ドイツ喜びの集い 2008/06 A-1


Elsbeth姉、Erisabeth姉

(ドイツ喜びの集い、2008/06)

Elsbeth姉メッセージ、わたしはあなたがたを愛している、2008/06/03

引用聖句:マラキ書1章2節
2「わたしはあなたがたを愛している。」と主は仰せられる。

マラキ書の1章2節で、「わたしはあなたがたを愛している」、この御言葉を皆、来たときにもらったのではないかと思います。
もちろん皆、何回も何回もお聞きになったでしょう。すなわち偉大なる主なる神は、私たちのことを思っておられ、心配してくださり愛しておられる。
けれどもこの事実を新たに知ること、そのために感謝することができることとは、非常に大切なのではないでしょうか。

マラキとは、結局主の召使いである預言者として召された者です。そして、彼が初めて宣べ伝えなければならなかった事実とは、「わたしは、あなたがたを愛している。」
その時の人々は、ちょうどバビロニアという国から解放されたばかりで、非常に悩みながら苦しみながら重荷を負う人々だったのです。けれども、彼らにとって必要なのは主の約束です。「わたしはあなたがたを愛している。」と。
もちろん、彼らはどうして敵の虜になったかと言いますと、主を第一にしなかったからです。けれども戻った時主は、「あなたがたは、ひどかったじゃないか!不従順だったじゃないか!」と言われなかったのです。「わたしはあなたを愛している。」と言われたのです。

主の愛とは、相手と関係なしに愛する愛です。人間ひとりひとりは、主の愛の対象そのものである。どうしてであるか、確かに理解できません。けれども事実です。
もちろん、これはイスラエルに与えられただけの御言葉ではなく、今朝、私たちひとりひとりに対する主の呼びかけでもあります。すなわち、「私は、あなたを愛している。」
もちろん主の約束とは、空約束ではない。主は、この愛を明らかにして証明してくださいました。すなわち一人子であるイエス様を与えられることによって、イエス様が十字架につけられることによって主の愛は明らかになりました。

私たちとは、確かに主の愛を受ける資格のない者です。どうして愛されているかわからない。けれども、愛されてるからこそ私たちは価値がある者なのです。
多くの人々は愛された経験がないと言います。寂しく、孤独です。どうしてであるかと言いますと、如何に主によって愛されているか全くわからないからです。
日本で知られてるかどうかわからないけど、人気があって、美人で、4回も結婚した女性が自殺しました。その女性が最後に残した紙切れになんと書いたかと言いますと、「わたしは、愛されたかっただけです。けれども見つからなかった。」

主は、私たちを完全に知っておられます。昔の罪だけではなく、今の罪も、将来の罪も全部知っておられるのに、どうして愛されているか理解できませんけど、本当なのです。
私は19歳の時イギリスに住んでいました。その時、はじめて私も愛されていることがわかるようになりました。その時のとるべき態度は、やっぱり今からは主のためにだけ生きたいという思いでした。
もちろん、私の主に対する愛はたいしたものじゃありません。主の愛と比べれば・・・。けれども私は50年間、主の愛を覚えながら奉仕することができたのは、ほんとうに感謝でいっぱいです。

エレミヤ書31:3
3「永遠の愛をもって、わたしはあなたを愛した。それゆえ、わたしはあなたに、誠実を尽くし続けた。

その中で、「もう昔からわたしはあなたを愛した。わたしはあなたを愛し続けるのです。いつまでも。」
主の愛とはもちろん一時的な感情的なものではなく、いつまでも続くものです。何があっても、主は愛し続けていてくださるのです。
ヨハネの福音書15章9節を見ると、「わたしは父に愛されているように、わたしはあなたがたを愛している。」、考えられない事実です。

イエス様とは、父なる神にとって何を意味したのか、もちろんそれもピンと来ないし、理解できません。でも父にとって、イエス様とはすべてのすべてでした。イエス様を考えられない程、愛されたのです。
けども我々も、同じように愛されていると聖書は言っているからすごい、素晴らしい事実なのではないでしょうか。
ローマ人への手紙の8章の終わりにいろいろなことを書いていますが、結論してパウロは告白しています。「何があっても、誰も、なにも私たちを主の愛から引き離すことはできません。」

ローマ人への手紙8:39
39高さも、深さも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。

結局私たちはいつまでも心配され、愛されている。私たちが、いかに愚かな態度をとったとしても、失敗したとしても、主は私たちを捨てようとしません。愛し続けてくださるお方です。
みなさんご存知の箇所です。

