引用聖句:ヨハネの手紙第I、3章1節-3節
今日の題名は、「信じる者の幸せ」です。理解するものではない、信じる者の幸せです。 信じることとは幸せなのではないでしょうか。なぜならば、人間だって信じようと思っても、できるものではない。 けれども、イエス様の一つの名前は、信仰の創始者であります。信じられないけど、信仰をお与えになってくださいという態度を取ると、主は必ず与えてくださるのです。 本当の幸せを知っている者は、信じる者だけなのではないでしょうか。イエス様の他の弟子たちは、もう皆迫害され、殺されてしまったし、ヨハネだけ残されたのです。どうしてであるかと言いますと結局、手紙を書くために、ヨハネの黙示録を書くために必要だったからです。 彼は何歳の時、この手紙を書いたか解かりません。けども、当時の兄弟姉妹を励ますために書いたに違いない。もし私たち一人ひとりも同じように言うことができれば幸いなのではないでしょうか。 だからもう一回読みます。今度は聖書の言っているとおりじゃなくて、複数形じゃなくて単数形で読みます。 ヨハネの手紙第I、3章1節から3節、「私が神の子どもと呼ばれるために、――事実、いま私は神の子どもです。――御父はどんなにすばらしい愛を与えてくださったことでしょう。世が私を知らないのは、御父を知らないからです。 愛する者たち。私は、今すでに神の子どもです。後の状態はまだ明らかにされていません。しかし、キリストが現われたなら、私はキリストに似た者となることがわかっています。なぜならそのとき、私はキリストのありのままの姿を見るからです。 キリストに対するこの望みをいだく者はみな、キリストが清くあられるように、自分を清くします。」 ヨハネは、当時の信じる者に書いたのです。すなわち、私たちは解かっています。望んでいるのではない。はっきり確信しています。 この確信こそが、信じる者の幸せです。この所を3つに分けようと思えばできるでしょう。 第1番目、私たちは、今すでに神の子供である。 第2番目、私たちは、キリストに似た者となり、 第3番目、私たちは、キリストのありのままの姿を見るようになる。 現在について、一つの事実が述べられています。すなわち、私たちは今すでに神の子供です。そして、将来について、2つの事実が述べられています。すなわち、私たちはキリストに似た者となり、そして2番目、私たちはキリストのありのままの姿を見るようになる。 現在について、一つの事実、そして将来について2つの事実が述べられています。現在よりも将来は大切であるとはっきり書き記されています。 今の述べた事実について、少しだけご一緒に考えてみたいと思います。 信じる者の幸せの根拠は、第1番目に、私たちは今すでに神の子供ですと。神の子供となることこそ一番大切です。 唯一の生けるまことの神は、天地万物をお造りになられたお方です。そして、この主なる神は、主イエス様を通して救いの道を開いてくださいました。 我々信じる者は、自分の過去を振り返ってみると必ず、次のように言わざるを得ないでしょう。 すなわち、私は主なる神を知らなかったし、もちろん主なる神を恐れなかったし、また崇めようとしなかった。真理を信じるよりも、真理に逆らった者でした。 けども主なる神の働きの結果として、次のことを知るようになりました。 つまり、私は主なる神の前に罪がある。私は神の怒りのもとにいる。私は主なる神から遠ざかっているのであるから望みのない者ですと。 そして、神なき人生の無意味さ、また空しさを認識するようになり、またいかなる尽力も努力も、自分の罪の問題を解決することができないと認識したのです。 そして、上からの光に照らされた者として、破産を宣告し、自分の債務また自分の我がままを、イエス様に告白する恵みにあずかるようになりました。 結果として、私たちは、イエス様の流された血によって贖われ、主なる神の子供とされたことを確信するようになったのです。 我々の信仰生活の初めとは何だったでしょう。私たちは、十字架につけられたイエス様を、心の目で見たのです。聖書は次のように言っています。「見よ。世の罪を取り除く神の小羊。」 信じるとは、十字架につけられたイエス様を、自分のために死なれたお方として見ることです。 十字架につけられた主イエス様は、我々の罪のために、ちょうど避雷針のように、私たちの罪の上に下るべき聖なる神の怒りを受けてくださり、尊い贖いの代価を支払ってくださり、借用証書を無効にしてくださいました。十字架につけられたイエス様を、心の目で見て、イエス様のなされた救いの御業のために感謝をする者は、永遠のいのちを持つことができます。 イザヤ書45:22
十字架につけられたイエス様こそ、私たちが仰ぎ見なければならないお方です。仰ぎ見ることとは、すなわち受け入れることです。だからヨハネは、福音書の中で書いたのです。 ヨハネの福音書1:12
