死は終わりではない-聖書からのメッセージ


ベック兄

(麗澤大学社会人講座、2014/01/24)

何十年ぶりに、またここまで来ることができたのは本当に感謝です。いつ初めて来たのかは綺麗に忘れました。けれども毎週ここまで来て、ドイツ語を教えたんです。
学校の創設者の特別な許可を得て学校の図書館でいつも使いなさい、学生たちにイエス様のこと紹介してもらいたい、そこまで言われたんです。ですから非常に楽しかったし、蒔いた種はいつ刈り取るようになるかはわからないけれども、無駄ではなかったことを確信しています。
今日の言われたテーマは「死は終わりではない」。

13年前だったんですけれども、9月の11日、アメリカでとんでもないことが起こってしまったのです。急に数えられない人々は結局殺されてしまいました。このニューヨークの消防署で書かれた言葉があるんです。

No Farewell Words Were Spoken.
No time to say Goodbye.
You were gone before we knew it, and only God knows why.

誰も別れのことばを話しかけなかった。
さようならを言える暇もなかった。
私たちは知る前にあなたがたは召された。どうしてかということは主なる神しかわからない。

そういう文章が公けになったのです。結局、どうして、なぜと考えても、答えられる人間はいない。
一番危ないのは宗教的な考えです。不幸を経験すると、宗教は必ずあなたはわがままだったから、おじいちゃんも変なことやったから、天罰だよと言います。嘘です。
人間を罰する神はいないんですって。これは聖書の言わんとすることです。どうしていないかと言いますと、必要ないからです。イエス・キリストは人間のわがままのゆえに罰せられたから、人間を罰する神は存在していない。これこそすばらしい事実じゃないでしょうか。この事実に基づいて前向きに生活することができるのです。

二千何百年前でしょうか、イザヤという預言者は次のように書いたのです。

イザヤ書12:2
2見よ。神は私の救い。私は信頼して恐れることはない。ヤハ、主は、私の力、私のほめ歌。私のために救いとなられた。

こういう確信をもつことこそが最高の幸せなのではないでしょうか。聖書を通して提供されている救いとはいったい何でしょうかネ。
先ず、罪の問題の解決です。人間はみんなわがままです。過ちを犯す者です。そして、罪滅ぼしのために、結局人間は何も出来ません。罪は赦された、忘れられたと確信することがイエス様がもたらされた救いの結果です。
それだけではなく、まことの救いは孤独からの解放です。人間はみな寂しい。もう少し大切にされてもらいたい。愛されてもらいたい。まことの救いは孤独からの解放です。ちょっと寂しいけどひとりぼっちではない。決して私から離れず、私を捨てないという確信が、イエス様の救いを受けた結果なのではないでしょうか。

それから、まことの救いとは「死」を恐れる恐怖からの解放です。多くの人々は確かに死について考えたくない。けれど、どうせいつか死ななくちゃいけないでしょう。
諺があるんですネ。「備えあれば憂いなし。」、安心して希望をもって「死」に向かうことができなければ、今の人生は空しい。
けれども、「死」を恐れる恐怖からの解放こそが、イエス様を通して提供されている救いです。聖書の中で次のような言葉があります。

「死よ。おまえの勝利はどこにあるのか。死よ。おまえのとげはどこにあるのか。」、しかし神に感謝すべきです。神は、私たちの主イエス・キリストによって、私たちに勝利を与えてくださいました。
こういうふうに心から言える人は本当に幸せなのではないでしょうか。
あるドイツの出版社の息子はテレビ局の方に次のように聞かれました。

「あなたにとってもっとも大きなショックとは何でしょうかね。癌になることですか。全財産を急に失くすことでしょうか。あるいは一生涯車椅子の中で生活をすることでしょうか。」
あの息子の答えはちょっと不思議な答えでした
「もし神がおられたら、それこそ考えられないほど恐ろしいことです。」

主なる神がおられれば、「死」は終わりではない。そうすると必ず死後さばきを受けることになるからです。
結局、天国か地獄かのどちらかです。確かに地獄、すなわち永久的に光の見えないこと、平安なし、喜びなし、希望なしに永遠に存在することとは考えられないほど恐ろしいことです。
天国について聖書は言っています。

