引用聖句:テサロニケ人への手紙第I、4章13節-18節
今日のテーマは、「もうちょっと」というテーマでございます。もう、ちょっとイエス様を知るようになった人々は、輝くすばらしい将来を持つ者です。 イエス様は、彼らにとって道であり真理であり、またいのちであるからです。イエス様なしの将来は、確かに真っ暗やみです。 イエス様を知るようになった者は、喜ぶことができます。なぜなら、彼らは確信するからです。すなわち、もうちょっとでイエス様はおい出でになります。そして今日かもしれないと考えると、嬉しくなります。どういう状況に置かれても、どういう問題があっても、私たちは希望を持っているし、安心して将来に向かうことができるのです。 確かに聖書は、将来のことについていろいろなことを言っています。イエス様は、末の世について言われました。 ルカの福音書23:30
この箇所を読むと将来は確かにばら色ではない。山に向かって、丘に向かって祈る人は、本当に愚か者そのものです。もう一箇所 ヨハネの黙示録6:15-17
イエス様は、はっきり約束してくださいました。すなわち、わたしはまた迎えに来ます。今度は十字架の上で死ぬためではなく、わたしに属する人々を迎えに来るためです。 このいわゆる空中再臨の時、主の恵みによって救われた人々は、瞬間的に見えなくなります。死を見ないでそのまま、よみがえりの体を持つようになります。イエス様といっしょになるのです。 それだけではなく、その瞬間、いわゆる恵みの時も終わります。その後のことについて、前に読みました聖書の箇所によると、多くの人々は急に祈るようになります。助けを求めるようになります。 普通の祈り会には、そんなに多くの人が来ません。けどここにおいて、たいへん多くの人々が来ています。ここには、7つの異なったグループの人々があげられています。7という数字は完全の数字であります。ということは、小羊の救いを拒んだすべての人が、ここに来ているということになります。 恐怖が彼らを一つにしたのです。したがって、最も強い者も力を失ってしまうのです。主なる神の提供された救いを拒んだ、思い上がった人々は、もぐらのように洞穴の中に隠れようとしています。けれども、これらの人々は、落ちかかってくる原子爆弾から私たちを守れと言うのではなく、御座にいる方から、また小羊、主なる神の小羊の怒りから守ってくれと叫んでいます。 これらの人々は、原子爆弾や人間の前に隠れているのではなく、小羊である主イエス様の怒りの前に隠れようとしているのです。ちょっとだけ3つの点について、簡単に考えましょう。 第1番目、いつ彼らが祈っているのでしょうか。 第2番目、誰に向かって祈るのでしょうか。 第3番目、何を祈っているのでしょうか。 いつ彼らが祈っているのでしょうか。 この祈りの時は、怒りと裁きの時です。すなわち、彼らの祈りはすでに遅すぎます。今は、なお恵みの時です。今日、罪を悔い改めてイエス様のもとに来る者は、罪の赦しを受け、永遠のいのちと平安を得ることができます。 聖書においては、父なる神の怒りについては、多くのことを学ぶことができますけど、小羊の怒りについてはあまり多くの事を知ることができません。小羊の怒りということは、完全なる破壊を意味します。その愛からいのちを与えられたお方が、今怒っておられます。 もしも、主なる神の怒りを、私たちのために代わりに受けてくださったそのお方が、怒る時にいったい誰がこれに耐えることができるのでしょうか。 もし、そうであれば、すっかり駄目です。小羊が怒られる時には、もはや救いがないからです。 ちょうど逆のことを私たちは、ローマ人への手紙8章31節、32節において見ることができるんじゃないかと思います。 ローマ人への手紙8:31-32
イエス様が、我々の味方であれば、誰も私たちの敵となることができません。しかし、イエス様が我々の敵となるならば、誰が救いを与え、癒すことができるのでしょうか。小羊が怒られる時には、すべてがおしまいです。 2番目の質問は、誰に対して大勢の人が祈っているのでしょうか。山と岩に向かって彼らは祈っています。これはまったく空しい祈りです。イエス様の御名を呼び求める者が救われます。ただ、神の救い主のもとにのみ、救いがあるからです。 イエス様は、聖書において「岩」そのものと呼ばれています。今日もなお、イエス様に自分の支配権を委ねる人は、揺るがない永遠の岩の上に守られるのであります。けども、この人たちの山また岩に向かって熱心に祈りますが、けどもそれは全く意味の無い無駄なことです。 ちょうど初めの人間であるアダムやエバが、主の前から逃げようとした時のように、恐怖と不安とがこれらの人々を捕らえているのです。罪と良心の呵責とが、人間の主なる神の前から逃れさせるのです。罪が人間を臆病者に、そして神の前から逃げる者にさせるのです。 もしかすると、今日来られた方々の中で、主なる神の前を逃げているかもしれない。そのようなことを止めて悔い改めて、イエス様のもとに帰ってください。 イエス様こそが本当の逃れ場、逃げ場そのものです。イエス様は待っておられます。受け入れ、赦そうとされたいと望んでおられます。 3番目の質問は、将来おおぜいの人々は、何を祈っているのでしょうか。 「我々の上におしかかれ、私たちをかくまってくれ。」と祈っています。これらの人々は、主なる神の前に出るよりも、死のほうを望んでいます。彼らは、かつて自分の罪を認めようとしなかったのです。そして小羊の提供された救いを受け入れようともしなかったのです。そして今、小羊の怒りから逃れようとしています。 けど裁きと小羊の怒りとから誰も逃げることはできません。 ヘブル人への手紙9:27
神の裁きと小羊の怒りとは、恐ろしい恐るべき事実です。誰がそれに耐えられるでしょうかと将来の人々が叫ぶのです。 しかし、これは心からの問いかけではなく、単なる恐れから出た叫びにすぎません。誰も主なる神の裁きに入る時には、その裁きがどのようになるのかという疑問は持っていないのです。 なぜなら、小羊の裁きが正しいことは、すべての人は知っているからです。最後に短く3つの質問を考えてみたいと思います。 第1番目、私たちは、いつ祈るのでしょうか。 今、恵みと受け入れられる時に祈るのでしょうか、それとも恵みの時が過ぎ去り、すべてのものが揺り動かされる時に祈るのでしょうか。 イザヤ書55:6
第2番目、誰に向かって祈るのでしょうか。生けるまことの神に向かって、イエス様を通して、永遠の救いを提供しておられる主に向かって祈るのでしょうか、それとも後の日に、岩や山に向かって祈るのでしょうか。 第3番目、何を祈るのでしょうか。一時的なあなたの守りについて祈るのでしょう。それともあなたの不滅の魂のために祈るのでしょうか。永遠のいのちのために祈るのでしょうか。 今の時に「罪人の私をあわれんでください」と祈るのでしょうか。最も大切な祈りとは、それでしょう。「罪人の私をあわれんでください」その人の罪が主の流された血によって、おおわれている人だけが、その日には守られるのです。 詩篇32:1-2
イエス様は、今の時代にはなお救い主でありますが、しかし裁きの日には、救い主じゃなくて裁き主となります。 我々の生活の基礎は、いったい何なのでしょうか。その基礎がイエス様にある人は幸せです。 今日もなお、永遠の愛を持つお方の声が聞こえてきます。 詩篇2:12
イエス様を信じる兄弟姉妹にとって、来るべき真っ暗な裁きの日に対して、2つのことが言えるのです。 すなわち、私たちにとっては、まずまだ救われていない知り合いの人々のために、絶え間なく祈るということ、そしてその次に、それらの方々をイエス様の御許に連れてくるために、愛の労苦をするということこそ、要求されています。 |