引用聖句:コリント人への手紙第I、16章21節-22節
今読んでもらいました箇所は、非常に大切な箇所なのではないかと思います。 パウロは、コリントへの手紙を自分自身で書くことができなかったようです。この手紙は口述筆記されました。けども、手紙の結びの言葉をパウロ自身が手で記しました。おそらくパウロは、大きな字で結びの言葉を記したのではないかと思います。なぜならパウロは、たいへん視力が弱かったからです。 彼は、最後にどうしても言いたかった事柄を記しました。彼は、イエス様を心から愛していました。そしてパウロの切なる願いは、コリントにいる兄弟姉妹も、同じようにイエス様を大好きになってもらいたいと心から願ったのです。 パウロは、胸の中に燃え盛る望みを持っていました。それは、イエス様が再びこの世に来てくださるという望みでした。 そしてパウロは、コリントの信者たちに、同じような燃える望みを持つことを望んでいました。 「マラナタ」という言葉の意味は、「主よ。来てください」という意味です。 ヨハネの黙示録22:20
とあります。またパウロは、ローマの刑務所の中で、ピリピに住んでいる兄弟姉妹に書いたのです。 ピリピ人への手紙4:5
イエス様が来られることは、未信者にとっては恐れとおののきに満ちた言葉でしょうけど、イエス様を信じる者にとっては、この上もないほどの大きな喜びです。 イエス様を体験的に知らない人々の心には、生ける望みも希望もありません。エペソにいる人々に、パウロは書いたことがあります。 エペソ人への手紙2:12
と。そしてテサロニケ人への手紙第Iの4章に テサロニケ人への手紙第I、4:13
とあります。イエス様を信じない人々は、来るべき将来のこと柄に関して確信を持つことができないし、漠然とした不安を持っています。 イエス様を信じる者は、次のように告白することができます。「我々の望みは、イエス様が再び来られることであり、その時、イエス様は本当の正義と平和とをもたらすということを確信することができます。」 イエス様を信じない人々にとって、主が来られることは、おもしろくないことでしょうし、裁きを意味します。一箇所読みます。 ユダの手紙1:14-15
こういうふうに裁きが来るぞと、もうすでにエノクは預言したのであります。けどもエノクだけではなく、当然ですけどもイエス様も、裁きについて語っています。 マタイの福音書25:41
マタイの福音書25:46
エノクだけではなく、イエス様も、それからパウロも裁きについて語っています。 テサロニケ人への手紙第II、1:6-9
罪と債務の問題が解決されていないならば、必ず裁かれるようになります。罪の中でも最大の罪は、イエス様を信じないことです。この罪のゆえに人間は、滅ぶべきと定められています。 聖書に書かれている事柄を信じることよりも、イエス様に導かれ、イエス様に自分の支配者となっていただくことです。信じる者は、裁きの日にあたって、不安を持つことはなく、喜びを持ってその日を待ち望むことができます。イエス様なしには、恐れおののいて裁きの日を迎えなければなりません。 ヨハネの福音書の3章18節に「御子を信じる者はさばかれない。」、これこそが福音そのものなのではないでしょうか。「マラナタ。主よ、来てください」、このような願いを持つ者は、3つの事柄を語ることができます。 第1番目、喜びに満たされており、 第2番目、目覚めて祈る者であり、 第3番目、自分自身を清めます。 この3つのこと柄について、簡単に考えてみましょうか。 コリント人への手紙第II、3:12
イエス様を信じる者は、不安や思い煩いによって、打ちのめされることはありません。イエス様を待ち望む者は、真に自由な者であり、人々の評価からは免れています。この希望を持つ人は、喜びに満たされて、大胆にイエス様を証しする者となります。 なぜなら、心に満たされていることが、自ずと言葉になって口に上るからです。 マタイの福音書12章を見ると次のように書いてあります。イエス様が、当時の聖書学者に言われたことばです。 マタイの福音書12:34-35
また、イエス様を待ち望む者は、目を覚まして祈る者です。祈りの人について、聖書は7つの特長を挙げています。 第1番目、目覚めている者であります。 第2番目、待ち望む者であり、 第3番目、身づくろいを整えている者です。 テサロニケ人への手紙第I、5章6節、8節を見ると全部まとめられています。 テサロニケ人への手紙第I、5:6
テサロニケ人への手紙第I、5:8
第4番目、祈りの人は、主のために迫害を受ける用意のある人であり、 第5番目、人々に対して、主を証しする用意のある人です。 テモテへの手紙第II、4:5
とあります。 第6番目、祈りの人は、恵みを待ち望む者です。すなわち、このような人は、自分自身の不確かさというものをわきまえて知っている者であり、イエス様に徹底的に拠り頼む者です。「あなたがたは、心を引き締め、身を慎んでイエス・キリストの現れの時、あなたがたにもたらされる恵みをひたすら待ち望みなさい」とペテロの手紙第Iの1章13節に書き記されています。 第7番目、祈りの人は、自覚的に悪魔と戦っている人です。ペテロは、当時の信じる者に次のように書いたのであります。 ペテロの手紙第I、5:8-9
イエス様を待ち望む者なら、今話したように喜びに満たされている者であり、2番目、目覚めて祈る者であり、第3番目、自分自身を清めます。 よく知られている箇所ですけど、もう一回読みます。 ヨハネの手紙第I、3:2-3
