御心にかなう信仰生活の特長


ベック兄

(吉祥寺学び会、2013/07/02)

引用聖句:テサロニケ人への手紙第I、1章1節-10節
1パウロ、シルワノ、テモテから、父なる神および主イエス・キリストにあるテサロニケ人の教会へ。恵みと平安があなたがたの上にありますように。
2私たちは、いつもあなたがたすべてのために神に感謝し、祈りのときにあなたがたを覚え、
3絶えず、私たちの父なる神の御前に、あなたがたの信仰の働き、愛の労苦、主イエス・キリストへの望みの忍耐を思い起こしています。
4神に愛されている兄弟たち。あなたがたが神に選ばれた者であることは私たちが知っています。
5なぜなら、私たちの福音があなたがたに伝えられたのは、ことばだけによったのではなく、力と聖霊と強い確信とによったからです。また、私たちがあなたがたのところで、あなたがたのために、どのようにふるまったかは、あなたがたが知っています。
6あなたがたも、多くの苦難の中で、聖霊による喜びをもってみことばを受け入れ、私たちと主とにならう者になりました。
7こうして、あなたがたは、マケドニヤとアカヤとのすべての信者の模範になったのです。
8主のことばが、あなたがたのところから出てマケドニヤとアカヤに響き渡っただけでなく、神に対するあなたがたの信仰はあらゆる所に伝わっているので、私たちは何も言わなくてよいほどです。
9私たちがどのようにあなたがたに受け入れられたか、また、あなたがたがどのように偶像から神に立ち返って、生けるまことの神に仕えるようになり、
10また、神が死者の中からよみがえらせなさった御子、すなわち、やがて来る御怒りから私たちを救い出してくださるイエスが天から来られるのを待ち望むようになったか、それらのことは他の人々が言い広めているのです。

今日の題名は「御心にかなう信仰生活の特長」としたいのであります。
パウロのテサロニケへの手紙は、5章に分かれています。この5章を読むために10分だけかかるでしょう。読みながら次の事柄がすぐ解かります。すなわち、このテサロニケの兄弟姉妹は、新しく生まれたばかりの信者でした。だから私たちは、彼らの信仰生活の第一歩を観察することができます。
したがって、テサロニケ人への手紙第Iは、信仰生活の始まりについての手紙です。このテサロニケの兄弟姉妹たちの生活は、今読んだ所をみてもはっきり解かります。すなわち、模範的な生活でした。パウロはそう言っています。彼らについてパウロは言ったのですね。

テサロニケ人への手紙第I、1:2
2私たちは、いつもあなたがたすべてのために神に感謝し、祈りのときにあなたがたを覚え、

ここでアンダーラインすべき所は、「いつも」と「すべて」です。

テサロニケ人への手紙第I、1:7
7こうして、あなたがたは、マケドニヤとアカヤとのすべての信者の模範になったのです。

とパウロは言うことができました。どうでしょうか?私たちも、他の所に住んでいる兄弟姉妹たちの模範となっているのでしょうか。
読みながら、もう一つのことを知ることができます。というのは、パウロは自分の宣べ伝えた福音を、どういうものであるか説明しています。
よく「私たちの福音」また「私の福音」という言葉を彼は使いました。この宣べ伝えた福音の結果は、このようなすばらしい模範的なキリスト者でした。パウロはこの福音を懸命に説明しています。これはだいたい4つの事柄なのではないかと思います。

第1番目、あなたがたが、どのようにして偶像を捨てて神に立ち返ったか。
第2番目、あなたがたが、神の御子イエスが天から下って来られるのを待つようになった。
第3番目、神が、死者の中からよみがえらせた御子、すなわち主イエス様に対する信仰。
第4番目、イエス様が、やがて来る御怒りから私たちを救い出してくださるのである。

まず、第1番目、あなたがたが、どのようにして偶像をから神に立ち返ったということは、信仰生活の第1歩です。このテサロニケ人はもちろん、いわゆる特別に現れたイスラエルの民に属していなかったのです。いわゆる異邦人と呼ばれ、結局偶像礼拝者でした。
そのように、あなたがたが偶像から神に立ち返って、生ける神に仕えるようになったとあります。原語を見ると、「仕える」ばかりでなく「礼拝」するようになったとあります。彼らは信じるようになり、従うようになり、仕えるようになり、礼拝するようになり、また待ち望むようになりました。
もし、ある人が生けるまことの神じゃなくて、他のものを大切にし、礼拝すると、この人は異邦人であり偶像礼拝者と呼ばれています。生けるまことの神を礼拝することは、本当の礼拝であり、他のもの全部がいわゆる偶像礼拝です。

