引用聖句:マタイの福音書24章3節-14節
マタイの福音書24:27
マタイの福音書24:30-32
マタイの福音書24:36
マタイの福音書24:42-46
今日は、テサロニケ人への手紙第I、4章について一緒に考えてみたいと思います。 テーマとして「再臨に対する備え」「主イエス様の再臨にたいする教会の備え」と名づけることができると思います。 イエス様ご自身の目に見える形での再臨は、ちょうど復活や昇天の場合と同じようにはっきりと示されております。 使徒の働き1:11
イエス様の再臨は、2つの場面に分けて考えることができるのではないかと思います。 まず第1にイエス様に属する者たちのために、イエス様は空中まで下りて来られ、そして次に、イエス様に属する者たちと共に、地上まで下りて来られるのです。救われた人々の信仰は、すでに成就された救いの御業に基づき、他方私たちの希望は、イエス様ご自身が再び出現なさることによって行なわれる。救いの完成に基づいているのです。 今日は、3つの質問についてちょっとだけ一緒に考えてみたいと思います。 第1番目、イエス様は、本当に再び来られるのでしょうか。 第2番目、いつイエス様は、来られるのでしょうか。 第3番目、何のために、イエス様は来られるのでしょうか。 第1の質問は、イエス様は、本当に再び来られるのでしょうか。この問いは、今日いわゆる現代の神学によって、否定されています。 けど大切なのは、どうしようもないちっぽけな人間が、いかに考えるかということではない。聖書が何と言っているか、それだけ大切にすべきです。 旧約聖書の預言者たちは、すべて救い主の生誕と最後の死のみならず、それと同時に再臨をも、はっきりと預言しているのです。たとえば、ダニエル書の7章を見ると次のように書かれています。 ダニエル書7:13
旧約聖書全体は、2つの意味において主の来臨を預言しています。まず第1に、小羊として、低くなられた形でこの世に来られ、第2に、王として栄光を持って現れるということです。 新約聖書においては、どのページを見てもイエス様の再臨が記されているのではないでしょうか。新約聖書全体には、260の種別がなされていますが、その内318回主の再臨について書き記されています。 イエス様ご自身が、再臨のことについてはっきりと言われました。たとえばヨハネの福音書14章2節、3節を見ると次のように言われたのであります。 ヨハネの福音書14:2-3
すばらしい栄光であります。 もう一箇所、マタイの福音書24章、同じく主の再臨についての箇所ですけど。 マタイの福音書24:27、30
初代教会の人々とは、一番聖書の読んだ本は、ヨハネの黙示録だったそうです。 結局、将来のことを知りたかったに違いない。 ヨハネの黙示録3:11
ヨハネの黙示録22:12
しかし、イエス様ご自身のみならず、天の御使いたちもイエス様の再臨について、はっきりと告げ知らせています。 使徒の働き1:11
もちろん使徒たちも全て、イエス様の再臨について語ったのです。 ピリピ人への手紙3:20
信じているだけじゃない。待ち望んでいる。 そして、イエス様の空中再臨についての一番知られている箇所とは、言うまでもなくテサロニケ人への手紙第Iの4章じゃないでしょうか。 テサロニケ人への手紙第I、4:16-17
イエス様が再び来られるということこそ、この地上におけるあらゆる問題に対する、ただ一つの回答なのではないでしょうか。 前に、ある姉妹は次のように言ったことがあります。「イエス様が早く来ないと困ちゃう。」本当にイエス様は来る。そして私たちは、いつまでもイエス様といっしょになる。イエス様が再臨なさるということこそ、我々の望みであり喜びです。 イエス様の再臨を考えない者、あるいは確信していない者には、本当の喜びと希望がなく、また人生の支えもありません。イエス様が再び来られるということは、まったく疑う余地のない確かな事実です。 2番目の質問は、いつイエス様は来られるのでしょうか。もう一回、マタイの福音書24章 マタイの福音書24:36
何世紀もの間、いろいろな人たちがイエス様の再臨の日、再臨の時を計算しようと努力しましたが、すべてが間違っていました。 以前、この吉祥寺に何人かの人々がやって来て、イエス様の再臨なさる時を預言しました。その時言ったのは、来年の9月何日というふうにはっきり言われました。それからもう30年たちましたが、イエス様はまだ再臨なさいません。 聖書の中には、非常に大切な出来事、すなわちイエス様の再臨のことが記されており、このことは誰もが知らなければなりません。まず第1に、そのしるしが自然現象の中に見られるようになると聖書は言っています。 マタイの福音書24:7
