イエスから目を離さないで


ベック兄

(吉祥寺学び会、2014/04/22)

引用聖句:ヘブル人への手紙12章2節
2信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。イエスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されました。

コリント人への手紙第II、4:18
18私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。

今読んでくださった2箇所は、非常に信じる者にとって大切なのではないでしょうか。
「イエスから目を離さないでいなさい。」、離すと必ず後悔します。「目を高く上げよ。」、これこそがみことばの呼びかけなのではないでしょうか。
「私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。」、初代教会の兄弟姉妹は、この態度を取ったのです。そうしないと、結局つまずくのです。絶えられないことになります。落ち込むようになると、彼らはもちろん解かりました。

今日は、簡単に3つの点について考えてみたいと思います。

第1番目、新たな決意
第2番目、正しい見方
第3番目、主イエスを知るすばらしさについてです。

幸せな生活、満たされた生活を送りたいから、信じる者の発見とは本当にすばらしい大切なものです。
すなわち、今のこの見える世界とは、自分の心を満たし得ない。欲しい物は全部与えられるとしても、人間は相変わらず一人ぼっちです。人間は誰でも自由ではありません。人間は、我がままであり自己中心的であり、自分、自分のことしか考えられない者です。だからこそ、救われ、贖い出されなければ幸せになれない。
ヘブル人への手紙の著者は次のように書いたのです。有名な箇所です。

ヘブル人への手紙13:8
8イエス・キリストは、きのうもきょうも、いつまでも、同じです。

決して変わらないのは、我々の主イエス様です。
いつまでも永らえられるために、御心を行なう必要があります。けど、主の御心とはいったい何なのでしょうか。イエス様は答えています。

ヨハネの福音書6:40
40事実、わたしの父のみこころは、子を見て信じる者がみな永遠のいのちを持つことです。

信じることとは、この箇所によると見ることです。だからバプテスマのヨハネは、叫びました。叫びながらイエス様を紹介したのです。すなわち「見よ。世の罪を取り除く神の小羊。」
我がままな人間は、誰でもみなその報いとして死に服さなければならないと聖書は言っています。
しかし、イエス様ご自身が、我々の身代わりとなって、代わりに十字架の上で、人間の我がままに対する裁きをお受けになり死んでくださいました。そして、今日もこの主イエスを心の目で見て、イエス様の成された救いの御業のために、感謝をする者は永遠のいのちを持つことができます。

聖書ははっきり、信仰とはイエス様を見上げることであり、そしてイエス様を見上げる者は、永遠のいのちを持つと言っています。
イエス様を仰ぎ見よう、そうすれば救われる。聖書の呼びかけとはそういうものです。
イエス様は、道を指し示す者や道しるべのような者ではなく、道そのものです。イエス様は贖う者だけではなく、贖いそのものです。イエス様は、救い主だけではなく、救いそのものです。

私たちはいったいどこを見ているのでしょうか。いったい何に目を留めているのでしょうか。自分を見たり、他人を見たりすることは、劣等感や卑屈な気持ちをもたらしたり、反対に優越感や傲慢な気持ちをもたらしたりするものです。
一人の姉妹は次のように言われました。「主を見ないと恐ろしい。裏口の恐ろしさを知った。主の思いに対して、全く無関心だった。高ぶった時間を無駄に過ごした。主から目をそらした。」と。
別の姉妹は、主から目を離すと安定剤が必要になる。自分自身を見たり、他人を見たり、周囲を見たいしないで、ただイエス様だけを見上げることが、満たされた生活の秘訣そのものです。

ですからこのヘブル人への手紙12章2節は、本当に大切な心構えです。「信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。イエスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されました。」この態度を取ることは本当に考えられないほど大切です。
しかし、必要なのはこの態度を取るだけじゃなくて、取り続けることです。すべての問題の原因は、我々の生まれつきの性格にあるのではなく、我々の我がままの気持ちや傲慢な思い、自己追求などに問題の原因があるのではないでしょうか。
自分勝手なことをするのは、誰でもできます。不真実になることも誰でもできます。イエス様のために生きたいと願う兄弟姉妹は、犠牲を捧げるようになります。しかし、そのために失うことはなく、多くのものを得るようになります。

