引用聖句:マタイの福音書24章3節
マタイの福音書24:32
先程、兄弟からお話もございましたように、場所が離れてるということは、まったく違う日常生活ですね。 西の方、その他はまったく変わらない、平穏な毎日が続いているわけですけれども、東北の、特に三陸の沿岸に住んでいる方々、普通の生活をしていて、30分後に大津波、多くの映像を兄弟姉妹方も見られたと思いますけれども、まさに海が、大きく上がって来て、すべての生活を巻き込んで海の中に返って行く。 スマトラ沖の大津波もございましたけれども、今回の地震は、地震以上に津波による大きな災害。これが本当に、多くの人々、すべてを失うということだと思うんですね。 本当にこの災害に遭われた方々に対しては、まったく言葉もないと、いうことだと思うんですね。 東北関東沖大震災大津波と、このように呼ばれるようになるということでありますけれども、あるいは現在は、福島の原子炉の問題もございます。 ただこのようなことに関して、われわれ人間は一応考えてたんです。一応、予防しようとしていたわけです。 日本はご存知のように、地震の多い国ですから、あるいは特に三陸沖の海岸沿いと言うのは、世界の中でも最も津波の被害の起こりやすい場所なんです。ですから堤防を造って、予防もしてたんです。 あるいは原子力発電についても、色々なことをして、こういったことが起きればどのように対応するか、その色々なことで安全になるようにと言う風にしてたんです。 しかし、今日の新聞の朝刊に、ある教授がこう書かれてましたね。「人知は自然に及ばない。」 いくら人間がああだこうだと考えて、色々なことをやっても、人知は自然に及ばない。この自然て言うのは神が司られているわけですから、人知は神に及ばない。このように考えることも出来るのではないかと思います。 ただ、その創造主である主が、何もわからない、あるいは時として、すべてわかってるんだということで、おごり高ぶる人間に対して、この鍵となる預言の言葉を与えて下さっている。それが聖書なんですね。 だから聖書を見ていきますと、やはりこのような大災害は起きると書かれてるんですよ。書かれてるんです。 そして、本当にこの自然、あるいは地球そのものが、本当に何の問題もなく、本当に人間の考えた、いわゆるユートピアのようになって行くんではなくて、逆の方向に進んで行く。これは聖書が書いていることなんですね。 そして、大変な終わりが来る。イエス様ご自身が言っています。 ですからそのことを言われて、2,000年前に弟子達も、使徒達もおどろくんです。「本当にそんなことが起こるんですか?」おどろいて、イエス様に、そのようなことが起きるこの前兆は、一体どういった前兆なのでしょうか。聞くんですね。 これは先程、金子兄弟に読んでいただいたマタイの福音書の24章の3節にあります。 マタイの福音書24:3
これはマルコの福音書にもルカの福音書にも書かれています。ヨハネの福音書だけにはないんですけれども、この3つの福音書で、弟子達が本当におどろいて、どんな前兆があるんだろう。イエス様に聞かれる。 そして、この再臨の時にどのような前兆があるかということを、イエス様ご自身が答えられてる。 たとえばマタイの福音書の24章の14節ですね。同じところですけれども、ありますね。 マタイの福音書24:14
あるいは、このイエス様の啓示を受けて、パウロがテサロニケ人への手紙第I、テサロニケ人への手紙第IIとありますけれども、再臨のことについて書かれています。 テサロニケ人への手紙第I、4章の15から17節ですね。 テサロニケ人への手紙第I、4:15-17
ベック兄が書かれた「すぐに起こるはずのこと」、この世の終わりのことについて、この恵みの時が終わったあとで、まことの教会の携挙のあとで、まことの教会と言うのは、本当にイエス・キリストを、かしらとした本当に主によって結びつかれた本当の教会、それに結びついている人たち全部が空中再臨で上げられるんですね。 そのあとに、世界の審判が始まる。だからその審判が近くなると、色々なイエス様が言われていること、あるいはパウロが聖書によって示していること、そしてヨハネがヨハネの黙示録によって示していることが、どんどん起きてくるわけです。 この裁きの目的、何故そんな大変なことを主がされるのか、人間にとってはこの地震も本当に悲劇以外のなにものでもないんですね。 そのようなことを何故、主が起こされるのか。私達はそう思ってしまいます。 しかしベック兄は、「すぐに起こるはずのこと」で、裁きにもご目的があるんだと書かれています。