勝利を得る為の戦い


ベック兄

(吉祥寺学び会、2014/05/20)

引用聖句:コリント人への手紙第I、9章26節-27節
26ですから、私は決勝点がどこかわからないような走り方はしていません。空を打つような拳闘もしてはいません。
27私は自分のからだを打ちたたいて従わせます。それは、私がほかの人に宣べ伝えておきながら、自分自身が失格者になるようなことのないためです。

パウロは、はっきり解かった。失格者になる可能性がある。救われていても、主の働きのために全く役に立たない人になる可能性があるとあります。
今朝の題名は「勝利を得る為の戦い」という題名をつけようと思います。
我々の人生において、最も大切なことは、言うまでもなく救い主を持つことです。すなわち、イエス様を体験的に知ることです。救いの神を知ることによって、初めて私たちは、この地上において満たされた生活を送ることができます。

満たされた人生を送るために、永遠のいのち、主なる神との平和、罪の赦し、したがってイエス様が私を心配し、そして導き守っていてくださるという確信が生活の土台とならなければなりません。
そして、私たちが死んだ後は、永遠に主イエス様と交わり、栄光を共にすることになるという確信こそが、最高の宝物なのではないでしょうか。
いつまでも、主イエス様と共になるという事実について考えると、もちろん見方が変わります。重荷から解放されます。主を礼拝せざるを得なくなります。

パウロの目的はいつも、信じる者はいつまでも乳飲み子の世話をするのではなく、救われた人々は全き人となることです。
エペソ人への手紙4章の中で、彼は大人になるべきと書いたのです。

エペソ人への手紙4:13
13ついに、私たちがみな、信仰の一致と神の御子に関する知識の一致とに達し、完全におとなになって、キリストの満ち満ちた身たけにまで達するためです。

イエス様を知ることは、確かに恵みです。しかし、私たちが主イエス様のために用いられる器となるために、イエス様を我々の主として、支配できるお方として、より良く体験的に知ることが大切なのではないでしょうか。
私たちは、永遠の勝利の冠を得るために生きていることとは、本当に大切です。
パウロは、愛弟子であるテモテに書いたのです。

テモテへの手紙第II、4:7
7私は勇敢に戦い、走るべき道のりを走り終え、信仰を守り通しました。

すごい告白です。もちろん、その後で彼は殉教の死を遂げて殺されてしまいました。別の時、書いたのです。

使徒の働き20:24
24けれども、私が自分の走るべき行程を走り尽くし、主イエスから受けた、神の恵みの福音をあかしする任務を果たし終えることができるなら、私のいのちは少しも惜しいとは思いません。

ヘブル人への手紙の著者は、よく知られている箇所ですけれど、次のように書いたのです。

ヘブル人への手紙12:1-2
1こういうわけで、このように多くの証人たちが、雲のように私たちを取り巻いているのですから、私たちも、いっさいの重荷とまつわりつく罪とを捨てて、私たちの前に置かれている競走を忍耐をもって走り続けようではありませんか。
2信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。イエスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されました。

走ること、走り続けることとは、イエス様から目を離さないことです。
パウロは、おもに3つの異なったギリシャ、ローマ時代の競争についていろいろなことを書き記したのであります。今読みました箇所の中で、コリント人への手紙第Iの9章26節に「拳闘」という言葉が出てきます。
ギリシャ時代の競技のおもな種目の一つは、ボクシングすなわち拳闘だったのです。

これは最も激しい競技の一つだったようです。これはボクサーが互いに打ち合い、特に顔を打つことを目的とするところに、その本当の面白さがあったようです。
すでに有名なローマの時代、すなわち紀元前900年頃、手に革のグローブをはめ、とくには金属をつけたので、非常に危険な競技であり、死者が出るほどだったそうです。
決定的なパンチは、目の下を打つことであり、それは今日ノックアウトと呼ばれているようなものだったのであります。

パウロは、この表現を聖書の中で用いていますね。すなわち読んでもらいましたコリント人への手紙第Iの9章26節、「私は決勝点がどこかわからないような走り方はしていません。空を打つような拳闘もしてはいません。」、失格者にならないようにとあります。
ここで「自分のからだを打ちたたいて従わせます」とは、自分自身のからだにパンチを与え、特に目の下にパンチを与えることによって、自分自身のからだを完全にノックアウトさせることを意味しているのであります。
すなわち、これは次のようなことを意味します。

