引用聖句:ルカの福音書3章21節-22節
ローマ人への手紙8:9
エペソ人への手紙5:18
最後にお読みになりました箇所について、ちょっとゆっくり考えたいと思います。すなわち「御霊に(聖霊)に満たされなさい。」と使徒パウロは、エペソにいる人々に書き送ったのです。 パウロはまた、ローマにいる人々に次のように書いたこともあります。ローマ人への手紙8章9節「キリストの御霊を持たない人は、キリストのものではありません。」、すなわち、救われていない。 教会の牧師になっても、ローマ法王になっても、キリストの御霊を持っていなければ、救われていないことになります。 聖霊の宮になることこそが、救われることです。聖霊の宮になった人々だけが、本当の意味で前向き生活することができるのです。 けども、キリストのものになった人々とは、ちょっと充分じゃない。だから、聖霊の宿になることだけではなく、聖霊に満たされなければならないということです。最も大切なこととは、我々にとっても御霊に満たされることではないでしょうか。 聖霊に満たされている人の苦しみは静められ、聖霊に満たされている人の問題も解決されるようになり、また聖霊に満たされている人の欠乏は、取り除かれるようになります。 今日、私たちは、我々の主イエス様の経験について考えてみたいと思います。 その場合に、イエス様に用いられるために私たちは、何を経験しなければならないかを考えるべきではないでしょうか。 今読みました箇所をもう一回読みます。 ルカの福音書3:21
すごいね、大部分とか書いていない、 ルカの福音書3:21-22
イエス様の洗礼は、イエス様の公の奉仕の出発点でした。この洗礼の時、聖霊は鳩のようにイエス様の上に下りましたとあります。 もちろんイエス様の洗礼は、我々の洗礼とは全く違うものでした。けどもイエス様が経験なさったことは、我々の経験でもなければならない。すなわち、私たちは聖霊に満たされた者でなければならないということです。 私たちは、イエス様について、主が聖霊によって身ごもりお生まれになられたということを知っています。 マタイの福音書1:20
ルカの福音書1:35
その証拠として聖書は、イエス様が完全な聖い罪のない人生を送られたと言っています。 ヘブル人への手紙7:26
イエス様はご自分の意思で、どうしようもない悩んでいる孤独になった人間を救うという目標をもって、この世に来てくださいました。 しかし、イエス様が公のご奉仕を始める前に、聖霊が鳩のように主の上に下ったとあります。後になってイエス様は、このことについて次のように証ししました。 ルカの福音書4:18-19
ペテロは後になって、そのことについて次のように報告しました。 使徒の働き10:38
神の御子であるイエス様にとって、上からの力を着せられることは、イエス様の3年半におよぶご奉仕を特徴づけた経験でした。 聖霊は、イエス様の上に留まり、イエス様は絶えず聖霊に満たされていました。イエス様の弟子たちは、バプテスマのヨハネがすでに言ってきた、似たような公言をしたのです。 ルカの福音書3:16
イエス様は弟子たちに、そのような経験を約束なさいました。 ルカの福音書24:49
使徒の働き1章8節この出来事について書かれています。 使徒の働き1:8
イエス様が約束なさったことは、すぐに成就されました。 使徒の働き2:1、4
けど、私たちをも同じ聖霊が満たしてくださりたいのではないでしょうか。我々の人生が変えられ、イエス様が栄光をお受けになり、多くの人が真理に至るようにと願うべきです。 疑いも無く、聖霊に満たされることほど、信じる者にとって大切なことはありません。 イエス様は、聖く、罪なく、罪人から離れていました。それにもかかわらず、なぜ、イエス様は聖霊に満たされることを必要としたのでしょうか。私たちには解かりません。それは奥義のようなものではないでしょうか。 弟子たちの場合は、違っていました。その点については、我々もはっきりしていて、疑問の余地はありません。聖霊に満たされることなしには、イエス様の福音は宣べ伝えられなかったに違いない。 