引用聖句:テサロニケ人への手紙第I、5章12節-28節
今日はもう一回、このテサロニケ人への手紙第Iについて、いっしょに考えてみたいと思います。今読まれました5章の12節から28節までのところです。 この間私たちは、次のことについて考えてまいりました。すなわち私たちは、夜の者と光の子についてだったんですけれど、そして質問をしました。すなわち私たちはいったい光の子なのでしょうか、それとも夜の者なのでしょうか。 眠っている者なのでしょうか、それとも目を覚ましている者なのでしょうか。望みのない者、あるいは生き生きとした望みを持っている者なのでしょうか。不安に満たされている者なのでしょうか、それとも喜びに満たされている者なのでしょうか。全く無防備な者でしょうか、それともよく装備した者なのでしょうか。 主なる神の目から見ると、人間は2種類の人間がいます。 すなわち、信者か未信者か。霊的に生きている者か、死んでいる者か。主なる神の子か、悪魔に支配されている者か。もうすでに今、永遠のいのちを持っている者か、あるいは滅びに向かって進んでいる者か。 まだ救われていない人、永遠のいのちを持っていない人には、本当の希望がありません。そして多分そのような方々は、今日ここにもおられるかもしれない。 イエス様は今日、わたしから何を望んでいるのでしょうかと、我々に向かって尋ねておられます。 私たちは、絶えざる喜びと永遠のいのち、そしてまた罪の赦しを得たいのですと、そのように言おうとは思いませんでしょうか。 人間一人ひとりのためにも死んでくださり、すでに人間一人ひとりのために救いの代価を支払ったイエス様は、呼びかけておられます。 イザヤ書44:22
すばらしい呼びかけです。 マタイの福音書9:2
イエス様が我々のために成してくださった大いなる御業に対して、感謝したいのではないでしょうか。主は今日、誰にでも光の子としたいと思っておられます。 ヨハネの福音書8:12
今日、前に言いましたように、テサロニケ人への手紙第I、5章の後半について考えたいと思います。 すなわち、12節から28節のあいだには、光の子が永遠のいのち、すなわち全く新しいいのちを持っており、また新しい生活を導く力をも持っていることが記されています。 今日のテーマは「聖書的な教会生活」です。その際に、この箇所を次の4つに分けて考えることが便宜上許されると思います。すなわち次のことを言えるのではないでしょうか。 第1番目、健全な教会の取るべき態度。長老たちに対してだけではなく、他の兄弟姉妹に対してです。 第2番目、健全な教会の特長。すなわち、奪われざる喜び、絶えざる祈り、そして万事感謝することです。 第3番目、健全な教会の奥義。すなわち、御霊が消されていないこと、預言が軽んじられていないこと、そしてすべてのものを識別することです。 第4番目、健全な教会の頭について。全く清めてくださるお方であり、再び来られるお方であり、保証人になられるお方であるイエス様です。 まず第1に、健全な教会の取るべき態度について。長老たちに対する態度と他の兄弟姉妹に対する態度とに分けて考えることができると思います。 牧師という言葉は、新約聖書の中でただ一回だけ出てくるのですが、それ以外は長老という言葉が何回も使われています。しかもその長老は、単数ではなくいつも複数のかたちで使われています。 もちろん信者は誰でも他の人に対して、責任を持っており、お互いの交わりを通して成長すべきです。しかしながら、特に集会全体の動きに注意して、すべての行ないに対して責任を取る者は、まず長老たちの仕事であるといえます。 今日、大部分のいわゆるキリスト教会で行なわれているのは、万人祭司制ではなく、牧師制度です。 しかしそれは決して聖書的なものではありません。なぜなら、集会全体の動きに注意し、責任を取る長老は、決して一人ではなく、何人かの人々であるべきだからです。もちろんそれは、決して一つの職業ではなく、奉仕であることは言うまでもありません。この奉仕をする者は、比較的大きな責任を持っているわけです。 ヤコブの手紙3章1節に、ヤコブは当時の信じる者に書いたのです。 ヤコブの手紙3:1
ヘブル人への手紙13:17
長老たちは、非常に現実にそくした方法で、集会における調和を高めていくのです。 長老たちは、イエス様を信じる心の熱い人たちであり、生涯イエス様を第一として生きる人たちであり、イエス様の恵みが自然と溢れている人々である時は、そこに健全な教会、霊的な集会が見られるものと期待してよいでしょう。 その反面、長老たちはこの世の問題に没頭しており、うわべの興味に心を奪われて、みことばを読み祈る時間はないほど忙しいような所には、その群れの中に冷ややかな死んだような空気が漂っているものと思って間違いないのです。また長老たちは、責め、戒め、勧めなければならない。 テモテへの手紙第II、4:2
テトスへの手紙1:13
テトスへの手紙2:15
