引用聖句:ルカの福音書18章31節-43節
もし今日の題名は、「よく知っていた弟子たちと何もわからない盲人」という題名を付ければ、だれでもなるほどと思うのではないでしょうか。 けれど今読んだ箇所によると逆のことが書いてある。すなわち、何もわからなかった弟子たち、そしてよくわかった盲人について書いてあります。もう一回31節から見てみましょうか。 ルカの福音書18:31-34
イエス様が自分のこの世に来られた目的について話されたとき、弟子たちは何もわからなかった。ちょっと悲劇的なのではないでしょうか。 その後の節を見ると、一人の盲人について書いてあります。 ルカの福音書18:35
当時のイエス様はナザレのイエス様と呼ばれたのです。もちろん間違っていた。イエス様はベツレヘムのイエス様でした。ナザレのイエス様ではなかった。けれど当時の人々はそう思った。 彼らは何もわからなかった。わかったのはあの盲人です。 ルカの福音書18:38
「ダビデの子のイエス様。」結局、約束された救い主であるイエス様、と叫んだのです。必ずいつも聞かれる祈りです。「私を憐れんでください。」 彼を黙らせようとして先頭にいた人たちがたしなめたが、盲人はますます、「ダビデの子よ。私をあわれんでください。」、と叫びたてた。「あなたはできる。期待してます。」、結局イエス様の弟子の一人となった。 もう一か所ちょっと見てみましょうか。同じ人についての、マルコの福音書10章、これもよく知られている箇所であります。マルコの福音書の中で、この節は一番大切な節です。 マルコの福音書10:42-52
解放され、喜びに満たされた。イエス様の弟子になりました。このバルテマイについてちょっと考えたいと思います。 彼はマルコの福音書に出てくる病人の中でも、ただ一人名前のわかっている病人です。イエス様は数えられない多くの病人を癒しましたけど、名前はわかっていない。このバルテマイの名前だけはっきりわかってます。 恐らくこの盲人の態度は、弟子たちにとって非常に印象深かったから忘れることができなかったのです。 このバルテマイについて、3つのことが考えられます。第一番目、イエス様がいなかったときのバルテマイ。二番目、イエス様のそばにいたバルテマイ。そして三番目、主イエスに従ったバルテマイであります。 まずはじめに、イエス様がいなかったときのバルテマイについて考えるともちろんわかります。すなわち我々人間にとって一番大きな苦しみは、イエス様と共にいることのない状態です。バルテマイにとっても、イエス様に出会わなかったことは一番大きな問題でした。 彼にとってイエス様が共におられないことは、癒しと救いの希望がないことを意味していました。そして、癒しと救いの希望のないことは、喜びと平安のない恐るべき人生を意味します。 ここに出てくるバルテマイの動作を表す動詞を見ると、彼のことについてよく知ることができます。 46節、道端に座っていてこじきをしていた。47節、彼はイエスだと知って、そして叫びだした。48節、彼はますます激しく叫び続けた。50節、彼は上着を脱ぎ捨てた。そして52節、彼は見えるようになり、主イエスに従っていった。 これらの動詞を見ると、バルテマイの人生の歩みが要約してわかります。 初めは盲人のこじきであったバルテマイが、最後は見えるようになってイエス様に従っていったのです。これはなんという違い、言い表せないコントラストと示されていることなのではないでしょうか。イエス様との出会いによって彼の人生そのものは、喜び、平安、そして目的を持つものとなりました。 どのようにして、そのようになったのでしょうか。まず第一に彼はイエス様のことを聞きました。疑いもなく彼はイエス様のことについて、もっと多くのことを聞きたかったに違いない。 色々な人の噂を通して、彼は主イエスが比類ないお方であり、不可能なことは何一つなく、彼をも癒すことができると思うようになりました。 彼の心には、主イエス様は救い主であられる、約束された救い主であるという確信が強くありました。約束されたメサイアについては、メサイアが盲人の目を開くことができると予言されました。イザヤ書42章を見ると次のように書かれています。 イザヤ書42:6-7