ヨハネの福音書3:16
16神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。

やっぱり皆、大いに愛されている。そして愛されている証拠なるものとは、結局十字架につけられ、見捨てられたイエス様です。
もちろんこの主の愛は、全く個人的な愛です。あなたこそが、主の愛の対象であり、あなたのためにこそ、主は心配してくださると言うことです。
愛されていることをわかっている人は、もちろん妬む気持ちにならないし、他の人と比べられないし、やっぱりもう関係なし。わたしは、主に愛されている。これこそがすごい、素晴らしい考えられない事実です。

主によって愛されている者はもちろん平安であり、守られているのです。いろいろなことで悩みがあっても、傷つけられても、主に愛されていることがあれば、また元気になり、喜ぶことができるのです。
いろいろな問題が出てくると、その時こそ覚えるべきなのは、その背後に私を愛してる主は導いてくださる。
イスラエルの民の経験とは、「わたしはあなたを愛している。」と主が言われたのに、この愛はいったいどういうものか、どうして愛されていることを知ることができるのか。愛されてるなら、どうして、この不幸を経験しなくちゃならなかったのか?・・・という態度をとったのです。

悪魔は今日も、われわれをこういう風に攻撃するのではないでしょうか。本当に愛されてるか?
もちろん彼らは、目に見える現実しか考えられなかったです。すなわち彼らの間違った思い込みは、「もし愛されているなら、問題はなくなるはずだ。」
主に愛されている者は、確かにいろいろな辛いことを経験せざるを得ない。愛されていることを考えると、安心してすべてをゆだねることができるのです。

ある90歳のおじいちゃんが聞かれたのです?「イエス様に愛されていることがわかるの?」「うん、もちろんわかるよ。もっともっと、素晴らしいことがあるよ。私は、なんでもできるお方に大切にされているよ。心配されているよ。」
確かに私たちは、今からもいろいろなことで悩むようになります。けれども、その時どうしても覚えるべきなのは、愛されていることです。主に愛されていることです。
主によって愛されていると考えると、私は元気になる、喜ぶことができると言った人もいます。

主によって愛されていることとは本当にすごい、素晴らしいことです。そして問題は、私たちはこの愛についてどのような態度をとるのでしょうか。
私たちも本当に、真心から主を愛しているかどうか、本当に心から主に従おうと思うのでしょうかということです。
愛されていることを意識する者は、やっぱり周りの人々をも心から愛することができるようになります。なぜなら、みんな例外なく主に大切にされている人々であるからです。

ローマ人への手紙5:5
5この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。

パウロはローマ人への手紙5章5節で、聖霊によって神の愛が私たちに与えられていると書いたのです。いつか与えられるかもしれないなのではない。もう与えられています。
もちろん聖書は、自分の愛でもって愛せよとは言っていないのです。私たちは、できないから主の愛が与えられている。どうして与えられているかと言いますと、周りの人々を心から愛することができるためです。
どういうことがあっても、私たちは愛されている。考えられないほど愛されている。だからこそ主は私たちを通しても、愛することができることを絶えず覚えるべきなのではないでしょうか。愛せない態度こそが、単なる弱さではなく、主に対する罪そのものです。

ある女性はインドで宣教師として働いたのですが、彼女は次のように言ったことがあります。「愛さないことこそが、毒蛇のような働きであり、結局それによって周りの人々は皆、悩むようになります。」
コブラという毒蛇の毒は、考えられないほどひどいものです。体全体がすぐにダメになります。愛さないことも、結局そういう影響を及ぼすものです。
ですから、ある人に対して批判的な態度を取っていることに気が付いたら、もう他のこと全部やめなさい。すぐその問題を解決しないと悪魔は喜びます。

あの人とできるだけ会いたいない、もう挨拶したくない。そういう気持ちがあれば主は大いに悩まれるし、もちろん他の人々も主を知りたい気持ちが、完全になくなります。
ある大きな会社の責任者が、あるキリスト者に出会いました。その人は本当に主の愛を持っていたのです。これは、彼にとって考えられないことであり、彼は求めるようになり、主の愛によって克服されたのです。
今の世の中で必要なのは、そういう風に主の愛によって、支配され動かされている人々であります。

本当の愛だったら誰でも気がつくようになるし、考えるようになるし、求めるようになるに違いない。
言うまでもなく、同じことについて、同じように考えなければならないのではありません。人間はみんな違います。
けれども、どしても要求されているのは、心からの愛です。お互いに熱心に愛し合いなさい。これこそが、主の命令です。

