引用聖句:テサロニケ人への手紙第I、4章13節-18節
確かに私たちは、将来のことは解かりません。明日のことでさえも解からないのは、愚かなどうしょうもない人間です。けども本当は違う、解かる。イエス様を信じる者は解かる。 今読まれたように「私たちは、いつまでも主とともにいることになります。」この特権について栄光について、いくら考えても的はずれです。 最も偉大である、最もすばらしいことであります。ですから、今いろいろなことで悩んでも近いうちに「いつまでも主とともになる」と考えると、希望が湧いてきます。前向き生活を送ることができるようになります。 今読んでもらいましたこのテサロニケ人への手紙第Iの4章には、やがて起こるべき大いなる出来事が記されています。それはイエス様が再び来られる時のことです。 私たちは、イエス様の再臨が確かにいつ成されるかについて、計算することはできません。いわゆる教会の歴史を見ると、かつていろいろな人が計算したんです。必ず何月何日に来る。ある人々はそれを信じて、銀行の金を全部おろして献金しました。後でだまされたと認めざるを得なかったのです。 計算したら駄目、けれども待つべきです。毎日、今日かもしれないと考えると、明日のことは別にどうでもいいんじゃないでしょうか。 その意味で、信じる者は本当に幸せです。将来のことは解かっている。私たちは、いつまでも主とともになることです。 主のみ最後の時をもちろんご存知です。イエス様の再臨がいかなるものであり、いかなる形で行なわれるかについては、もちろん無知であってはならない。知るべきです。そして、この4章をより良く知るために、パウロは書いたのです。そして他のパウロの手紙においても、聖書における時代区分を考えるべき、理解すべきなのではないでしょうか。 聖書によると、主なる神が特に強く働かれる場として、おもに次の3つに分けて考えることができます。 第1番目、いわゆる諸国民であり、 第2番目、イスラエルであり、 第3番目、主のからだなる教会です。 第1の場面は、アダムからアブラハムに至る全人類です。そのことについては、創世記1章から11章までに細かく記されています。5章と10章の系図によって、その時代がおおよそ2,000年間であったことが解かります。 第2の場面は、イスラエルの民です。しかし、それは主がアブラハムを召された時から始まったのです。アブラハムの召しについては、創世記12章に記されています。 主なる神は、絶えずイスラエルの民にご自身を現そうとなさいましたが、彼らは主に背き続け、最後には彼らの王である主イエス様を十字架につけて殺してしまったのです。アブラハムの召しからイエス様の十字架までも、おおよそ2,000年間ありました。 そして第3の場面は、教会であり、教会の誕生は五旬節に求められると聖書は言っています。 教会は、新しく生まれ変わることによって、ユダヤ人にも異邦人にも妥当するようになりました。 主の目的は、決して諸国民やユダヤ人にあるのではなく、まさしく教会を建てることであり、それによって多くの信者が集り、一定の数に達すると、そこで初めてイエス様の再臨が成就されるのです。 さらに、信者の数のみでなく、信者の成長をも、主は望んでおられることは言うまでもない。初めから計画されていた信者の数が満たされる時、主イエス様が天から下って教会と空中で出会い、一つになってくださるのです。 その時、すでに眠った先に召された信者も生きながらえている者と共に、引き上げられ、花婿である主イエス様と共に、婚姻の時を持つことができるようになります。 このようにして、教会が引き上げられた後、悪魔は非キリストといわゆる偽預言者とを通して、この世を支配するようになります。天上では、イエス様と信じる者との大いなる婚礼が成されていることに対して、この地上では、大きな患難と苦しみが支配するようになります。 しかし、このような悪魔の支配も、ハルマゲドンの戦いによって、終止符を打たれるのです。その時、地上では諸国民の大軍がイスラエルに攻め上ると聖書は言っています。 まさに、この時にイエス様が公に再臨なさるのです。始めは教会を迎えに、花婿として空中まで下って来られる主イエス様は、7年後で公に再臨なさる時には、今度は信者たちとともに、イスラエルの王として、また諸国民の裁判官として来られるのです。 その時、イスラエルに対して戦いを挑んだ諸国民の大群は、完全に撃ち滅ぼされ、イスラエルはイエス様を、自分の王として迎え入れるようになります。イエス様が、あらかじめ約束されていた千年王国が始まるのです。 