再臨に対する備え


ベック兄

(吉祥寺学び会、2013/11/05)

引用聖句:マタイの福音書24章3節-14節
3イエスがオリーブ山ですわっておられると、弟子たちが、ひそかにみもとに来て言った。「お話しください。いつ、そのようなことが起こるのでしょう。あなたの来られる時や世の終わりには、どんな前兆があるのでしょう。」
4そこで、イエスは彼らに答えて言われた。「人に惑わされないように気をつけなさい。
5わたしの名を名のる者が大ぜい現われ、『私こそキリストだ。』と言って、多くの人を惑わすでしょう。
6また、戦争のことや、戦争のうわさを聞くでしょうが、気をつけて、あわてないようにしなさい。これらは必ず起こることです。しかし、終わりが来たのではありません。
7民族は民族に、国は国に敵対して立ち上がり、方々にききんと地震が起こります。
8しかし、そのようなことはみな、産みの苦しみの初めなのです。
9そのとき、人々は、あなたがたを苦しいめに会わせ、殺します。また、わたしの名のために、あなたがたはすべての国の人々に憎まれます。
10また、そのときは、人々が大ぜいつまずき、互いに裏切り、憎み合います。
11また、にせ預言者が多く起こって、多くの人々を惑わします。
12不法がはびこるので、多くの人たちの愛は冷たくなります。
13しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われます。
14この御国の福音は全世界に宣べ伝えられて、すべての国民にあかしされ、それから、終わりの日が来ます。

マタイの福音書24:27
27人の子の来るのは、いなずまが東から出て、西にひらめくように、ちょうどそのように来るのです。

マタイの福音書24:30-32
30そのとき、人の子のしるしが天に現われます。すると、地上のあらゆる種族は、悲しみながら、人の子が大能と輝かしい栄光を帯びて天の雲に乗って来るのを見るのです。
31人の子は大きなラッパの響きとともに、御使いたちを遣わします。すると御使いたちは、天の果てから果てまで、四方からその選びの民を集めます。
32いちじくの木から、たとえを学びなさい。枝が柔らかになって、葉が出て来ると、夏の近いことがわかります。

マタイの福音書24:36
36ただし、その日、その時がいつであるかは、だれも知りません。天の御使いたちも子も知りません。ただ父だけが知っておられます。

マタイの福音書24:42-46
42だから、目をさましていなさい。あなたがたは、自分の主がいつ来られるか、知らないからです。
43しかし、このことは知っておきなさい。家の主人は、どろぼうが夜の何時に来ると知っていたら、目を見張っていたでしょうし、また、おめおめと自分の家に押し入られはしなかったでしょう。
44だから、あなたがたも用心していなさい。なぜなら、人の子は、思いがけない時に来るのですから。
45主人から、その家のしもべたちを任されて、食事時には彼らに食事をきちんと与えるような忠実な思慮深いしもべとは、いったいだれでしょうか。
46主人が帰って来たときに、そのようにしているのを見られるしもべは幸いです。

今日は、テサロニケ人への手紙第I、4章について一緒に考えてみたいと思います。
テーマとして「再臨に対する備え」「主イエス様の再臨にたいする教会の備え」と名づけることができると思います。
イエス様ご自身の目に見える形での再臨は、ちょうど復活や昇天の場合と同じようにはっきりと示されております。

使徒の働き1:11
11そして、こう言った。「ガリラヤの人たち。なぜ天を見上げて立っているのですか。あなたがたを離れて天に上げられたこのイエスは、天に上って行かれるのをあなたがたが見たときと同じ有様で、またおいでになります。」

イエス様の再臨は、2つの場面に分けて考えることができるのではないかと思います。
まず第1にイエス様に属する者たちのために、イエス様は空中まで下りて来られ、そして次に、イエス様に属する者たちと共に、地上まで下りて来られるのです。救われた人々の信仰は、すでに成就された救いの御業に基づき、他方私たちの希望は、イエス様ご自身が再び出現なさることによって行なわれる。救いの完成に基づいているのです。
今日は、3つの質問についてちょっとだけ一緒に考えてみたいと思います。