エペソ人への手紙5:3、5
3あなたがたの間では、聖徒にふさわしく、不品行も、どんな汚れも、またむさぼりも、口にすることさえいけません。
5あなたがたがよく見て知っているとおり、不品行な者や、汚れた者や、むさぼる者――これが偶像礼拝者です。――

全部主イエス様の足もとに捧げることは、信仰生活の第一の特長です。どうでしょうか、私たちはいったいどうしてイエス様を信じるようになったのでしょうか。
何回も聖書の話を聞いて、そして罪と悔い改めの大切さ、新しく生まれなければならない必要性についての話を聞いて、だいたい理解されたからでしょうか。
もちろん、悔い改め、また罪を告白することは決して悪いことではありませんけど、これは一つの教えでしょう。そして、人間は一つの教えを信じ込むことによっては救われ得ません。

聖書の中心は、生きておられる主イエス様ご自身です。
十字架につけられた、代わりに犠牲になられたイエス様です。
パウロは告白しました。何回も何回も読んだ箇所ですけど、大切な箇所です。

ガラテヤ人への手紙1:12
12私はそれを人間からは受けなかったし、また教えられもしませんでした。ただイエス・キリストの啓示によって受けたのです。

パウロの信仰とは、一つの教えではなかった。啓示という言葉は、16節にも出てきますね。

ガラテヤ人への手紙1:16
16異邦人の間に御子を宣べ伝えさせるために、御子を私のうちに啓示することをよしとされたとき、私はすぐに、人には相談せず、

もし、唯一の生けるまことの神ご自身が、御子主イエス様を我々の内に啓示してくださる時、私たちは新しく造られた者です。すなわち、改心を経験した者です。
本当の悔い改め、また我々の罪の深さ、また十字架の深い意味などは、だんだん聖霊の働きによって解かるようになります。しかし、これらの事柄は信仰生活の根本ではありません。主なる神が、御子を我々の内に啓示してくださることは、それが問題です。これこそ信仰生活の根本です。
もし、生けるまことの主なる神が、御子である主イエス様を、我々の内に啓示してくださると、私たちはイエス様のみが価値あるお方です。

イエス様はすごい、すばらしい救い主であると喜びながら歌うことができます。すなわち、私たちは主を礼拝せざるを得なくなります。
私たちは、いったいどうして救いにあずかる者となったでしょうか。聖書の事実を理解したからではなく、単純に信じたからです。結果として、イエス様の偉大さ、主イエス様のすばらしさを、またイエス様の価値を体験的に知るようになりました。
生けるまことの神の御子である主イエス様は、我々のために死を感じ、我々のために罪とされ、十字架につけられたということを、心の目で見ることができたからです。

勉強したのかあるいは理解したのかじゃなくて、救いの御業の偉大さ、救いのすばらしさを心の目で見たから、これが問題です。
もし主なる神が、御子主イエス様を我々の内に啓示なさると、私たちはただ一つの事をすることができます。
すなわち、偶像を捨て、生けるまことの神を崇拝せざるを得ない。これが本当の根本的なことです。

人はどうして救われるのでしょうか。聖書の教えを理解し、教理問答書を研究し、理解した時、信じたのでしょうか。それとも、聖霊の啓示によって、イエス様の十字架の偉大さ、イエス様ご自身を心の目で見ることによって、イエス様のみが価値あるお方であると叫ぶようになったのでしょうか。
主イエス様の価値を見ることこそ、絶対に必要です。なぜならば、後の信仰生活において、この点に対する悪魔の試みが来るからです。
私たちはいつも一つの問題にぶつかるのではないでしょうか。すなわち、このものは主に勝る価値を持っているのでしょうか。あの人は、イエス様に勝る価値を持っているのでしょうかと。

全体の要点は、イエス様が我々のために、いかほどの価値があるかということになります。
イエス様が、我々にとって真に尊い方であれば、あまりに良いというものは一つもありません。あまりに高いというものも一つもありません。我々のあらゆるものは、それが最も深いもっともすばらしくあっても、イエス様に対して捧げます。全部、イエス様の足もとに捧げることは、まことの信仰生活の第一の特長です。
テサロニケの信じる者たちは、マケドニヤとアカヤとにいる信者全体の模範になったとあります。なぜならば、彼らはこの世の一番尊いものでさえも、主イエス様に勝る価値を持っていないということを、信仰生活のはじめに確信していたからです。

