引用聖句:詩篇139篇23節-24節
マラキ書3:10
ピリピ人への手紙3:8
今読んでくださった箇所の内容とは、「主イエス様を知る大切さ、必要性、また可能性」についてなのではないかと思います。 我々人間にとって最も大切なのは、主イエス様を知ることです。どうしたら、イエス様をより良く知ることができるのでしょうか。2つのことが言えます。 まず第1に、私たちが、主に試されることによってです。第2に、私たちが、主を試すことによってです。この両方の働きが必要です。 聖書を読むと、2種類の罪についてよく書き記されています。怠慢の罪と欲望の罪についてです。 漠然とした罪の悔い改めは、あんまり役に立たないものです。私たちは、一つひとつの罪を犯しましたから、一つひとつ教えられて、それを悔い改めなければなりません。 主の光によって照らされた時、私たちは大きな恵みを体験的に知るようになりました。ヤコブという弟子は、次のように書いたことがあります。 ヤコブの手紙4:17
とあります。すなわち、感謝をしないこと、主に対する愛の欠乏、心を開いて聖書を読まない怠慢、不信仰、祈りの少ない生活、親戚、肉親、友人たち、多くの滅び行く魂に対する愛の欠乏、他の兄弟姉妹のために目を覚ましていないこと、己を捨てて主に従わないこととは、全部罪と呼ばれています。 そして第2番目の罪の種類は、欲望と呼ばれる罪です。この欲望の罪とは、いったい何なのでしょうか。 第1番目、地上のことを思うことです。地上のことを思うこととは、罪と呼ばれています。 ピリピ人への手紙3:19
パウロは、それは未信者のためじゃなくて、信じる者のために書いたのです。「彼らの思いは地上のことだけです。」 私たちは、上のものを本当に心から求めているのでしょうか。それとも、地上のものを求めているのでしょうか。 私たちは、主のものとして主のご計画に従わず、自ら立てた計画どおりに、このことを運ばれると思ったら誤りです。 私たちは、尊い値を払って買い取られた主のものです。私たちの持っているお金も、もちろん主のものです。 旧約聖書に十分の一を捧げれば良かったんです。けど、主は我々のすべてを自分のものにしたく、願っておられます。 我々の時も、もちろん主のものです。くだらない冗談や夢ものに時間を費やすことは、主を悲しませるでしょう。あらゆる地の思いは、罪と呼ばれています。 2番目、高ぶり。高ぶりも罪であります。私たちは例外なく、高ぶりの心を持っています。 私たちは心を、整えることよりも、多くの時を体裁を飾るために用いないでしょうか。他の人々が我々の身なりをどう思うか、非常に気にしますが、主は我々を、どう思っておられるかは、あんまり心に留めないで生活しているのではないでしょうか。結局、これは人よりの誉れを求め、主よりの誉を求めていない人々の姿を現してはいないでしょうか。 パウロのすばらしい告白は、ガラテヤ人への手紙1章10節に書き記されています。 ガラテヤ人への手紙1:10
救われているでしょうけど、主に用いられる器ではない。ヤコブは、聖書全体が言わんとしていることを本当にうまくまとめて書いたのです。 ヤコブの手紙4:6
豊かな恵みを与えられることは、すなわち、イエス様をより良く知ることの秘訣です。豊かな恵みの反対は、退けられることです。神は、高ぶる者を退け、へりくだる者に恵みをお授けになる。 3番目、ねたみ。ねたみも罪と呼ばれています。 人々は、他の人が先に出るとねたみ、ある人に人々の注目が集ると、その人をねたみ、ある人が豊かな生活をしていれば、その人をねたみます。 人の欠点を人の失敗を話することは、人の長所を話すより好きだという生まれながらの性質を、人間は皆持っています。これは罪であり、サタンからの思いと言わなければなりません。私たちも、この罪を認め、言い表すべきなのではないでしょうか。 4番目、裁きの霊を持つことです。裁きの霊を持つことも罪です。私たちは、しばしば、詳しい事情も知らないで、人を裁きます。私たちは、すべてのことを善意に解釈する愛を持っているのでしょうか。 5番目、悪口も罪です。無言電話もそうでしょう。