主にあって喜べ


ベック兄

(吉祥寺学び会、2014/05/13)

引用聖句:テサロニケ人への手紙第I、5章16節-18節
16いつも喜んでいなさい。
17絶えず祈りなさい。
18すべての事について、感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。

今読んでくださった言葉は、もちろん多くの人々にとって知られている言葉であり、けど、もう解かった、そうしようと思っても、そんなに簡単なものではない。
聖書の多くの戒めは、守るためじゃなくて、破るために書かれている。主は、いろいろなことを言います。けれども、人間は頑張っても守られないと解かっているのです。人間が思う通りに生活できれば、イエス様は必要ない。だから、いろいろなことで悩むこととは、確かに辛いことです、嫌です。面白くないけど必要です。
「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべての事について、感謝しなさい。」、これは単なる提案ではなく、はっきりとした主の命令です。人間の幸せのために書かれたことばなのではないでしょうか。

言うまでもなく、今日の集いも、いろいろな教えを知るため、守るために努力することではない。いつものように集まる時、大切なのは、何でも知っておられ、何でもできるイエス様を紹介するためです。
イエス様から目を離すと、もちろん滅茶苦茶です。けれども、イエス様のことを考えると、希望が湧いてきます。なぜならば、一つの名前は「望みの神」であるからです。望みの神が生きておられるから大丈夫。心配する必要がない。私たちは皆、口をそろえて言うことができればありがたい。
すなわち、イエス様は何でもできるお方であるから、私たちは、主に頼ろうと決めたと。確かにイエス様のない人生は、面白くない。無関心であり、無意味です。なぜならば、イエス様のみが本物を、永遠のいのちを与えられるお方であるからです。

イエス様だけが、真の満足をあたえることができ、すべての問題を解決することができる力を持つお方であるからです。そういう意味で、今日の集いも喜びの集いなのではないでしょうか。なぜならば、イエス様が導いてくださったと、集った大部分の人々は告白することができるからです。
イエス様は、すごい比類なきお方です。ですから今日の集いも、このイエス様の忠実さを褒め称えるお祝いのようなものです。イエス様は、決して捨てない。「わたしは、決してあなたがたを離れず、あなたを捨てない。」と約束してくださったイエス様は、忠実なるお方です。
だから私たちも新たに本気になって、イエス様の約束を信じ、すべてをゆだねることができるのです。

人生とは、言うまでもなく人間の幸せのためにあるべきです。人間は、幸せになりたいのであり、なぜならばもし幸せにならなければ、すべては面白くないし、意味のないものになってしまうからです。
「これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。」と書いてあります。主なる神が、何を望んでおられるのでしょうか。言うまでもなく、キリスト教に入ることでもないし、あるいは、特別な教えを信じこむことでもないし、自分の知恵や自分の力に頼って、より良い人間になることでもありません。
主なる神の要求、また命令は、今の箇所を見ると3種類のものなのではないでしょうか。

第1番目、いつも喜んでいなさい。たまにではない。一日おきでもない。「いつも」。
旧約聖書の中で358回、喜ぶ大切さについて書き記されています。新約聖書の中で133回、合わせて491回、喜ぶことの大切さ、必要性また可能性について書き記されています。
もちろん一番大切な言葉は、「キリスト・イエスにあって」ということばです。

すなわち、この誰からも奪われることのない喜びの秘訣は、イエス様です。イエス様を知り、イエス様と生き生きとした交わりを持つことによって、あらゆる人間的な思い、例えば孤独、傲慢、自分中心の利己主義、無味乾燥な悲哀感、そして絶望などあらゆる悩みが解消してしまうのです。
そして、他方においては本当の喜び、平安、満足が与えられます。イエス様は、我々にまことの救い、すなわち罪の赦しを与えるためにこの世に来てくださり、救いの代価を払ってくださり、自分のいのちを捨ててくださいました。このイエス様を体験的に知るということは、結局、永遠のいのちを持つことを意味しているのです。