それは、この世を支配する、いわゆる悪魔、悪の力ですね。 その意図を明らかにすること、あるいは悔い改めのない者に対する神の答え、そして神のご計画の実現の手段であると、このように仰られているわけです。 このように聖書は、イエス様がまた再臨されるということを、多くの預言をもって示しているわけであります。 その前に、2,000年前にイエス様が実際この世に来られて、人達がイエス様の十字架、そしてイエス様の復活を通して、本当に人間的で弱くて、イエス様が十字架につけられた時、バラバラになって逃げた人達が、イエス様の復活の力と、そして聖霊の力によって、イエス様のこの来臨のことを告げ知らせた。 これが新約聖書になるわけでありますけれども、やはりこれは、人間自身がいかに霊の目が曇りやすくて、ともすればイエス様の来られたことについても、まったく違うことを言いふらすような人達が多くなる、このことをイエス様はご存知だったんですね。 ですから、このイエス様がご自身の手で、聖餐式のこの形も決められました。これはやはり、私達がこのイエス様の十字架、その意味をすぐ忘れてしまうということをご存知ですから、イエス様ご自身が、みずからお決めになられたわけであります。 ルカの福音書の22章を開けてみたいと思います。 ルカの福音書22:14-20
これはまさにイエス様の十字架が、私達の罪の贖いのためである、ということを限りなく、世々何代も何代もにわたって私達が宣べ伝えるために、イエス様ご自身が取り決められたことであります。 そしてまた、同じルカの福音書の24章の19節からですけれども、これはイエス様が復活されるということについても、はっきりと預言もされているわけです。 ルカの福音書24:19-27
このように、聖書についてイエス様が何故このように来られたのか、そして復活の預言と実現化されたことについて述べられています。そしてその後、イエス様は再び来られる、すなわち再臨について、これはご存知のように、ヨハネの黙示録に詳しく書かれています。 このヨハネの黙示録に裁きを示された、裁きを思わせる世界の出来事と言うのは、これは教会の携挙の前から起きてます。本当の世界の審判、人類の審判と言うところではないと言われています。 にもかかわらず本当に多くのことが起きて来ます。これは心の鈍い人間に、裁きの近いことを悟らせるためであるわけなんです。 まさにこの前兆を繰り返し、示すことを通して、やはり、「いやー、私は全然イエス様とは関係ない、人間がすべての中心だ」と言っている、心の鈍い人間に聖書はこのように言っているでしょう、ということを悟らせるためである。このようにベック兄も書かれています。 ヨハネの黙示録の6章から7章全体は、裁きの内容を要約されています。具体的にはベック兄の本を読んでいただくといいと思います。 そしてまた、ヨハネの黙示録の8章から22章、裁きの具体的な内容、一部、冗句もありますけど、このことについて書かれているわけです。 このいろいろの中に書かれていることについて、時間がありませんので、その中で四頭の馬と言うのが出てきているわけですけれども、これは白い馬、赤い馬、黒い馬、青ざめた馬と、この四頭の馬がヨハネの黙示録の中で示されているわけであります。 ここを少し見てみたいと思いますけれども、6章の1節から。少し長いですけれども、拝読したいと思います。 ヨハネの黙示録6:1-17
このように、これ以外にも多くの災難についてヨハネの黙示録で示されています。この四頭の馬ですけれども、この意味は歴史的に見ますと、まず第一の封印を開いて出て来る白い馬と言うのは、ルネッサンス、大航海時代、帝国主義に至る白人中心の時代である。 このように歴史的には解釈されるわけであります。すなわち白い馬の前までは、いわゆる中世までのカトリック教を中心とした時代。このように考えられるわけであります。 そして第二の封印を開いて出て来た赤い馬、これは世界戦争の時代としての二十世紀であります。第一次大戦、第二次大戦であります。 そして単なる戦争ということだけではなくて、第一次大戦、第二次大戦がなければ、イスラエルが滅ぼされて、世界中にバラバラになっていたユダヤ人達が、エルサレムに戻ってくることはなかったんです。 彼らがエルサレムに戻って来るということに関して、第一次大戦、第二次大戦は絶対に必要だったんです。これはまた、エルサレムということで、聖書の旧約聖書から新約聖書まで読んでみると、そのようなことがわかるんです。 