自分自身のことだけを考え、自分自身の楽しみや快楽を追求する者は、心からの満足を得ることができない。前進することもできなくなります。イエス様をより良く知りたい、そしてイエス様に用いられたいと願う兄弟姉妹は、本当に幸いです。
自分自身の思い、自分の感情、欲などを大切にせず、ただイエス様だけがすべての事において、最優先されるという備えができている兄弟姉妹は、豊かに祝福され、主の姿に似た者に変えられるようになります。
我々の生活の愛の標準として、エペソ人への手紙5章25節には、次のように述べられています。

エペソ人への手紙5:25
25夫たちよ。キリストが教会を愛し、教会のためにご自身をささげられたように、あなたがたも、自分の妻を愛しなさい。

これこそ全き献身であり、他人すなわち相手の人に対する全き自己否定です。これこそ、我々の生活の特長となることができるように、すなわち、自己否定と献身です。
本当の愛は、自分の幸せよりも相手の幸せを願うものです。私たちの生活は、主の与えられた自己否定の訓練の場のようなものなのではないでしょうか。
ダビデ王の告白とは、我々の告白であるべきなのではないでしょうか。すばらしい願いであり、また告白でもあります。

詩篇40:5
5わが神、主よ。あなたがなさった奇しいわざと、私たちへの御計りは、数も知れず、あなたに並ぶ者はありません。私が告げても、また語っても、それは多くて述べ尽くせません。

「イエスから目を離さないでいなさい。」、このことばの原語を見ると、「他のものから目をそらし、イエスだけを見よう。」という意味が含まれています。
過ぎ去ったすべての事柄を振り向かず、我々を取り巻いている事柄に目を奪われず、あらゆる己につける問題に心を奪われず、目前にある悩みに目をくれず、また己自身を見つめず、ただイエス様を見ようではありませんか。
イエスから目を離したくないと、私たちは新しく決心すべきなのではないでしょうか。すなわち、イエス様だけを仰ぎ見ようと。

目に見えるものに目を留めるか、あるいは目に見えないものに目を留めるかのどちらかです。両方は不可能です。
イエス様は、はっきり言われたことがあります。山上の垂訓の中のことばです。

マタイの福音書6:24
24だれも、ふたりの主人に仕えることはできません。一方を憎んで他方を愛したり、一方を重んじて他方を軽んじたりするからです。あなたがたは、神にも仕え、また富にも仕えるということはできません。

とイエス様は、はっきり言われました。ヤコブも同じ事実について、厳しい言葉を書いたのです。信じる者に書いた言葉です。

ヤコブの手紙4:4
4貞操のない人たち。世を愛することは神に敵することであることがわからないのですか。世の友となりたいと思ったら、その人は自分を神の敵としているのです。

主イエス様を仰ぎ見ましょう。
聖書によってイエス様は、すばらしい形でもって照らされます。
つまり私たちは、簡単ですけど、7つの側面においてイエス様を見上げるということに光を投げかけてみたいと思います。

第1番目、この地上におけるイエス様のご生涯を見てみましょう。
イエス様を特長づけるものは、低くなりたいということでした。イエス様お一人だけが、本当に「わたしは柔和で、心へりくだった者である。」と言うことがお出来になったのです。
イエス様によって、新しく造り変えられる者の生涯には、柔和と謙遜がおのずから現れてきます。その柔和と謙遜は、生まれつきのいかなる人間も決して持っていません。

第2番目の側面として、私たちは十字架につけられたお方としてのイエス様を見上げます。
まさにイエス様が十字架で血潮を流してくださり、ご自分のいのちを捧げてくださったゆえに、私たちは今日、次のように喜んで告白することができるのです。「イエス様。あなたはすべての罪を担ってくださいました。そうでなかったならば、私は絶望してしまっただろう。」
イエス様を正しく見上げるということは、ただイエス様のことだけに心を奪われて、他のことを大切にしないことを意味します。そういう人は、次のように告白せざるを得ない。「私は、キリストとともに十字架につけられました。生きているのは、もはや私ではなく、キリストが私のうちに生きておられる。」と。