理解した人々ではない、 ヨハネの福音書1:12
信じる者は、私たちは今すでに神の子供ですと、喜びを持って告白することができます。 生けるまことの唯一の神の子供となることは最大の喜びです。全能なるお方は、私たちを神の子供としてくださいました。主なる神は、イエス様のゆえに、あなた方の父となってくださった。私たちは、もはや決して一人ぼっちではない。 この偉大なる主が、常に共にいてくださると考えると、大いに喜ぶことができるのではないでしょうか。 ある姉妹は、事故で体はめちゃくちゃになってしまったのですけど、結果として「よかった。」と言えるようになったのです。その前にやっぱり、自分の名誉、自分、自分、自分のことしか考えなかった。けれども、不幸になることによって、幸せになったと言うようになりました。 信じる者は、いったいどうして、主なる神の子供となったのでしょうか。主は、あわれんでくださったからです。新しく生まれ変わることによって、私たちは、神の子供となったのです。 そして、ちょうどこの世に生まれてきたことが一回限りのことであるのと同じように、新しく造り変えられるということも、一回的な事柄です。 回心の種は、聖書に書かれている神のことばであり、また神の霊の働きの結果です。しかし、この世に生まれてきたことが、人生の始まりであるのと同じように、回心も一つの始まりを意味しています。 赤ちゃんは、両親にとって最初は喜びの種でありますけど、生まれてから成長しなければ大変なことです。かえって悲しみの種になってしまうのではないでしょうか。 回心しても成長しなければなりません。回心は新しく造り変えられることの始まりですが、この変化と成長は、全生涯を通じて絶えず行なわなければならないのです。 初代教会の救われた人々は、確かに喜びを持って、また確信を持って告白することができたのです。すなわち、私たちは今、現在もうすでに神の子供ですと。現在として、大いに喜ぶことができるかと言いますと、自分の汚い過去が清算され、自分の過ちまた我がままは、流された血潮によって洗い消されたからです。 将来について、すなわち今からの成長について、次のように書かれています。第2番目の点になりますが、私たちは、キリストに似た者となります。 今まで言いましたように、救われるために、すなわち神の子供となるために、私たちはイエス様を自分の救い主として、見上げることです。「地の果てのすべての者よ。わたしを仰ぎ見て救われよ。」「見よ。あなたの罪を取り除かれた約束されている主イエスよ。」、イエス様は、次のように約束してくださいました。 ヨハネの福音書6:40
わたしを見て、 ヨハネの福音書6:40
救われた人々について、ここで私たちはキリストに似た者になりますとあります。 どういうふうに、キリストに似た者となるのでしょうか。パウロは、コリント人への手紙第IIの中で答えました。 コリント人への手紙第II、3:18
イエス様を仰ぎ見ると、知らないうちに変えられるようになり、勝利が与えられ、大いに祝福されます。 人間は、その人が見るものの姿に変えられます。ダビデは、詩篇34篇5節に次のように言ったのです。 詩篇34:5
とあります。あなたの目が探し求めているものは、あなたの人生を反映するでしょう。あなたの目が向けられているものにあなたはついてその姿に変えられます。 イエス様を見上げない限り、私たちは目に見えるものだけを見ても、決して満足することはできません。イエス様を仰ぎ見なければ、私たちは、導き支えてくれるものは何一つありません。 悪魔の誘惑の目的は、知らず知らずのうちに、イエス様を見上げることから、自分自身だけを見つめるようにと、私たちをいざなうことです。 イエス様を見上げることをしないで、自分だけを見つめる者は、傲慢や憂鬱に人間を導きます。イエス様を見上げない限り、人間は本当にみじめな自己中心に陥ってしまいます。 私たちは、イエス様の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。私たちは、いったいどこを見ているのでしょうか。いったい何に目を留めているのでしょうか。 自分自身を見たり、他人を見たりすることは、劣等感や卑屈な気持ちをもたらしたり、反対に優越感や傲慢な気持ちをもたらしたりするのです。そのような状態になる人々は、イエス様は、用いるまた祝福することができない。むしろ、悪魔の道具にされてしまいます。 自分自身を見たり、他人を見たり、周囲を見たりしないで、ただ高く引き上げられたイエス様だけを見上げることが、主と同じ姿に変えられて行く秘訣です。 信じる者の幸せの土台は、次の確信です。今話したように、私たちは、今すでに神の子供です。私たちは、キリストに似た者となります。 そして私たちは、キリストのありのままの姿を見るようになると。 