第1番目、イエス様は、本当に再び来られるのでしょうか。
第2番目、いつイエス様は、来られるのでしょうか。
第3番目、何のために、イエス様は来られるのでしょうか。

第1の質問は、イエス様は、本当に再び来られるのでしょうか。この問いは、今日いわゆる現代の神学によって、否定されています。
けど大切なのは、どうしようもないちっぽけな人間が、いかに考えるかということではない。聖書が何と言っているか、それだけ大切にすべきです。
旧約聖書の預言者たちは、すべて救い主の生誕と最後の死のみならず、それと同時に再臨をも、はっきりと預言しているのです。たとえば、ダニエル書の7章を見ると次のように書かれています。

ダニエル書7:13
13私がまた、夜の幻を見ていると、見よ、人の子のような方が天の雲に乗って来られ、年を経た方のもとに進み、その前に導かれた。

旧約聖書全体は、2つの意味において主の来臨を預言しています。まず第1に、小羊として、低くなられた形でこの世に来られ、第2に、王として栄光を持って現れるということです。
新約聖書においては、どのページを見てもイエス様の再臨が記されているのではないでしょうか。新約聖書全体には、260の種別がなされていますが、その内318回主の再臨について書き記されています。
イエス様ご自身が、再臨のことについてはっきりと言われました。たとえばヨハネの福音書14章2節、3節を見ると次のように言われたのであります。

ヨハネの福音書14:2-3
2わたしの父の家には、住まいがたくさんあります。もしなかったら、あなたがたに言っておいたでしょう。あなたがたのために、わたしは場所を備えに行くのです。
3わたしが行って、あなたがたに場所を備えたら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。わたしのいる所に、あなたがたをもおらせるためです。

すばらしい栄光であります。
もう一箇所、マタイの福音書24章、同じく主の再臨についての箇所ですけど。

マタイの福音書24:27、30
27人の子の来るのは、いなずまが東から出て、西にひらめくように、ちょうどそのように来るのです。
30そのとき、人の子のしるしが天に現われます。すると、地上のあらゆる種族は、悲しみながら、人の子が大能と輝かしい栄光を帯びて天の雲に乗って来るのを見るのです。

初代教会の人々とは、一番聖書の読んだ本は、ヨハネの黙示録だったそうです。
結局、将来のことを知りたかったに違いない。

ヨハネの黙示録3:11
11わたしは、すぐに来る。あなたの冠をだれにも奪われないように、あなたの持っているものをしっかりと持っていなさい。

ヨハネの黙示録22:12
12「見よ。わたしはすぐに来る。

しかし、イエス様ご自身のみならず、天の御使いたちもイエス様の再臨について、はっきりと告げ知らせています。

使徒の働き1:11
11そして、こう言った。「ガリラヤの人たち。なぜ天を見上げて立っているのですか。あなたがたを離れて天に上げられたこのイエスは、天に上って行かれるのをあなたがたが見たときと同じ有様で、またおいでになります。」

もちろん使徒たちも全て、イエス様の再臨について語ったのです。

ピリピ人への手紙3:20
20けれども、私たちの国籍は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主としておいでになるのを、私たちは待ち望んでいます。

信じているだけじゃない。待ち望んでいる。
そして、イエス様の空中再臨についての一番知られている箇所とは、言うまでもなくテサロニケ人への手紙第Iの4章じゃないでしょうか。

テサロニケ人への手紙第I、4:16-17
16主は、号令と、御使いのかしらの声と、神のラッパの響きのうちに、ご自身天から下って来られます。それからキリストにある死者が、まず初めによみがえり、
17次に、生き残っている私たちが、たちまち彼らといっしょに雲の中に一挙に引き上げられ、空中で主と会うのです。このようにして、私たちは、いつまでも主とともにいることになります。