しかし千年たった後で、悪魔はもう一度、力を盛り返し、しばらくの間だけ大軍を引き連れ、イスラエルに対して最後の戦いを試みるのです。しかしその時、天から火が下って、彼らはすべて焼き滅ぼされてしまうのです。 その後で、大いなる厳かな裁きが行なわれます。未信者は、大いなる裁判官の前に出なければならず、またすべて裁かれなければなりません。大きな判行を通して、新しい天と新しい地が出現すると聖書は、はっきり約束されています。 アダムからアブラハムまでが2,000年、アブラハムからイエス様までが2,000年、それからイエス様から今日までが約2,000年であり、イエス様が教会を迎えに、天から下って来られる日が、非常に近いことが解かります。 我々の持っているカレンダーとユダヤ人が持っているカレンダーとは違うのです。ですから、私たちは今2013年でしょと言うのです。本当は全然違うかもしれない。十何年間間違っている可能性が充分あります。 イエス様が、再び来られるということは、将来における非常に大きな出来事を意味するわけです。イエス様との出会いによって、すなわち新しく生まれ変わることによって、人間は新しい目的を持つようになります。 パウロの場合には、次のような言葉、すなわち「主よ。私は何をしたらよいのでしょうか。」「生きているのは、もはや私ではなく主イエス様である。」このような言葉によって、彼が、全く新しく生まれ変わったことが解かります。パウロは、後ろのものを忘れ、ただ前のものを目指して、力を尽くしたのです。 我々の目的は、イエス様ご自身、すなわち十字架につけられ、よみがえられ、再び来られるイエス様に他なりません。 信じる者の目的は、地上の生活をはるかに越えた所にあります。しかもイエス様は、将来すべてを支配してくださるのです。 イエス様はまもなく来ると約束してくださいました。ちょっとヨハネの福音書14章を見てみましょうか。 ヨハネの福音書14:2-3
すばらしい約束なのではないでしょうか。このイエス様の再臨の時こそ、信者たちひとりひとりが、心から切に待ち望んでいるものです。 イエス様の再臨こそ、信じる者にとって生き生きとした希望であり、信仰の光であり、イエス様に対する愛の原動力です。3つの質問について考えましょうか。 第1番目、この第4章の主な内容は、いったい何なのでしょうか。 第2番目、第4章に対しては、いかなる表題をつけることがふさわしいのでしょうか。 第3番目、イエス様が来られる時に起こる出来事は、どのような順序で成されるのでしょうか。 4章は2つに分けて考えることができるんじゃないかと思うのですけれど、前半は1節から12節まで、信じる者の清めであり、後半は13節から18節まで、信者の希望です。 もちろん清めと望みとは、密接に結びついているため、切り離すことはできません。 ヨハネの手紙第Iを見るとそれが明らかにされています。3章の2節と3節を見ると、ヨハネは当時の信じる者に、励ますため力づけるために書いたのです。 ヨハネの手紙第I、3:2-3
第2番目、第4章に対しては、いかなる表題をつけることがふさわしいのでしょうか。「生き生きとした望み」、あるいは「道と目標」、さらには多分「今日なった」という題をつけることができるでしょう。 しかし、ここではまず目標について考え、それから道について考えるべきなのではないでしょうか。 絶えず目標を目指している者にとっては、途中の苦しみや悩みはそれほど大きなものにならなくなります。 イエス様の再臨は2つのこと、すなわち第1に、教会のためにイエス様が天から下って来られ、空中まで迎えに来てくださることと、第2に教会と共に地上まで下って来てくださるということを含んでいます。 この第4章では、最初の事柄すなわち、イエス様が教会のために下って来られることだけが記されています。 このことについて、もう少し詳しく調べてみると、次のようなことが解かります。 何であるかと言いますと、すなわち第1番目の場合、イエス様は大きな患難の前に教会のため、空中まで下って来られますが、それを見る者は誰もいない。それから教会は、天に引き上げられるのです。 これに対して第2番目の場合には、イエス様が大きな患難の後に、イスラエルと諸国民のため、からだなる教会と共にこの地上まで下って来られ、その時にはすべての者が、はっきりと見ることができ、エルサレムのオリーブ山に下られるのです。 第3番目、イエス様が来られる時に起こる出来事は、どのような順序で成されるのでしょうか。 1番目、イエス様ご自身が天から下って来られます。 2番目、イエス様にあって眠っている人々、信じ先に召された人々が初めによみがえります。 