再臨の予兆


近森兄

(高知福音集会、2011/03/13)

引用聖句:マタイの福音書24章3節
3イエスがオリーブ山ですわっておられると、弟子たちが、ひそかにみもとに来て言った。「お話しください。いつ、そのようなことが起こるのでしょう。あなたの来られる時や世の終わりには、どんな前兆があるのでしょう。」

マタイの福音書24:32
32いちじくの木から、たとえを学びなさい。枝が柔らかになって、葉が出て来ると、夏の近いことがわかります。

先程、兄弟からお話もございましたように、場所が離れてるということは、まったく違う日常生活ですね。
西の方、その他はまったく変わらない、平穏な毎日が続いているわけですけれども、東北の、特に三陸の沿岸に住んでいる方々、普通の生活をしていて、30分後に大津波、多くの映像を兄弟姉妹方も見られたと思いますけれども、まさに海が、大きく上がって来て、すべての生活を巻き込んで海の中に返って行く。
スマトラ沖の大津波もございましたけれども、今回の地震は、地震以上に津波による大きな災害。これが本当に、多くの人々、すべてを失うということだと思うんですね。

本当にこの災害に遭われた方々に対しては、まったく言葉もないと、いうことだと思うんですね。
東北関東沖大震災大津波と、このように呼ばれるようになるということでありますけれども、あるいは現在は、福島の原子炉の問題もございます。
ただこのようなことに関して、われわれ人間は一応考えてたんです。一応、予防しようとしていたわけです。

日本はご存知のように、地震の多い国ですから、あるいは特に三陸沖の海岸沿いと言うのは、世界の中でも最も津波の被害の起こりやすい場所なんです。ですから堤防を造って、予防もしてたんです。
あるいは原子力発電についても、色々なことをして、こういったことが起きればどのように対応するか、その色々なことで安全になるようにと言う風にしてたんです。
しかし、今日の新聞の朝刊に、ある教授がこう書かれてましたね。「人知は自然に及ばない。」

いくら人間がああだこうだと考えて、色々なことをやっても、人知は自然に及ばない。この自然て言うのは神が司られているわけですから、人知は神に及ばない。このように考えることも出来るのではないかと思います。
ただ、その創造主である主が、何もわからない、あるいは時として、すべてわかってるんだということで、おごり高ぶる人間に対して、この鍵となる預言の言葉を与えて下さっている。それが聖書なんですね。
だから聖書を見ていきますと、やはりこのような大災害は起きると書かれてるんですよ。書かれてるんです。

そして、本当にこの自然、あるいは地球そのものが、本当に何の問題もなく、本当に人間の考えた、いわゆるユートピアのようになって行くんではなくて、逆の方向に進んで行く。これは聖書が書いていることなんですね。
そして、大変な終わりが来る。イエス様ご自身が言っています。
ですからそのことを言われて、2,000年前に弟子達も、使徒達もおどろくんです。「本当にそんなことが起こるんですか?」おどろいて、イエス様に、そのようなことが起きるこの前兆は、一体どういった前兆なのでしょうか。聞くんですね。
これは先程、金子兄弟に読んでいただいたマタイの福音書の24章の3節にあります。

マタイの福音書24:3
3「お話しください。いつ、そのようなことが起こるのでしょう。あなたの来られる時や世の終わりには、どんな前兆があるのでしょう。」

これはマルコの福音書にもルカの福音書にも書かれています。ヨハネの福音書だけにはないんですけれども、この3つの福音書で、弟子達が本当におどろいて、どんな前兆があるんだろう。イエス様に聞かれる。
そして、この再臨の時にどのような前兆があるかということを、イエス様ご自身が答えられてる。
たとえばマタイの福音書の24章の14節ですね。同じところですけれども、ありますね。