信仰にもどることは、何事であれ全き権威を持って戒めなければなりません。 健全な教えに留まっていようとしない人々は、激しく責めて勧めなければなりません。長老たちは、信仰熱い心を持って主張しなければなりません。 このようにイエス様を第一とし、教会を導く長老たちが用いられ、敬われるべきです。 次に他の兄弟姉妹たちに対する態度について、考えることにしましょうか。 ここでパウロは3種類の信者、すなわち怠惰な者、小心な者、弱い者について語っています。そして、このような者に対する態度についても述べています。まず、怠惰な者を戒めなさいと言っています。 ここで怠惰な者とは、原語によるとただ単に怠け者という意味だけでなく、自分勝手な道を行こうとする者、あるいは秩序を乱す者という意味をも含んでおり、そのような者は、どこの教会でもいるものです。そしてそのような者は、自分自身を損なうだけでなく、教会全体の秩序を乱すために、厳しく戒められなければならないのです。 次に小心な者は、私たちの助けを必要としています。自分自身の内側を見たり、周囲を見たりして、小心な者は常に何らかの不安と心配を持っているのです。彼らは、信仰に対する勇気を持つ必要があります。そのため、私たちは小心な者を励まし力づけなければならないのです。 最後に弱い者について語られています。彼らは、単に体が弱いというだけではなく、集会の中でたくましい信仰生活を貫き通すことができない人々です。しかしながら、私たちはこのような弱い者をなおざりにしては許されません。なぜなら彼らは助けを必要とする者であり、強い者に担われ、支えられなければならない人であるからです。 以上、要するに、いかなることがあってもそれらの人々に対する怒りを沈め、いろいろな決定や過ちにもかかわらず、彼らと交わろうとする心がけを持つことが必要です。集会の中で、いろいろな罪や悪い行ないを続ける人々がいる場合には、集会全体の秩序と清さとを保つために、そのような人から離れなければなりません。 2番目、健全な教会の特長について考えましょうか。 すなわち第1番目、奪われざる喜び、それから絶えざる祈り、そして3番目、万事感謝することです。 テサロニケ人への手紙第I、5:16-18
誰からも奪われることのない喜びがあるということです。主イエス様は、ただ単に私たちのために死んでくださっただけでなく、今もなお私たちとの交わりを提供してくださっているゆえに、私たちは損なわれることのない喜びを与えられているのです。 我々の喜びは、私たち自身の中にあるのではなく、また私たちが持っているものや周囲のものの中にあるのではなく、イエス様ご自身の中にあります。 イエス様に結びついていることが許されているということこそ、本当の喜びを意味しているのです。すべての他の喜びは、過ぎ行くものであり、永遠に続く喜びではありません。 そして絶えず祈りなさい。これは第2番目の特長です。イエス様のご臨在を意識することが、私たちの重要な関心事となっているのでしょうか。 絶えず祈るということは、自分勝手な行ないをせずに、絶えずイエス様により頼むということを意味しているのです。健全な信者の特長は、イエス様により頼むことです。絶えず祈ること、絶えず礼拝することは、信じる兄弟姉妹にとって義務ではなく、大いなる特権です。 自分自身の力でやろうとする人は、私は祈らなくちゃならないと言いますが、イエス様により頼んでいる者は、自分の本当のみじめさを解かっている者は、私は祈ることを許されていると言うのです。 健全な教会の特長とは、今話したように、まず奪われえない喜び、それから絶えず祈ることであり、そして3番目、万事感謝することです。 すべてのことに感謝することが、健全な集会の特長です。すべてのことを通して理解することができなくても、イエス様をより良く知ることができるのです。そしてイエス様は、より良く知ることが、最も価値のあることなので、私たちはいつでも、すべてのことについて感謝することができるのです。 そして絶えざる超人間的な喜びこそが、主は与えたいと望んでおられるのです。 これは絶えず祈ることとは、単なる提案ではなく、主の命令です。 私たちが感謝するかしないか、祈るかしないか、絶えず喜んでいるか、いないかということは、我々にとってどうでもいいことではない。 イエス様のご命令に従わないことは、すべて悪と聖書は言っていますが、それほどことは重大なのです。 いったい我々の集会の特長は何なのでしょうか。 今まで私は、2つの点について考えたのですね。健全な教会の取るべき態度。そして2番目、健全な教会の特長。 今度3番目、健全な教会の奥義についてちょっと考えたいと思います。答えは3つです。 第1番目、御霊が消されていないこと。 第2番目、預言が軽んじられていないこと。 第3番目、すべてのものを識別することです。 テサロニケ人への手紙第I、5:19-22
ここで言われているのは、まず御霊が消されていないこと、それから預言が軽んじられていないこと、そしてすべてのものを識別して、良いものを守ることです。 私たちは、御霊に対してどのような態度を取るのでしょうか。御霊は信者の中に宿り、信じる者を通して主のご栄光を現したく思っておられます。 イエス様の支配権を明け渡さず、御霊の言うことに従わないことは、結局御霊を消すことを意味しているのです。 第2に、預言を軽んじられていないことは、健全な集会の特長です。もちろんここで、預言とは主なる神のみことばを意味しているのです。 したがって、いつ如何なる所においても、主なる神が何と言っておられるか注意することは非常に大切です。 ローマ人への手紙4:3