歴史上、今日ほど多くのききんや地震があった時代はありません。このような自然現象の破局的な出来事は、我々に主の再臨を忘れないようにとの戒めをしています。 それから2番目、国民と国民との間にも変化が起こるのです。 マタイの福音書24:6
特にイスラエルをめぐる中近東に起こる動乱は、やがてイエス様が再臨なさることを、暗黙のうちに語っています。 3番目、宗教生活の中にも、一つの大きな変化を見ることができます。多くの教会の中で、今日ほど聖書批判し、聖書に反対する妨げがあった時代はありません。至る所で妥協による一致が試みられていますが、それが悪魔の働きによるものであるという事実を、正しく理解している人は少ないのではないでしょうか。 また、至る所で無関心、無知、怠惰などの信仰の堕落が見られます。 またこのマタイの福音書24章12節を見ると、「不法がはびこるので、多くの人たちの愛は冷たくなります。」、今の世界は、本当に冷たいものになってしまいました。しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われます。 至る所で、「私はキリストなり。」と言うにせ預言者が現れることも、末の世のしるしです。僕はそういう人に会ったことがあります。ちゃんと白い衣を着て、冠をかぶって12弟子がついて行ったのです。けど真剣にそう言いました。「これは再臨されたキリストです。」、インド人だったようですけど。 4番目、マタイの福音書24章14節を見ると、そこに宣教の事が記されています。「この御国の福音は全世界に宣べ伝えられて、すべての国民にあかしされ、そ全世界に宣べ伝えられる。」とあります。 すなわち、すべての民がキリスト者になるということが預言されているのではない。証しが全世界に宣べ伝えられると、聖書は言っています。聖書は1,000以上の原語によって翻訳されています。すなわち、福音の宣教だけを考えると、イエス様は今日来られるかもしれないと言えるのです。 その中でも特に大切なしるしは5番目、有名なイスラエルの民です。イスラエルの民が、自分たちの国を持ち、そこに戻って行く時、主の再臨が近いと聖書は言っています。 マタイの福音書24:31-33
前に述べたようにイエス様の再臨は、2つの場面に分けて考えることができます。 すなわち第1に目に見えない形で、第2に、目に見える形で行なわれるということです。 一方においてはイエス様は、盗人のように来られ、他方において、稲妻のように来られると聖書は言っています。 マタイの福音書24:42-44
このテサロニケ人への手紙第Iの5章2節も同じように書かれています。 テサロニケ人への手紙第I、5:2
ペテロの手紙第II、3:10
ヨハネの黙示録3:3
イエス様は、すべての人のために来るのではなく、信じる者のために来ると、今までの述べた聖句は言っています。 ルカの福音書17:34-35
けれどもまた、イエス様は、稲妻のようにすべての人に解かる形でやって来られます。 けどもその時主は、救い主としてではなく、裁き主としてやって来られます。稲妻のようにという意味は、悪を裁き滅ぼすためにという意味です。 ヨハネの黙示録1:7
その時、イエス様はもはや低い形を取られないで、大いなる栄光のうちに現れます。 パウロは、テサロニケにいる兄弟姉妹に、この事実について書いたのであります。 テサロニケ人への手紙第II、1:10
マタイの福音書24:30
最後の質問は、何のために、イエス様は来られるのでしょうか。 聖書に、この世に来られたイエス様の目的は、失われた者を探し求めることでした。有名なルカの福音書19章、ザアカイの話ですけども「人の子は、失われた人を捜して救うために来たのです。」、助けるためではない、救うためです。 マタイの福音書9:13
マタイの福音書20:28
ヨハネの福音書10:10
けれども2度目に来られる時のイエス様の目的は、まったく違っています。 すなわち、第1番目、イエス様は第1の復活のために来られます。聖書によると、すべての人はよみがえります。けど、まず第1に、イエス様に属する者すなわち本当の信者がよみがえるのです。 テサロニケ人への手紙第I、4:16-17
残りの信者たちは、千年王国のあとでよみがえるのです。 ヨハネの黙示録20:4-5