けれども弟子たちが聖霊に満たされた時、彼らの人生はいっぺんに変わりました。 私たちは、主に喜ばれる人生を送りたいと思うなら、そしてまた、主が我々を主のご奉仕に用いたいと思うなら、私たちもまた、聖霊に満たされなければなりません。 そこで、まず一つの質問について一緒に考えてみましょうか。聖霊は、なぜ鳩のような形をして、イエス様の上に下ったのでしょうか。 聖書は、鳩についていろいろなことを言っています。おもに4つの特徴を挙げることができます。 第1番目、純粋さ 第2番目、美しさ 第3番目、謙遜 第4番目、喜んでする覚悟がこれです。 まず、鳩の純粋さについて簡単に見てみると、次のように言えます。 雅歌6:9
これは、花嫁についての花婿の判断でした。鳩は純粋なものであり、汚れのないものです。 次に鳩の美しさについて、考えてみると、 詩篇68:13
すなわち、鳩は非常に美しいものであると聖書は言っています。 それから鳩の謙虚さについて、考えると マタイの福音書10:16
鳩のもう一つの特徴は、喜んでする覚悟であります。 詩篇55:6
鳩の特徴は、何かあればすぐに飛んで行くということです。 聖霊は、鳩のようにイエス様の上に下りました。なぜならば、イエス様はすでに鳩の特徴、すなわち完全な純粋さ、美しさ、謙虚さ、喜んでする覚悟を身につけておられるからです。 父なる神は、このことを次のようなことばで証明してくださいました。「あなたは、わたしの愛する子、わたしはあなたを喜ぶ。」と。 我々の場合は、事情が異なります。すなわち、純粋というものを考えることが出来ず、私たちはみな汚れています。美しさというのも考えられません。イエス様の前に私は、忌むべき者です。謙遜さということも考えられません。私たちはみな、誇り高く、傲慢です。喜んでする覚悟ということも考えられません。 私たちはみな自己追求的であり、自己中心的そのものであり、自分の意思を通そうとするのは我々なのではないでしょうか。私たちはみな生まれた時から、そういう者であり死ぬまでそういう者に留まるのではないでしょうか。 もしも私たちが、聖霊に満たされないならば、そのままです。聖霊は、鳩のようにイエス様の上に下りました。なぜなら、イエス様こそ鳩の特徴、すなわち、全き純粋さ、美しさ、謙虚さ、そして喜ぶ覚悟を持っているただ一人のお方だからです。 実際、聖霊に満たされる人の人生は、イエス様の純粋さ、美しさ、謙虚さ、喜ぶ覚悟の内を何かが明らかに現れるでしょう。我々のように、蛇のような性格の持ち主は、聖霊に満たされることによって、鳩のような性格の持ち主になるべきなのではないでしょうか。 聖霊に満たされるとは、いったい何を意味しているのでしょうか。御霊の満たしは次のようなことを意味しています。今話したように、イエス様の純粋さを知ること、イエス様の美しさを反映すること、イエス様の謙虚さにあずかること、イエス様の喜ぶ覚悟を経験することです。 聖霊に満たされている人は、イエス様の純粋さを知っています。すなわち、イエス様は我々の人生を聖めてくださるのです。 聖霊に満たされる前、イエス様の弟子たちは、肉的であり、彼らの人生は、絶えず上がったり下がったりしていました。彼らは、誇りに満ち、妬み深く、党派精神に満ち、復讐深く、批判精神に満ちた者でした。 けれども彼らは、聖霊に満たされた時、もはや誇り、妬み、党派精神、復讐心、批判などの余地が無いほど満たされたのです。彼らは、内面的に聖められ、純化されることを経験したのでした。そしてまさに、このことは我々もまた必要としているのではないでしょうか。 すなわち、あらゆる汚れからの聖めです。主なる神の霊が我々を満たすことができるならば、私たちはイエス様の聖さを知ると同時に、我々の不純さ、また汚さを知ります。けどもまさに、私たちはそういうありのままの状態で、つまり汚れたままとして、主の御許に行くことが許されています。 主の前で自分の過ち、わがままを告白することができます。そうすると主は、新たに罪の汚れから聖めてくださいます。 