イエス様が再び来られるということこそ、この地上におけるあらゆる問題に対する、ただ一つの回答なのではないでしょうか。
前に、ある姉妹は次のように言ったことがあります。「イエス様が早く来ないと困ちゃう。」本当にイエス様は来る。そして私たちは、いつまでもイエス様といっしょになる。イエス様が再臨なさるということこそ、我々の望みであり喜びです。
イエス様の再臨を考えない者、あるいは確信していない者には、本当の喜びと希望がなく、また人生の支えもありません。イエス様が再び来られるということは、まったく疑う余地のない確かな事実です。

2番目の質問は、いつイエス様は来られるのでしょうか。もう一回、マタイの福音書24章

マタイの福音書24:36
36ただし、その日、その時がいつであるかは、だれも知りません。天の御使いたちも子も知りません。ただ父だけが知っておられます。

何世紀もの間、いろいろな人たちがイエス様の再臨の日、再臨の時を計算しようと努力しましたが、すべてが間違っていました。
以前、この吉祥寺に何人かの人々がやって来て、イエス様の再臨なさる時を預言しました。その時言ったのは、来年の9月何日というふうにはっきり言われました。それからもう30年たちましたが、イエス様はまだ再臨なさいません。
聖書の中には、非常に大切な出来事、すなわちイエス様の再臨のことが記されており、このことは誰もが知らなければなりません。まず第1に、そのしるしが自然現象の中に見られるようになると聖書は言っています。

マタイの福音書24:7
7民族は民族に、国は国に敵対して立ち上がり、方々にききんと地震が起こります。

歴史上、今日ほど多くのききんや地震があった時代はありません。このような自然現象の破局的な出来事は、我々に主の再臨を忘れないようにとの戒めをしています。
それから2番目、国民と国民との間にも変化が起こるのです。

マタイの福音書24:6
6また、戦争のことや、戦争のうわさを聞くでしょうが、気をつけて、あわてないようにしなさい。これらは必ず起こることです。しかし、終わりが来たのではありません。

特にイスラエルをめぐる中近東に起こる動乱は、やがてイエス様が再臨なさることを、暗黙のうちに語っています。
3番目、宗教生活の中にも、一つの大きな変化を見ることができます。多くの教会の中で、今日ほど聖書批判し、聖書に反対する妨げがあった時代はありません。至る所で妥協による一致が試みられていますが、それが悪魔の働きによるものであるという事実を、正しく理解している人は少ないのではないでしょうか。
また、至る所で無関心、無知、怠惰などの信仰の堕落が見られます。

またこのマタイの福音書24章12節を見ると、「不法がはびこるので、多くの人たちの愛は冷たくなります。」、今の世界は、本当に冷たいものになってしまいました。しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われます。
至る所で、「私はキリストなり。」と言うにせ預言者が現れることも、末の世のしるしです。僕はそういう人に会ったことがあります。ちゃんと白い衣を着て、冠をかぶって12弟子がついて行ったのです。けど真剣にそう言いました。「これは再臨されたキリストです。」、インド人だったようですけど。

4番目、マタイの福音書24章14節を見ると、そこに宣教の事が記されています。「この御国の福音は全世界に宣べ伝えられて、すべての国民にあかしされ、そ全世界に宣べ伝えられる。」とあります。
すなわち、すべての民がキリスト者になるということが預言されているのではない。証しが全世界に宣べ伝えられると、聖書は言っています。聖書は1,000以上の原語によって翻訳されています。すなわち、福音の宣教だけを考えると、イエス様は今日来られるかもしれないと言えるのです。
その中でも特に大切なしるしは5番目、有名なイスラエルの民です。イスラエルの民が、自分たちの国を持ち、そこに戻って行く時、主の再臨が近いと聖書は言っています。

