引用聖句:テサロニケ人への手紙第I、3章1節-13節
今日は引き続いて、テサロニケ人への手紙第Iについて、ちょっと考えたいと思います。 手紙の内容は、「もうしばらくすれば、来るべき方が来られる。遅くなることはない。」「キリストも多くの人の罪のために、一度ご自身を捧げられましたが、二度目は、罪を負うためではなく、彼を待ち望んでいる人々の救いのために来られるのです。」 いつになるか解からない。困ちゃうけど、必ず来られます。今日の集会の途中で来られるかもしれない。 その時、主の恵みを経験した人々は、いっぺんに姿を消して天国に行くようになる。もしかするとその時、残る人がいるかもしれない。いや寂しくなる。やっぱり私の考え方は間違っている。イエス様のためよりも、自分のことを大切にしてと思うようになります。 ですから、今日のテーマは「もうちょっと」にしましょうか。 イエス様を知るようになった人々は、輝くすばらしい将来を持つことです。イエス様は、彼らにとって道であり、真理であり、またいのちであるからです。イエス様なしの将来は、本当に考えられないもので、真っ暗闇です。なぜならば救われたという確信がないからです。 もうちょっとでイエス様はおいでになります。今日かもしれないと考えると、喜ぶようになる人がいますし、ある人はちょっと困ると思うかもしれない。どういう状況に置かれていても、どういう問題があっても、私たちは希望を持つことができ、したがって将来に向かうことができるのです。 このテサロニケ人への手紙第Iの1章を見ると、テサロニケという当時の有名な町に住んでいた人々は、最初からすばらしい出発をしたことが解かります。 このテサロニケにいる人々とは、十字架につけられ、よみがえったイエス様の福音を聞いた時うれしくなりました。解放されるようになりました。 テサロニケ人への手紙第I、1:5-6、8
こういうふうにパウロは言えたのです。パウロの初めて書いた手紙は、おそらくこのテサロニケ人への手紙第Iでした。 テサロニケの兄弟姉妹は、みことばを単に頭で理解したよりも、みことばを聞いた時、素直になり信じて、霊の糧として食べたのです。 みことばを本当に自分のものとして受け入れ、従順に味わった時にのみ、イエス様の大いなる力が働くことができます。1章の内容はそうなんです。 2章によると、パウロと同労者たちの働きが、本当に真実なものであったがゆえに、空しく終わらなかったということです。 テサロニケの兄弟姉妹は、マケドニアとアカヤとにいる信者たち全体の模範となり、光となったのです。けれどもそのようなすばらしい出発をしただけでなく、それから先の成長のことをもおろそかにしてはなりません。 子供が生まれると、誰にとっても大きな喜びですが、けれど生まれてからその子供は、成長、発育をせずに、いつまでも同じような状態に留まってしまうなら、それは親にとって喜びではなく、悲しみになってしまいます。 それと同じように、どうしようもない者として、悩む者として、イエス様を救い主として受け入れ新しく生まれ変わるということは、この世において最もすばらしい出来事にちがいないけど、主なる神の子とされた者は、やがて妥協してしまい、悪魔の罠に落ち込んでしまうとしたならば、それは大きな悲しみになってしまいます。 もちろん、生まれることと出発とがなければ、成長があり得ないことは明らかです。多くの人々は、自分がイエス様を信じる者であると言いますけど、正しい出発がなければ、正しい成長もあり得ないことが、しばしばないがしろにされてしまっているのです。 正しい出発がなされないと、元の状態に留まってしまうか、さらに悪い場合には、後戻りしてしまいます。 さらに注意しなければならないことは、彼に正しい出発が成されたとしても、必ずしも正しい成長を意味するとは限らないでしょう。 テサロニケの兄弟姉妹の場合はどうだったでしょう。その答えは、今読んでもらいました3章の中に与えられています。 ちょっと7つの質問について考えたいと思います。 第1番目、第3章には、何という表題をつけることがふさわしいでしょうか。 第2番目、信仰という言葉は、いったいどこに出てくるのでしょうか。 第3番目、信仰とは、いったい何でしょうか。 第4番目、いかなる危険が信者の信仰生活を脅かしたのでしょうか。 第5番目、パウロがいかにして、信者たちのために信仰の危険を警告したのでしょうか。 第6番目、パウロがこのテサロニケの人々について、いかなる情報を得ていたのでしょうか。 第7番目、信じる者のために、パウロが何を望んだのでしょうか。 第3章には、何という表題をつけることがふさわしいでしょうか。「良い進歩」あるいは「信仰によって」また「それにもかかわらず」「吟味」「苦しみを通しての祝福」などとつけることができるのではないかと思います。 第3章は、次のように3つに分けて考えることができます。 まず、奉仕における共同。1節、2節を見ると解かります。 テサロニケ人への手紙第I、3:1-2
それから第2番目は、そのあとの節ですね。 3節から8節まで何を書いているかと言いますと「奉仕における苦難と患難について」であります。 テサロニケ人への手紙第I、3:3