キリスト者は、自分の命を少しも惜しいとは思わないことです。すなわち、もしも自分中心の考え方、自分だけの願いや欲望、楽な生活を送ることや快楽を求めることが自分にとって、勝利の戦いを勝ち取るために妨げとなるならば、それらのものをはっきりと否定しなければなりません。
これは自分のこぶし、拳骨を傷つくのを恐れて、敵を打つかわりに空を打つようなことは決して許されません。そのような拳闘は、いずれにしても勝利を得ることができないことは確かです。
パウロは、言うことができたのです。

使徒の働き20:24
24私が自分の走るべき行程を走り尽くし、主イエスから受けた、神の恵みの福音をあかしする任務を果たし終えることができるなら、私のいのちは少しも惜しいとは思いません。

パウロは、ここで禁欲生活や修道院生活を勧めているのではない。むしろ、競技者としてすべての力を全身全霊を持って、一つの大きな目標に向けることが大切です。そのことによって、勝利を得ることができます。
パウロは、ここで、霊、肉の戦いについて述べているのではないでしょうか。
新約聖書は、いろいろなところで霊と肉との対立について書いてあります。一箇所見てみましょうか。

ローマ人への手紙8:4-9
4それは、肉に従って歩まず、御霊に従って歩む私たちの中に、律法の要求が全うされるためなのです。
5肉に従う者は肉的なことをもっぱら考えますが、御霊に従う者は御霊に属することをひたすら考えます。
6肉の思いは死であり、御霊による思いは、いのちと平安です。
7というのは、肉の思いは神に対して反抗するものだからです。それは神の律法に服従しません。いや、服従できないのです。
8肉にある者は神を喜ばせることができません。
9けれども、もし神の御霊があなたがたのうちに住んでおられるなら、あなたがたは肉の中にではなく、御霊の中にいるのです。キリストの御霊を持たない人は、キリストのものではありません。

同じ事実についてパウロは、またガラテヤ地方に住んでいる兄弟姉妹に書いたのであります。

ガラテヤ人への手紙5:17
17なぜなら、肉の願うことは御霊に逆らい、御霊は肉に逆らうからです。この二つは互いに対立していて、そのためあなたがたは、自分のしたいと思うことをすることができないのです。

ここで肉という場合には、ただ単にイエス様に逆らう罪深い肉欲のことだけではなく、人間の生まれつきの古い性質について語られています。

ガラテヤ人への手紙5:19-21
19肉の行ないは明白であって、次のようなものです。不品行、汚れ、好色、
20偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、
21ねたみ、酩酊、遊興、そういった類のものです。前にもあらかじめ言ったように、私は今もあなたがたにあらかじめ言っておきます。こんなことをしている者たちが神の国を相続することはありません。

パウロは、このようにガラテヤという地方に住んでいる兄弟姉妹に、書きました。
彼の挙げた肉の業の半分以上は、まさに精神生活の罪の領域に属しているのではないでしょうか。
ただ単に不品行、汚れ、好色だけが、肉の業ではなく、敵意、ねたみ、争い、愛のないこと、さらには呪い、偶像礼拝、さらには律法的になることや、禁欲主義なども肉の業に他なりません。

コロサイ人への手紙2:16-17
16こういうわけですから、食べ物と飲み物について、あるいは、祭りや新月や安息日のことについて、だれにもあなたがたを批評させてはなりません。
17これらは、次に来るものの影であって、本体はキリストにあるのです。

コロサイ人への手紙2:20-23
20もしあなたがたが、キリストとともに死んで、この世の幼稚な教えから離れたのなら、どうして、まだこの世の生き方をしているかのように、
21「すがるな。味わうな。さわるな。」というような定めに縛られるのですか。
22そのようなものはすべて、用いれば滅びるものについてであって、人間の戒めと教えによるものです。
23そのようなものは、人間の好き勝手な礼拝とか、謙遜とか、または、肉体の苦行などのゆえに賢いもののように見えますが、肉のほしいままな欲望に対しては、何のききめもないのです。