マタイの福音書24:31-33
31人の子は大きなラッパの響きとともに、御使いたちを遣わします。すると御使いたちは、天の果てから果てまで、四方からその選びの民を集めます。
32いちじくの木から、たとえを学びなさい。枝が柔らかになって、葉が出て来ると、夏の近いことがわかります。
33そのように、これらのことのすべてを見たら、あなたがたは、人の子が戸口まで近づいていると知りなさい。

前に述べたようにイエス様の再臨は、2つの場面に分けて考えることができます。
すなわち第1に目に見えない形で、第2に、目に見える形で行なわれるということです。
一方においてはイエス様は、盗人のように来られ、他方において、稲妻のように来られると聖書は言っています。

マタイの福音書24:42-44
42だから、目をさましていなさい。あなたがたは、自分の主がいつ来られるか、知らないからです。
43しかし、このことは知っておきなさい。家の主人は、どろぼうが夜の何時に来ると知っていたら、目を見張っていたでしょうし、また、おめおめと自分の家に押し入られはしなかったでしょう。
44だから、あなたがたも用心していなさい。なぜなら、人の子は、思いがけない時に来るのですから。

このテサロニケ人への手紙第Iの5章2節も同じように書かれています。

テサロニケ人への手紙第I、5:2
2主の日が夜中の盗人のように来るということは、あなたがた自身がよく承知しているからです。

ペテロの手紙第II、3:10
10しかし、主の日は、盗人のようにやって来ます。その日には、天は大きな響きをたてて消えうせ、天の万象は焼けてくずれ去り、地と地のいろいろなわざは焼き尽くされます。

ヨハネの黙示録3:3
3だから、あなたがどのように受け、また聞いたのかを思い出しなさい。それを堅く守り、また悔い改めなさい。もし、目をさまさなければ、わたしは盗人のように来る。あなたには、わたしがいつあなたのところに来るか、決してわからない。

イエス様は、すべての人のために来るのではなく、信じる者のために来ると、今までの述べた聖句は言っています。

ルカの福音書17:34-35
34あなたがたに言いますが、その夜、同じ寝台で男がふたり寝ていると、ひとりは取られ、他のひとりは残されます。
35女がふたりいっしょに臼をひいていると、ひとりは取られ、他のひとりは残されます。」

けれどもまた、イエス様は、稲妻のようにすべての人に解かる形でやって来られます。
けどもその時主は、救い主としてではなく、裁き主としてやって来られます。稲妻のようにという意味は、悪を裁き滅ぼすためにという意味です。

ヨハネの黙示録1:7
7見よ、彼が、雲に乗って来られる。すべての目、ことに彼を突き刺した者たちが、彼を見る。地上の諸族はみな、彼のゆえに嘆く。しかり。アーメン。

その時、イエス様はもはや低い形を取られないで、大いなる栄光のうちに現れます。
パウロは、テサロニケにいる兄弟姉妹に、この事実について書いたのであります。

テサロニケ人への手紙第II、1:10
10その日に、主イエスは来られて、ご自分の聖徒たちによって栄光を受け、信じたすべての者の――そうです。あなたがたに対する私たちの証言は、信じられたのです。――感嘆の的となられます。

マタイの福音書24:30
30そのとき、人の子のしるしが天に現われます。すると、地上のあらゆる種族は、悲しみながら、人の子が大能と輝かしい栄光を帯びて天の雲に乗って来るのを見るのです。

最後の質問は、何のために、イエス様は来られるのでしょうか。
聖書に、この世に来られたイエス様の目的は、失われた者を探し求めることでした。有名なルカの福音書19章、ザアカイの話ですけども「人の子は、失われた人を捜して救うために来たのです。」、助けるためではない、救うためです。

マタイの福音書9:13
13わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです。

マタイの福音書20:28
28人の子が来たのが、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためであるのと同じです。」

