引用聖句:コリント人への手紙第II、11章23節-28節
ご存知のように、パウロは、多くの手紙を書きました。だいたい人々を励ますため、「置かれている状況はどうであれ、イエス様から目を離さないでいなさい」これはおもにパウロの書いた目的でした。 けれども例外があります。このコリント人への手紙第IIとはちょっと違う。彼は、なかなか言えないことを正直に告白するようになりました。 今読んだ箇所を見ても、大変だった。散歩ではなかった。厳しい戦いそのものでした。 パウロのたぶん一番初めて書いたものとは、テサロニケ人への手紙です。第1章については、生き生きとした教会について書かれています。そして生き生きとした証しをしている時に、その教会は、本当の意味で生き生きとしていることが解かります。 2、3週間のあいだ、十字架につけられよみがえられたイエス様の福音によって、比較的多くの人々は、聞く耳を持っていただけではなく、新しく生まれ変わったのです。 考えられない奇跡です。 彼らは、新しい人間になっただけではなく、お互いに結びついて、一つの群れを作り上げました。今までは全く無関係で、いろいろな意味でばらばらだった見ず知らずの人たちが、心を一つにして一同に愛されるようになりました。 ユダヤ人も異邦人も、内住の聖霊によって、一つのものとなりました。 生き生きとした教会は、まさに生ける主なる神の奇跡の御業によって造られたものです。 本当に生き生きとした教会は、決して形式的な組織ではなく、真の力、すなわち内住の聖霊による一致を持っているものです。 教会は、共通の課題と一つの目標を持っているのです。どのようにして、このような生き生きとした集会が発達し、どのようにして、パウロが大いなる働きを成すことができたのでしょうか、という疑問に対して、この第2章は、はっきりとした答えを与えています。 4つの質問についてちょっと考えたいと思います。 第1番目、第2章については、いかなる表題をつけるのでしょうか。 第2番目、パウロまた同労者の生涯の目標は、いったい何だったのでしょうか。 第3番目、パウロと同労者がいかに働いたのでしょうか。 第4番目、彼らの奉仕の働きが、いかなる影響を及ぼしたのでしょうか。 第2章については、いかなる表題をつけるのでしょうか。忠実なイエス様の僕たちにとっては、イエス様の再臨は、力づけ勇気を与える望みを意味しているということができます。 もっと簡単に言うと、パウロの祝福に満たされた奉仕ということができます。さらに簡単にいうと、空しくなかったとつけることができるのではないでしょうか。 一人の人間の生涯について、空しくなかったと言うことができれば、本当に幸いなのではないでしょうか。 軽井沢には、いくつかの墓地がありますが、その中に次のような言葉が刻まれた墓があります。「我々夫婦は、共に軽井沢を心から愛する」 結局この言葉は、まだ生きている人々に対して、言おうとしたものです。したがって、これはまことに空しかった人生と言えます。 けれども、パウロの奉仕と生涯について考えると、それは決して空しくなかったのです。 この第2章は、2つに分けることができます。まず1節から12節までの間に、パウロは自分の働きと同労者について述べています。 ここでパウロは、何回も何回も「私たち、私たち」という言葉を使っています。 テサロニケ人への手紙第I、2:1-12
それから第2番目ですね。 13節から20節を見ると、パウロは働きの結果、またテサロニケの集会や迫害する者について語っておられます。 そしてその場合に、今度は「私、私たち」じゃなくて「あなた方、あるいは彼ら」という言葉を用いていますね。 テサロニケ人への手紙第I、2:13-20
第2の質問は、パウロまた同労者の生涯の目標が何だったでしょうか。 彼らの人生の特長であり、もっとも大きな影響を及ぼしたものは、まさに福音であったのです。それですから、福音ということばが何回も何回も繰り返して出て来るのです。 テサロニケ人への手紙第I、2:2
福音とは、もちろん一つの教えではない。イエス様です。 テサロニケ人への手紙第I、2:4