たとえ、信者が御霊より何年もかかって、お互いの間に愛が培われたとしても、一言の悪口でその間は引き裂かれてしまいます。 6番目、偽り。偽りも罪です。偽りは、意識しながら人を欺くことです。我々の外側と内側が違うのは偽りです。我々の言葉、まなざし、行ないは、たびたび偽りを成さないことでしょうか。心に反して行動しないでしょうか。 7番目、偽善も罪です。信者の場合は、祈りの上でも偽善者になる場合があります。主に思いもしないことを願う場合があります。祈った後、何を祈ったか覚えていないような場合もあります。罪を告白しても、本当にそれから離れず、罪の中を歩みたい気持ちを残します。 私たちは、ありのままの姿にならなければなりません。お互いに対して、100%正直にならなければ、主をより良く知ることができないでしょう。私たちは、光の中を歩まなければ、結局、悪魔の勝利になります。 8番目、気まぐれです。気まぐれも罪であります。気まぐれの信者は、教会生活と家庭生活が違います。集会では真面目でも、家庭に帰って気の向くまま生活し、つまづきを与えたりすることでしょう。 9番目、軽薄も罪です。信者は、この世の名誉ある人が来れば、真面目になるように、主の交わりの中で、平気で冗談を飛ばしてしまいます。我々の生活は、もっともっと絶えず、主のご臨在の前を恐れを持って歩む者となりたいのではないでしょうか。 10番目、つまずきを与えることも罪です。我々の生活が、どれだけ他の人のつまずきになっていたかを、全部知ることができるなら、それはきっと私たちをびっくりさせるに違いない。 ここまで、いろいろな罪について述べてきましたが、これらを主に言い表し、あわれみを求めたいものです。ヨハネの手紙第I、1章9節に、次のように約束されているからです。 ヨハネの手紙第I、1:9
ソロモンは、また次のように書いたのです。 箴言28:13
私たちは、主の光の前に、真実な悔い改めを成したいものです。その時、恵みの雨は、主の霊は我々に降り注がれるにちがいない。 どうしたら、イエス様をより良く知ることができるのでしょうか。主が、我々をお試しになることがまず必要です。私たちは、主に試していただきたいものです。 どうしたら、イエス様をより良く知ることができるのでしょうか。今まで考えたように、私たちが、主に試されることによってです。 2番目の答えは、私たちが主を試すことによってです。 私たちが主をかえりみることが必要です。主は、まず私たちが主を試すことを待っておられるのです。忍耐を持って待っておられます。 前に読みました箇所もう一回読みますね。 マラキ書3:10
2回も「ためしてみよ。」という表現が出てきます。 両親の身持ちが悪いために、幼い時から両親と離れて生活しなければならず、親の愛を知らず、人の手にかかって育ったような人は、本当に不幸です。学資さえあれば何とかできたのに、将来思うとおりの職につくチャンスがないと、恨んでいます。このように自分の力を出しきるチャンスを持たないで、嘆いておられる方がおられます。 それは、救われた者のあいだに、救われた者をとおしてご自分の力を現す機会を見失っておられる主ご自身です。イエス様は、あふれるばかりの祝福を与えたいと望んでおられますけど、その機会を見つけません。主は、「わたしを試みてみよ。」と言われます。 主は恵みの雨を降らせる備えがありますけど、信じる者が主を試みなければ、祝福することができません。 主は私たちが条件を満たさないために、豊かな祝福を与えることができないで、悲しんでおられます。いつ、あふれるばかりの祝福が与えられるのでしょうか。答えは3つかな。 第1番目、主にのみすべての栄光を帰していきたいという、燃える熱情が信じる者の心を満たすなら、その時主をより良く知ることができ、あふれるばかりの祝福が与えられます。 第2番目、主の十字架の働きにより、自らの心がどんなにみじめなものであるか、教えられる備えが来た時、主をより良く知ることができ、またあふれるばかりの祝福が与えられます。 第3番目、大切なことは、兄弟姉妹、集会の一致が現れるとあふれるばかりの祝福が得ることができます。 