引用聖句:ヨハネの福音書15章9節-17節
ダビデは、次のように告白しました。 詩篇18:1
心から愛している。 そしてイエス様の読まれた箇所の中にも出てきたように、「父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛しました。わたしの愛の中にとどまりなさい。」 3つに分けられます。 第1番目、イエス様の証し「父がわたしを愛された。」 第2番目、イエス様の告白「わたしは、あなたがたを愛しました」 第3番目、イエス様の命令「わたしの愛の中にとどまりなさい」とあります。 イエス様の証しとは、すごいすばらしいものです。「わたしの父が、わたしを愛された」ということでした。 イエス様は、「わたしは、父によって信頼されている。愛されている。」と言われました。 旧約聖書の中には、来るべき救い主について次のように約束し、記されています。 マタイの福音書12:18
イエス様において、このみことばは成就されました。 イエス様が、父なる神によって愛されているということは、聖書の中で3つの表現をされています。 第1番目、イエス様の体験 第2番目、父なる神による証明 第3番目、パウロの証しによってです。 イエス様の体験についてヨハネの福音書5章を見ると、次のように書かれています。 ヨハネの福音書5:20-24
ヨハネの福音書10:17-18
ヨハネの福音書17:26
とイエス様は言われました。 「わたしは、父なる神から愛されている」という経験は、イエス様の一瞬一瞬の体験だったんです。愛されている、だから心配する必要はない。あらゆる不安からの解放そのものです。 「わたしは、父から愛されている。」けど、これは決してイエス様の考え、また告白だけではなく、父なる神ご自身が、はっきり仰った事実です。マタイの福音書17章5節を見ると、父なる神のはっきり言われたことが書かれています。 マタイの福音書17:5
とあります。 マタイだけではなく、マルコも同じ事実について書き記したのであります。 マルコの福音書1:11
イエス様の切に望んだことは、ただ父なる神のご栄光が現れることでした。 ですから、主は「わたしの思いではなく、あなたの御心が成るように」と祈り続けました。 けども、今話したようにパウロも、イエス様が神から愛されていることを証ししました。彼の書いたエペソ人への手紙の中で、次の表現が出てきます。 エペソ人への手紙1:6
とあります。 コロサイ人への手紙1章13節に「神は、私たちを暗やみの圧制から救い出して、愛する御子のご支配の中に移してくださいました。」イエス様に対する父なる神の愛が、何を意味していたか、私たちは考えることすらできないのではないでしょうか。 父なる神の愛は、私たちの考えることのできるすべてのものよりも強く、大きいものです。 イエス様は、父から愛されているだけではなく、我々もイエス様によって愛されていると聖書は言っています。しかも、イエス様は、父なる神がイエス様を愛されたと同じ愛を持って、我々を愛しておられるのです。 確かに私たちは、この父なる神のすばらしさを考えることができませんし、聖書の言っていることも、ちょっとピンとこない。 聖書の中の一番短いことばの一つは、「神は愛なり」意味は、神は愛することしかできません。人間がどういう態度を取っても関係なし。父の愛は変わらないものです。 イエス様は「わたしは愛されている」といつも喜びを持って言うことができたのです。けども、イエス様だけではなく、我々も愛されています。しかも、イエス様は、父なる神がイエス様を愛されたと全く変わらない同じ愛を持って、私たちを愛しておられます。 一人の男性が、一人の女性を知り「私はあなたを愛している」と告白する時、その女性は全く変わったものに作り変えられるかもしれない。人間は誰でも、人から愛されたいと願うものです。 誰からも愛されず、この世で全く孤独な状態にある人には、慰めもない、望みのない者として、毎日生きると言えないけど、存在しなくちゃいけないのではないでしょうか。 何十年前だったか全く忘れましたけれども、ドイツである時、高速道路を車で走っていた時に、日本でおそらくなかったけれど、一人のヒッチハイクをしていた人を、いっしょに乗せたことがあります。結局はアウトバーンの近くに手をふって止まるように、止まる人はめったにいないけど、僕は止まろうと思って彼を乗せたんです。 彼は、私に3つのことを途中で話しました。まず、第1に、彼はお金をぜんぜん持たないで、2、3日の間何も食べていないと言ったんです。