最後に、ネパールという国の病院で起ったことについて話したいのです。
ある日、重いらい病人が現れたのです。誰でも彼を見る者は、「ああ。らい病人だ」と逃げてしまったのです。もちろん家族からも追放されてしまいましたし、誰も彼と関係を持ちたくなかったのです。
彼は入院した時、治療を受けるより先にすぐに聞いたのです。「あなた達は、イエス・キリストのこと知っていますか?知ってたら話してくださいよ。イエス・キリストのこと知りたいよ。」と。

「どうしてイエス・キリストを知りたいの?」と皆は聞きました。彼は、実はある所で全く知らない人に出会いました。
ちょっとだけお金を欲しいと願ったのですが、その人は新しい洋服もくれましたし、その人の家に誘われて同じテーブルで一緒に食べました。
「え、私はらい病人です。一緒に食べるとたいへんなことになるかもしれない。」、でも、その人には関係ない。あなたが、らい病人だから、あなたを誘ったのでしょう。

「結局、私を新しくして下さったイエス・キリストとは、すごいよ。あなたもイエス様を知るようになれば、なんとかなるんじゃないかと思う。そして、この病院まで来るお金ももらいました。」
その人も愛を理解できなかったし、つかめなかったし、でももしイエス様知れば、こういう風に変えられれば、らい病人にもぜひイエス様知って欲しいと言ったのです。
私たちは、悩んでる人々のために心から心配するのでしょうか。助けたい気持ちがあるのでしょうか。あるいは、無関心なのでしょうか。ほかの人のために心配すること、ほかの人を愛することこそが、人を導くための最大の手段なのではないでしょうか。

愛することとは、主イエス様とつながっている証拠です。みんな愛を求めていますし、人間的な愛ではどうにもなりません。だからこそ主の愛が私たちの心に注がれたのです。
自分の愛で頑張りなさいということではありません。人間の愛はたいしたものではありません。主の愛がなければ、私たちは全く無力です。
主はいつでも、私たちの心をご自分の愛で満たそうと望んでおられます。ドイツだけではなくて、日本でも愛することによって人々は導かれるのではないでしょうか。

主の愛を運ぶ者として、みなさん、また日本に帰ってあなたがたひとりひとりを通して多くの人々が真理を求めるようになり、愛の固まりであるイエス様を体験的に知ることができるように、祈っています。
本当にそれこそが、私の唯一の願いであり祈りです。





Erisabeth姉メッセージ、イエス様をよりよく知りましょう、2008/05/31

今朝一緒に学んだように、私たちはベトナムにいても、中国にいても、ドイツに行っても、私たちはどこに居ても同じです。私たちは主を宣べ伝えるべき者であります。
もちろん、私の替りにひとりひとり誰がここに立ってもいいのですけど、今朝主を紹介することができるのは、私に与えられている使命です。
今朝のメッセージを聞きながら思ったのは、確かに必要なのは主によって満たされることです。

人は死ぬとその人の最後に話した言葉は確かに大切なのではないでしょうか。遺言のようなものです。そうすると、イエス様の最後に話された言葉は、どんなに大切でしょう。
大切な4つの点について考えましょう。

1番目に、イエス様との出会いこそが、考えられない程大切です。
2番目、イエス様の偉大さをよりよく知ることも要求されています。
3番目、イエス様を知ることは何であるかと言いますと、主を愛し、主に従順に従うことです。そういう心構えを持つことです。
4番目、イエス様との人生とは何を意味するかと言いますと、私たちはイエス様に近づくし、それだけではなくイエス様も私たちに近づいて下さいます。

マタイの福音書28章16から20節までお読みします。

マタイの福音書28:16-20
16しかし、十一人の弟子たちは、ガリラヤに行って、イエスの指示された山に登った。
17そして、イエスにお会いしたとき、彼らは礼拝した。しかし、ある者は疑った。
18イエスは近づいて来て、彼らにこう言われた。「わたしには天においても、地においても、いっさいの権威が与えられています。
19それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。そして、父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け、
20また、わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい。見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」

ここでイエス様はいろいろなことを話されました。もちろん、ひとつひとつの言葉は大切です。
あることだけを大切にするのではなく、すべてが大切であり、すべてによって私たちの人生そのものが変えられるべきです。
イエス様を知ることとは大切です。けれども、イエス様に対する愛が強くならなければ悲劇的です。すなわち初めの愛から離れると主は私たちを用いることはできません。