力を持つために、聖霊に満たされたいと思っている人々もいますけど、私たちがすべてのものに勝って必要としているものは、力ではない。内面的に聖くされることなのではないでしょうか。 その時、はじめて主は我々を、主の器として用いることができます。 それから2番目、聖霊に満たされている人は、イエス様の美しさを反映するようになります。 化粧品のために、ある人はたくさんのお金を使ったりします。けれど、本当の美しさは、聖霊が我々を満たしてくださることによって現れます。 聖霊によって満たされている人は、美しく魅力的なのではないでしょうか。 聖書の中で、ステパノ、初代教会の初めての殉教者について書かれています。彼は、大胆にイエス様を紹介し、証ししました。イエス様の御手の内にある器でした。 攻撃され、議会に引き渡されて、弁明せざるを得なくなりました。この出来事について、手短に次のように記されています。 使徒の働き6:15
御使いの顔は、疑いもなくきれいなものです。ステパノも美しかった。どうして? それは、生まれつきの自然の美しさではなかったのです。ステパノは、聖霊に満たされていたとあります。 使徒の働き7:55
ステパノのように、主を見る者は、主の栄光をも見るようになります。彼は、イエス様を見るようになり、イエス様の美しさが、彼の顔に反映するようになったでしょう。 主を仰ぎ見ることこそが、考えられない大切なことです。 3番目、聖霊に満たされている人は、イエス様の謙虚さにあずかるようになります。 別の言葉で表現するならば、主は、私たちをマタイの福音書11章29節にあるように、心やさしく、心へりくだった人にしたいと願っておられるからです。 マタイの福音書11:29
鳩の特徴は、何であるかと言いますと、胆嚢を持っていないものです。胆汁は苦いものです。苦さと争いと誇りとは、我々人間の性格の特徴なのではないでしょうか。鳩は、柔和、謙虚さ、温和によって特徴づけられています。何と多くの人生が、誇りの胆汁によって破壊されたことでしょう。 鳩の謙虚さは、いかに現れるのでしょうか。あなたは、間違ったことをしたと気がついたならば、その時、そのことを正直に告白しなければなりません。 すなわち、「さっき言ったことを赦して。言わなかった方が良かった」と。あるいは、「私は、あなたに対して、批判的な態度を取った。深く考えもせず、あなたのことについて話してしまった。ごめんなさい。」、これこそが、主が求めておられる謙虚さです。 けれど、ある人が「あなたから謝罪を要求する。」と言うならば、それは誇り、辛辣、喧嘩好きのしるしです。 我々の主イエス様は、次のように言っておられます。「わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすれば、」、そうしなければ、もちろんダメ。「たましいに安らぎが来ます。」 我々の主イエス様は、心のやさしい方でしたが、決して弱い方ではありませんでした。 それまでの、いわゆる弟子たちは、本当の弟子になってもらいたいということがイエス様の関心事でした。イエス様は、御足のあとに踏み従ってくる人々を、もちろん欲しておられます。これはいかに可能なのでしょうか。 聖霊に満たされた時、彼らは、傲慢さえ、自己追求や闘争心から完全に解放されました。聖霊に満たされたすべてと共に生活することは、本当に楽しみであり喜びです。 人の心は、いかにして変えられるのでしょうか。今話したように、聖霊に満たされることによってのみです。 4番目、聖霊に満たされている人は、イエス様の喜んでする覚悟を経験します。 別の言葉で表現すれば、あらゆる主の願いを、喜んで満たすことは聖霊によって、聖霊によって満たされている人の特徴です。主にだけ仕えることを、喜んでする覚悟、イエス様の合図に応じて即座に行なう従順、主が成されたいと思っておられることを、行いたいという切なる願い、これは我々の生活の特徴でなければなりません。 詩篇の作者の預言は、次のような主の告白であります。 詩篇40:7-8