そして第三の封印に出て来る黒い馬と言うのは、戦後の経済の発展と、イスラエルの建国、このことについての象徴であります。 そして第四の青ざめた馬、これは大不況、そしてニューヨークでのテロを中心としたテロリズムの蔓延ですね。この時代の象徴であります。 そして第六の封印を開いた時に出て来る、これがまさに地震、大きな地震があらゆる所で起きて来るということを聖書ははっきりと言っているわけであります。 まさに十六年前の神戸の大震災、そして今回の大地震と、本当に大きな地震が間隔が短くなって出て来るわけであります。神戸と言うのは、私達は普通の意味で考えているんですけれども、外国の人達は「神の戸が開かれた。」 今回、東北関東沖で地震があったんですけれども、これは地質学的に、まずニュージーランドの地震が起きて、その反作用と言いますか、わかりませんけれども、地震学者は影響で起きて来ただろうと。 ニュージーランドで大災害があったのはご存知のようにクライストチャーチ、すなわちキリストの教会ですね。 そしてヨハネの黙示録の6章で岩や山に向かってこう言った。「私たちの上に倒れかかって・・」ですね。 ちょうど職場が西新宿の高層街にありますけれども、この地震の時は、まさに高層ビルが風で揺らぐ木のように。揺れてくると、このままこう落ちかかって来るんじゃないか、まさにこの通りなんですね。私達の上に倒れかかって来る。この状況が起きて来るんですね。 そしてまた、ラッパの裁きの予兆として、世界のいろいろな荒廃についてもヨハネの黙示録の続いて8章に書かれています。 8章の7節から12節。 ヨハネの黙示録8:7
7第一の御使いがラッパを吹き鳴らした。すると、血の混じった雹と火とが現われ、地上に投げられた。そして地上の三分の一が焼け、木の三分の一も焼け、青草が全部焼けてしまった。 乾燥化と共にいろいろな地域で、ブラジルで、オーストラリアで、あるいはカリフォルニアで森林の大火災が起きていますね。 ヨハネの黙示録8:8-11
これはロシア語でチェルノブイリと言うんですね。 苦よもぎ。このチェルノブイリの災害で、だいたい数千人から数十万人の人が亡くなっている。正確な数はわかりません。 ヨハネの黙示録8:12-13
このように地球の温暖化と乾燥化を預言した第一のラッパ。海洋汚染、特に赤潮について、その他について預言した第二のラッパ。第三のラッパは、チェルノブイリの原子力汚染、その他に関する人間の理性、あるいは科学技術で万全だと思うことに対する、大きな警鐘だと思います。 このことは、一番最初に述べたように、人知には限りがあると言うことを知らない、人間に対する警鐘ではないかと思うんですね。 特に、原子力発電その他については、人間の行なうことがいかに安全に行なうことが出来るかどうかと言う、安全管理学と言うのが発達しています。その中で、よく比較に出されるのが、私は医療を関係してますから、医療と、そして航空管制ですね。そしてこの原子力。 一番、安全管理が進んでいるのは原子力。どんなに人間が間違いを起こすことがあっても、この原子力発電についての安全は万全だと言うんですね。この管理学上は。 一番、安全管理がなっていないのは医療なんです。いつも異常の状態であって、これは人間によって安全が管理出来るかどうかにかかっていると、いうことであります。 しかし、これだけ安全管理ということを考えていたにもかかわらず、この原子力をクーリングする水の巡廻、それがちょっとした想定外の津波で、まったく動かなくなってしまう、と言うのは本当にすべてわかっていると思う人間の知識のおごり高ぶりと言うのが、逆に、より大きな災害をもたらす可能性があるということに対する戒めではないかと思うわけであります 。 そして第四のラッパ、まさにこれは暗くなる、愛が醒めて真っ暗になって行くこの世ですね。特に日本、世界もそうですけど、いろいろ見ていると、やはり何と言いますか、他人を受け入れないと言うか、耐用性を失って、少しのことで人を責め合う、ちょっとしたことで相手を責める、そう言った、まさに冷たくなっている人間の性質の傾向、と言うように少し気が付くのではないかと思うんです。 そして第五のラッパ、第六のラッパと続いて、9章以降に出て来ますけれども、よく言われている第六のラッパで最後のハルマゲドンの戦い、大きな戦争が起きる、ということでありますけれども、ルカの福音書の21章を開いていただきたいと思います。 ルカの福音書21:20