マタイの福音書24:14
14この御国の福音は全世界に宣べ伝えられて、すべての国民にあかしされ、それから、終わりの日が来ます。

あるいは、このイエス様の啓示を受けて、パウロがテサロニケ人への手紙第I、テサロニケ人への手紙第IIとありますけれども、再臨のことについて書かれています。
テサロニケ人への手紙第I、4章の15から17節ですね。

テサロニケ人への手紙第I、4:15-17
15私たちは主のみことばのとおりに言いますが、主が再び来られるときまで生き残っている私たちが、死んでいる人々に優先するようなことは決してありません。
16主は、号令と、御使いのかしらの声と、神のラッパの響きのうちに、ご自身天から下って来られます。それからキリストにある死者が、まず初めによみがえり、
17次に、生き残っている私たちが、たちまち彼らといっしょに雲の中に一挙に引き上げられ、空中で主と会うのです。このようにして、私たちは、いつまでも主とともにいることになります。

ベック兄が書かれた「すぐに起こるはずのこと」、この世の終わりのことについて、この恵みの時が終わったあとで、まことの教会の携挙のあとで、まことの教会と言うのは、本当にイエス・キリストを、かしらとした本当に主によって結びつかれた本当の教会、それに結びついている人たち全部が空中再臨で上げられるんですね。
そのあとに、世界の審判が始まる。だからその審判が近くなると、色々なイエス様が言われていること、あるいはパウロが聖書によって示していること、そしてヨハネがヨハネの黙示録によって示していることが、どんどん起きてくるわけです。
この裁きの目的、何故そんな大変なことを主がされるのか、人間にとってはこの地震も本当に悲劇以外のなにものでもないんですね。
そのようなことを何故、主が起こされるのか。私達はそう思ってしまいます。

しかしベック兄は、「すぐに起こるはずのこと」で、裁きにもご目的があるんだと書かれています。それは、この世を支配する、いわゆる悪魔、悪の力ですね。
その意図を明らかにすること、あるいは悔い改めのない者に対する神の答え、そして神のご計画の実現の手段であると、このように仰られているわけです。
このように聖書は、イエス様がまた再臨されるということを、多くの預言をもって示しているわけであります。

その前に、2,000年前にイエス様が実際この世に来られて、人達がイエス様の十字架、そしてイエス様の復活を通して、本当に人間的で弱くて、イエス様が十字架につけられた時、バラバラになって逃げた人達が、イエス様の復活の力と、そして聖霊の力によって、イエス様のこの来臨のことを告げ知らせた。
これが新約聖書になるわけでありますけれども、やはりこれは、人間自身がいかに霊の目が曇りやすくて、ともすればイエス様の来られたことについても、まったく違うことを言いふらすような人達が多くなる、このことをイエス様はご存知だったんですね。
ですから、このイエス様がご自身の手で、聖餐式のこの形も決められました。これはやはり、私達がこのイエス様の十字架、その意味をすぐ忘れてしまうということをご存知ですから、イエス様ご自身が、みずからお決めになられたわけであります。

ルカの福音書の22章を開けてみたいと思います。

ルカの福音書22:14-20
14さて時間になって、イエスは食卓に着かれ、使徒たちもイエスといっしょに席に着いた。
15イエスは言われた。「わたしは、苦しみを受ける前に、あなたがたといっしょに、この過越の食事をすることをどんなに望んでいたことか。
16あなたがたに言いますが、過越が神の国において成就するまでは、わたしはもはや二度と過越の食事をすることはありません。」
17そしてイエスは、杯を取り、感謝をささげて後、言われた。「これを取って、互いに分けて飲みなさい。
18あなたがたに言いますが、今から、神の国が来る時までは、わたしはもはや、ぶどうの実で造った物を飲むことはありません。」
19それから、パンを取り、感謝をささげてから、裂いて、弟子たちに与えて言われた。「これは、あなたがたのために与える、わたしのからだです。わたしを覚えてこれを行ないなさい。」
20食事の後、杯も同じようにして言われた。「この杯は、あなたがたのために流されるわたしの血による新しい契約です。