第二に、バルテマイはイエス様を100%信頼し、心から信じていました。人々はみなイエス様のことをナザレのイエスと語り合っていましたが、バルテマイがイエス様と出会ったとき、ナザレのイエスと言わなかった。 ダビデの子イエスよ、と叫んだのです。すなわち、ダビデの子とは約束された救い主という意味です。 バルテマイはイエス様に向かって、ラボニすなわち「主よ」と言いましたが、同じ主を表すラピよりもはるかに尊敬の念を込めた意味での主、すなわちラボニという言葉を使ったのです。 第三に、バルテマイはただ単にイエス様の噂を聞いたり信頼を寄せただけでなく、どうしてもイエス様をイエス様ご自身を体験的に知りたいという止むに止まれぬ気持ちが強かったんです。 ですから、彼は叫び、かつますます激しく叫び続けたのです。 彼の全生涯は助けを求める叫びそのものでした。それは、ささやきではなく叫びだったのです。私はイエス様の御許にいかなければならない、そういう気持ちでいっぱいでした。 48節を見ると、彼は激しく叫び続けるので多くの人々が彼をしかった。黙らさせようとしたが、だめでした。どうすることもできませんでした、と記されています。 50節を見ると、彼は上着を脱ぎ捨て、躍り上がって、できるだけ早くイエス様の御許に行こうと一生懸命だったんです。彼の悩みは、群衆を恐れる恐れよりもはるかに大きく、かつ深かったため、必死にイエス様のところへ走っていったのです。 彼は上着を二つも持っていなかったでしょうけど、彼にとっては上着のことなどどうでもよかったのです。 彼は一番大切なこと、すなわちイエス様の御許に行くということを行ったのです。その時彼は人々が「喜べ、立て。お前を呼んでおられる。」と叫ぶのを聞きました。 バルテマイ以外は誰も呼ばれなかったんです。なぜイエス様は彼だけに呼び求められたのでしょうか。それは、彼だけが心から助けを求めたからです。正直な心を持って主イエス様を呼び求める者に対して、必ずイエス様は答えてくださいます。 バルテマイは主の招きにしたがって、御許にやってきました。盲人はイエス様のところに行く道を見出すことができたのです。そして、このことが彼の人生の転換点となりました。イエス様のところに来る者は、まったく新しく作り変えられた者になります。イエス様がいなかったときのバルテマイ。 2番目、イエス様のそばに来た時のバルテマイについてちょっと考えたいと思います。 イエス様は絶望した盲人に向かって、私に何をして欲しいのか、と尋ねられました。「私に何をして欲しいのか」。いかなる権威と崇高なる者が、このような問いを発することができるのでしょうか。 「主よ、見えるようになることです。」と盲人は答えました。この答えの中には決して揺るぐことのない確固、不動たるものがありました。そのような態度には必ず報いがあるものです。 その瞬間彼は見えるようになり、イエス様がじっと、彼の新しい世界が開かれたのです。その時彼はその日もらったお賽銭や今まで持っていた杖また上着のことはすっかり忘れてしまいました。 それから彼のおるところは道角ではなく、イエス様のおそばであることを知りました。そして、その時彼ができたことはイエス様に従っていくことだけでした。イエス様の御許にいること、そしてイエス様に従っていくことは彼の切なる願いであり、望でした。 イエス様と出会い知るようになったから、彼の闇はすべて消え去りました。解放された。イエス様の御許にいるときには、全てのことが満たされているということをこの盲人は身を持って体験したのであります。 ドイツの一つの歌を紹介したいのです。次のような歌です。祈りでもあるし、告白でもあるし、証しでもあります。 主イエス様、私は今本当の心の憩う所があなた様ご自身の中にのみあることを見出しました。 多くの悩みののちに、全き平安を得ることができた。 私は長い間安らぎと幸せを探し求めてきました。 しかし、それをあなたに求めることをしませんでした。 それなのに、あなたの愛が私の心を捕えて下さり、今や私はあなたのものとなりました。 この世の快楽の泉はむなしく、誰も満ち足らせることはできない。 しかし、あなたの命の泉を飲む者は決して渇くことがない。 あなたは私の目を開いてくださり、それほどまでも私を愛して下さる。主イエスよ。 あなたはご自身の命を私に与えて下さり、すべてを新しく作り変えて下さった。 私の心は感謝と喜びに満ち溢れ、やがて父の家であなたと共に新しい歌を歌う時まで、私はあなたを昼も夜も賛美し続けます。 私を満ち足らせて下さる方は、あなた以外にこの世にはいません。 私はこれほどまでに私を愛して下さるあなたの中にのみ、本当の喜びを見出すことができる。 そのように、かつては盲目であるバルテマイは、今や喜び勇んで主イエス様に従っていく者に変えられました。 同じようにいうことの出来る者は誠に幸せなのではないでしょうか。 最後にイエス様のことについて、ちょっと考えたいと思います。 