なによりもまず大切なのは、いったい何なのでしょうか。今話したように、イエス様の栄光が現れることです。 イエス様がこの地上におられた時に、天の窓が開け、「これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。」と父なる神の御声が聞こえました。 今日も、父の御心にかなうただ一人の方は、イエス様以外にありません。天の窓が開き、イエス様の上に御霊が鳩のように下りました。イエス様の栄光を思い、主に栄光を帰するにしたがって、あふれるばかりに祝福が与えられます。 私たちの願いは、ただイエス様の御名が崇められることだけでしょうか。身の回りに起こるいっさいの事柄を通して、主の栄えを帰する備えがあるのでしょうか。 私たちが、どんなにさげすまれても、誤解されても、そのただ中で、なお主に栄を帰して歩むのでしょうか。または、人々の注目を得ようと努めているのでしょうか。 主にのみ、すべての栄光を帰していきたいという熱情を、我々の心に満たすなら、その時主をより良く知ることができ、そして我々一人ひとりがあふれるばかりの祝福を経験します。 2番目、十字架の働きが必要です。十字架の働きなしに、主だけに栄光を帰していくことはできません。 イエス様をより良く知ることとは、いったい何なのでしょうか。それは、イエス様のいのち、イエス様のご臨在、イエス様のご栄光が現れていくことに他なりません。 しかし、もし私たちの自我が砕かれなければ、主のいのち、主のご臨在、また主のご栄光は外に現れてまいりません。 パウロは告白しました。「私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられる。」 このパウロの体験が、我々の体験とならなければならない。「私ではない、イエス様がすべてである。」これこそ、イエス様をより良く知る秘訣です。 私たちの誇り高ぶる自我が砕かれることこそが、要求されています。十字架の働きによって、自我は全く砕かれなければなりません。そして私たちは全く主に拠り頼まなければなりません。 3番目、集会全体の一致があふれるばかりの祝福を得る秘訣です。五旬節の日に、皆一つになって祈った時、結局あふれるばかりの祝福が与えられたのです。彼らは心を一つにして祈った。 覚えるべきことは、すなわちイエス様は、特定の一人ひとりの信者の心を目覚めさせようと願っておられるのではなく、皆すなわち全集会を目覚めさせようと願っておられるのです。どうして主はそれを願っておられるのでしょうか。私たちがイエス様の花嫁として、しみなく、しわなく、傷なき者となるために、イエス様をより良く知る必要があります。 自分だけが祝福されるように思うと、そのような祈りは聞きとどけられないでしょう。もし私たちが、すべての兄弟姉妹のために祈ると、心から祈ると主は聞きとどけてくださいます。 「わたしを試してみよ。――万軍の主は仰せられる。――わたしがあなたがたのために、天の窓を開き、あふれるばかりの祝福をあなたがたに注ぐかどうかをためしてみよ。」 どういうふうに主を試すことができるのでしょうか。イエス様の栄光を求めて燃えている者は、主を試す者であり、十字架により主に全くゆだねている者は、主を試みる者であり、そして主の集会が建て上げられることを、切に願い求める者は、あふれるばかりの祝福を受けます。 イエス様は私たちを試み、私たちは、はだかのままの姿を主に見せたのでしょうか。私たちはその結果、自ら何一つ拠り頼むところがなく、自らの恥を主に隠したいような気持ちにまでなっているのでしょうか。私たちはすでに全能なる主に、全てを試していただいたのでしょうか。 また私たちは、主があふれるばかりの祝福を、我々に与えてくださるチャンスを与えたのでしょうか。 これに対し「そんな必要はない。主は全能の神であられるから、ご自分でチャンスを作ることができるでしょう。」と言う人もいます。 けれどもイエス様は、いつも我々の祈りに答えて奇跡を行なおうと望んでおられます。ありのままの姿になること、飾らないで自分の罪を主に告白すること、本当に砕かれた魂を持つことは、結局主にチャンスを与えることを意味します。 ヨハネの黙示録3:20