ヨハネの福音書10:10
10わたしが来たのは、羊がいのちを得、またそれを豊かに持つためです。

けれども2度目に来られる時のイエス様の目的は、まったく違っています。
すなわち、第1番目、イエス様は第1の復活のために来られます。聖書によると、すべての人はよみがえります。けど、まず第1に、イエス様に属する者すなわち本当の信者がよみがえるのです。

テサロニケ人への手紙第I、4:16-17
16主は、号令と、御使いのかしらの声と、神のラッパの響きのうちに、ご自身天から下って来られます。それからキリストにある死者が、まず初めによみがえり、
17次に、生き残っている私たちが、たちまち彼らといっしょに雲の中に一挙に引き上げられ、空中で主と会うのです。このようにして、私たちは、いつまでも主とともにいることになります。

残りの信者たちは、千年王国のあとでよみがえるのです。

ヨハネの黙示録20:4-5
4彼らは生き返って、キリストとともに、千年の間王となった。
5そのほかの死者は、千年の終わるまでは、生き返らなかった。

このようにイエス様の再臨は、まず第1に第1の復活のためであることが明らかであります。
次に2番目、この地上に生きている信者が、変えられるためにイエス様は来られます。

テサロニケ人への手紙第I、4:17
17次に、生き残っている私たちが、たちまち彼らといっしょに雲の中に一挙に引き上げられ、空中で主と会うのです。このようにして、私たちは、いつまでも主とともにいることになります。

どういう辛いことがあっても、私たちはいつまでも主とともになると考えると、また元気になります。もうちょっと。

コリント人への手紙第I、15:51-52
51聞きなさい。私はあなたがたに奥義を告げましょう。私たちはみなが眠ってしまうのではなく、みな変えられるのです。
52終わりのラッパとともに、たちまち、一瞬のうちにです。ラッパが鳴ると、死者は朽ちないものによみがえり、私たちは変えられるのです。

またパウロは、コリントの兄弟姉妹を励ますために書いたのです。

コリント人への手紙第II、5:4
4確かにこの幕屋の中にいる間は、私たちは重荷を負って、うめいています。それは、この幕屋を脱ぎたいと思うからでなく、かえって天からの住まいを着たいからです。そのことによって、死ぬべきものがいのちにのまれてしまうためにです。

すなわち、イエス様の再臨の時、一瞬にして卑しき肉のからだが栄光のからだに変えられるのです。その時、私たちはあらゆる悩み、苦しみ、争いから引き上げられて、栄光へと移されるのです。そしてイエス様の御そばにいることを許されるのです。
私たちはイエス様を見ることができ、イエス様に似た者とされると約束されています。
一番大切なことは、再臨の後に来る3番目ですけど、小羊の婚姻です。この小羊の婚姻についてヨハネの黙示録19章7節と9節に書かれています。

ヨハネの黙示録19:7、9
7私たちは喜び楽しみ、神をほめたたえよう。小羊の婚姻の時が来て、花嫁はその用意ができたのだから。
9御使いは私に「小羊の婚宴に招かれた者は幸いだ、と書きなさい。」と言い、また、「これは神の真実のことばです。」と言った。

このように目に見えない形で、この世に来られたあと、イエス様は公に、目に見える形で再臨なさるのです。
しかもその時、イエス様は4番目になりますけど、にせ預言者と反キリストを裁く、裁き主として来られます。

テサロニケ人への手紙第II、2:8
8その時になると、不法の人が現われますが、主は御口の息をもって彼を殺し、来臨の輝きをもって滅ぼしてしまわれます。

反キリストまたにせ預言者の全体像は、ヨハネの黙示録13章、テサロニケ人への手紙第II、2章の中で詳しく描写されています。
けどもイエス様は、反キリストまたにせ預言者を裁く、裁き主としてのみならず、5番目、ご自分の平和の国を築くために来られます。
その時、地上における平和の国は、現実のものとなります。それ以前のあらゆる平和運動の試みは、すべて挫折し、失敗してしまうのです。この平和の国については、すでに旧約聖書の中で言及されています。おもにイザヤ書の中で、イザヤ書とはもちろん旧約聖書の福音書と呼ばれています。