簡単に考えてみると言えます、もちろんいつもそうであると同じように、ここでもイエス様は中心人物です。イエス様の動作を表す動詞を見ると、前に読みました49節ですね。「イエスは立ち止まって、彼を呼べと命じられた」。51節「イエスは彼に向って言われた。私に何をして欲しいのか」。52節「イエスは行け、と言われた」。 イエス様は一人の哀れな乞食が叫ぶのを聞いて立ち止まりました。そのときイエス様は、ご自身の生涯の中で最も大切な道を歩んでおられました。すなわち、エルサレムに向かうときでした。殺される道でした。 その途中で彼は一人の乞食の叫びを聞きました。その時イエス様は、私はもっともっと大切なことをしなくちゃいけないと言って歩み去ることは、しなかったのです。立ち止まられた。 それがイエス様でなくて、もしも皇帝や皇太子だったならば、乞食の叫び声などは耳を聞かさず通り過ぎてしまったことでしょうけど、イエス様はそうしなかった。立ち止まられました。 この世はすべてイエス様によってイエス様のために造られました。すべての権威の力はイエス様にあり、王の王、主の主であられます。そのお方は一人の哀れな盲目の乞食のために立ち止まりました。 イエス様はただ単に立ち止まって乞食の叫び声を聞いただけではない。全人格を持ってこの乞食に立ち向かわれました。 イエス様はこの乞食の願いが何であるか、もちろん聞かなくてもわかったんです。けれどそれにもかかわらず、何が欲しいのかとお聞きになられました。それは、罪人は正直になり助け求め、そしてそれによってその人の信仰が現れることを待ち望んでおられたからです。 イエス様はどういうお方でしょうかね。光です。しかし、その他の者は暗闇であり、望み無き者です。特に盲人は何も見ることができず、逃れ道を見出すことはできなかったのです。本当にみじめです。 そしてイエス様は力だけでなく、道です。そして盲人は道を見ることができません。盲人は街かどで物乞いをするように定められており、そのほかのことは何もできません。またイエス様は命そのものです。そして盲人は生きる望みを持たず、もはや明るい希望を持つことができません。 これら両者は両極にあって、互いに相容れない関係にありました。そうであるがゆえに一つにならなければならなかったんです。 彼の住んでいた町はエリコでした。旧約聖書を見るとわかります。エリコは呪われた町だった。このエリコという町だけではなく、バルテマイもなんら祝福されることがなかったのです。彼はぼろぼろで疲れ果てており、喜びや希望をまったく失ったのです。 彼は働くこともできないし、生きる目的、人生の目標を持っていなかったのです。なぜこのような苦しみがあったのでしょう。なぜならばイエス様が共におられなかったからです。 さきほども申しましたように、そのときイエス様は死の犠牲を捧げるためエルサレムに向かう途中にありました。エルサレムの宗教家たちはイエス様に対して霊的にまったく盲目でした。 バルテマイはその反対でした。確かに彼は盲目でしたが、自分が盲目であることを知っていました。それだからこそ彼は真剣に祈り、癒されました。 イエス様を受け入れようとしなかった人々は、自分たちはオーケー、すなわち自分たちは見えると言い張ったんです。けれど実際彼らは盲目でした。ヨハネの福音書9章を見ると、イエス様はこの事実について次のように言われました。 ヨハネの福音書9:39-41
実際は見えない者が見えると思い込んでしまうことが、ちょっと考えられない、恐ろしいことなのではないでしょうか。けれど盲目であることを知って心の目で真の光を見る者には、なんという恵みと祝福とが与えられることでしょうか。 私たちは我々の人生にとって一番大切なことを要約していうと何であるということができるのでしょうか。ある人が東大で勉強し博士になり、やがて名誉教授となって文化勲章をもらうと、大体の人はたいしたもんだと思うでしょう。 それも確かに人生の歴史でありますけど、それがすべてとなって終わってしまうならば、ほんとに憐れむべきものです。私たちはみな、イエス様に出会ったのでしょうか。 イエス様について聞いたとき、結果として何を祈ったのでしょうか。もし祈らなかったなら、どうか今日そのようにしてください。イエス様はバルテマイのときとまったく同じように、立ち止まってあなたの祈りを聞かれるに違いない。 イエス様について聞いたものは心静めて、静かに考え、主になんとお答えしたらよいかを祈らなければなりません。 誰でも彼でもイエス様のもとに行って目が見えるようになりイエス様に従っていくことができるならば、ほんとに幸いなのではないでしょうか。 |