何十年前だったか忘れました。病院に行って兄弟に出会ったのですが、状態は決して良くないし、意識不明だったらしいのですけど、祈った後で涙が出たから、間違いなく聞いたに違いない。その時、奥様である姉妹は、何回も何回も「もう少しだよ。もうすぐイエス様といっしょになるよ。」とご主人に言ったのです。 もう少しで、私たちもイエス様を、ありのままの姿で見ることができます。これは考えられないすばらしい事実です。私たちは、キリストのありのままの姿を見るようになると約束されています。その時、私たちは想像もできず、説明することもできませんが、私たちは主に似た者となります。 もちろん私たちは、主の御姿に似た者とされることが、我々の手柄ではない。ただ、主なる神の恵みによるのであることを知るようになり、主を崇拝せざるを得ないでしょう。 私たちが、造り変えられるために、私たちがすることのできることと言えば、ただ意識的に自分自身から目をそらし、周囲の人々からも目をそらし、イエス様お一人だけを見上げること。そして、主のみことばと主の霊が我々の心に働くことができることを妨げないことです。 私たちはみな、次のように告白すべきではないでしょうか。多くの不十分さ、未熟さ、欠点、不完全さを持った惨めなあわれな自分の姿を見て、日々痛いほどにその自分自身の姿を示される時、その自分が主の御姿に似た者とされるなどということは、どんなに考えても考えられないことであり、自分の内には、そのような可能性が一つもないと言わざるを得ません。 けれども聖書は、主のご計画と約束として、次のことをはっきり書いてあります。私たちは、主を見つめながら主と同じ姿に変えられて行きます。 私たちは、キリストに似た者となることが解かっています。なぜなら、私たちはその時、キリストのありのままの姿を見るからです。 望んでる、希望しているのではない。解かっている。確信している。この確信の土台とは、もちろん自分の気持ちと関係ない。聖書はそう言っているからです。大切なことは、私たち自身の考えではない。考えられるかどうかでもない。また主のみことばは、そう語っておられますから、私たちはそれを、安心して信じることが許されています。 私たちでさえも、イエス様と全く同じ姿に変えられます。ローマ人への手紙8章28節は、よく読まれる箇所ですけど、その次の29節をちょっと引用します。 ローマ人への手紙8:29
我々の人生においては、いろいろ我々の重荷となるもの、我々の力を無力にするものがあります。その結果、私たちはすべてを投げ出して、あきらめてしまいたいと思うような気持ちになることもあるでしょう。 けれども、イエス様が我々の内に働く形造られるべきであるという、切なる願いを持って主の前に立つ者は、引き続き導かれ、いかなる困難も通り抜け、新しく形造られるようになります。 私たちは、キリストのありのままの姿を見るようになります。有名な箇所ですが、もう一回読みます。将来について考えると、いつもこの箇所を思い出すべきではないでしょうか。 テサロニケ人への手紙第I、4:13-18
もう何年も前に召されました姉妹は、本当に重病になりましたし、手足も使うことができなかったし、良い日と悪い日がもちろんありました。良い日の時、彼女は、指一本だけ1ミリくらい動かすことができたんです。それでコンピューターとつながって、彼女は自分の言いたいことを明らかにすることができた。 もちろん見舞いに行くといつもやっぱりね、何日前に知らせて、そしてその時、もし指をちょっとだけ動かすことができたら、何か書くようになったのです。 見舞いに行った時、彼女は何を書いたかと言いますと、「痛みのかたまりです。だからいつも祈っています。耳も聞こえないし、食べることもできず、ラッパの音を待つばかり。早く駆け足で迎えに来てください。再臨が近いものと首を長くして待っております。」、すばらしい信仰の告白ですね。博士論文よりも。 パウロは、いわゆるよみがえりの書、コリント人への手紙第Iの15章の中この再臨のことについて次のように書いたのです。 コリント人への手紙第I、15:51-52
彼は前に話したように、当時の信じる者を励ますために書いたのです。 ヨハネの手紙第I、3:2
「私たちはいつまでも主とともにいることになる」と毎日考えるべきなのではないでしょうか。 再臨を待ち望む者は、必ずイエス様のために生きたいという目標を持っています。 もう一箇所読んで終わります。パウロは、コロサイにいる兄弟姉妹に書いたことばです。 コロサイ人への手紙3:1-4
私たちのいのちであるキリスト、これは当時の信じる者の喜びの根拠でした。ヘブル人への手紙の著者はまた書いたのです。 ヘブル人への手紙12:2
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