イエス様との交わりの中にこそ、本当の喜び、絶えざる喜びの源があります。すなわち、イエス様こそ、いのち、希望、喜び、平安の泉そのものであるからです。
イエス様によって、すべての悲しみは喜びに変わります。イエス様によって、仕事の重荷が喜びに変わります。イエス様によって、疲れ果てた者が新しい力を得ることができます。イエス様によって、あらゆる人間的な努力の空しさ、またあせりが全き平安と安らぎの静けさに変わるのです。
本当の喜びの泉とは、もちろんこの目で見える現実ではない。イエス様ご自身です。

イエス様がこの地上に来られた時、2,000年前に御使いが言ったのです。「恐れることはありません。今わたしは、この民全体のための新しい、すばらしい力を知らせに来たのです。あなたがたのために救い主がお生まれになりました。この方こそ、主キリストです。」と。
変わらない喜びがなければ、人生は全く重苦しいものになってしまいます。変わらない喜びがなければ、人生は退屈なものになります。主のみことばである聖書を通して、提供されているすばらしい喜びは、単なる楽しみ、享楽、快楽、あるいは一時的な問題の解決よりずっと大切なものです。
聖書を通して、提供されているすばらしい喜びは、絶えざる幸せを心の底から感じさせるものであり、また心配や不安を解消するものです。そして全き平安に導き、完全に父なる神の御手の中に守られていることの確信を強めてくれるものです。

「マリヤは、男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。この方こそ、ご自分の民をその罪から救ってくださる方です。」と。あらゆる人間のどうしても必要なものは、罪の赦しを得ることです。
なぜならば、罪が赦されると初めて主なる神との交わりが可能になるからです。そして父なる神との交わりによってのみ、人間は満たされ、幸わせになるのです。
誰からも奪われることのない喜びの根拠は、罪の赦しです。罪は、人間とまことの神との間に隔てている壁そのものです。

けれども、イエス様の犠牲によって、主イエス様の身代わりの死によって、この人間と神との隔ての壁が取り去られたのです。身代わりとなる方がなければ、罪のない方が代わりに死ななければ、救いの道がない。罪の赦しはないと聖書は、はっきりと言っています。
イエス様が十字架で死んでくださった時、イエス様は人間一人ひとりの代わりに死んでくださいました。すなわち、イエス様の死は、人間の罪に対する罰また裁きでした。イエス様の死によって、罪は罰せられたから今になって聖なる主なる神は、我々の罪を赦すことができるようになりました。
結局、へりくだればOK。告白すれば赦されるだけではなく、永久に忘れられるとあります。

主の約束を信じる者は、救われます。結果として罪は赦され、神との平和と永遠のいのちを持っていることになります。そしてこのことこそが、まことの喜び、誰からも奪われることのない喜びの根拠です。
変わらない喜びは、我々自身の中にあるのでもなく、我々の持っているものや周囲のものの中にあるのでもなく、ただイエス様ご自身の中にあります。
イエス様に結びついていることが許されているということこそ、本当の喜びを意味しているのです。すべての他の喜びは、たいしたものではない。過ぎ行くものであり、永遠に続くものではありません。

「いつも喜んでいなさい。」これは、主の命令です。これこそが、主の思いであり、主の望んでおられることです。
悲しさ、落胆、敗北感は禁じられています。主は、我々がいつも喜ぶべきであると強く言っておられます。この主の命令に対して、不従順な態度をとることは結局、罪です。

第2番目、絶えず祈りなさい。祈ることこそが、人間にとって最も大切です。祈らない者は、みじめであり、あわれむべき存在です。祈らない者は、喜びがないし、実を結ばないし、主によって用いられ得ない。
なぜ多くの人は、打ちのめされているのでしょうか。ほとんど祈らないか、ほんのわずかしか助けを求めないからです。
なぜ多くの敗北を体験するのでしょうか。ほとんど祈らないか、祈ったとしてもほんのわずかしか祈らないからなのではないでしょうか。
なぜわずかな人しか、暗やみから主の光の中に導かれないのでしょうか。ほとんど祈らないか、あるいは祈りが少なすぎるなのではないでしょうか。