確かに彼の着ているものは、古く薄汚れていましたから、彼の言ったことをそうだろうと信じました。 2番目に、彼の言ったことは、彼には故郷がない、誰も彼のことを思っている人がいないということでした。彼の顔の表情が悲しげに沈んでいましたので、このこともそうだろうと信じました。第3に、彼の言うことは、たいがい悲しいことばっかりだったんです。 彼は実はね、自分は本当に立派な人間だと言ったんです。そして彼は、自分自身を哀れんでいたんです。同情してもらいたい気持ちがあったんです。このような会話を続けているうちに、彼は刑務所から釈放されて、出てきたばかりであることが解かったんです。 けれど、私も彼を同情せざるを得なかったんです。それは彼は、決して貧しかったからじゃない。彼は故郷がなかったからじゃない。結局、自分は立派な者だ、自分自身の過ちを我がままを認めようとしなかったのです。 話をしている時に、私は彼に「確かにあなたは、めちゃくちゃな男でしょうけど、愛されている。しかも生ける真の神によって愛されている。イエス様は、あなたに向かっても『わたしはあなたを愛している』と言われています。」彼がイエス様の元に来て、イエス様を信じるようになったかどうか、もちろん全く解かりません。 今日、ここまで来られたひとりひとりに「わたしは、あなたを愛している」とイエス様は、間違いなく呼びかけておられます。 ちょっとこのまことの愛、すなわちイエス様の愛について、3つの特長を中心に考えてみたいと思います。 第1番目、イエス様の愛は、永遠であり、決して変わらないのです。 ヨハネの福音書13:1
とあります。人間の愛は、いかに早く覚めて行くことでしょう。親の愛でさえも、子に対してある時には、憎しみに変わることもあります。多くの離婚は、人間の愛がいかに変わりやすいものであるかを証明しているのではないでしょうか。 離婚までいくことが少ないとしても、夫婦がお互いに心から愛し合っているかどうか、それはまた別問題です。これは悲劇なのではないでしょうか。 これに対して、イエス様の愛は、永久に変わらないものです。 エレミヤ書31:3
イエス様の愛は、永遠であり決して変わることがない。 第2番目、神の愛です。これは何を意味するのでしょうか。人間の愛は、自分自身、自分の夫、自分の家族、自分の子供などを愛する愛です。人は愛されるために愛します。すなわち、自分に害を与えようとする者、自分の憎む者を避けてしまうのです。 これに対して、神の愛は、その対象にかかわらず愛する愛です。 ローマ人への手紙5:8
ヨハネの福音書3:16
世とは、私のことであり、あなたのことです。 ヨハネの福音書3:16
この場合、世とは主なる神に逆らう人類の意味です。また、もっとも極端な神の敵であるとも言えましょう。 ヨハネの手紙第I、4:9
神の愛は、罪人を罰せずにはおられません。十字架とは、人類の罪に対する罰でした。 バプテスマのヨハネは、初めてイエス様を紹介した時、何と言ったかといいますと、ヨハネの福音書1章29節「見よ、世の罪を取り除く神の小羊。」 そしてパウロは、コリントにいる兄弟姉妹に、この偉大なる事実について書いたのであります。 コリント人への手紙第II、5:21
十字架につけられたイエス様は、永遠なる神よりも愛されている御子よりも、罪の塊とされたのです。永遠なる神は、ご自分で罪に対する罰をお受けになるために、我々の身代わりとなってくださいました。 神の愛は、罪を罰せずにはおられませんが、罪人を救いたいと思っておられます。救いは、ただイエス様によってのみ可能です。というのもイエス様だけが、罪の罰を背負ってくださったからです。 負債を支払った者は、その負債証明書を破り捨てることができます。罪に対する罰を担う者のみが、罪を赦すことができるのです。このことは、私たちにとっても大きな喜びです。すなわち、イエス様が我々の罪を赦してくださったということができるのですから。イエス様によって、罪が赦されるためには、そのための犠牲が支払われなければなりませんでした。 主なる神の愛は、最も大きな力であり、罪や死よりもはるかに大きなものです。 永遠なる神の愛のしるしは、イエス様が罪のために、すなわち罪の赦しのためについてくださった十字架です。 イエス様の愛は、永遠の愛であり、神の愛そのものです。 3番目、イエス様の愛は、自分自身を犠牲にする愛です。 この愛は、自分を考える愛ではなく、他人のために存在しているのです。 ヨハネの福音書15:13
ガラテヤ人への手紙2:20