どうでしょうか?イエス様は、我々にとってどんな価値があるのでしょうか。
金や他の人物が、また仕事や遊びが、イエス様よりも勝っていると考えているのでしょうか。これは非常に大切な、根本的な問題です。
毎日の生活の最中にこの問題は、実際的になります。もし、私たちがある程度まで聖書の教えを理解して、けど啓示によって主イエス様を心の目で見なければ、私たちは、遅かれ早かれ失敗するでしょう。

人間は、自分の力で救いにあずかることはできません。けど、多くの人は「あの人は、キリスト教に入っちゃった。」と言います。実にこれは愚かな言葉です。なぜなら、イエス様によって捕らえられることが問題であるからです。
イエス様に対する啓示が必要です。私たちは、主イエス様の偉大なる価値を、心の目で見なければなりません。私たちも本当に、イエス様によって閉じ込められ、監禁された者になったのでしょうか。
イエス様は、我々の全生涯の支配を持っているのでしょうか。

イエス様は、我々の聖書に対する頭の知識を、別に要求なさいません。大切なのは、イエス様は我々の心の内に、どれほどの余地を持っているかが問題です。
イエス様はパウロに言ったのです。「わたしは、あなたを捕まえた。あなたを捕らえるために、長い間努力したが、今あなたを捕まえた。」と言いました。パウロは、その時から、自分の思い、自分の計画、自分の目的は絶対ダメだということを知っていました。そして、彼は大喜びで、「私は、キリスト・イエスによって捕らえられている。私はイエスの奴隷になった。」と告白したのです。
その時から、自分の思い、自分の目的は間違っていたということを、知るようになったのです。そして、聖霊の支配のもとに、生まれつきの裁きと決定、生まれつきの能力などは使わないで、聖霊と一つになることによって、聖霊の判断、聖霊の思い、聖霊の標準を持つようになりました。

私たちもパウロと同じように、イエス様によって閉じ込められ、監禁された者なのでしょうか。
イエス様は、私たちにどれほど、あなたは理解したのかなどとは聞こうとしません。私たちは、自分の道を持って、自分の考えによって、前進しようと思うのでしょうか。自分のプログラム、自分の目的、自分の興味は大切だと思われているのでしょうか。
このようにイエス様は、お聞きになります。私たちは、どれほど頭で理解しても問題ではない。イエス様ご自身が、我々をどれほど閉じ込められて、監禁されたかが問題です。

テサロニケの信仰者たちは、はっきりとした答えを持っていました。彼らはこの問題を、信仰生活の始めに解決したのです。だからパウロは、彼らについて「祈りのときにあなたがたを覚え、あなたがた一同のことを、いつも神に感謝します。」と言うことができました。
テサロニケの兄弟姉妹たちは、啓示によってイエス様を見、イエス様によって閉じ込められた者として、自分の全生涯を主に捧げたのです。
私たちの場合はどうでしょうか?「あなたがたは、神に立ち返り、生けるまことの神に仕えるようになり、生けるまことの神に礼拝するようになった。」とあります。生けるまことの神、なんという言葉でしょうね。「生けるまことの神に礼拝するようになった。」と書いてあります。

もし、私たちが生けるまことの神に仕えるのではなく、他の人物や他のものに仕えると、これは終わり、あるいは死を意味します。すなわち、答えがない、永遠の実も残らないからです。
生けるまことの神以外の他のものは、全部偶像です。そして、偶像に一生懸命仕えても答えがない。そして、遅かれ早かれ、これは死だということを解かるようになります。
生けるまことの神。聖書に記されている神は、生ける神であり、まことの神です。他の生けるまことの神が存在していない。もし、私たちがこの生けるまことの神ではなく、他のものに全生涯を捧げ、大間違いで空虚だけが残ります。

聖書に示されている神が、生けるまことの神です。信仰生活において、この生けるまことの神は、生き生きとした現実です。
もちろんこの現実は、いつも楽しいことではありません。なぜなら主は、困難と苦しみによって教育されますから。しかし、困難の最中において、信者は主の尊いご臨在を確信することができます。悩みながら喜ぶことができます。
偶像礼拝者は、生けるまことの神を持っていませんし、そして自分の持っている偶像は、祈りを聞くかどうかと、いつも疑問を持っているはずです。生まれ変わったキリスト者にとっては、実に生けるまことの神は現実です。全部この生けるまことの神の足もとに捧げることは、信仰生活の第一の特長です。

2番目の特長は、テサロニケ人への手紙第Iの1章9節、10節に書いています。
「あなたがたが、神の御子イエスが天から下ってこられるのを、待つようになった。」主は来たりたもう。
まもなく、イエス様は迎えに来るという確信は、模範的な信仰生活のために、絶対に必要です。