イザヤ書35:1-2
1荒野と砂漠は楽しみ、荒地は喜び、サフランのように花を咲かせる。
2盛んに花を咲かせ、喜び喜んで歌う。

イザヤ書32:1-4
1見よ。ひとりの王が正義によって治め、首長たちは公義によってつかさどる。
2彼らはみな、風を避ける避け所、あらしを避ける隠れ場のようになり、砂漠にある水の流れ、かわききった地にある大きな岩の陰のようになる。
3見る者は目を堅く閉ざさず、聞く者は耳を傾ける。
4気短な者の心も知識を悟り、どもりの舌も、はっきりと早口で語ることができる。

イザヤ書35:5-6
5そのとき、盲人の目は開かれ、耳しいた者の耳はあけられる。
6そのとき、足なえは鹿のようにとびはね、おしの舌は喜び歌う。荒野に水がわき出し、荒地に川が流れるからだ。

イザヤ書65:20-23
20そこにはもう、数日しか生きない乳飲み子も、寿命の満ちない老人もない。百歳で死ぬ者は若かったとされ、百歳にならないで死ぬ者は、のろわれた者とされる。
21彼らは家を建てて住み、ぶどう畑を作って、その実を食べる。
22彼らが建てて他人が住むことはなく、彼らが植えて他人が食べることはない。わたしの民の寿命は、木の寿命に等しく、わたしの選んだ者は、自分の手で作った物を存分に用いることができるからだ。
23彼らはむだに労することもなく、子を産んで、突然その子が死ぬこともない。彼らは主に祝福された者のすえであり、その子孫たちは彼らとともにいるからだ。

イザヤ書11:4-10
4正義をもって寄るべのない者をさばき、公正をもって国の貧しい者のために判決を下し、口のむちで国を打ち、くちびるの息で悪者を殺す。
5正義はその腰の帯となり、真実はその胴の帯となる。
6狼は子羊とともに宿り、ひょうは子やぎとともに伏し、子牛、若獅子、肥えた家畜が共にいて、小さい子どもがこれを追っていく。
7雌牛と熊とは共に草を食べ、その子らは共に伏し、獅子も牛のようにわらを食う。
8乳飲み子はコブラの穴の上で戯れ、乳離れした子はまむしの子に手を伸べる。
9わたしの聖なる山のどこにおいても、これらは害を加えず、そこなわない。主を知ることが、海をおおう水のように、地を満たすからである。
10その日、エッサイの根は、国々の民の旗として立ち、国々は彼を求め、彼のいこう所は栄光に輝く。

平和の国がいかなるものであるかについて、詳しく述べられています。
けどもイエス様は、ただ単にこの目的のためにだけではなく、6番目、悪魔を裁くためにも来られます。この事実についてヨハネの黙示録に書き記されています。

ヨハネの黙示録20:1-3
1また私は、御使いが底知れぬ所のかぎと大きな鎖とを手に持って、天から下って来るのを見た。
2彼は、悪魔でありサタンである竜、あの古い蛇を捕え、これを千年の間縛って、
3底知れぬ所に投げ込んで、そこを閉じ、その上に封印して、千年の終わるまでは、それが諸国の民を惑わすことのないようにした。サタンは、そのあとでしばらくの間、解き放されなければならない。

ヨハネの黙示録12:10
10そのとき私は、天で大きな声が、こう言うのを聞いた。「今や、私たちの神の救いと力と国と、また、神のキリストの権威が現われた。私たちの兄弟たちの告発者、日夜彼らを私たちの神の御前で訴えている者が投げ落とされたからである。