ヨハネの黙示録21:4
4もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない。

本当に来たるべき栄光はすばらしいものです。ですから聖書は簡単に言っています。「今の時のいろいろの苦しみは、将来私たちに啓示されようとしている栄光に比べれば、取るに足りないものと私は考えます。」
今苦しい、辛い、どうしたらいいかわからないけれど、それはおしまいではない。
私の知り合いの方、色々なこと経験しました。先ず奥さんは癌になって召されましたし、そして、彼も何十年後ですけど同じく病気になりました。自分の葬儀のために彼はある小冊子を作ったんです。はじめの文章は、

「本日は私の昇天式にお集まりくださいまして本当にありがとうございます。」
前夜祈祷式と葬儀に出た人々はもう七百人以上でした。私もはじめて彼に出会ったのは、もちろん何十年前だったんです。出会った場所はある病院でした。きっかけになったのは彼の奥さんの病気でした。お二人は、その日イエス様しかないと思うようになり、イエス様を信ずるようになりました。
それから、お二人はともに悩み、ともに祈るようになりました。あきらめる必要はない。人間だって、歳のため、病気のために死にません。創造主が呼ぶまで心配しなくてもいい。

別の時だったんですけれども、見舞いに行ったとき、あの奥さんはご主人である方に向かって、次のように言いました。「病気になったのは良かったね、お父さん」
彼の答えは「あなたのおかげです。」、その意味は、もし病気にならなかったなら、救いを求めようとしなかったし、救い主に出会わなかったにちがいない。そうすると、まことの喜びなし、本当の平安なし、希望なしで存在しなければならなかったにちがいない。だから、病気になったのは良かった、と奥さんは言えたのです。
結局、永遠のものを得るようになったからです。彼は次のように書いたことがあります。

「もし、聖書を知らなかったら、苦しみや悲しみにさいなまれ、運命を呪ったことでしょう。イエス様を信じて妻は死の恐怖から解放され、私の生き様が変わりました。今は再び天国で妻とめぐりあえる喜びと主のみこころと愛に感謝の気持ちです。」
今から多分34年前に、うちの娘リンデという女の子は、癌になりました。20歳で天に召されたのです。この娘はイエス様のために実を結びたいと切に願っていました。自分の健康や自分の幸せは枝葉のことでした。ただイエス様だけが栄光をお受けになる時、私は嬉しい。これこそ娘の態度でした。
そして、この証しは実を結ぶようになったのです。多くの人々は、イエス様を求めるようになり、イエス様をたずね、イエス様に出会うようになったのです。

ドイツで、一人の方は私に尋ねてくれました。そして次のような質問をしました。リンデがそんなに喜んで死ぬことができたのはいったい何だったの?
そして彼女が、そんなにもこの世から離れて、目に見えるものに関心をもたず、目に見えないものに関心を持ったのはいったいどうしたんでしょうか?
娘は次の文章を書きました。亡くなってから、彼女の聖書の中で見つけた文章です。「人格者とは死を直視することができる人です。」

ある人は死後の問題は死んだときに初めてわかることであって、この世で生きている間はそんな問題に煩わされない方がいいと考えています。
そのような考え方について私たちはいったいどのような態度を取るべきなのでしょうか。
確かに「死」についての人間の考え方は色々違っています。一般に、「死」について何か話そうとすると嫌な顔して、それを拒む人が少なくない。

太陽王と呼ばれた有名なフランスのルイ14世は葬式の列が通るのを見た時、すぐ「カーテンを閉めろ」と命令した、と伝えられています。
彼は、ご存知のように自分が望むものは何でも持っていました。名誉も地位も財産、その他あらゆるものを手に入れた有名な王でした。けれど、彼が一番嫌ったものが、正に「死」だったのです。
ドイツの偉大な詩人であり政治家でもあったヴォルフガング・ゲーテという男も「死」を嫌ったため、非常に親しい人の葬式にさえも出席しなかったのです。