一番最初に兄弟に読んでいただいたマタイの福音書の24章の3節、あと、これは同じことがマルコの福音書にもルカの福音書にも書かれているとお話をしました。その前兆は、どういったことが起きるでしょうと。 この人類の最後の第三災害と言うか、大災難と言うか、それが来る、あるいはイエス様がまた来られる、その再臨について弟子達がイエス様に聞かれた時、これはまさにヨハネの黙示録、それに類することをイエス様は仰られました。 しかし、いずれも地震、ききん、戦争、その他のことですけれども、抽象的なお答えだったんですね。その中でただ一つ、だた一つ具体的にイエス様が仰られてるのが、このルカの福音書の21章の20節です。 ルカの福音書21:20
ということであります。そして、ただこのエルサレムが軍隊に囲まれる。ユダヤ人がいるエルサレムが軍隊に囲まれる、その前に、みことばが全世界に宣べ伝えられてと言う状況は、1,900年間ありえない状態だったんです。 ところが1967年に、ユダヤ人達がエルサレムに帰って来るんですよ。中世の時代に、あるいは宗教改革の時代に、マルティン・ルターですね、「もしイエス様が、明日、再臨されるとしても、私は、リンゴの木を植える。」 有名な言葉ですね。あるいは、トマス・アキナス。多くの素晴らしい、聖書に精通した立派な人達がいました。 しかし彼らは、その当時エルサレムに、あるいはこれは、特にアラブの人達がいる時代、いろいろ時代がありましたけれども、ユダヤ人が帰って来るとは全然思ってなかった。しかし帰って来たんですね。 だからこのルカの福音書の21章の20節が、まさに可能となったのは、1,900年間なかったのが、この40数年間の間に、ありうる状況になってるんです。 そのことを、やはり私達は、本当に真摯に受け止める必要があると思います。ベック兄も再臨が近いと言うのは客観的にそういうことなんです。 そして更に、現在、アラブの目覚めと言う状況になっています。 これは、イスラエルを一生懸命守ろうとしているアメリカによって、エジプト、あるいはその他の周辺国を、一応、反ユダヤでありますけれども、戦争だけはしないようにと、そう言った冷たい平和を、一生懸命アメリカが築いていたんですけれども、まさにアラブの普通の人達は、本当にイスラエルが大嫌いなんですよね。 彼らの、まさに意向によって、国々が動かされうる時代になっている。 いろいろな状況を私達は、本当に聖書を、みことば、そして聖霊に頼ってこのみことばを示される必要があると思いますし、そしてこの、まさに再臨間際になっている時代で、私たちが何をしないといけないんだろう、ということをやはり、いつも気に止めて歩む必要があると思います。 最後に、いくつか御言葉を、私たちが現在の再臨間際の時代において、なすべきことを示している御言葉を拝読して、終わりにさせていただきたいと思います。 マルコの福音書13:35-36
だからこの再臨が預言どおりに、来られることを心にとめて、信仰の目をしっかり開いているということが大切じゃないかと思います。 続いてヨハネの手紙第Iの2章24節。 ヨハネの手紙第I、2:24
初めから聞いたことにとどまる。やはり、聖書の御言葉のなかにとどまる、これはすなわちイエス様の中にとどまる、ということであります。 いつも心の中に与えられた聖霊の御言葉に聞いて歩むこと、そしてそのことが、イエス・キリストをかしらとする教会の中にとどまることであります。 ペテロの手紙第I、2:12
異邦人の中にあっても、御言葉に従って、御言葉にふさわしく歩みなさいとあります。 そうすれば、おとずれの日に彼らが、神をほめたたえるようになります、ということであります。 テモテへの手紙第II、1:6-8
再び燃え立って、主を証しする。 福音のために御言葉を宣べ伝える、しかもイエス様をご存知ない人々に宣べ伝えるということは、やはり簡単なことではないんですね。 苦しみを伴うかもしれない、しかしパウロは、福音のために私を苦しみを共にしてください。とこのように述べているわけであります。 ですから、この再臨が間近に迫っているこの時代において、私達、本当にイエス様を信じる者として、なすべきことは、この再臨をしっかりと意識をして目をさましていること、そして、最初に聞いた福音の真実にとどまる。 すなわちイエス様の御心に沿った歩みをすること。そしてイエス様を宣べ伝えること、このことが大切ではないかと思います。 最後にヨハネの黙示録の19章から拝読して終わりにさせていただきたいと思います。 ヨハネの黙示録の19:5-9
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