3番目、生きながらえている信者は、引き上げられ空中で主に会います。 この3つの出来事について、もうちょっと考えてみましょうか。 1番目、イエス様ご自身が天から下って来られます。すなわちイエス様ご自身とは、全宇宙を創造され、旧約聖書で預言されたメシアであり、ベツレヘムでお生まれになって、最後に十字架につけられ、そしてよみがえられたお方です。 そしてまさにそのお方が、再び来られるのです。 パウロに現れてくださったイエス様は、取りも直さず十字架で死んでくださったイエス様に他ならなかったのです。いわゆる近代的な聖書批判と呼ばれるものは、イエス様の再臨を頭から否定しています。 いわゆる統一教会は、聖書に書かれているイエス様すなわち十字架につけられて、死んで復活なさったイエス様は、救い主ではなく、本当の救世主はすなわち、再臨されたイエス様は、別の人であることを言っているのです。 けれども、聖書ははっきりとイエス様ご自身は、やがて再臨され、しかもそのイエスが十字架の上で亡くなられたイエス様であると言っているのです。パウロはテサロニケの兄弟姉妹について、喜ばしい知らせを聞くことができました。テモテが信者について、良い知らせを報告したからです。 しかしながら、そのようなテサロニケの兄弟姉妹にも、死んだ人が何人かいました。これは本当に悲しい知らせでした。そのためにテサロニケの信者は悩み、かつ苦しみました。 異邦人が苦しむというのであるが、それは当然のことです。なぜなら異邦人は、本当の希望がないからです。 しかしながらパウロは、前に読んでもらいました箇所を通して、すばらしいことを宣べ伝えたのですね。 テサロニケ人への手紙第I、4:13
意味は先に召された人々、 テサロニケ人への手紙第I、4:13-18
最も良いものは、死んでからやって来る。主の恵みは決して死に終わることがない。 2番目、イエス様にあって眠っている人々、信じ先に召された人々が始めによみがえります。すなわち、キリストにあって眠った人々は、信者だけであり、死んだ人すべてがそうであるというのではありません。 キリストにあってということは、イエス様の血を体験的に知ったことを意味しているのです。 ある教会に属しているとか、洗礼を受けたとかいうことが大切なのではなく、イエス様を体験的に知っているかどうかが問題です。キリストにあってとは、イエス様の霊によって新しく生まれ変わったことを意味します。いわゆるよみがえりの書をちょっと見てみましょうか。すなわちコリント人への手紙第Iの15章、 コリント人への手紙第I、15:51-53
この箇所を見ると、その時ラッパが響き渡ると記されています。 有名な作曲家ヘンデルは、よく知られているメサイヤという曲の中で、この時の喜びと賛美とを声高らかに歌いあげているのです。 パウロも、イエス様と共にいること、すなわち死んでイエス様を見ることは、この地上に漫然と生きているよりは、はるかに良いと言っています。そこで死んだ人は、どのようにして復活するかという疑問は生じてくるでしょう。答えは、次のものです。 コリント人への手紙第I、15:35-37
コリント人への手紙第I、15:42-44
その時、信者は新しい栄光のからだを持って、よみがえると聖書は言っています。 人が死ぬと体と霊とが分かれます。信者の霊は、イエス様の御許に帰っていきます。だからパウロは、コリントにいる兄弟姉妹を励ますために書いたのです。 コリント人への手紙第II、5:8
そして体は眠るのです。肉体は栄光の体が出てくる芽のようなものです。死んだ体と復活する体との間には、一つの関係があります。それはちょうど、種とつぼみのような関係にあります。 イエス様がよみがえりの体を持って死の墓からよみがえられたと同じように、信者もよみがえりに体を持って、よみがえるわけですが、その瞬間、まさに決定的な瞬間であります。 我々の体は、イエス様と同じようによみがえりの体になるのです。 3番目、その時、生きながらえている人々に、何が起こるのでしょうか。 すなわち生きながらえている信者は、引き上げられて空中で主に会います。聖書は、彼らが雲に包まれて引き上げられ、空中で主に会うと答えています。 テサロニケ人への手紙第I、4:16-17
すばらしい考えられない栄光です。もう一箇所 コリント人への手紙第I、15:51-53
結局彼らは、エノクという男が経験したように引き上げられ、急に見えなくなります。 エノクについて聖書は言っています。 創世記5:24