多くの人はいろいろなことについて計画的に考え、その計画にしたがって行動しようとしますが、「死」に対しても同じように考えようとすると、もう滅茶苦茶になって何の計画も立てられなくなってしまうため、「死」のことに対しては頑に眼をつむってしまうのです。
そして、彼らは生きている限りはできるだけ楽しみたいという強い願いを捨て切ることができないのですけれども、悪魔はそのような人々にささやいたり、「死」のことについて深刻に考えることをやめさせたり、あるいは目を眩ませて享楽的な生活へと誘惑して、絶えず悪の罠に引き込もうとしているのです。
けれども、実際問題として考えると、実際は以上に述べたことは違った結果を示しています。すなわち、毎日この国で一時間ごとに少なくても二十四人の人々が交通事故で死んでしまいます。そしてまた第一と第二の世界大戦の、二度にわたる世界戦争では八千万人の人々が殺されてしまったのです。この国で毎年大体四千人以上の社会人が命を捨ててしまいます。残された家族の悩み、また苦しみはいかなるものでしょうか。

「死」とは否定することの出来ない事実ですから、「死」について真剣に考えようとしない者は愚かであると言わざるを得ません。
たとえばロメオという島で非常に珍しい儀式、ひとつの習慣があります。すなわち、それは結婚式の時に新郎と新婦との間に死んだ人の頭蓋骨を置くという風習です。その意味するところは、人生でもっとも幸福なときに死を忘れないようにということであると言われています。
冷静な人は誰でも「死」がすべての終わりを意味するのではない、ということを認めざるを得ません。主なる神によって造られた人間の人生の目的が「死」によってピリオドを打たれるとはどうしても考えられないからです。

働いている者は必ず何かの目的をもってます。もし、大工さんが無計画に目的なき家を建てるようなことがあったとしたなら、それこそ全く意味のないことです。仕立て屋さんが布を裁断して洋服を作る場合に、必ずはっきりとした目的をもっていることとは言うまでもありません。意味がなく、目的がなく、計画がなければ、誰も働くことができません。
したがって、全能なる主なる神が人間を創造された時にも、はっきりとした一つの目的をもっておられたことは明らかです。主なる神は、決して人間の「死」や滅びを望んでおられるのではありません。主なる神は、人間が生きることを望んでおられます。
したがって、私たちは「死」のことについて考える時には、「死」そのものだけを思い出すのではなく、死後に来るものに注意を向けなければならない。ちょっと6つの点について簡単に一緒に考えたいと思います。

第一番目、私たちの数十年間の人生というものは、それですべてが満たされるためにはあんまりにも短かすぎます。
現在は、われわれの世界では一番長生きしたとしても、精々百二十歳ぐらいが限界です。けれど、百歳まで生きながらえた人の数も何と少ないのではないでしょうか。私たちは、この問題について真剣にまじめに考えるならば、聖書の言っていることが正しい、と認めざるを得ません。すなわち
あなたがたは、しばらくの間現われて、たちまち消えてしまう霧にすぎません。

われわれの人生がちっぽけなものであることは私たちでさえよくわかることですが、六千年を越える人類の歴史と言えば、主なる神の目から見ると無に等しいものです。
私たちは百年前にどこにいたでしょう。そして百年後にはいったいどこにいるのでしょうか。われわれの人生が余りにも短すぎるため、死後の世界があるのではないかという考え方が自ずから出てくることも当然と言えましょう。
この問いに対して、聖書ははっきりと別の世界があることを教えています。なぜなら、人間の人生は余りにも短かすぎて、そこにはほんとうの意味がなく、死んでから初めて本当の世界が始まるからです。

二番目、主なる神ご自身が、人間の心に、「永遠」を思う思いを授けられたと聖書は言っています。
人間は、主なる神のかたちに似せて造られました。そして、主なる神がその人間に「永遠」とは何か、「完全」とは何かを理解する力をお与えになったのです。
人間は決して過ぎゆく儚いものや不完全なものによっては心が満たされません。人間は心から愛し、心から愛されることを望んでいます。それですから、この世の人間的な愛に何回も失望するのです。

芸術家は情熱をもって完全なものを作ろうとしますが、しばしば自分の作った物を破壊してしまうのです。なぜなら、自分の作った物と言えども決して完全なものではないからです。
青年は将来に対して無限の希望を持ち、それが永遠に続くように思われるなのではないでしょうか。老人はそれほど夢多き将来を考えることがありません。若者にとっては一年と言えども非常に充実した意味のある長い一年のように思いますが、老人は過ぎゆく一年が非常に短く、はかないものであるということを体験から知っておるのです。
また、多くの婦人はいつまでも若く、美しくありたいために莫大な費用をかけたり、そのために一生懸命努力したりしますが、結局どうすることもできないことを知って失望してしまいます。