とあります。たとえば、不品行と禁欲主義とは、表面的には正反対のものであるけども、イエス様の目から見ると、一つのものの両面にすぎません。
言葉を変えるならば、みだらな卑しい肉の業だけでなく、謙遜らしく、信心深くカモフラージュされた肉の業も、全く同じものです。なぜならば、イエス様に頼らないで、自分自身の力でやろうとすることは罪だからです。
ガラテヤの兄弟姉妹は、律法的な行ないをして、自分自身を清めることによって、自分自身を完成させることができると思い込んでしまったのです。パウロは、このような宗教的な努力に対して、次のように書いたのです。

ガラテヤ人への手紙3:3
3あなたがたはどこまで道理がわからないのですか。御霊で始まったあなたがたが、いま肉によって完成されるというのですか。

このような意味において、霊と肉、すなわち古き人と新しい人、すなわち罪人の自己と新しく生まれ変わり、新しいいのちを植えつけられた人との間には、常に対立が存在します。
つまり、私たちは、自分自身をノックアウトさせるべきです。あるいはイエス様ご自身が、山上の垂訓で命令されているように、次のように書かれています。

マタイの福音書5:29-30
29もし、右の目が、あなたをつまずかせるなら、えぐり出して、捨ててしまいなさい。からだの一部を失っても、からだ全体ゲヘナに投げ込まれるよりは、よいからです。
30もし、右の手があなたをつまずかせるなら、切って、捨ててしまいなさい。からだの一部を失っても、からだ全体ゲヘナに落ちるよりは、よいからです。

だからパウロは、コロサイにいる人々にまた書いたのです。

コロサイ人への手紙3:5
5ですから、地上のからだの諸部分、すなわち、不品行、汚れ、情欲、悪い欲、そしてむさぼりを殺してしまいなさい。このむさぼりが、そのまま偶像礼拝なのです。

しかし、それと同時に私たちは、次のようなことをも体験するでしょう。すなわち、肢体の存在する罪の法則を克服することによって、からだは卑しめられず、むしろ聖められ高められるのです。
人間のからだは、実際問題として聖霊の宮であると聖書は言っています。

コリント人への手紙第I、6:19
19あなたがたのからだは、あなたがたのうちに住まれる、神から受けた聖霊の宮であり、あなたがたは、もはや自分自身のものではないことを、知らないのですか。

「忘れたのでしょうか」とパウロは、コリントにいる兄弟姉妹に書き記したのであります。
新約聖書の手紙を見ると、はっきり言えることとは、すなわち人間のからだは、義の武器であるべきです。

ローマ人への手紙6:13
13また、あなたがたの手足を不義の器として罪にささげてはいけません。むしろ、死者の中から生かされた者として、あなたがた自身とその手足を義の器として神にささげなさい。

人間のからだは、生きた聖なる供え物であるべきですから、パウロは同じくローマ人への手紙12章1節に書いたのですね。

ローマ人への手紙12:1
1そういうわけですから、兄弟たち。私は、神のあわれみのゆえに、あなたがたにお願いします。あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。

人間のからだは、主の栄光を現す手段であるべきです。

コリント人への手紙第I、6:20
20あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。ですから自分のからだをもって、神の栄光を現わしなさい。

人間のからだは、よみがえりの時には、栄光のからだに変えられるようになるとパウロは、コリントにいる兄弟姉妹に書いたのです。15章、よみがえりの書と呼ばれている箇所ですね。

コリント人への手紙第I、15:43-47
43卑しいもので蒔かれ、栄光あるものによみがえらされ、弱いもので蒔かれ、強いものによみがえらされ、
44血肉のからだで蒔かれ、御霊に属するからだによみがえらされるのです。血肉のからだがあるのですから、御霊のからだもあるのです。
45聖書に「最初の人アダムは生きた者となった。」と書いてありますが、最後のアダムは、生かす御霊となりました。
46最初にあったのは血肉のものであり、御霊のものではありません。御霊のものはあとに来るのです。
47第一の人は地から出て、土で造られた者ですが、第二の人は天から出た者です。

人間のからだそのものは、決して主に反するものではない。それゆえに、あえてそれを否定する必要はありません。
そうではなく、むしろ逆に、主なる神が造られたものとして、人間の精神と同様にからだも肯定されなければなりません。
しかし、私たちのからだは、しばしば罪のために悪魔の道具として用いられる可能性、また危険性があるので、絶えず打ちたたかなければならないのです。