このようにイエス様の再臨は、まず第1に第1の復活のためであることが明らかであります。 次に2番目、この地上に生きている信者が、変えられるためにイエス様は来られます。 テサロニケ人への手紙第I、4:17
どういう辛いことがあっても、私たちはいつまでも主とともになると考えると、また元気になります。もうちょっと。 コリント人への手紙第I、15:51-52
またパウロは、コリントの兄弟姉妹を励ますために書いたのです。 コリント人への手紙第II、5:4
すなわち、イエス様の再臨の時、一瞬にして卑しき肉のからだが栄光のからだに変えられるのです。その時、私たちはあらゆる悩み、苦しみ、争いから引き上げられて、栄光へと移されるのです。そしてイエス様の御そばにいることを許されるのです。 私たちはイエス様を見ることができ、イエス様に似た者とされると約束されています。 一番大切なことは、再臨の後に来る3番目ですけど、小羊の婚姻です。この小羊の婚姻についてヨハネの黙示録19章7節と9節に書かれています。 ヨハネの黙示録19:7、9
このように目に見えない形で、この世に来られたあと、イエス様は公に、目に見える形で再臨なさるのです。 しかもその時、イエス様は4番目になりますけど、にせ預言者と反キリストを裁く、裁き主として来られます。 テサロニケ人への手紙第II、2:8
反キリストまたにせ預言者の全体像は、ヨハネの黙示録13章、テサロニケ人への手紙第II、2章の中で詳しく描写されています。 けどもイエス様は、反キリストまたにせ預言者を裁く、裁き主としてのみならず、5番目、ご自分の平和の国を築くために来られます。 その時、地上における平和の国は、現実のものとなります。それ以前のあらゆる平和運動の試みは、すべて挫折し、失敗してしまうのです。この平和の国については、すでに旧約聖書の中で言及されています。おもにイザヤ書の中で、イザヤ書とはもちろん旧約聖書の福音書と呼ばれています。 イザヤ書35:1-2
イザヤ書32:1-4
イザヤ書35:5-6
イザヤ書65:20-23
イザヤ書11:4-10
平和の国がいかなるものであるかについて、詳しく述べられています。 けどもイエス様は、ただ単にこの目的のためにだけではなく、6番目、悪魔を裁くためにも来られます。この事実についてヨハネの黙示録に書き記されています。 ヨハネの黙示録20:1-3
ヨハネの黙示録12:10
その時、このみことばは成就されるのです。 イエス様の再臨の目的は、さらに第7番目ですけど、最後の審判のための第2の復活であります。 ヨハネの黙示録20:12-13
けれどもイエス様は、ヨハネの福音書5章28節を見ると、次のように励ましたのであります。 ヨハネの福音書5:28-29
マタイの福音書25:31-32
その際、数々の書物が開かれ、言葉や考えや行ないによって犯した罪が裁かれるのです。 いのちの書に自分の書き記された者は、幸せであり幸いです。私たちの罪は、すべてイエス様の血によって赦されているという確信こそ、永遠の喜びの源です。 ところが、いのちの書に記されていない人々に対して、イエス様は次のように言われました。 マタイの福音書25:41
イエス様が再臨なさると、最後の目的が何であるかと言いますと、8番目になりますけど、新しい天と新しい地を建てることです。 ヨハネの黙示録21:1
ペテロは、同じ事実について書いたのであります。 ペテロの手紙第II、3:10
励ましのことばは、ヨハネの黙示録21章4節、5節です。 ヨハネの黙示録21:4-5
最後に私たちが、どのようにしてイエス様の再臨を待ち望むべきなのでしょうかということについて、ちょっと考えて終わりたいです。 心からイエス様を待ち望む者として、すなわち本当にそのための備えが出来ている者として、私たちは、信仰を全うすべきです。 ルカの福音書12:36-37
「待っていなさい。用意をしていなさい。」というみことばは、主の命令です。このみことばに従順でないことは、結局罪です。 イエス様が今日来られるかもしれない。けど、今日来られるかどうかが問題なのではなく、私たちが心から主を待ち望んでいるかどうかが問題です。そのような心がまえで、今日も主を待ち望んでいないならば、それは真に主の僕として不忠実、不従順です。 このように、生き生きとした待ち望みの信仰を持っていない者は、実際はめくらであり、暗やみの中を手探りで這い回るようです。初代教会の人々のように、「イエス様、来てください。」と心から待ち望めば本当に幸いと思います。 |