人間の欲望は新しいものが次から次へと与えられても決して満足していません。それは悲劇であると言わざるを得ない。次から次へと目まぐるしく移り変わる、新しい流行を必死に追い求めても、そのことが幸せをもたらすとは言えません。
実業家は、日夜金儲けのために努力します。独裁者は、自分の国を支配するにとどまらず、やがては世界を支配しようと無限に欲望を高めていきます。いわゆる仕事の鬼は、仕事だけをたいせつにして、ほかのことは何も考えないようにと一生懸命に苦労しますが、結局は何のために生きているのかわからなくなってしまい、息が詰まってしまうのです。
人間的に見ると仕事が成功し、金持ちになり、病気もせず、非常に幸福そうに見えた人であっても、つねに満たされざる思いが心の中にあるため、主なる神の目から見ると決して幸福ではありません。

しかし、主なる神の御心は私たち人間が永遠のいのちを持つことに他ならない。それですから、主なる神以外に私たちの心は満たしてくれる方は誰もいません。
ヨハネの福音書4章の中で、次のようなこと書いています。五人の夫をもつ姦淫の女のことが描かれています。疑いもなく彼女は幸福になりたいという願いを持っていました。しかしながら、彼女の切なる思いも決して満たされなかったのです。けれども、主イエス様は彼女に言われました。
「わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます。」と。

すると女はイエス様に言ったんですね。「先生。私が渇くことがなく、もうここまでくみに来なくてもよいように、その水を私に下さい。」
有名なアウグスティヌスという男は「私が主なる神のもとで憩うまではまことの平安がない」と告白したのであります。

三番目の点、もしも死後の世界がなかったならば、この世はまったく意味のないことでしょう。
永遠のものからはじめて、われわれの人生が意味あるものとなるのです。もしもすべてが「死」でもって終わるとすれば、生きているときのあらゆる努力は、いかなる価値を持っているのでしょうか。
ソロモンという大王様はこの世のものは全てむなしい、「空の空である」と言いました。けれど、彼は名誉、地位、財産、その他ありとあらゆるものを持っていました。世界一の金持ちでした。けれど、彼は「すべてはむなしい」と告白せざるを得なかったのです。

この世でとこしえに価値を持続するものは何一つありません。私たちが生きている時に持っているものはすべて、「死」と同時に私たちから離れてしまうのです。
唯物主義者は次のように言うでしょう。「私たちは飲み食いしようではないか、明日の分からぬ命なのだ。」、しかしこの哲学は憤慨と絶望の表現であると言えましょう。なぜなら、若くて金もあり、時間も充分あるものが飲み食いすることは難しくないかもしれない。けれど、歳とって、金もなくなったときに、ただ病と死だけが待つようなことになるでしょう。
死後の問題を本当に解決することができないならば、まさに自殺をするか、気違いになるか、いずれにしても、まことに悲惨の道だけしか残されていないことでしょう。けれども、自殺はこの問題を正しく解決することではなく、それはそれから逃避することを意味するのではないでしょうか。

四番目、この世の正義と言えども決して私たちを心の底から満たしてくれるものではありません。なぜならば、正義と言えどもこの世においては私たちの完全な正義に対する熱望を満たしてくれないからです。
この世における多くの不義は、必ずしも正しくさばかれているとは限りません。また反対に、この世で正しく生きている人々がそれ相当の報酬を与えられているかと言うと、必ずしもそうとは限りません。むしろ真理のために迫害されたり殺されたりした人さえいるのです。
もしも死によってすべての終止符を打つならば、人生はまったく意味のないことです。けれども、事実は決してそうではありません。確かに死んで別れることはキリスト者にとっても等しく悲しいことであり、寂しいことであるかもしれないが、それにもかかわらず、

五番目、死んでから再び愛する者と会うことができるという確信をもつことができるということは、深く考えさせられることです。
愛する者との死の別れは一時的なものにすぎない、必ず再会できるという確信をもつことは、信ずる者にとって最高の慰めであり、また喜びでもあります。