何でもできるお方は、以前と同じように今もなお、全能なるお方です。以前と同じように今もなお、人を救おうと心から願っておられます。すなわち、主の御手が短すぎて、助けることがお出来にならないのではありません。
すべての心配の原因は、我々の不十分な祈りの生活なのではないでしょうか。
祈りによって私たちは、全能なる主の力を用いることができるのです。すなわち、私たちが祈る時、全能なる主は奇跡を行なってくださいます。残る実は、いつも真剣な祈りの結果です。

我々の人生の目標は、いったい何なのでしょうか。それは、知恵でも名誉でも力でもなく、永遠の実なのではないでしょうか。そしてこの実は、ただぶどうの木であるイエス様と結びついている時にのみ、実を結ぶのです。主と結びついていなければ、そして祈りの生活がなければ、後に残る実を結ぶことはできません。
「絶えず祈りなさい。」これは、主の望んでおられることです。主の恵みによって、祈りの人になりましょうよ。そうしたら、私たち自身が変わります。家族も友達も、知り合いの人々も変わります。
絶えず祈ることは、自分勝手な行ないをせずに、主に拠り頼むことです。主に拠り頼むこととは、すばらしい特権そのものです。私たちが、祈るか祈らないかということは、我々にとってどうでもいいことではありません。絶えず祈ることは主の命令です。そして、主の命令に従わないことは罪です。一つの隔ての壁です。

最後に第3番目、すべてのことについて、感謝しなさい。
もし、「たまに喜びなさい。日曜日ごとに喜べ。」と言われれば、なるほどと誰も思うでしょうけど、イエス様は「いつも喜びなさい。」と命令しておられます。もし、「時々祈りなさい、少なくても朝と晩」と言われれば、誰でもがそうでしょうと賛成しますけれど、主は「絶えず祈りなさい。」と命令しておられます。
そして、今度は「ある時について感謝しなさい。」と言われれば、「わかった、わかった。」と誰でも賛成するでしょう。けど、主は「すべての事について、感謝しなさい。」と命令しておられます。

「すべて」と書かれています。すべてのことを通して、私たちは主イエス様をより良く知るべきです。ただイエス様をより良く知ることとは、最も価値のあることですので、私たちは意識して、本当にすべてのことについて感謝しようではないでしょうか。
絶えず祈ること、いつも喜ぶことができる。まさに祈ることが、絶えず祈ることができる。すべてのことについて、感謝することができると思う人がいれば、ちょっと気の毒。絶対にできません。
イエス様は、はっきり言いました。「わたしを離れては、あなたがたは何もすることができません。」、イエス様から離れて、誰からも奪われることのない喜びを知ることができないし、絶えず祈ることもできないし、そしてすべてのことについて、感謝することができません。

ヨハネの福音書15章は、皆さんよく知っている所ですけれど、ヨハネの福音書15章の姿を見ると、「イエス様ご自身がまことのぶどうの木であって、あなたがたはその枝である。」とあります。木の幹がその枝に力を送って、枝が多くの実を結ぶことができます。ぶどうの幹は、力といのちが満ちています。
そして、イエス様は約束してくださいました。「人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は、多くの実を結びます。」
イエス様から離れては、私たちは本当の意味で、信じることも祈ることも悔い改めることも、愛することも感謝することもできません。少しもできません。それはイエス様のことばです。そしてイエス様は、何事でも大仰に言われないお方です。

私たちは、告白すべきなのではないでしょうか。私たちは、主の願っていることをちゃんと解かっている。けど、守ろうと思っても難しいだけではなく、無理です。不可能です。だから私たちは、何でもできるお方に頼ろう。自分たちは、みじめ、貧しい者であるから、全能なる主に頼る。
主に頼ること、主に寄りかかることは、結局、泉とつながることを意味しています。信仰生活を通して、学ぶべき事はペテロの経験じゃなければならないことでした。
主は、彼に言われました。

ヨハネの福音書21:18
18まことに、まことに、あなたに告げます。あなたは若かった時には、自分で帯を締めて、自分の歩きたい所を歩きました。しかし年をとると、あなたは自分の手を伸ばし、ほかの人があなたに帯をさせて、あなたの行きたくない所に連れて行きます。」

全く主に寄りかかるということが、実を結ぶこと、また祝福された信仰生活の秘訣そのものです。




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