キリストもあなたがたを愛して、ご自身を神への捧げ物また供え物としてくださったと、エペソ人への手紙5章2節に書かれています。 今までに私たちは、まず第1に、イエス様の証しとして「父なる神がわたしを愛しておられる」というイエス様のみことばを学び、第2に、イエス様の告白を見てまいりました。すなわち「わたしは、あなたがたを愛する」というイエス様のみことばを中心に見てきました。 最後に、イエス様の命令について見てみたいと思います。 「わたしの愛のうちにとどまりなさい」とイエス様は言われました。「絶えずわたしの愛を覚えて歩みなさい」とイエス様は言われます。 この人生において、最も大切なものはいったい何なのでしょうか。 パウロは、コリント人への手紙第I、13章、愛の章と呼ばれている所なんです。 コリント人への手紙第I、13:13
一番大切なものは、人間が宗教を持っているかいないかということは、別に大切ではない。あなたの仕事や家庭に忠実に尽くすことによっては、決して天国に行くことはできません。 最も大切な問いは、「あなたはイエス様を愛しているの?」という問いです。 パウロは、コリント人への手紙第Iの中で、非常に理解しにくい強い言葉を書いたのです。 コリント人への手紙第I、16:22
ヨハネの福音書3:36
これは真に重大なみことばですが、本当にそのとおりです。 私たちは、イエス様を愛しているか、いないかということは、次の3種類の形をとって現れてくるのではないかと思います。 第1番目、イエス様を愛することは、イエス様に仕えることです。もちろん旧約聖書を見ても同じことが、何回も強調されています。2箇所だけ見てみましょうか。 申命記10:12
申命記11:13
イエス様を愛する者は、ただイエス様にのみ仕えたいと望む者です。イエス様を愛することは、イエス様に仕えることです。 第2番目、イエス様を愛することは、主の戒めを守ることです。 申命記11:22
申命記19:9
ヨシュア記22:5
イエス様も弟子たちにはっきり言われました。 ヨハネの福音書14:15
ヨハネの福音書14:23
すごい約束です。これほどの大きな約束があるのでしょうか。イエス様に対する我々の愛は、イエス様の戒めを守ることによって現されます。 第3番目、イエス様を愛することは、耐え忍んで主の再臨を待ち望むことです。 パウロは、テサロニケにいる兄弟姉妹に書き記したのです。 テサロニケ人への手紙第II、3:5
ユダの手紙1:21
イエス様を愛する者は、心が燃えて主の再臨を待ち望んでいます。 私たちは、本当にイエス様を愛しているのでしょうか。ダビデは、「私は、主を愛している」と心から言うことができたのです。 詩篇18:1-2
最後に結論として、主の愛を体験的に知り、主の愛のうちにとどまる者の特長について、ちょっと考えたいと思います。 第1番目、これらの人々は、イエス様の愛によって取り囲まれている人々です。彼らは、自分自身のためじゃなくて、イエス様のために生きたいと切に望む者です。コリント人への手紙第II、5章14節、15節を見ると、初代教会の告白、証しのようなものが書かれています。 コリント人への手紙第II、5:14-15
第2番目、主の愛によって取り囲まれた人々とは、他人のために自らを犠牲にすることを意味します。 ヨハネの手紙第I、3:16
主の愛を体験的に知り、主の愛のうちにとどまる者の特長は、今話したように、イエス様の愛によって取り囲まれている、また他人のために自らを犠牲にすることであり、第3番目の特長は、すべてのことにおいて、勝ち得て余りある。皆、暗記している箇所だと思いますけど、 ローマ人への手紙8:35-39
私たちの大部分は、神の愛をイエス様を通して体験的に知ることができました。罪を赦されており、罪の奴隷から解放されており、永遠のいのちを持っていることを信じるようになりました。 ですから、将来に対しても、大いなる希望を持つことができるのです。どうしてであるか、答えはローマ人への手紙5章5節です。非常にすばらしい大切な約束です。 ローマ人への手紙5:5
イエス様は、私たちを心から愛しておられ、その愛は永遠に変わることがなく、主の愛であり、ご自身を犠牲にしてくださる愛です。 イエス様が、我々のうちにとどまられるからこそ、イエス様を通して、この愛を持つことができるのです。 初代教会の証しとは、すばらしい証しです。 ペテロの手紙第I、1:8
このことばは、そのまま我々にあてはまるみことばであれば、本当にすばらしいのではないでしょうか。 |