苦難に会うのはどうしても必要である。 テサロニケ人への手紙第I、3:4-8
そして3番目の箇所は、9節から13節でしょう。 テサロニケ人への手紙第I、3:9-13
第2番目、信仰という言葉は、いったいどこに出てくるのでしょうか。まず、2節ですね。 テサロニケ人への手紙第I、3:2
テサロニケ人への手紙第I、3:5-7
テサロニケ人への手紙第I、3:10
イエス様を信じるということは、イエス様と結びついていることを意味します。それこそ、パウロが望んでいたことであり、テサロニケの兄弟姉妹が、イエス様と結びついていることこそ、パウロの心からの願い、また祈りでした。 パウロは、テモテからこの事実を聞いた時、大いに慰められました。この3章によって、パウロがいかにして信じる者を主の御手の中に入れたかを、はっきりと見ることができます。 さらに主の御手にある兄弟姉妹が、主の導きによって祝福され、また成長している事も解かりました。 第3の質問は、そもそも信仰とはいったい何なのでしょうか。 有名なヘブル人への手紙の中で「信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものです。」とあります。 このみことばによると、信仰とは、二つの面を持っています。 1番目、目に見えないものを見ることであり、2番目、勝利のことを知ることです。したがって、信仰のかわりに、確信とか信頼とか希望あるいは望みという言葉を用いてもよいでしょう。 そして実際には、まずイエス様と出会い、イエス様に信頼し、自分自身を主に明け渡すことを意味しています。 まことの信仰の内容は、イエス様が十字架につけられ、よみがえられ、再び来られるということです。ペテロの手紙第Iの中で次のような箇所があります。ペテロは当時の信じる者に書いたのです。 ペテロの手紙第I、1:8
テサロニケの兄弟姉妹に対して、パウロがいだいていた最大の関心事は、彼らがこの信仰を堅く守り続けるということでした。 すなわち、彼らが目には見えないけれども、必ず来られるイエス様を見上げ続け、どんなことがあっても、イエス様との生き生きとした交わりを持ち続けるということでした。 そこでパウロは、テサロニケの兄弟姉妹の信仰が、堅く立っているかどうかを知りたいと心から切に願っていたのですね。 テサロニケ人への手紙第I、3:5
パウロは、テサロニケの兄弟姉妹は、もう絶対大丈夫というような確信を持つことをせず、どうなっているか絶えず心を配り、配慮していたのです。 けどもパウロの信仰は、それらの不安や心配を克服しました。というのは、パウロが見ていたものは、彼らの弱さや問題などではなく、主の真実さ、主の恵みだけだったのです。 パウロは、大いなる愛を持って彼らのために心配ったため、アテネとコリントでテモテと一緒に働くことを断念し、テモテをテサロニケへと送ったのです。 第4の質問は、いかなる危険が信じる者の信仰生活を脅かすのでしょうか。 いろいろなことが、イエス様との交わりを駄目にする原因となりえました。 テサロニケ人への手紙第I、3:3
このような苦難の中にあって、動揺する者がひとりもないように励ますため、パウロは同労者であるテモテを遣わしました。 絶えずイエス様を見上げることをしないと、イエス様を見失ってしまう危険性が大いにあるわけです。 そしてイエス様を見失うと、信仰は弱くなりますが、いろいろな患難を通して、そのような状態に陥ることはまれではなく、イエス様にしっかりと結びつくことが出来なくなってしまうのです。 テサロニケ人への手紙第I、3:5
パウロは、もしや試みる者が、テサロニケにいる兄弟姉妹を試みはしないかと気遣ったのです。患難を通して、イエス様を見失ってしまうと、試みる者が入ってきて、私たちの信仰の土台を崩してしまうのです。 またイエス様を絶えず見上げていないと、私たちは悪魔のてだまにされてしまうのです。 パウロが、心から本当にテサロニケの兄弟姉妹のために、心を配っていたことは次の節を通して知ることができます。 テサロニケ人への手紙第I、3:1
テサロニケ人への手紙第I、3:5
テサロニケの兄弟姉妹が脅かされると、パウロと同労者も同じように信仰が脅かされ、彼らが主にあって堅く立つならば、パウロたちも生きることになるからです。 テサロニケ人への手紙第I、3:8
したがって、集会が駄目になることは、パウロにとって死を意味するに等しいことでした。彼らが主にあって堅く立っていることを聞いた時、パウロは生き生きとした状態にあることができたのです。他の兄弟姉妹が苦しんでいる時、私たちも同じように苦しみを感じているのでしょうか。どうでしょう。 カインは、かつて主に向かって「私は、弟の番人でしょうか。」と言いました。今日でも、多くの人がカインと同じような態度をとっているのではないでしょうか。この態度はまさに殺人犯の態度です。兄弟姉妹の誰かが罪を犯した時、それは自分には関係がないという態度を取るならば、それこそまさにカインと同じような態度に他なりません。 パウロは、テサロニケの信じる者としっかりと結びついて、一つになっており、もはや離れる事はできない状態になっていました。そのために、彼らが主イエスにあった固く立っている時は、パウロの信仰も喜びで生き生きとしており、彼らの信仰が揺れ動いて動揺している時は、パウロも同じように痛みを感じました。 第5番目の質問は、パウロがいかにして、信じる者のために信仰の危険を警告したのでしょうか。 テサロニケ人への手紙第I、3:4