これはまさにイエス様の十字架が、私達の罪の贖いのためである、ということを限りなく、世々何代も何代もにわたって私達が宣べ伝えるために、イエス様ご自身が取り決められたことであります。
そしてまた、同じルカの福音書の24章の19節からですけれども、これはイエス様が復活されるということについても、はっきりと預言もされているわけです。

ルカの福音書24:19-27
19イエスが、「どんな事ですか。」と聞かれると、ふたりは答えた。「ナザレ人イエスのことです。この方は、神とすべての民の前で、行ないにもことばにも力のある預言者でした。
20それなのに、私たちの祭司長や指導者たちは、この方を引き渡して、死刑に定め、十字架につけたのです。
21しかし私たちは、この方こそイスラエルを贖ってくださるはずだ、と望みをかけていました。事実、そればかりでなく、その事があってから三日目になりますが、
22また仲間の女たちが私たちを驚かせました。その女たちは朝早く墓に行ってみましたが、
23イエスのからだが見当たらないので、戻って来ました。そして御使いたちの幻を見たが、御使いたちがイエスは生きておられると告げた、と言うのです。
24それで、仲間の何人かが墓に行ってみたのですが、はたして女たちの言ったとおりで、イエスさまは見当たらなかった、というのです。」
25するとイエスは言われた。「ああ、愚かな人たち。預言者たちの言ったすべてを信じない、心の鈍い人たち。
26キリストは、必ず、そのような苦しみを受けて、それから、彼の栄光にはいるはずではなかったのですか。」
27それから、イエスは、モーセおよびすべての預言者から始めて、聖書全体の中で、ご自分について書いてある事がらを彼らに説き明かされた。

このように、聖書についてイエス様が何故このように来られたのか、そして復活の預言と実現化されたことについて述べられています。そしてその後、イエス様は再び来られる、すなわち再臨について、これはご存知のように、ヨハネの黙示録に詳しく書かれています。
このヨハネの黙示録に裁きを示された、裁きを思わせる世界の出来事と言うのは、これは教会の携挙の前から起きてます。本当の世界の審判、人類の審判と言うところではないと言われています。
にもかかわらず本当に多くのことが起きて来ます。これは心の鈍い人間に、裁きの近いことを悟らせるためであるわけなんです。

まさにこの前兆を繰り返し、示すことを通して、やはり、「いやー、私は全然イエス様とは関係ない、人間がすべての中心だ」と言っている、心の鈍い人間に聖書はこのように言っているでしょう、ということを悟らせるためである。このようにベック兄も書かれています。
ヨハネの黙示録の6章から7章全体は、裁きの内容を要約されています。具体的にはベック兄の本を読んでいただくといいと思います。
そしてまた、ヨハネの黙示録の8章から22章、裁きの具体的な内容、一部、冗句もありますけど、このことについて書かれているわけです。

このいろいろの中に書かれていることについて、時間がありませんので、その中で四頭の馬と言うのが出てきているわけですけれども、これは白い馬、赤い馬、黒い馬、青ざめた馬と、この四頭の馬がヨハネの黙示録の中で示されているわけであります。
ここを少し見てみたいと思いますけれども、6章の1節から。少し長いですけれども、拝読したいと思います。