しかも一瞬のうちに、そのように変えられるのです。この世の肉の体から栄光の体に変わるためには、一秒もかからないでしょう。その時には、もはや重力の法則が支配しないため、新しい体は引き上げられて、空中に登っていくのです。そして空中で主イエスにお会いするのです。それは、まことに恐るべき出来事であると言えましょう。 その時、地上にいる信者たちは、一瞬にして見えなくなってしまうのです。信者の父、母、子、従業員、運転手などは、いずれも瞬間にして見えなくなってしまうのです。このようにして、何千万人という信者が、急に見えなくなることは、未信者にとってまことに驚嘆すべきことです。 この時こそイエス様にとって、かねてから願っておられることが成就する時、すなわち小羊の婚姻の時であるのです。 ヨハネの黙示録19:7
その時かしらなるイエス様は、からだなる教会と一つになれるのです。そして、イエス様は彼らをご自分と共にいるように、彼らを御許に引き寄せてくださるのです。 イエス様は、そのためにもちろん考えただけではなく、祈りました。 イエス様の最もすばらしい祈りの一つは、ヨハネの福音書17章に出てきます。 ヨハネの福音書17:24
この大いなる出来事は、現在苦しみの世界に、将来新しい光を与えていただくまことの希望と望みです。 この将来における事実が、信じる者の信仰生活の中に正しく受け入れられる時、それは信者にとってまことの力となります。 したがって、私たちは望みのない人々のように悲しむ必要はありません。私たちには、そのようなことをする権利がないのです。私たちは、みことばによって、慰めと希望とを与えられています。 パウロは15節に「主のことばによって」と言っています。したがってそれは、決してパウロ自身の人間的な望みではありませんでした。また、それはイエス様のよみがえりから、パウロが自分で考えて作り上げられた結論でもありせん。 パウロは、主のみことばによって啓示を受け、その啓示によって奥義を明らかにすることができたんです。パウロの喜びの源は、みことばでありましたが、我々の場合もそうでなければなりません。 パウロが考えていたことは、決して現在の悩みや苦しみのことではなく、主と共にいてご臨在を覚えることに他なりませんでした。パウロは、「みことばを持って互いに慰め合いなさい」と言っています。 有名な音楽家であるバッハは、死ぬことについて作曲した時、それはすべて賛美と歓呼に満たされていました。彼は、死の谷を見ただけではなく、死んでから永遠に主と共にいることを確信していたからです。 もしも私たちが、一時間のうちに死ぬということが解かったならば、どうでしょう。不安と心配でおののくでしょうか、それとも賛美と歓呼に満たされるのでしょうか。 この間、ある若者の手紙を見つけました。内容は次のようなものです。 「主の恵みによって、結婚に導かれたことを主に感謝しつつ、新たな人生が主のために用いられるよう心から願っております。 『しかり、わたしはすぐに来る。アーメン、主イエスよ。来てください。』というみことばは、私たちの結婚指輪に刻むみことばです。 この結婚式と、これからの二人の結婚生活を通して、福音が宣べ伝えられ、主の日が早められることを願っております。 当初から姉妹は、指輪のみことばはこれが良いと言っておりましたが、私自身は彼女ほどの思い入れはありませんでした。 しかし、改めてこのみことばを思いかえした時、ここには信仰が凝縮されていると気がつきました。 第1に、主がみことばを語られた。第2に、ヨハネがみことばを、そのまま信じて受け入れた。第3に、ヨハネがみことばに基づいて、主に祈り願った。これこそまさしく信仰だと思いました。 主が語られたことをそのまま、素直に受け入れ同意し、そのみことばに基づいて祈る姿こそ、真のキリスト者の姿でしょう。 イエス様が迎えに来られることを真剣に祈り求めているかどうか、このことはキリスト者にとって、とても重要な事だと思います。 この結婚のお話をいただく前から、私はペテロの手紙第IIの3章12節のみことばが、よく気になっていました。 『神の日の来るのを待ち望み、その日の来るのを早めなければなりません。』 それゆえ彼はよく覚えていませんが、昨年1月に姉妹を紹介した日の前日に、実は私は自分の結婚について真剣に祈っていたんです。 イエス様が迎えに来られるのを早めるために、必要ならば結婚できますようにと、そのような祈りでした。 そして、その結果として主は、姉妹を紹介してくださいました。 改めて考えてみますと、この祈りから始まった私たち二人の結婚ですから、冒頭のヨハネの黙示録のみことばは、これからの結婚生活にふさわしいみことばなのだと思います。 私たちの結婚が、是非主の再臨のために用いられるようお祈りくだされば幸いです。」 |