり得ることです。 ヨハネの黙示録3:17
知っていればまだ希望がある。知らなければ悲劇です。 イエス様は、この金持ちの心の状態を見ておられ、彼が、悪魔によってめくらにされていることをよく知っていました。決して見捨てることはなさらなかったのです。 詩篇の作者であるダビデは、次のように告白したのであります 詩篇34:18
ダビデの個人的な証しです。 詩篇51:17
詩篇147:3
イザヤ書57:15
イザヤ書61:1
イザヤ書66:2
前に読みました、金持ちは自分自身の本当の心の状態を知らなかったにもかかわらず、イエス様は、限りなく愛を持って彼を見つめられました。その時イエス様は、彼に向かって「あなたには、一番大切なものが欠けている。」と言われました。 「もしも、あなたが、わたしに従って来たいならば、持っているものをみな売り払って、わたしの十字架を負って、わたしに従ってきなさい。」とイエス様は答えられました。イエス様は、この御許に来た人を心から愛しておられました。まことの深い愛が、すべてを追い払い、十字架を負って従うことを要求したのです。 この金持ちに向けられたイエス様の深い愛のまなざしは、我々に対しても向けられています。 イエス様は、救おうとしておられるだけではなく、ご自分に従ってくるようにと招いておられます。罪を赦された者こそ、永遠のいのちを持ち、救われているのです。 イエス様は、いつも我々のことを思い、最後の目的を指し示そうとしておられます。 その意味で救われたから、後はたいしたことはない、もう充分だと思っている人がいるならば、それは大間違いです。 今まで、私たちは主の愛のまなざしについて、ちょっと考えました。 2番目、イエス様のまなざしとは、どういうまなざしでしょうか。すなわち、希望のまなざしです。よく知られている箇所ですけれど、ザアカイの事を見ると解かります。 ルカの福音書19:1-10
この5節ですね。イエスは、ちょうどそこに来られて、上を見上げて彼に言われた。「ザアカイ。急いで降りて来なさい。きょうは、あなたの家に泊まることにしてあるから。」 この背景になっている場所、すなわちエリコという町は、主なる神によって呪われた町でした。ザアカイは、取税人のかしらで、金儲けに一生懸命になっていました。おそらく彼は、正しくない方法も使って金を貯めたことでしょう。 けど彼は、豊かであるにもかかわらず、それに満足していなかった。ザアカイは、どういうわけかイエス様によって、自分の満たされない気持ちが満たされることを思ったでしょう。だから彼は、「イエスを見たい。イエスに会いたい。」と願ったのです。 イエスは上を見上げました。そこで桑の木に登っていたザアカイと視線がぶつかったのです。ザアカイは、イエスのまなざしを見た時、そこに本当の希望があることを知りました。ザアカイは、イエスが自分の名前を呼ぶのを聞きました。 そしてそれと同時に、自分に対して何らかの関心を持っていることも解かりました。しかも、イエス様はザアカイの家に泊まると仰り、ザアカイとの交わりをも提供してくださったのです。 ザアカイは、イエス様を自分の家に受け入れる準備ができていました。イエス様を受け入れることこそが全てです。 ヨハネの福音書1:12
ヨハネの手紙第I、5:13
イエス様の近くにいることは、大いなる祝福を意味しているということを、ザアカイは知ることができたのです。イエス様に出会った者は、決して闇の中に留まることはありません。 なぜならば、イエス様は光であられるから、ザアカイは罪を告白せざるを得なかった。そして、彼はイエス様の口から直接、自分の罪が赦されていることを聞かされたのです。 このことは、ザアカイにとって一つの大転換を意味していたのです。それまで、彼は自分中心の生き方をし、欲の塊でがんじがらめになっておりましたが、今やイエス様を喜ばせ、イエス様に従って行きたいという願いだけを持つようになりました。 ザアカイにとって必要だったのは、イエス様の希望のまなざしでした。我々にとっても、この希望のまなざしが必要なのではないでしょうか。 将来のことを考えると、人間的には望みがなく、慰めのない状態のように思われるかもしれない。あせったり、失望したり、落胆したりすることがあるかもしれない。 その時には、イエス様を見上げてください。そうすれば、ザアカイと同じように、主の希望のまなざしを見ることができます。 イエス様の希望のまなざしは、私たちがイエス様と交わりを持つようにと招いておられます。 主との交わりとは、イエス様が光の中を歩まれたように、私たちもイエス様と共に、光の中を歩むことです。イエス様との交わりとは、いのちそのものです。喜びを得る秘訣そのものであります。イエス様との交わりは、ただイエス様に喜ばれる者になりたいという心からの願いでもあります。 イエス様のまなざしとは、どういうものでしょうか。今話しましたように、イエス様のまなざしは、愛のまなざしであり、2番目、希望のまなざしであり、最後にもう一つ、イエス様のまなざしとは、あわれみのまなざしです。 ルカの福音書7:11-15
この婦人は、いろいろなことを経験したでしょう。人生の重荷に耐えかねて疲れ果ててしまったでしょう。確かにかわいそうな婦人でした。 まず主人が前に亡くなられた悲しみを体験していたのです。それだけではない。やもめになった婦人のただ一つの喜びであり、また支えであった一人息子も死んだんです。 そして、イエス様はこの悲しみの婦人を見て、深い同情を寄せられました。イエス様は、この婦人の所へ来て「泣かないでいなさい。」と言われました。するとこの婦人は、涙ながらにイエス様の顔を見上げました。 その時、二人の視線が出合ったのです。深いあわれみに満ちたまなざしが、そこで出合ったのです。イエス様は、こまごましたことや慰めの言葉などを、くどくど仰ることをなさいませんでした。 イエス様は、死んだ若者に向かってただ一言、「若者よ。起きなさい。」と言われました。すると、死人は起き上がって、ものを言い出したのであるとあります。 この婦人は、イエス様のあわれみのまなざしを見るまでは、全く打ちのめされ、絶望的な状態に置かれていました。そのようなわけで、葬式に行く途中、葬りに出すところで、この婦人は全く望みのない状態の極限にまで追い詰められたのです。 人間的に見るならば、時すでに遅く、もうどうすることもできないところまで行ってしまいました。けど、イエス様にとっては、決して遅すぎるということはあり得ない。我々にとっては、終わりと思われる最悪の状態にあっても、イエス様は助けることがお出来になります。 人間的に見るならば、もう駄目。自分の人生はめちゃくちゃになってしまったと考える人もいます。けど、イエス様にとっては、遅すぎることはあり得ません。我々が必要としているものは、イエス様のあわれみのまなざし以外の何ものでもありません。 私たちの苦しみが、いかなるものであろうと、イエス様の愛のまなざしであろうと、イエス様のあわれみのまなざしを見ると、また元気になり前向き生活することができます。 |