ヨハネの黙示録6:1-17
1また、私は見た。小羊が七つの封印の一つを解いたとき、四つの生き物の一つが、雷のような声で「来なさい。」と言うのを私は聞いた。
2私は見た。見よ。白い馬であった。それに乗っている者は弓を持っていた。彼は冠を与えられ、勝利の上にさらに勝利を得ようとして出て行った。
3小羊が第二の封印を解いたとき、私は、第二の生き物が、「来なさい。」と言うのを聞いた。
4すると、別の、火のように赤い馬が出て来た。これに乗っている者は、地上から平和を奪い取ることが許された。人々が、互いに殺し合うようになるためであった。また、彼に大きな剣が与えられた。
5小羊が第三の封印を解いたとき、私は、第三の生き物が、「来なさい。」と言うのを聞いた。私は見た。見よ。黒い馬であった。これに乗っている者は量りを手に持っていた。
6すると私は、一つの声のようなものが、四つの生き物の間で、こう言うのを聞いた。「小麦一枡は一デナリ。大麦三枡も一デナリ。オリーブ油とぶどう酒に害を与えてはいけない。」
7小羊が第四の封印を解いたとき、私は、第四の生き物の声が、「来なさい。」と言うのを聞いた。
8私は見た。見よ。青ざめた馬であった。これに乗っている者の名は死といい、そのあとにはハデスがつき従った。彼らに地上の四分の一を剣とききんと死病と地上の獣によって殺す権威が与えられた。
9小羊が第五の封印を解いたとき、私は、神のことばと、自分たちが立てたあかしとのために殺された人々のたましいが祭壇の下にいるのを見た。
10彼らは大声で叫んで言った。「聖なる、真実な主よ。いつまでさばきを行なわず、地に住む者に私たちの血の復讐をなさらないのですか。」
11すると、彼らのひとりひとりに白い衣が与えられた。そして彼らは、「あなたがたと同じしもべ、また兄弟たちで、あなたがたと同じように殺されるはずの人々の数が満ちるまで、もうしばらくの間、休んでいなさい。」と言い渡された。
12私は見た。小羊が第六の封印を解いたとき、大きな地震が起こった。そして、太陽は毛の荒布のように黒くなり、月の全面が血のようになった。
13そして天の星が地上に落ちた。それは、いちじくが、大風に揺られて、青い実を振り落とすようであった。
14天は、巻き物が巻かれるように消えてなくなり、すべての山や島がその場所から移された。
15地上の王、高官、千人隊長、金持ち、勇者、あらゆる奴隷と自由人が、ほら穴と山の岩間に隠れ、
16山や岩に向かってこう言った。「私たちの上に倒れかかって、御座にある方の御顔と小羊の怒りとから、私たちをかくまってくれ。
17御怒りの大いなる日が来たのだ。だれがそれに耐えられよう。」

このように、これ以外にも多くの災難についてヨハネの黙示録で示されています。この四頭の馬ですけれども、この意味は歴史的に見ますと、まず第一の封印を開いて出て来る白い馬と言うのは、ルネッサンス、大航海時代、帝国主義に至る白人中心の時代である。
このように歴史的には解釈されるわけであります。すなわち白い馬の前までは、いわゆる中世までのカトリック教を中心とした時代。このように考えられるわけであります。
そして第二の封印を開いて出て来た赤い馬、これは世界戦争の時代としての二十世紀であります。第一次大戦、第二次大戦であります。

そして単なる戦争ということだけではなくて、第一次大戦、第二次大戦がなければ、イスラエルが滅ぼされて、世界中にバラバラになっていたユダヤ人達が、エルサレムに戻ってくることはなかったんです。
彼らがエルサレムに戻って来るということに関して、第一次大戦、第二次大戦は絶対に必要だったんです。これはまた、エルサレムということで、聖書の旧約聖書から新約聖書まで読んでみると、そのようなことがわかるんです。
そして第三の封印に出て来る黒い馬と言うのは、戦後の経済の発展と、イスラエルの建国、このことについての象徴であります。

そして第四の青ざめた馬、これは大不況、そしてニューヨークでのテロを中心としたテロリズムの蔓延ですね。この時代の象徴であります。
そして第六の封印を開いた時に出て来る、これがまさに地震、大きな地震があらゆる所で起きて来るということを聖書ははっきりと言っているわけであります。
まさに十六年前の神戸の大震災、そして今回の大地震と、本当に大きな地震が間隔が短くなって出て来るわけであります。神戸と言うのは、私達は普通の意味で考えているんですけれども、外国の人達は「神の戸が開かれた。」

