引用聖句:ヘブル人への手紙11章8節-19節
何年か前に、ちょと東京のドイツ大使館に行きまして、ちょっと驚いたのです。大きな字で、何を書いてあったかと言いますと「人間は、みな外人です。」 飛行機に乗って、2時間で海外に行くと、みんな外人になる。 今日のテーマは「目標をめざす旅人」としたいと思います。3つの点について見てみたいと思いますが、それは次のようなものです。 第1番目、旧約時代における神の民、特にアブラハムとダビデという2人の代表者について考えてみたいと思います。 第2番目、新約聖書における、まことの救いにあずかった人々について、特にヘブル人への手紙の著者、そしてペテロについてです。 第3番目、真面目な忠告について、一緒に考えてみたいと思います。 まず第1番目、旅の途中にある旧約聖書における神の民についてです。 イスラエルの民は、常に旅の途中にある神の民でした。すなわち、故郷を離れた寄留者だったのです。約束されたカナンの地ですらも、寄留者の土地としてカナンの地に住んでおりました。 出エジプト記6:4
という契約を彼らに立てた。そこで、特に二人の代表的な人物を中心に、この消息を見てみることにしましょう。けどみことばは、この二人だけでなく、すべての信じる者を含めて次のように言っております。 このヘブル人への手紙11章なしに、旧約聖書を読んでも、ちょっといろいろなことがピンとこない、解かりません。 ヘブル人への手紙11:10-14
アブラハムという男は、信仰の父と呼ばれた者となっただけではなく、もっと考えられないすばらしいことを聖書は言っています。アブラハムは、神の友だったと聖書は言っています。 創世記12章を見ると、次のようにアブラハムについて書き記されています。 創世記12:1-4
どこに行くべきか、その時は解からなかった。けど、従いました。そして、ヘブル人への手紙11章の中で詳しく書き記されています。 すなわちアブラハムは、言われたとおりにしたということです。結果として、主は近くにおられる、主は忠実に約束を守るお方であるということを経験したのであります。 そのことについて、イエス様ご自身が説明してくださいました。 ヨハネの福音書8:56
紀元前2,000年に、アブラハムはすでに啓示によって、上からの光によって、イエス様による救いという神の大いなる御業を知っておりました。この啓示を見てアブラハムは、本当に喜び、次のように告白することができたのです。「私は、地上では旅人であり寄留者である。」ということです。 けども、アブラハムだけではなく、ダビデも結局、同じ心構えを持つ者でした。ダビデは、神の御心にかなった人と呼ばれましたし、彼は、アブラハムよりも1,000年後に生きた人でした。 ちょっと一箇所見てみましょうか。 歴代誌第I、29:10-15
このダビデの証し、告白とはすばらしいものなのではないでしょうか。 彼は、もちろんすべてを治める王でした。けども彼は、「とんでもない。私ではないよ。主よ。」と言い続けたのです。 1節から15節までを見ると、ダビデという王様は、彼の神に全く圧倒され、心を奪われて、主を褒め称えた人であったことが解かります。我々も、ダビデと同じように主に圧倒されることを確認することができるのでしょうか。 ダビデは、この地上では異国人であり、寄留者であって、だた主だけが本当の望みであり、喜びであることを体験的に知っていたのです。 彼は、イスラエルの中で最も偉大なる王であり、12部族を統治することのできた王であり、敵対する異邦の民を完全に打ち負かすことのできた王でした。 しかし彼は、偉大なる力、大いなる富にもかかわらず、常に寄留者でした。詩篇39篇を見ると、彼の心構えが明らかになっているのではないでしょうか。 詩編39:12
アブラハムと同じように、ダビデもまた、イエス様の日をはるかに見ていたようです。 使徒の働き2章を見ると、ダビデについて次のように書かれています。 使徒の働き2:25-27
使徒の働き2:31
この箇所を見ても解かります、ダビデが、すでにイエス様の復活のことを前もって知っていたことが解かります。 旧約時代における主なる神の民は、信仰によって歩み、信仰によって死にました。すなわち、彼らは目に見えないものを見、この地上は仮のものであって、本当に満たされることがないと告白したのであります。 次に新約時代におけるまことの教会について、ちょっとだけ考えてみたいと思います。 ヘブル人への手紙13:14
イエス様に出会って、受け入れられた者はみな、永遠の都に旅する途上にある者であって、したがって、この地上では異国人であり、寄留者です。私たちは、永遠の都を切に望むべきです。 この地上のものは、すべて過ぎ行くものであるため、私たちは、この世のものによって完全に満たされるということは、決してありません。 今度は、ペテロについてちょっと考えましょうか。ペテロは、次のように書いたのであります。 ペテロの手紙第I、2:10-12
イエス様は、祈りの中で告白しました。イエス様の一番詳しい、知られている祈りとは、ご存知のようにヨハネの福音書17章に書かれています。 ヨハネの福音書17:16