これは、我々の告白でもあるのでしょうか。 私たちは、心から望んで主の御心を行ないたいのでしょうか。しかし、このことは一体、どうして可能となるのでしょうか。聖霊が我々を満たす時、私たちは何があっても、御心だけが成されるようにという切なる願いによって満たされるようになります。 私たちは、主に次のように叫ぶようになります。「主よ。たとえどんなことがあろうとも、御心が私の人生において成就されますように。」 終わりに、もう一つの問いについて考えましょうか。 私たちは、聖霊に満たされるために、何をしなければならないのか。パウロは、次のように証しすることができました。 コリント人への手紙第I、2:4
御霊に満たされる生活の秘訣とは何でしょうか。今話したように、イエス様は父なる神の御心に完全に従いました。「わたしの思いではなく、御心だけが成るように。」イエス様の変わらない祈りとは、そういう切なる叫びでした。だからこそ、イエス様は父の御手にある従順な器でした。 その態度は、常に次のようなものだったのです。「父よ。わたしはここにいます。どうかあなたのご自由になさってください。わたしは、この地上でただあなたの御心だけが行なわれますように、何でもいたします。」 イエス様の変わらない祈りとは、そういう願いの現れでした。イエス様が、この態度をお取りになられたから、聖霊は高い所からの力として、イエス様の内に宿るようになりました。 2番目、前に読みました箇所ですけど、ルカの福音書3章21節によると、イエス様が祈っておられると、聖霊がイエス様の上に下ったとあります。祈りこそ、聖霊に満たされるための前提なのです。 五旬節の時、120人の兄弟姉妹が祈っている間に聖霊に満たされたと書いてあります。その少し後で、祈りの答えとして、弟子たちが聖霊に満たされてのです。 使徒の働き4:31
使徒の働きとは、初代教会の歴史を語っているものです。おもに9章、11章においては、サウロについて次のようなことが記されています。「見よ。彼は祈っています。」すぐその後で、彼もまた聖霊に満たされました。 祈りの答えとして。「見よ。彼は祈っている。」考えられないことが起こったのです。 私たちが、聖霊に満たされたいと願うなら、私たちが、我々の人生はすべて主に明け渡されなければなりません。また、主の御心だけを行なうということが、我々の願いとならなければなりません。そしてまた、私たちの祈りは「主よ。私は、ただあなたの命令だけを望みます。」というものでなければなりません。 イエス様が、ヨルダン川の中で立った時、主の切なる願い、主の祈り、主の心からの叫びは次のようなものでした。「見よ。わたしがここにいます。あなたの御心だけが、わたしを通して行なわれますように。」 聖霊は、与えられた使命を果たすために、主が必要とした高い所からの力として、イエス様の上に下りました。今日、イエス様は我々に次のように言っておられます。 「父がわたしを遣わしたように、わたしはあなたがたを遣わします。」と。 父は我々を遣わしたい、用いたいと望んでおられます。父は、我々を一人にさせず、聖霊が我々の上に下り、我々の中に留まりました。 「わたしを通して、父は聖霊の力によって、贖いの御業を成就してくださいました。そして今、わたしたちは、あなたがたを遣わします。あなたがたを通して、誰でも罪の赦し、神との平和、永遠のいのちをいただくことができるのです。 けど、わたしはあなたがたを一人では行かせません。わたしに、あなたがたの人生の全支配権を与えなさい。そうすれば、わたしは、あなたがたを用いることができるようになります。主の霊は、あなたがたを満たし、器として用いられるようになります。」 聖霊に満たされるほど、またイエス様の御手にある器となるに勝る大いなるものは何一つないでしょう。 聖霊に満たされることは何でしょうか。今話したように、第1番目、イエス様の純粋さを知ること。2番目、イエス様の美しさを反映すること。3番目、イエス様の謙虚さにあずかること。そして4番目、イエス様の喜ぶ覚悟を経験することです。 |