今回、東北関東沖で地震があったんですけれども、これは地質学的に、まずニュージーランドの地震が起きて、その反作用と言いますか、わかりませんけれども、地震学者は影響で起きて来ただろうと。
ニュージーランドで大災害があったのはご存知のようにクライストチャーチ、すなわちキリストの教会ですね。
そしてヨハネの黙示録の6章で岩や山に向かってこう言った。「私たちの上に倒れかかって・・」ですね。

ちょうど職場が西新宿の高層街にありますけれども、この地震の時は、まさに高層ビルが風で揺らぐ木のように。揺れてくると、このままこう落ちかかって来るんじゃないか、まさにこの通りなんですね。私達の上に倒れかかって来る。この状況が起きて来るんですね。
そしてまた、ラッパの裁きの予兆として、世界のいろいろな荒廃についてもヨハネの黙示録の続いて8章に書かれています。
8章の7節から12節。

ヨハネの黙示録8:7
7第一の御使いがラッパを吹き鳴らした。すると、血の混じった雹と火とが現われ、地上に投げられた。そして地上の三分の一が焼け、木の三分の一も焼け、青草が全部焼けてしまった。

7第一の御使いがラッパを吹き鳴らした。すると、血の混じった雹と火とが現われ、地上に投げられた。そして地上の三分の一が焼け、木の三分の一も焼け、青草が全部焼けてしまった。

乾燥化と共にいろいろな地域で、ブラジルで、オーストラリアで、あるいはカリフォルニアで森林の大火災が起きていますね。

ヨハネの黙示録8:8-11
8第二の御使いがラッパを吹き鳴らした。すると、火の燃えている大きな山のようなものが、海に投げ込まれた。そして海の三分の一が血となった。
9すると、海の中にいた、いのちのあるものの三分の一が死に、舟の三分の一も打ちこわされた。
10第三の御使いがラッパを吹き鳴らした。すると、たいまつのように燃えている大きな星が天から落ちて来て、川々の三分の一とその水源に落ちた。
11この星の名は苦よもぎと呼ばれ、川の水の三分の一は苦よもぎのようになった。水が苦くなったので、その水のために多くの人が死んだ。

これはロシア語でチェルノブイリと言うんですね。
苦よもぎ。このチェルノブイリの災害で、だいたい数千人から数十万人の人が亡くなっている。正確な数はわかりません。

ヨハネの黙示録8:12-13
12第四の御使いがラッパを吹き鳴らした。すると、太陽の三分の一と、月の三分の一と、星の三分の一とが打たれたので、三分の一は暗くなり、昼の三分の一は光を失い、また夜も同様であった。
13また私は見た。一羽のわしが中天を飛びながら、大声で言うのを聞いた。「わざわいが来る。わざわいが、わざわいが来る。地に住む人々に。あと三人の御使いがラッパを吹き鳴らそうとしている。」

このように地球の温暖化と乾燥化を預言した第一のラッパ。海洋汚染、特に赤潮について、その他について預言した第二のラッパ。第三のラッパは、チェルノブイリの原子力汚染、その他に関する人間の理性、あるいは科学技術で万全だと思うことに対する、大きな警鐘だと思います。
このことは、一番最初に述べたように、人知には限りがあると言うことを知らない、人間に対する警鐘ではないかと思うんですね。
特に、原子力発電その他については、人間の行なうことがいかに安全に行なうことが出来るかどうかと言う、安全管理学と言うのが発達しています。その中で、よく比較に出されるのが、私は医療を関係してますから、医療と、そして航空管制ですね。そしてこの原子力。