テサロニケ人への手紙第I、2:8-9
福音を通して救うことができ、主なる神の力を体験した者は、福音を委ねられた者です。 「私たちは神に認められて福音を委ねられた者ですから、それにふさわしく、人を喜ばせようとしてではなく、私たちの心をお調べになる神を喜ばせようとして語るのです。」 これこそ、あらゆる信者に与えられている使命なのではないでしょうか。 私たちは、罪の世界に住んでいるのです。私たちの周囲は、荒れ果てたように見えます。私たちの周囲にいる人々は、荒野で水を求めている瀕死な人々に似ています。私たちはどこに泉があり、どこに救いがあるかを知っています。それですから、私たちは水を求めている瀕死の重病人を、泉の所に導いて行く責任と義務とを持っている者です。 福音によって、パウロと同労者たちとの信仰と確信は、弱り果てることなく、反対に力づけられ、水を求めて迷っている人々にいのちの水、すなわち救いの井戸を、力強く宣べ伝えたのです。 彼らは、自分自身の思いや考えを宣べ伝えたのではなく、ただイエス様だけを宣べ伝え、紹介したのです。自分たちの誉れではなく、イエス様の誉れだけが一番大切だったからです。 第3の質問は、パウロと同労者がいかに働いたのでしょうか。 この2章においては、「何何ではなく、何何である」という表現が何回も出て来ることに注意したいと思います。 たとえば、「無駄ではなかった、だまし事でもない、人間に喜ばれるたためではない、へつらいの言葉を用いたこともない」 テサロニケ人への手紙第I、2:4
テサロニケ人への手紙第I、2:8
パウロと同労者の奉仕が、いかなる性質のものだったでしょうかという問いに対する答えは、この1章ではっきり答えられています。8つの事実について、書かれていますね。 2節を見ると、彼らの働きは無駄ではなく、実りの無いものではなかったこと解かります。2節を見ると、激しい祈祷にかかわらず、神に勇気をあたえられて、力強く神の福音を語ったことが解かります。3節を見ると、彼らの宣教が決してだまし事ではなく、公明盛大なものであったことも解かります。 4節から6節までを見ると、彼らの奉仕の目的が、ただ主なる神の栄光のためであったことが解かります。自分のために、ある団体のために、またある組織のために、自分の力で自分中心に働く者は、まことにあわれむべき信者です。 第5番目、7節から9節までを見ると、彼らが優しくふるまい、また慕わしく思っていたと記されています。 第6番目、10節から12節までを見ると、彼らの生活が単なる言葉ではなく、力強い証しであり、彼らの奉仕がこの聖なる清い生活によって成されていたのです。 第7番目、13節から18節までを見ると、彼らの奉仕の働きは、みことばを生ける主なる神のことばとして受け取ったゆえに、大成功を収めたことが記されています。 そして8番目、19節から20節を見てみると、彼らは奉仕をする時に、絶えず主イエス様の再臨に視線を合わせ、待ち望む信仰を堅く持っていました。 要するに彼らは、ちょうど母がその子供を育てるように、あるいは父がその子に対してするように、信者一人ひとりに対して力の限り配慮したのであります。 7節と11節を見るとわかります。 テサロニケ人への手紙第I、2:7
テサロニケ人への手紙第I、2:11
今日、パウロと同じように、このようにして奉仕をする者は、当時と同じように豊かな実を結ぶことを体験することができ、そのような奉仕によって初めて生き生きとした教会が生まれます。 またパウロと同労者たちとの働きによって解かることは、福音の宣教が命をかけるに値するものであるということです。 テサロニケ人への手紙第I、2:8
パウロまた同労者たちが宣べ伝えた福音の本質は、主なる神が御国とその栄光とに、我々人間一人ひとりを召してくださったことです。 そのため、私たちはそれにふさわしく主の御心にかなって歩くように導かれているのです。 テサロニケ人への手紙第I、2:12