やがて患難にあうことを、あらかじめ預言しておいたことが解かります。 パウロは必ず、イエス様に従うことが十字架を背負うことを意味し、いろいろな患難や苦しみに遭遇するはずであると言ったのであります。 けれど、ただ単に警告しただけでなく、なぜ患難にあわなければならないかについても語っています。 その第1の理由は、信じる者がこの世にあっては、いわば異分子のような者であり、居留者また旅人であるため、思いはこの世ではなく、天国にあるため妥協しなければ、必ず患難が伴なわざるを得ないということです。 第2に、患難によってのみ、我々の信仰は清められ、強められるということです。たとえば、金は1,000度の熱さで鍛えられます。そして、信仰は聖書の中で、金にたとえられています。 ペテロの手紙第I、1:7
患難がなければ、我々の信仰は鍛えられず、したがって成長しないのです。それですから、パウロは患難をも喜んでいると証しすることができました。 パウロは、信じる者の信仰を強め、励ましました。 テサロニケ人への手紙第I、3:2
テサロニケ人への手紙第I、3:10
またパウロは、彼らの信仰の足りない所を補いたいと願っていたのです。パウロは、決して気休めの言葉や事実に関するようないい加減なことを言わず、信仰が成長するためには、どうしても多くの患難が必要であると言ったのです。 パウロの心からの願いは、信じる者の信仰が強められ、成長することでした。パウロの生活の特長は、自分自身を忘れ、信者の幸せを願うということでした。 我々の場合はどうでしょうか。他の信者に対して、どのような態度を取っているのでしょうか。 第6番目の質問は、パウロがこのテサロニケの兄弟姉妹について、いかなる情報を得ていたのでしょうか。 テサロニケ人への手紙第I、3:6
この節を見ると、テモテが良い知らせを持って来たことが解かります。 テモテは、テサロニケの兄弟姉妹の信仰と愛とについて知らせました。テモテは、テサロニケの兄弟姉妹が信仰によって、主イエス様としっかりと結びついていることを、自分の目で確かめたのです。 彼らは決して、宗教団体を形成していたのではなく、イエス様との生き生きとした交わりを持っていたのです。そして、自発的な交わりを形成されたものこそ、愛に他ならなかったのです。 テサロニケ人への手紙第I、3:8
テサロニケの兄弟姉妹が主にあって堅く立っていたのです。 けれども今日、多くの信じる者は、堅く立っておらず、いつも動揺しているのです。しかし、堅く立つことは決して自分の力によるのではなく、主にあって初めて実現されるのです。 したがって、主にあって堅く立つということは、自分自身の空しい努力を止めて、すべてをイエス様に委ね明け渡すことによるのです。 パウロは、彼らの状態をつぶさに聞いて、そのために大喜びで感謝をしました。けどもパウロは、それで満足したとか、それで結構であるとかいうことはせず、さらに高い目標を見上げて、それを目指していたのです。 確かに、新しいいのちを得るためには、多くの戦いが必要とされませんが、信者となってからの信仰の成長のためになされる戦いの方が、はるかに大きい、また激しいものです。 パウロは、信者に対していかなる目標を望んでいるかということを、祈りの中で現しているのです。 第7番目の質問は、信じる者のために、パウロが何を望んだのでしょうか。 テサロニケ人への手紙第I、3:10
テサロニケの兄弟姉妹の信仰を完全なものとするために、彼らの信仰の足りない所を補うということこそが、パウロの願ったところでした。 そのために、愛を増し加えて豊かにしてくださるため、イエス様に祈ったのです。 テサロニケ人への手紙第I、3:12-13
パウロは、そのために日夜しきりに願い求め、祈り続けたのです。 実際パウロが、信者のためにどのようにして、どれほど配慮したかについては、ほとんど想像することはできません。すなわち、パウロは自分自身の苦しみや問題など忘れて、他の信者のために日夜、真剣に祈ったとあります。 テサロニケ人への手紙第I、3:10
このようなパウロの態度と祈りの答えとして、主なる神は、テサロニケの兄弟姉妹を豊かに祝福してくださいました。 今日、必要とされていることは、パウロと同じように、自分のみならず、他の兄弟姉妹に対しても真剣に祈り、力を注ぐことです。主は、そのような者を通りよき管として用い、他の信者をも祝福することを望んでおられるのです。その意味で、私たちはすべて主によって自由に用いていただこうではないでしょうか。 13節もう一度読んで、終わります。 テサロニケ人への手紙第I、3:13
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