第3に、私たちは復活なさった方としてのイエス様を見上げることが許されています。
私たちの主は、復活なさいました。生きておられます。悪魔は破れました。サタンはもはや、我々に対していかなる要求も権利も持っていません。そして私たちは、主とともによみがえらされた者として、新しい歩みをすることが許されています。
また私たちは、天国にあるものを求めることも許されています。すべて目に見えるもの、時間とともに移り変わるもの、この世のものは、我々の心を満たさず、実に何ものをももたらさないのです。

第4に、私たちは、高く引き上げられ栄光と誉れとの冠を与えられたお方として、イエス様を見上げることが許されています。
イエス様は、ご自身のからだなる教会のかしらとして、同時にまた我々のための大祭司、また弁護者でもあられます。イエス様は、いつも絶えず我々一人ひとりのことを考えていてくださり、我々のために生きておられ、また私たちのために存在しておられます。
ともに高く引き上げられた者として、私たちはどのような事柄をも凌駕することが許されています。さもなければ、私たちはその重荷のもと、あっさりまいってしまったことでしょう。
イエス様を見上げる者は、鷲のように翼を持って高く飛びかけることが許されています。そのような人は、この高く引き上げられた生涯を許されています。その人々は、疲れることなく、走ることができるのです。

さらに第5番目に、私たちは再び来られるお方として、我々の主イエス様を見ることが許されています。
我々の主はすぐに来ます。私たちが考えているよりも、ずっと早くイエス様は再臨なさいます。
もっとも確実なことは、イエス様の再臨です。本当にイエス様は、生きておられ、また来られます。イエス様は、来つつあります。イエス様は今晩12時に来てくださることが、確定的になったとしたら、いったい私たちは、どのような反応をしめすのでしょうか。

6番目として、私たちは、正しい裁き主としてのイエス様を見上げることが許されています。
今日、私たちが周囲を見回してみると、至るところ不正義が行なわれています。けど、我々の主は、義を立てるために来てくださいます。
一方において、主を愛し、どんな小さなご奉仕に対しても、真心から行なったすべての兄弟姉妹は、豊かに報いられます。しかしながら、他方において、小羊の怒りは、最終的に心かたくなな、悔い改めたくない人々の上に下ります。

第7番目に、私たちは、すべての者がひざをかがめる全能なる主としてのイエス様を見上げることが許されています。
近いうちに、すべての舌は、我々の主イエス様が主の主、王の王であることを告白するようになります。
主は次のように約束しておられます。「見よ。わたしは、すべてを新しくする。わたしは、アルファでありオメガである。初めであり、終わりである。」と。

イエス様を見上げつつ、私たちは変えられます。自分自身を見たり、他人を見たり、周囲を見たりしないで、ただイエス様だけを見上げることが、勝利の生活の秘訣であり、また満たされた生活の基となるものです。
2種類の人間がいるのではないかと思います。1種類は、無意識のうちに次の態度を取ります。そして知らないうちに、次の辛い経験をするのです。すなわち、私はただ自分だけを見る。自分の知恵や力に頼りながら、私はゆるぎます。だから私の心は、喜びを知らない者であり、私の魂も悩んでいるのであり、我々のからだも何の安らぎも知りません。
もう1種類は、意識的に決断して、すなわち自分自身を否定して、次のような態度を取ります。すなわちダビデのように、「私はいつも、私の前に主を置いた。主が私の右におられるので、私はゆるぐことがない。それゆえ、私の心は喜び、私のたましいは楽しんでいる。私の身もまた安らかに住まおう。」

イエス様を仰ぎ見る者は、救われ、永遠のいのちを持つようになり、主を仰ぎ見る者は、喜んですべてを捨てる覚悟を持つようになり、またイエス様を仰ぎ見る者は、みことばに留まり、イエス様とつながって実を結ぶ者となります。
イエス様を仰ぎ見る者は、満たされた生活を送ることができます。




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