神の御子主イエス様が、再び天から下って来られることが、福音のメッセージの中心であります。大切な事実です。これは信仰生活の根本であるべきです。
どうして、テサロニケの兄弟姉妹たちは、模範となったのでしょうか。彼らは、主イエス様ご自身が、まもなくおいでになると確信したからです。心から祈り続けたからです。「主イエスよ。来てください。」と。
けどもこれは、テサロニケにとって何を意味していたのでしょうか。というのが、全部の事柄が、この主イエス様の再臨にかかっていると、彼らは知っていたからです。イエス様の再臨なしに、自分の主に捧げられた生活は、馬鹿げたことであり、この世と自分たちの生活が大きな謎のみです。

イエス様の天から下ってこられることなしに、イエス様の来るべき王国なしに、信じる者は非常に騙されたものです。テサロニケの兄弟姉妹たちは、聖霊の啓示によって改心した時に、主はまた来られるという堅い確信を自分のものとすることができました。
各々の時代で、世界を良くするために、いろいろな運動があったんですが、今までに成功しませんでした。かえってだんだん悪くなりました。実にそれは空しい努力です。
ある人は次のように言いました。「私たちは、一生懸命、歴史を勉強するのですが、しかし、この勉強によって何を習ったのでしょうか。というのは、私たちは歴史から少しも習っていないということを認めたのです。」

世界を良くするために、平和が現実になるように、何と多くの人々は努力するでしょう。実にこの空しい努力は、失望への道です。しかし、聖書は我々に逃れ道を示しています。この希望は、イエス様の王国、主イエス様の絶対的な支配によって、あらゆる問題が解決されます。
テサロニケの兄弟姉妹たちは、これを見また確信したのです。彼らは、この世は争い、不一致、失望と欠乏に満ちている。
またこの世から少しも得ることがないということを知るようになりました。けれども、このテサロニケの兄弟姉妹は、悲しくなりませんでした。なぜなら、イエス様はご自分の再臨を約束なさいましたから、主は来てくださるという確信を持って、前進したのです。

イエス様が、天から下って来られると、このような失望と欠乏が終わります。
テサロニケの兄弟姉妹たちは、神の御子であるイエス様が、天から下って来られるのを待つようになった。信じただけじゃない。今日かもしれない、これこそ根本的な問題です。
この問題は、我々の信仰生活の始めに解決しなければなりません。我々の希望は、この世ではない。我々の望みは、イエス様のご支配です。イエス様なしに、私たちは希望なく、非常に騙された者です。

けれども、イエス様とともに私たちは、身を起こし頭をもたげることができるのです。イエス様は、近いうちに来られます。これは真の解放を意味しているのです。
聖霊の目的は、この主の再臨です。したがって、もし私たちは再臨について話し、また再臨について考えると、聖霊の働きを感じるのです。
何と多くの信者は、困難と言い現すことのできない苦しみの最中に再臨を覚えて、大喜びで主を賛美したことでしょう。我々の主イエス様は来られます。近いうちに来ます。その日は、失望や戦いの終わりを意味します。

私の一人の友達は、何年間、毎週ある夫婦を訪問しました。ご主人は、少しも歩くことができませんでした。20年間、夫婦はただ一つの部屋を持っていましたし、この世の財産は少しも持っていませんでした。
しかし、彼らは絶望した者だったでしょうか?いいえ、そうではない。友達が来た時、いつも大喜びで、主イエス様はまもなく来られると話合って、これこそが彼らの力の源でした。
テサロニケの兄弟姉妹も、苦しみと艱難を知っていたのです。

テサロニケ人への手紙第I、2:14
14兄弟たち。あなたがたはユダヤの、キリスト・イエスにある神の諸教会にならう者となったのです。彼らがユダヤ人に苦しめられたのと同じように、あなたがたも自分の国の人に苦しめられたのです。

テサロニケ人への手紙第I、3:3-4
3このような苦難の中にあっても、動揺する者がひとりもないようにするためでした。あなたがた自身が知っているとおり、私たちはこのような苦難に会うように定められているのです。
4あなたがたのところにいたとき、私たちは苦難に会うようになる、と前もって言っておいたのですが、それが、ご承知のとおり、はたして事実となったのです。

テサロニケの信者たちは、敵対、迫害、困難、苦しみを知っていましたが前進しました。彼らは、こうしてマケドニヤとアカヤにいる信者全体の模範になりました。どうしてでしょう?彼らは、「主は来たりたもう。」と確信したからです。
「あなたがたが、神の御子イエスが、天から下って来られるのを待つようになった。」私たちにも、このみことばが当てはまるのでしょうか。
これは、模範的な信仰生活の根本の特長であります。




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