六番目、その時に、顔と顔を合わせて相見えることができ、イエス様に似た者となることこそ、創造主なる神のご計画に他なりません。
ただ単に人間が永遠の存在として造られ、完全なものを追い求めていくために、造られただけではなく、主ご自身のために造られたのだ、ということを忘れてはなりません。
すなわち初めの人間であるアダムの罪により、主なる神から離れてしまった人間は、どうしても神との生き生きとした交わりを回復しなければ生きていくことができません。

救われた者が永遠にイエス様との交わりの中に時を過ごすことができるという確信を持つことができるとは考えられないすばらしいことです。
あらゆる宗教はあの世のことについてはっきりしたことを言わず、単なる想像に基づいて抽象的なことを言っているにすぎない。しかし、神のみことばである聖書は信ずる者にとっては、未信者にとっても死後の世界があることをはっきりと言っているのです。
聖書によると、アブラハム、イサク、ヤコブが、すなわち四千年前に生きた人々が今もなお生き続けていることがわかります。それに対して悔い改めようとしなかった人々は陰府の国に落ちて行かなければならず、そこで苦しまなければなりません。

イエス様は、頭を下げたくなかった人々が、死後陰府の国で苦しんでいる時には決して、無意識な状態であるのではなく、はっきりとした意識を持って苦しまなければならないと言われました。このように死んだ後ですべての信じようとしなかった人々は、陰府の国でやがて主なる神の前に引き出され、最後の審判を受けなければなりません。
救われている人々、また救われていない人々も、死後も生き続けるように、終わりがないのです。主なる神によって救われた人々は永遠のいのちを持ち続けることは明らかです。
つまり、死後、救われた人々は永遠のいのちをもって主なる神とともにおり、悔い改めたくない人々は苦しみと苦悩の中に滅びなければならないと聖書は言っています。

これらのことをわかりやすく要約すると次のように言えるでしょう。
すなわち、まず第一に、人間は生まれたときに、「魂」が与えられ、そのために永遠に存在する権利を与えられます。第二に、そのような人間が、罪を悔い改めて、イエス様を信ずる信仰によって新しく生まれ変わったときに、「永遠のいのち」を与えられます。
第三に、そのような人は復活の時、「不滅のからだ」を与えられます。確かに未信者と言えども永遠に存在するわけですが、しかしながら、新しく生まれ変わらない限り、ほんとうのいのちを持つことができません。

本当のいのちは、イエス様との交わりの中にあってはじめて存在するのです。ヨハネの福音書17章の3節に次のように書かれています。

ヨハネの福音書17:3
3その永遠のいのちとは、彼らが唯一のまことの神であるあなたと、あなたの遣わされたイエス・キリストとを知ることです。

そしてヨハネの手紙第I、5章20節にみると、書いてあります。

ヨハネの手紙第I、5:20
20この方

イエス・キリスト、

ヨハネの手紙第I、5:20
20こそ、まことの神、永遠のいのちです。

と、あります。まことの主なる神を信じない未信者は、この世でほんとうのいのちを持っていません。すなわち、主なる神との平和を知らないから、満たされていません。

前に話した有名な詩人であるヴォルフガング・ゲーテという男は、彼の全生涯において24時間本当の幸福だったことはなかったと告白したのです。
なぜ人間はそのような満たされない状態にあるのでしょうか。その原因はまさに人間の心に本当の平和と平安がないということです。人間は死後さばきを受けるため、人間には平安がないと聖書は言っています。
前に言いましたように20歳で天に召された娘は「人格者とは死を直視することのできる人」と書いたのであります。「死」を直視することのできる人とは、すなわちイエス様によって救われた人です。だからパウロは「キリストこそ私の平和だ」と証ししました。

イエス様は主なる神との贖いをなしてくださいました。主イエス様は主なる神に敵対する関係を無にしてくださったのです。われわれ人間が主なる神から離れている罪あるいは債務を、イエス様の尊い犠牲によって完全に取り去ってくださったのです。
まことの平和は、イエス様を信ずることによってのみ与えられるものです。イエス様を信ずる者は、みな、今、主なる神との平和、また贖いをもっていることを信じ、確信することをゆるされています。
主なる神は、もはや怒りを持っておらず、イエス様の犠牲によって完全なる贖いと和解を成就させているのです。もはや何も神との結びつきを引き離すことはできません。