イエス様を待ち望む者は、イエス様が今日にでも来られるかもしれないという期待を持っています。すなわち、そのような人は、自分自身のことだけに目を奪われるようなことがなく、来るべきお方に対して心を向けています。 イエス様を待ち望む者は、イエス様の血とみことばによって、日々自分自身を新たに清めます。 パウロは、コリントの人々に書いたのです。 コリント人への手紙第II、7:1
テサロニケ人への手紙第I、5:23
これまでのことを簡単に要約しますと、個人的なイエス様との親しい交わりと愛がなければ、希望も喜びも主を証しすることも、自由も真の祈りも、自分を清めることも、聖なる者と変えられることもあり得ません。 イエス様を愛する者の切なる願いは、イエス様が早く来られることです。「マラナタ。主イエスよ。来てください」 けれどもイエス様が来られるまで、次のようなことを心がけるべきです。 まず、イエス様に対する恐れの念を持って歩むべきです。イエス様の目の前に隠れおおせることは何一つとしてありません。イエス様の光の中を歩みましょう。お互いに対して何一つ隠し事があってはなりません。 聖書を共に読み、祈りを共にしましょう。常にイエス様がおられるということを覚えましょう。そうすれば、必ず祝福と助けと守りが、主から与えられます。 それから、我々の体は、聖霊の宮であることを絶えず覚えるべきなのではないでしょうか。 御霊は、我々を器として用いようと望んでおられます。いかなる罪も主から私たちを引き離し、主との交わりを絶ちます。その結果は、自分自身の身を不幸に招き、喜びと平安から遠ざかってしまいます。自分は自分のものではない。御霊の宮であるということを、心して明記すべきです。なぜならば、これもまた、祝福と助けと守りを受ける秘訣であるからです。 そして3番目、日々を主の証し人として生活すべきです。 たとえば、一人だけの世界に閉じこもってしまい、他の兄弟姉妹との交わりを持たないことは、主の御心にそぐわないことです。すべてのこと柄を、主に対する証しのために行なうべきです。 パウロは、愛弟子であるテモテに書いたのです。 テモテへの手紙第I、4:12
ドイツで有名な総理大臣の親戚だったんですけども、彼はある時、学生たちに聞いたのです。「確かなことは何。皆さん考えてくださいよ。」 それに対して学生たちは、一人ひとり思い思いのことを言いましたけど、いつまでたっても埒が明かない状態だったので、一人の学生は勇気を持って聞いたんです。 「先生はいったい何だと思われますか」、と聞いた時、教授は「イエス・キリストが来られることです」と。 確実なのはそれなのです。イエス様が近いうちにまた来られるという確信こそ、光、喜び、希望、力です。 パウロは、テサロニケにいる兄弟姉妹たちに手紙を書いたのです。何を強調したかと言いますと、私たちは、イエス様を待つために救われたと言っています。 けど、私たちはどうでしょうか。本当にイエス様を待ち望んでいるのでしょうか。なぜイエス様を待ち望む生活が、そんなに大切なのでしょうか。4つの理由が挙げられます。 第1番目、イエス様を待ち望む生涯は、本当の意味を持っています。それに対して、イエス様を待ち望むことのない生活には、本当の意味がありません。なぜ、私たちはあれこれをしなければならないのでしょうか。すべては無駄ではないかと、このような問いをいだいている人は、いっぱいいます。 もしも、何かを待ち望む心が失われてしまったならば、人生は本当に退屈でどうしようもないものになってしまうはずです。この待ち望み、あるいは期待を失ってしまった場合には、無関心になって何もしないか、あるいは何十年前の三島由紀夫のように、自殺してしまうでしょう。 けれども、私たちはイエス様を待ち望んでいます。イエス様は、必ずお出でになります。 第2番目、待ち望みの生活は、目を覚ましている生活であるとも言えます。期待は目覚めさせます。とりわけ、永遠のいのちを提供されているということに、目を開かなければなりません。 眠っている者は、聞くこともできません。イエス様を待ち望んでいる者は、自分自身の本当の状態に対して、めくらではありません。 イエス様を待ち望んでいる者は、イエス様を悲しませないようにと絶えず心を使っています。しかし、イエス様を待ち望まない者は、めくらであり、主の御声に対して、難聴のため聞き取ることができません。 第3番目、待ち望みの生活は、責任ある生活でもあります。私たち一人ひとりは、誰でも他の人に対して責任を持っています。また、イエス様を待ち望む生活は、消極的ではなく、積極的で行動的です。イエス様を待ち望んでいる者は、機会を充分に生かして用いています。 また、待ち望んでいる人は、自分のことを忘れ、まず第一にイエス様のことを考える人です。またイエス様を待ち望んで生活をする兄弟姉妹は、絶えずイエス様のまなざしを意識している者です。 イエス様を待ち望んでいる人々は、イエス様を愛しています。本当にイエス様を毎日意識して、イエス様を待ち望んでいない人は、イエス様を愛していない。自分中心的な生活をしている人です。 第4番目、待ち望みの生活は、喜びの生活です。本当に主を待ち望んでいる兄弟姉妹のために、今日主は来られるかもしれない。このような、生き生きとした待ち望みの信仰が、人間を全く変えてしまうのです。 あらゆる思い煩いや苦しみ悩みなど、イエス様の再臨を思う時、消え去ってしまいます。そして、待ち望みと喜びの生活を送る源は、私たちの過ち、罪を赦されているということ実に他なりません。この確信を持っていない人でも、持つことを真に望むならば、もちろん得られます。 今日、恐るべき混乱と動乱、失望と闇の中にあって、イエス様は来られるという真理こそが、我々に本当の喜びと平安を与えてくれます。 |