とイエス様は、祈りの中で告白してくださいました。 私たちの目標は、この世の過ぎ行くものであるような、そういう人々は災いです。 この地上にあって本当に、気持ちよく感じている者も気の毒なのではないでしょうか。 ユング・シュティリングは、当時非常に大切にされたイエス様を信じる者でした。けれども彼は次のように証ししました。「天にある故郷を待ち望む者は、幸いである。彼らは必ず故郷に帰る。」 私たちが、この地上に永遠の都を持っていないゆえに、またイエス様の尊い血潮によって買い取られ、この世には属しておらず、したがって、この地上にあっては異国人であり寄留者であるゆえに、第3番目になりますけれど、真面目な忠告が必要なのではないでしょうか。 私たちは、我らのかしらなるイエス様と同じように、この世の者ではないゆえに、パウロとペテロが次のように書き送ったのです。 ローマ人への手紙12:2
パウロだけではなく、ペテロも、 ペテロの手紙第I、2:11
なぜ、この真面目な忠告が必要なのでしょうか。3つの実例がその答えを与えてくれるのではないかと思います。その3つの例は、 第1に、ロト 第2に、サウル 第3に、デマスであります。 ロトという男も、アブラハムと同じように、主の声を聞いて主に従って自分の故郷を離れました。けど、彼の生涯は決して良い証しとはなりませんでした。彼は、良い土地を選びました。自分のことしか考えなかったのです。 彼の生涯の特長は、物質欲以外の何ものでもなかったのです。彼は、いつもただ自分のことばかりを考えておりました。後に彼は、非常に富んだ豊かな都であるソドムで、神に対して全く無関心な人々と一緒に生活するようになってしまいました。 彼は確かに、ソドムの滅びから救われ、主を信じる者だったけど、召しにふさわしくない歩みをしてしまったのです。 次にサウルという王様です。彼は、ダビデと同じように、もちろん主なる神に属していました。ダビデと同じように、王となった者でした。 しかし、この二人は根本的な点において、全く違っていたのです。サウルは、名誉を求め、人の前に良く見られたいと思っていたのです。 彼は不従順であって、その最後は自殺でした。 第3に、デマスという男です。彼は、もちろん主を信じた者であり、それだけではなく、パウロの同労者でした。主に仕えた者でした。 本来、この世の者ではなく、この世にあっては寄留者であるべきにもかかわらず、再びこの世を愛し、この世が気持ちの良いものとなり、それに満足するようになってしまったのです。 彼は、この世と調子を合わせてしまいました。私たちも、この世にあっては、本来寄留者でありますが、それにもかかわらず、常にロトやサウルやデマスのようになってしまう危険に瀕しているのではないでしょうか。ですからこそ、この真面目な忠告が我々にとってもどうしても必要なのではないでしょうか。 この二つの忠告とは、本当に大切です。もう一回読みます。 ローマ人への手紙12:2
ペテロの手紙第I、2:11
肉の欲を遠ざけなさい、それはいったいどういうことでしょうか。自分自身の欲、すなわちエゴを死に明け渡すことです。肉から生じているもの、自分の考え、自分の意思、自分の感情を否定することがそれに他ならない。これは戦いを意味しています。それですから、パウロは次のように言わざるを得なかったのです。 「たましいに戦いをいどむ肉の欲を遠ざけなさい。」、つまりたましいに対する戦いです。言うまでもなく、たましいの働きとは、考えること、欲すること、そして感じることです。別の言葉を使うなら、たましいと霊との分離が必要です。 したがって、自分の考え、自分の意思、自分の感情を否定することができない者は、ロトやサウロ、あるいはデマスと同じように駄目になってしまう危険に陥ってしまいます。イエス様のペテロに言われたことばを、ちょっとお読みいたします。 ルカの福音書22:31-32
悪魔は、必死になって我々を攻撃します。しかし、イエス様は完全なる勝利者であり、いつも夜昼、我々のために祈っておられ、我々のために生きておられるお方です。 イエス様は、私たちの生涯が良き証しの生涯となり、それを通して多くの人々が祝福されることを望んでおられます。だからイエス様は、ペテロに「兄弟たちを力づけてやりなさい。」と言われたのです。 私たちは、寄留者です。我々の切に求めるのは、永遠なる都です。自分のことを全く忘れ、上にあるものを求めなさい。また、兄弟姉妹たちを力づけてやりなさいと主は、今日も呼びかけておられます。もちろん、福音書を読むと言えることとは、イエス様ご自身が寄留者でした。 ルカの福音書9:58
自分の家を持っていなかったし、自分の部屋でさえもなかった。乞食そのものでした。主に従うとは、確かに簡単ではない。しかし、喜びに満ちている道です。 初代教会の兄弟姉妹は、次のように正直に告白したのであります。 コリント人への手紙第II、5:1-9
パウロは、こういうふうにコリントにいる兄弟姉妹に書いただけではなく、コロサイという町に住んでいる方々にも、全く同じようなことを書いたのです。彼らを励ますために書いたのです。 コロサイ人への手紙3:1-5
また、イエス様の呼びかけとはすばらしい呼びかけでした。 ヨハネの福音書14:1-3
考えられないすばらしい約束です。もう一箇所読んで終わります。 ユダの手紙1:24-25
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