主なる神との平和を持っている者は、もはや死を恐れることはありません。なぜならば、全き平安のうちに休むことができるからです。
主なる神との平和がなければ、すなわち、主なる神との交わりがなければ、ほんとうの喜びも幸福もありません。人生は無意味な価値のないものになってしまいます。
有名な音楽家であるヨハン・セバスチャン・バッハは数々の名曲を残しましたが、その中でもはっきりと歌っているように、心から「死」を待ち望んでいたのです。

つまり生きているこの世よりも、死んだ後に来る世界のすばらしさを信仰の目で見ることのできたバッハは、主を賛美せざるを得なかったのです。
信ずる者と言えども、罪人である以上、本来は未信者と全く同じように、陰府の国へ行かなければならない運命に定められていましたが、ひとり子なるイエス様の十字架によって、罪が贖われ、罪から解放されたために永遠のいのちをもつことができたのです。
そのために、信ずる者はもはや「死」を恐れる必要がない。ローマ人への手紙8章、有名な箇所ですけど、次のように書いています。

ローマ人への手紙8:1
1キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。

ローマ人への手紙8:38-39
38私はこう確信しています。死も、いのちも、御使いも、権威ある者も、今あるものも、後に来るものも、力ある者も、
39高さも、深さも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。

この意味で、「死」は信ずる者にとって信仰により、イエス様に近づくための橋渡しの役割を果たすと言えましょう。したがって、信ずる者は「死」を恐れる必要を全然持たないわけです。
もう一ヵ所読みます。ピリピ人への手紙、1章の20節から

ピリピ人への手紙1:20-21
20生きるにしても、死ぬにしても、私の身によって、キリストのすばらしさが現わされることを求める私の切なる願いと望みにかなっているのです。
21私にとっては、生きることはキリスト、死ぬこともまた益です。

主の恵みによって救われた人々にとって、死ぬことはイエス様とともになることを意味していますから、益です。パウロは死ぬことと生きることとどちらが良いか考えた時、死ぬことを選んだのです。
けれども、このパウロは多くの人々のために奉仕をしなければならない必要を感じていたため、さらに生き続けることを決心しました。この問題がなく、パウロ一人だけのことであったならば、恐らく死ぬことを選び、死ぬことを喜んだに違いありません。うちの娘の場合はそうだったんです。
軽井沢に次のような意味の聖句が刻まれたお墓があります。「この世を去ってキリストとともにいることのほうがはるかにすばらしい」と書いてあります。救われた人々にとっては、未信者すべてが、いだくような「死」の恐ろしさが全然ありません。

ドイツのアドルフ・ヒットラーは第二次大戦中、六百万人にのぼるユダヤ人を殺してしまいました。けれど、その当時オランダにテン・ブームという家族がおり、多くのユダヤ人を囲いました。
ところが、結局ナチスの秘密警察であるゲシュタポがそれを見つけ出し、全員強制収容所に送ってしまいました。そこでコーリン・テン・ブームという一人の女性を除いてみんな殺されてしまいました。
けれど、その時、彼女の父親は家を去るにあたって、大喜びで次のように言いました。「一番すばらしいことがこれから始まる」と。このことばの意味は、彼らの出発が恐ろしい死の旅路でなくて、イエス様とともになるための最高の喜びと感謝の旅に出かけるという意味です。

将来与えられる栄光を見て、主イエス様のものとなった者は、生ける希望を持っているのです。結果としていかなる患難のときにも主を喜ぶことができる。なぜなら、将来に対して何の不安も持っていないからです。
私たちは、将来のことを知ることができませんけれど、イエス様を知っております。それですから、将来に対するすべての問題が答えられていることになるわけです。
イエス様御自身がわれわれの将来です。あらゆる不安と心配はイエス様によって慰められるのです。

イエス様は、御自身を信頼する者を必ず目的地まで導かれるのです。それですから、私たちは今、喜ぶことができ、誇ることができ、感謝することができるのです。
三千年前この世界を治めた王様であるダビデは言いました。

詩篇23:1
1主は私の羊飼い。私は、乏しいことがありません。

詩篇23:4
4たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても、私はわざわいを恐れません。あなたが私とともにおられますから。

このような確信をもつことこそが最高の幸せなのではないでしょうか。




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