その時、このみことばは成就されるのです。
イエス様の再臨の目的は、さらに第7番目ですけど、最後の審判のための第2の復活であります。

ヨハネの黙示録20:12-13
12また私は、死んだ人々が、大きい者も、小さい者も御座の前に立っているのを見た。そして、数々の書物が開かれた。また、別の一つの書物も開かれたが、それは、いのちの書であった。死んだ人々は、これらの書物に書きしるされているところに従って、自分の行ないに応じてさばかれた。
13海はその中にいる死者を出し、死もハデスも、その中にいる死者を出した。そして人々はおのおの自分の行ないに応じてさばかれた。

けれどもイエス様は、ヨハネの福音書5章28節を見ると、次のように励ましたのであります。

ヨハネの福音書5:28-29
28このことに驚いてはなりません。墓の中にいる者がみな、子の声を聞いて出て来る時が来ます。
29善を行なった者は、よみがえっていのちを受け、悪を行なった者は、よみがえってさばきを受けるのです。

マタイの福音書25:31-32
31人の子が、その栄光を帯びて、すべての御使いたちを伴って来るとき、人の子はその栄光の位に着きます。
32そして、すべての国々の民が、その御前に集められます。彼は、羊飼いが羊と山羊とを分けるように、彼らをより分け、

その際、数々の書物が開かれ、言葉や考えや行ないによって犯した罪が裁かれるのです。
いのちの書に自分の書き記された者は、幸せであり幸いです。私たちの罪は、すべてイエス様の血によって赦されているという確信こそ、永遠の喜びの源です。
ところが、いのちの書に記されていない人々に対して、イエス様は次のように言われました。

マタイの福音書25:41
41それから、王はまた、その左にいる者たちに言います。『のろわれた者ども。わたしから離れて、悪魔とその使いたちのために用意された永遠の火にはいれ。

イエス様が再臨なさると、最後の目的が何であるかと言いますと、8番目になりますけど、新しい天と新しい地を建てることです。

ヨハネの黙示録21:1
1また私は、新しい天と新しい地とを見た。

ペテロは、同じ事実について書いたのであります。

ペテロの手紙第II、3:10
10しかし、主の日は、盗人のようにやって来ます。その日には、天は大きな響きをたてて消えうせ、天の万象は焼けてくずれ去り、地と地のいろいろなわざは焼き尽くされます。

励ましのことばは、ヨハネの黙示録21章4節、5節です。

ヨハネの黙示録21:4-5
4彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる。もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない。なぜなら、以前のものが、もはや過ぎ去ったからである。」
5すると、御座に着いておられる方が言われた。「見よ。わたしは、すべてを新しくする。」また言われた。「書きしるせ。これらのことばは、信ずべきものであり、真実である。」

最後に私たちが、どのようにしてイエス様の再臨を待ち望むべきなのでしょうかということについて、ちょっと考えて終わりたいです。
心からイエス様を待ち望む者として、すなわち本当にそのための備えが出来ている者として、私たちは、信仰を全うすべきです。

ルカの福音書12:36-37
36主人が婚礼から帰って来て戸をたたいたら、すぐに戸をあけようと、その帰りを待ち受けている人たちのようでありなさい。
37帰って来た主人に、目をさましているところを見られるしもべたちは幸いです。

「待っていなさい。用意をしていなさい。」というみことばは、主の命令です。このみことばに従順でないことは、結局罪です。
イエス様が今日来られるかもしれない。けど、今日来られるかどうかが問題なのではなく、私たちが心から主を待ち望んでいるかどうかが問題です。そのような心がまえで、今日も主を待ち望んでいないならば、それは真に主の僕として不忠実、不従順です。
このように、生き生きとした待ち望みの信仰を持っていない者は、実際はめくらであり、暗やみの中を手探りで這い回るようです。初代教会の人々のように、「イエス様、来てください。」と心から待ち望めば本当に幸いと思います。




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