一番、安全管理が進んでいるのは原子力。どんなに人間が間違いを起こすことがあっても、この原子力発電についての安全は万全だと言うんですね。この管理学上は。
一番、安全管理がなっていないのは医療なんです。いつも異常の状態であって、これは人間によって安全が管理出来るかどうかにかかっていると、いうことであります。
しかし、これだけ安全管理ということを考えていたにもかかわらず、この原子力をクーリングする水の巡廻、それがちょっとした想定外の津波で、まったく動かなくなってしまう、と言うのは本当にすべてわかっていると思う人間の知識のおごり高ぶりと言うのが、逆に、より大きな災害をもたらす可能性があるということに対する戒めではないかと思うわけであります


そして第四のラッパ、まさにこれは暗くなる、愛が醒めて真っ暗になって行くこの世ですね。特に日本、世界もそうですけど、いろいろ見ていると、やはり何と言いますか、他人を受け入れないと言うか、耐用性を失って、少しのことで人を責め合う、ちょっとしたことで相手を責める、そう言った、まさに冷たくなっている人間の性質の傾向、と言うように少し気が付くのではないかと思うんです。
そして第五のラッパ、第六のラッパと続いて、9章以降に出て来ますけれども、よく言われている第六のラッパで最後のハルマゲドンの戦い、大きな戦争が起きる、ということでありますけれども、ルカの福音書の21章を開いていただきたいと思います。

ルカの福音書21:20
20しかし、エルサレムが軍隊に囲まれるのを見たら、そのときには、その滅亡が近づいたことを悟りなさい。

一番最初に兄弟に読んでいただいたマタイの福音書の24章の3節、あと、これは同じことがマルコの福音書にもルカの福音書にも書かれているとお話をしました。その前兆は、どういったことが起きるでしょうと。
この人類の最後の第三災害と言うか、大災難と言うか、それが来る、あるいはイエス様がまた来られる、その再臨について弟子達がイエス様に聞かれた時、これはまさにヨハネの黙示録、それに類することをイエス様は仰られました。
しかし、いずれも地震、ききん、戦争、その他のことですけれども、抽象的なお答えだったんですね。その中でただ一つ、だた一つ具体的にイエス様が仰られてるのが、このルカの福音書の21章の20節です。

ルカの福音書21:20
20しかし、エルサレムが軍隊に囲まれるのを見たら、そのときには、その滅亡が近づいたことを悟りなさい。

ということであります。そして、ただこのエルサレムが軍隊に囲まれる。ユダヤ人がいるエルサレムが軍隊に囲まれる、その前に、みことばが全世界に宣べ伝えられてと言う状況は、1,900年間ありえない状態だったんです。
ところが1967年に、ユダヤ人達がエルサレムに帰って来るんですよ。中世の時代に、あるいは宗教改革の時代に、マルティン・ルターですね、「もしイエス様が、明日、再臨されるとしても、私は、リンゴの木を植える。」
有名な言葉ですね。あるいは、トマス・アキナス。多くの素晴らしい、聖書に精通した立派な人達がいました。

しかし彼らは、その当時エルサレムに、あるいはこれは、特にアラブの人達がいる時代、いろいろ時代がありましたけれども、ユダヤ人が帰って来るとは全然思ってなかった。しかし帰って来たんですね。
だからこのルカの福音書の21章の20節が、まさに可能となったのは、1,900年間なかったのが、この40数年間の間に、ありうる状況になってるんです。
そのことを、やはり私達は、本当に真摯に受け止める必要があると思います。ベック兄も再臨が近いと言うのは客観的にそういうことなんです。

そして更に、現在、アラブの目覚めと言う状況になっています。
これは、イスラエルを一生懸命守ろうとしているアメリカによって、エジプト、あるいはその他の周辺国を、一応、反ユダヤでありますけれども、戦争だけはしないようにと、そう言った冷たい平和を、一生懸命アメリカが築いていたんですけれども、まさにアラブの普通の人達は、本当にイスラエルが大嫌いなんですよね。
彼らの、まさに意向によって、国々が動かされうる時代になっている。