パウロと同労者との特長とは、いったい何だったでしょうか。それは、無私、無欲の心と喜んで苦しみを受ける覚悟と愛に満たされた真心でした。 彼らは、決して自分自身のことを大切に考えず、絶えず兄弟姉妹が清められ、成長することを願ったのです。 彼らは、ちょうど親が子供を育てるように、兄弟姉妹一人ひとりのために配慮したのです。彼らは、つまづかないように、またいつも主のそば近くにいるようにと心から願いました。 最後に第4の質問、すなわちパウロと同労者たちの奉仕の働きが、いかなる影響を及ぼしたのでしょうか。 私たちは、今までに福音がいつも周囲の者に対して、二面的な効果をもたらすということ、すなわちそれを受け入れるか拒むかのどちらかであることを見てきました。 13節を見ると、テサロニケの兄弟姉妹は、宣べ伝えられた福音を主のことばとして受け取ったことが解かります。そして、これこそ彼らが、パウロと同労者たちに対して、心からなる感謝をささげた理由でした。 テサロニケ人への手紙第I、2:13
14節を見ると、テサロニケの兄弟姉妹は、主のみことばを受け入れただけでなく、主なる神の諸教会にならうものとなり、苦しみや迫害をも喜んで受けたことが解かります。 彼らは、多くの使徒たちと同じように、イエス様の弟子が誤解され、迫害されなければならないという事実を、身を持って体験しました。 テサロニケ人への手紙第I、2:14
それから20節を見ると、テサロニケの兄弟姉妹こそ、実にパウロと同労者たちとの誉であり喜びであると記されています。 これこそ、パウロと同労者たちの働きの結果でした。 テサロニケ人への手紙第I、2:20
今日でも同じように、みことばに対して心開き、それを受け入れて信じる者には、永遠のいのちが与えられているのです。 我々の大部分の人が、自分の罪が赦されており、主なる神との平和を持っているということを体験的に知っているのです。しかし、そのような信者であっても「あなたこそ、実に私の誉れであり、喜びである。」と言われる人の数は少ないのではないでしょうか。 いったいどうしてでしょうか。 テサロニケの信者たちは、みことばを受け入れ、激しい祈祷を通して、主の諸教会にならう者となりました。彼らの信仰が、苦しみや悩みを通して、ダメになることではなく、一層しっかりとしたものになったんです。 彼らは、意識的に見えるものではなく、見えないものを見たのです。彼らは、日常生活においても、無私、無欲の献身的な生活に忠実に従いました。 このようなわけで、彼らはパウロと同労者たちの誉れとなり喜びとなったのです。そして、パウロと同労者たちの伝道活動、福音の宣教の土台を成しているものは、まさに主のみことばだけであったことが解かります。 主のみことばを受け入れるところには、いのちがあり、それを拒むところには、憎しみと争いとがあります。 テサロニケの兄弟姉妹は、みことばを空しく聞くことはなかった。彼らは、みことばを通して、主の声を聞きました。聞く耳があった。「主よ。語ってください。しもべは聞いております。」という態度をとったのです。 結局彼らは、みことばを通して主が一人ひとりに語りかけてくださることを、確信したゆえにそのような信仰を持ち続けることができたのです。 ところが、このようなテサロニケの兄弟姉妹とは反対に、大部分のユダヤ人は、みことばを空しく聞くに留まってしまいました。 そのようなユダヤ人たちは、多くの預言者たちを殺したにもかかわらず、イエス様を十字架につけ、さらにパウロをも迫害したのです。 みことばを空しく聞くこととは、まことに悲劇です。私たちも、多くのみことばを聞きましたが、それは空しく終わってしまったのでしょうか。それとも空しくはなかったのでしょうか。 テサロニケ人への手紙第I、2:13
すなわち、主のことばは信じているあなたがたのうちに働いているのです。すなわち、主のことばは働くことを望んでおられ、実際働くことがお出来になるのです。その生きた証拠は、とりもなおさず、生き生きとしたテサロニケの教会でした。 このように、みことばが我々の心の内に宿り、働くことがお出来になるかどうかということは、非常に大切な問題です。もう一箇所読んで終わります。 イザヤは、主の口として宣べ伝えました。 イザヤ書66:2
結局、主を恐れる恐れを持つことこそが要求されています。 |