大切なのはそれなのです。何があっても「聖書は何と言っていますか。」 「それでアブラハムは神を信じた。それが彼の義と見なされた。」とあります。ただし、律法的な考えから、主の御心を厳しい命令のように恐れることなく、自分の花婿であるイエス様がいったい何を望んでいるか知りたいという気持ちを持って、耳を傾けることなのです。 イエス様は、私たちが完全に主のものとなるために、私たちを買い取ってくださったのです。イエス様は、私たちと語らうこと、また交わりを持つことを心から望んでおられます。それですから、主を知って自由に語らしめるということが信者にとって非常に大切です。 そして第3に、すべてのものを識別することが必要だとありますね。盲従はしばしば誤りにつながります。吟味せずに従うことは誤っていると聖書は言っています。そして盲従を要求する者は、御霊とは違ったものにあって動かされているのです。 たとえば、ドイツのアドルフ・ヒットラーが盲従を要求し、統一教会の文鮮明も同じことを要求しているのです。盲従する者は、結局イエス様を拒むのです。私たちは、各々自分の識別と納得によって、自由意志でイエス様に従うべきです。 私たちは、あることがみことばに基づいているかいないかについて、まず識別しなければなりません。それから、みことばに基づいていなければ、それから離れるべきであり、みことばに基づいていれば、それに従うべきです。したがって順序として、まず初めに識別、それから信仰、そして最後に従順となるわけです。私たちは、みことばによってあることを識別するならば、その意味が解からなくても従うべきです。 今まで3つの点について考えましたね。健全な教会の取るべき態度、健全な教会の特長、3番目、健全な教会の奥義。 最後に健全な教会の頭について、ちょっと考えたいと思います。 イエス様は、全く清めてくださるお方であり、再び来られるお方であり、保証人になられるお方であると聖書は言っています。 第1に、頭なるイエス様ご自身が、私たちを全く清めてくださるお方です。 第2に、頭なるイエス様の来臨こそが、我々の望みです。 第3に、私たちが目標を達成することに対する保障が、頭なるイエス様であることについてこれからちょっと見てみましょうか。 テサロニケ人への手紙第I、5:23
とパウロは確信を持って祈っています。 パウロは、テサロニケの集会をことごとくイエス様に委ねました。というのも、人間には不可能なように思われることも、主はお出来になるのです。 エペソ人への手紙5:25-27
イエス様は、教会を愛し清めて聖なるものとするために、ご自身を捧げられました。私たちが救われたのは、ただ単に罪の許しを得るためだけではなく、全く聖なる者となるためです。 自分の力によってこの目的を達成することは全く不可能ですが、イエス様ご自身がなさろうと思うことを完成してくださるのです。 主の清めとは、表面的なことではなく霊と心とからだすべてを含んでいます。 第2に、清めの目的は、イエス様ご自身が再び来られることです。イエス様が来られる時、私たちはすばらしい婚宴に臨む幸いにあずかることができるのです。 ふつう花嫁は、一番汚い結婚衣装を探して着ようとはいたしません。むしろ反対に一番きれいな衣装を着たいと思うのです。そのようにイエス様の花嫁として招かれている私たちも、いろいろな苦難や患難を通して初めて、充分な備えができるようになるのです。 そしてまさにその時、主イエス様は再び来られます。 最後に、目標を達成することの保証人がイエス様ご自身であることについて考えて終わりたいと思います。 テサロニケ人への手紙第I、5:24
我々、自分の力や努力によるのではなく、イエス様が成そうと思われるゆえにそのことが成就されるのです。 イエス様は、真実であられるから、私たちは完全にイエス様に信頼することができます。イエス様は、私たちを忌まわしい過去から救い出してくださり、あらゆる罪を消し去ってくださいました。 イエス様は、現在も私たちの主であられ、私たちを助け、導き、全く清めてくださいます。そしてイエス様こそ、我々の将来の生きた望みなのです。 テサロニケ人への手紙第I、5:25-28
25節から28節までにおいて、パウロはあいさつを書き送っています。このことから初代教会の特長が、真心がこもった本当の愛であったことが解かります。 しかもパウロは、単に長老たちやごく一部の兄弟姉妹だけでなく、すべての兄弟姉妹にあいさつを送り、手紙を読み聞かせるように言っているのです。教会は決していろいろな集団、たとえば霊的に大人の信者と子供の信者であるとかといった風に分けることはよろしくないと言っているのです。 教会は、一つの統一を持ったものであり、パウロはすべての兄弟姉妹を心から愛したのです。そして神の御心が現れることを、すべての兄弟姉妹が知ることこそ、パウロの関心事だったのであります。 |