いろいろな状況を私達は、本当に聖書を、みことば、そして聖霊に頼ってこのみことばを示される必要があると思いますし、そしてこの、まさに再臨間際になっている時代で、私たちが何をしないといけないんだろう、ということをやはり、いつも気に止めて歩む必要があると思います。
最後に、いくつか御言葉を、私たちが現在の再臨間際の時代において、なすべきことを示している御言葉を拝読して、終わりにさせていただきたいと思います。

マルコの福音書13:35-36
35だから、目をさましていなさい。家の主人がいつ帰って来るか、夕方か、夜中か、鶏の鳴くころか、明け方か、わからないからです。
36主人が不意に帰って来たとき眠っているのを見られないようにしなさい。

だからこの再臨が預言どおりに、来られることを心にとめて、信仰の目をしっかり開いているということが大切じゃないかと思います。
続いてヨハネの手紙第Iの2章24節。

ヨハネの手紙第I、2:24
24あなたがたは、初めから聞いたことを、自分たちのうちにとどまらせなさい。もし初めから聞いたことがとどまっているなら、あなたがたも御子および御父のうちにとどまるのです。

初めから聞いたことにとどまる。やはり、聖書の御言葉のなかにとどまる、これはすなわちイエス様の中にとどまる、ということであります。
いつも心の中に与えられた聖霊の御言葉に聞いて歩むこと、そしてそのことが、イエス・キリストをかしらとする教会の中にとどまることであります。

ペテロの手紙第I、2:12
12異邦人の中にあって、りっぱにふるまいなさい。そうすれば、彼らは、何かのことであなたがたを悪人呼ばわりしていても、あなたがたのそのりっぱな行ないを見て、おとずれの日に神をほめたたえるようになります。

異邦人の中にあっても、御言葉に従って、御言葉にふさわしく歩みなさいとあります。
そうすれば、おとずれの日に彼らが、神をほめたたえるようになります、ということであります。

テモテへの手紙第II、1:6-8
6それですから、私はあなたに注意したいのです。私の按手をもってあなたのうちに与えられた神の賜物を、再び燃え立たせてください。
7神が私たちに与えてくださったものは、おくびょうの霊ではなく、力と愛と慎みとの霊です。
8ですから、あなたは、私たちの主をあかしすることや、私が主の囚人であることを恥じてはいけません。むしろ、神の力によって、福音のために私と苦しみをともにしてください。

再び燃え立って、主を証しする。
福音のために御言葉を宣べ伝える、しかもイエス様をご存知ない人々に宣べ伝えるということは、やはり簡単なことではないんですね。
苦しみを伴うかもしれない、しかしパウロは、福音のために私を苦しみを共にしてください。とこのように述べているわけであります。

ですから、この再臨が間近に迫っているこの時代において、私達、本当にイエス様を信じる者として、なすべきことは、この再臨をしっかりと意識をして目をさましていること、そして、最初に聞いた福音の真実にとどまる。
すなわちイエス様の御心に沿った歩みをすること。そしてイエス様を宣べ伝えること、このことが大切ではないかと思います。
最後にヨハネの黙示録の19章から拝読して終わりにさせていただきたいと思います。

ヨハネの黙示録の19:5-9
5また、御座から声が出て言った。「すべての、神のしもべたち。小さい者も大きい者も、神を恐れかしこむ者たちよ。われらの神を賛美せよ。」
6また、私は大群衆の声、大水の音、激しい雷鳴のようなものが、こう言うのを聞いた。「ハレルヤ。万物の支配者である、われらの神である主は王となられた。
7私たちは喜び楽しみ、神をほめたたえよう。小羊の婚姻の時が来て、花嫁はその用意ができたのだから。
8花嫁は、光り輝く、きよい麻布の衣を着ることを許された。その麻布とは、聖徒たちの正しい行ないである。」
9御使いは私に「小羊の婚宴に招かれた者は幸いだ、と書きなさい。」と言い、また、「これは神の真実のことばです。」と言った。




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