このみことばは、未信者ではなく信じる者に対して語られた言葉です。主が心の扉の外に立って、たたいておられます。主は入りたいと望んでいます。中心になろう、ご自身がすべてのことにおいて第1のものになろうと主は願っておられます。 なぜ、主は自分の扉を破って入らないのでしょうか。イエス様は、無理に入ることをなさらないからです。心の扉を開けるのは自分の支配権を主に明け渡すのは、結局人間、我々一人ひとりの責任です。 もし私たちが、心の扉を開けるなら、自分の全生涯の支配権をイエス様に明け渡すと、主はあふれるばかりの祝福を与えてくださいます。 たとえば、菊は美しい花を持ち、人の目を楽しませます。私たちは、その菊の根を持っていても、もしそれを土に埋め、花を咲かせるチャンスを与えなければ、何の役にも立ちません。私たちは、土に埋められていない菊のような存在ではないでしょうか。麗しさと力と神聖さがありません。 私たちが、あふれるばかりの祝福を受けることは大切です。 イエス様は与えようと望んでおられます。けど私たちは真っ暗な土の中に、孤独の中にうづもれ、土の中に死ぬ勇気がなければ、主にチャンスを与えなければならないのです。 ペテロという男は名も無い漁師でした。そればかりではない。主を三度否んだ弟子でした。けど、このペテロが主に全く拠り頼み、主を知って働く死ぬチャンスを与えた時、驚くばかりの祝福がペテロを通して現れたのです。このペテロによって、何千人の人々が導かれ救われました。 私たちは、放蕩息子のたとえを知っています。しかしその時、父のもとへ帰る勇気を持たない放蕩息子が他にたくさんいたのではないでしょうか。家に帰らなかった放蕩息子たちに、父は自分の持っているすばらしい富を与えるチャンスがありませんでした。 私たちはダビデのように「主よ。私を調べ、私を試みてください。私の思いと私の心を試してください。」と真剣にまじめに祈り求める用意があるのでしょうか。そのように祈って、主の御許に近づく時、はじめて主は、私たちにご自分の富を与え、またあふれるばかりの祝福を与えることができるのです。 どうしたら、主に働くチャンスを与えることができるのでしょうか。主に心の底まで見ていただく、明るみにさらしていただくことです。 ちょうど、痛んで苦しんでいる病人のように、医者に見せましょう。患者は医者に信頼します。医者を信じて悪い所を見せる時、医者はそれを直してくれます。患者は麻酔をかけられても、何も解からないうちに手術をされても、医者にゆだねています。 土、日曜日、遠くまで行くとちゃんと時間を調べて、汽車を選びます。もし駅の人がいたことを信じないなら、目的地に行くことはできないでしょう。主はご自分の力を与えようと望んでおられるのです。そして「わたしを試みよ。」と言っておられます。「機会を与えよ。」と言っておられます。 「主よ。どうか私を砕いてください。あなた様のご栄光のため、失われた多くの魂のため、また兄弟姉妹が新しく造り変えられて、霊的に成長するために、どうか砕いてください。」と私たちがもし、従順に主に従うなら、主は働いてくださいます。 イエス様に癒された10人のらい病人はどうして癒されたのでしょうか。彼らは、望みがなかったにもかかわらず、みことばに従順に従ったからです。聖書は言っています。「彼らが行く途中で癒された。」と伝えています。 彼らが、主のみことばに不従順だったなら、らい病は癒されず、みじめな生活を続けたことでしょう。 「見よ。わたしは、戸の外に立ってたたく。だれでも、わたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしは、彼のところにはいって、彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。」と主は呼びかけておられます。 結局、「わたしを試してみよ。わたしがあなたがたのために、天の窓を開き、あふれるばかりの祝福をあなたがたに注ぐかどうかをためしてみよ。」と万軍の主は仰せられる。 |