前に述べたように、からだを打ちたたくということは、からだそのものが悪いということを意味するのではなく、そのことによって、本来人間のからだが果たすべき機能と役割を、正しい状態に置き、そのことによって真の自由を得ることができます。
罪は低くされ、神聖さは高められます。罪は恥であり、神聖さ、聖さは我々の名誉です。このことは、我々の魂の精神だけではなく、肉体についても当てはまることではないでしょうか。
したがって、からだを打ちたたくことは、からだを駄目にしてしまうことではない。むしろ反対に、からだを助ける役割を果たすものです。

人間のからだは、罪の道具として用いられないようにするため、絶えずからだを打ちたたき続けなければならない。
けれど、主の創造としてのからだは、主の道具として用いられることもあることを忘れてはなりません。からだは、非常に大きな使命を持っています。それは精神の道具です。
このからだを通して、私たちは外の世界と交わりを持っています。

我々を取り巻く周囲の人々は、我々のからだが行動することによって、私たちがいかなる者であり、何を考えているかということを、正しく理解することができます。
例えば、話したり、書いたり、動いたり、行なったり、目の動きであるとか、顔の表情やしぐさ、さらには、一般にからだの形、人の歩き方や働き方、食べ方や飲み方を通して、回りの人々は我々のことを理解することができます。
もしも、からだがなかったならば、周囲の世界は何も解からない、謎なのではないでしょうか。したがって、我々のからだの肢体は、義なる主の道具として次のことを明らかにするために、用いられるべきです。

イエス様は、生きておられる。私たちは、イエス様を通して、生きておられる救い主であることができる。イエス様だけが、我々の罪の支配から解放し、死の恐れから解き放ってくださる唯一のお方です。
イエス様は、復活された方であり、新しい永遠のいのちを私たちに与えてくださった方であり、実際イエス様は、我々のいのちに他ならない。
パウロはコロサイにいる人々に書いたのです。

コロサイ人への手紙3:4
4私たちのいのちであるキリストが現われると、そのときあなたがたも、キリストとともに、栄光のうちに現われます。

パウロは、ローマの刑務所の中で書いたのです。

ピリピ人への手紙1:21
21私にとっては、生きることはキリスト、死ぬこともまた益です。

パウロは、このからだのことについて、主イエスのいのちがこの身に現れるためであると、はっきり言っています。

コリント人への手紙第II、4:10
10いつでもイエスの死をこの身に帯びていますが、それは、イエスのいのちが私たちの身において明らかに示されるためです。

そしてイエス様のいのちが、私たち自身のからだを通して完全に現れると聖書は言っています。
聖書の約束によると、人間のからだも将来に対して希望を持っています。現在のからだの聖めも大切ですけど、それは同時に将来の変容をも意味しているのではないでしょうか。

ローマ人への手紙8:11
11もしイエスを死者の中からよみがえらせた方の御霊が、あなたがたのうちに住んでおられるなら、キリスト・イエスを死者の中からよみがえらせた方は、あなたがたのうちに住んでおられる御霊によって、あなたがたの死ぬべきからだをも生かしてくださるのです。

したがって、最後の勝利を得る為には、現在我々のからだが聖められなければなりません。
パウロは、ピリピ人への手紙3章の中で次のように言ったのであります。私たちは、「競技場で一生懸命に戦うことが必要である。」、それはただ単に、救われる問題なのではなく、神の勝利を得るために必要なのです。

ピリピ人への手紙3:12-14
12私は、すでに得たのでもなく、すでに完全にされているのでもありません。ただ捕えようとして、追求しているのです。そして、それを得るようにとキリスト・イエスが私を捕えてくださったのです。
13兄弟たちよ。私は、自分はすでに捕えたなどと考えてはいません。ただ、この一事に励んでいます。すなわち、うしろのものを忘れ、ひたむきに前のものに向かって進み、
14キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の栄冠を得るために、目標を目ざして一心に走っているのです。

そして最後に私たちのからだが、イエス様の栄光のからだと同じ形に変えられるようになります。

ピリピ人への手紙3:20-21
20けれども、私たちの国籍は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主としておいでになるのを、私たちは待ち望んでいます。
21キリストは、万物をご自身に従わせることのできる御力によって、私たちの卑しいからだを、ご自身の栄光のからだと同じ姿に変えてくださるのです。




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