2番目、イエス様の偉大さをよりよく知ることが大切です。いろいろな問題が出てくると、その時、私たちの主に対する考えとはどういうものなのでしょうか。本当に、奇跡を期待しているのでしょうか。
イエス様は天においても地においても、一切の権威が与えられているとおっしゃいましたが、けれども私たちは、問題を持つときに、この事実について考えられているのでしょうか。
私たちの置かれている状況がどうであっても関係ありません。イエス様は何でもできます。この事実を確信すると何でも安心してイエス様にゆだねることができ、そして結果としてイエス様は必ず働いてくださるのです。

3番目にイエス様を知ることだけではなく、イエス様を愛することが要求されています。そうするとイエス様の偉大さをよりよく知ることができる。
イエス様にすべての力が与えられているから、だからこそ行きなさい、宣べ伝えなさいと言われたのです。ですから、今の兄もどうしてベトナムへ行くかと申しますと、イエス様にすべての権威が与えられているからです。
どういう心構えで行くべきかと言いますと、イエス様から離れたら何にもできません、自分の努力は全く的はずれです。この確信があれば、イエス様が働いてくださいます。

コリント人への手紙第II、5:20
20こういうわけで、私たちはキリストの使節なのです。ちょうど神が私たちを通して懇願しておられるようです。私たちは、キリストに代わって、あなたがたに願います。神の和解を受け入れなさい。

あながたは、主の福音を宣べ伝えるべき者であり。主に遣わされるべき僕であるとあります。もし私たちが、主を喜ばせようという気持ちがなければ、もちろん人々は導かれません。
エゼキエル書の18章は、私にとって非常に離れられない、忘れられない言葉になったのです。

エゼキエル書18:23
23わたしは悪者の死を喜ぶだろうか。――神である主の御告げ。――彼がその態度を悔い改めて、生きることを喜ばないだろうか。

エゼキエル書18:32
32わたしは、だれが死ぬのも喜ばないからだ。――神である主の御告げ。――だから、悔い改めて、生きよ。

主は本当に導いてください。
私は、何年か前にフォイエルバッハという所まで行かさせてもらいました。私は何をしていいか、すべてがどういうふうになるか全くわからなかったのです。
たとえば、ちょっと想像してみてください。5月28日水曜日午前中10時頃のことです。私は老人ホームに案内されました。ある人々は車椅子で運ばれています。私はすぐ感じたのは、みな聴く耳を持っている。合わせてみると30人程の年配の方々が見えたのです。

私はみんなに聞いたのです。「あなたがたの楽しみは、いったい何ですか?」、答えはまちまちでした。でも大切なことは誰も言わなかったのです。
急に私は話しながら、昔、子供として祈った祈りを思い出したのです。今集まってる人は老人ばかりでしょう。子供の祈りについて話したら、おかしいかなと思ったのです。
それでも私は、昔祈った子供の祈りを引用しました。でも最後の方がわからなくなっちゃったのです。はじめの方は...

「わたしは、小さい者です。
けど、主よお願い。私の心を清めてください。
私の心の中に住むべきなのは、イエス様しかいません...」

そのことを話した時に、みんな急に元気になって、やっぱり聞きたい気持ちになっちゃったのです。
結局私たちが話すとき、人を見る必要もあるでしょう。でも本当は仰ぎ見るべきは、主です。「主よ、助けて。」
私はこの祈りを引用としたけど、途中でわからなくなちゃった。そうしたら、集まった人々がみな助けて暗記してくれました。

結局、小さいとき、たとえば母親からこういう祈りを聞くことができ、暗記することができるのは、本当にありがたいのではないでしょうか。
もちろん現代人の多くは、そういうことを子供に教えようとしません。そういう年配の方々と会うと、昔聞いた子供の祈りを思い出すと、やっぱりみんな子供の時を思い出すし、大切なのはなんであるかと思うようになります。
その所で、今集まった部屋でもう精一杯なのです。でもある人々は攻撃するようになっている。あなたがたはこの部屋を使ってはいけないと。イエス様はどういうふうにそこを導くのかわかりませんが祈り続けます。

4番目の最後の点は、「・・・見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」
ある人は、これこそがすごい、素晴らしい約束ですと語ります。もちろん私たちは、この箇所をもう暗記しています。
けれども毎日、何回も何回もこの事実について真剣になって考えるのでしょうか。そのために感謝するのでしょうか。

主は本当に生きておられ、この主が私たち関心を持っておられ、そして私たちの愛を期待しておられます。
なぜなら私たちは、イエス様を愛する時にのみ心が満たされるからです。そして、私たちがこの主をよりよく知ることこそが、主が望んでおられることです。
主はいつも、私たちがどういう状況にいても、いつも近くにおられる助けてとして奇跡をなしてくださいます。




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